Caution

前作【花と泥棒】の続編です。
前回同様、最初から最後までモブ視点の一人称です。

※前作を読んでいないと分からない箇所が多々あります
※臣太の太一くんに恋をしているモブのお話です
※時期は異邦人公演中あたりです
※臣クンは出てきません

雨と泥棒




近所の居酒屋チェーン店で、夕方5時から深夜2時までのシフトを週5日。人手が足りない時は早出や残業も引き受けたりして、そのせいでこの前なんか昼の3時から深夜の3時まで働き続けた。シフト貢献度は間違いなく、俺が断トツ店内一位だ。マネージャーからは「ありがとうじゃ足りない」と、顔を合わせる度に言われている。
俺はとにかく働いていた。底を尽きそうだった貯金もなんとか息を吹き返したし、新しい服も久々に数着買い足した。
あれからどれくらい経っただろう。演劇に費やしていた日々を思い返すと随分遠い過去のように感じたし、あの頃毎日のように見ていた顔ぶれは思い出の中で薄れ、ぼやけていく。



「この前彼氏が誕生日だったから時計贈ったんだけど、泣いて喜んでくれて~…私も本気で泣いちゃってさぁ~」
職場では誰もから「のろけのメグ」というあだ名で呼ばれている恵先輩と(恵は下の名前だけど、誰も彼女を苗字で呼ばないので俺もみなに合わせて下の名前で呼んでいる)、休憩中のまかないを食べているところだった。
彼女の口からは相変わらず彼氏という登場人物しか出てこない。うんざりする気持ちよりは、一途で幸せそうで、純粋にいいなという気持ちの方が俺は強かった。
「へー、どんな時計贈ったんですか」
俺が豚キムチ丼をかきこみながら尋ねると、恵先輩はカルボナーラをゆっくり啜りながら答えた。
「えとね~◯◯の腕時計でね、彼氏に超似合うんだよ~…4万ちょいしたっけかな」
「…4万…」
値段を聞いて内心驚愕した。1ヶ月の食費を軽々と超える金額だ。一体シフト何日分になるだろう。
「毎日つけてくれてるの~、超嬉しい…プレゼントしてほんとに良かった」
恵先輩は幸せな話しかしない。特にこれと言って自慢したくなるような出来事のない毎日を送る自分としては、恵先輩の話は新鮮に感じられるので、割と耳を傾けているのが好きだ。
「いいですね。なんかこっちまで嬉しくなります、聞いてると」
丼を空にしてペットボトルのジンジャーエールを飲むと、恵先輩は「あのさぁ~」と、まったりした口調で続けた。
「千堂はいい子いないの?」
「…出た…またそれ…」
恵先輩は残りの休憩時間の短さに焦る様子を微塵も見せず相変わらずマイペースにカルボナーラを啜っている。恐らくこの休憩中に彼女はそれを食べきれないだろう。
「千堂のやる気なさそうなところが好きって、◯◯が言ってたよ~」
同じ時間帯に働いている女性スタッフの名前を挙げ(ちなみにその人は今日は出勤していない)、恵先輩はにったりと微笑んだ。…やる気がなさそう、と言われたのはこれが初めてではない。言われて嬉しいとは到底思えない言葉に、俺の声は少し小さくなった。
「…やる気あるんですけど…」
「◯◯可愛くない?付き合ったら~?」
「…先輩、あと4分ですよ休憩」
俺が休憩室の壁にかかった時計を見上げながら言うと、恵先輩は「やば~」と言って慌ててフォークに麺を絡めた。
結局、恵先輩は休憩中にカルボナーラを食べきれなかった。透明の蓋を付け直し、そこに小さく「めぐみ」と油性ペンで書きながら一言、最後に恵先輩は俺に言った。
「もしかしてあれだ、好きな子がいるのか~千堂は」
「………」

またねと手を振る姿を思い出す。
…元気でやってる?あれから数ヶ月経ったけど、その後芝居の方はどう?きっとお前のことだから、毎日の稽古にも全力で向き合って、そして楽しく取り組んでいるんだろうな。

「……はい」
恵先輩の問いに頷いて、俺はお前のことを瞼の裏に描くのだ。…七尾。



玄関を開けて1メートルの廊下と、その奥に六畳のリビング。ここが俺の住む部屋だ。間取り1K、六畳一間のこの部屋を狭いと感じたことは一度もなく、俺一人が暮らすうえで特にこれといった不自由は何もなかった。城とまでは言えないが、長時間働いた後にここへ帰ってくると、それなりにホッとする。
靴を脱ぎながら玄関周りの電気をつけ、欠伸をしながら数歩進む。部屋の天井、その中央から垂れる電気の紐を引っ張って部屋を照らした。部屋の奥に大きな窓と簡素なベランダ。それから右側にはパイプベッドと、中央の折りたたみテーブルを挟んだ反対側に小さな本棚。その上に16インチのテレビが置いてある。この殺風景で味気のない部屋が、俺の帰る場所だ。
「……ねむ…」
深夜3時手前、眠気と戦いながらシャワーを浴びて(もちろんユニットタイプだ)、タオルで髪を適当に拭きながら歯を磨く。首元や袖口が少し伸びた寝間着を着てベッドに横たわり、寝落ちするまでスマホをいじる。そうして俺の1日は終わる。
何の変哲も無いこの日々をきっと、100人見たら100人ともが「つまらない」と答えるだろう。俺もそう思う。けれど、なんの彩りもない日常はまともにこなすだけで精一杯で、手を加える余裕なんてない。過ぎる速さだけがやたら加速していくような感覚に、俺はほんの少し怖さを感じていた。
いつかこのまま、俺の幕は閉じるのだろうか。だとしたらなんてつまらないシナリオだ。観客なんてきっと、何処にもいない。

七尾のことはよく思い出した。
気の置けない仲間たちと一緒に、きっと楽しくて充実した、意義のある毎日を送っているのだろうと思う。新しい場所で輝く七尾のことを想像すると「よかった」という気持ちと、それから一緒に侘しい気持ちが湧いた。
あの頃、隣を並んで帰路を歩いた俺たちの距離が、今はもう手を伸ばしても届かないほど遠くなったんだなと思う。いやきっと、これが俺たちの本来の遠さなんだろう。思い出にしがみつきながら勝手に寂しさを感じるなんて間違ってる。…いいんだ。だってどんなに遠く離れても、エールを送ることは出来る筈なのだ。
油断すると顔を覗かせる劣等感や疎外感に、毎日蓋をする。そんなものは感じなくていい。それよりも俺がするべきことはスマホの電源を切ってさっさと寝ることだ。俺は俺の毎日を積み重ねることに一生懸命になればいい。
…今の俺を見たら、七尾はどう思うだろう。憧れだったあの人のことももう、今どこで何をしているのか調べようともしなくなった。芝居を観に行く時間があったら、シフトを増やした方が良いと考えるようになってしまった。

なあ、俺さ。一層つまんない奴になったと思わない?…そう聞いたらお前は、なんて答えるのかな。



次の日いつものように昼過ぎに起きると、外からは雨の降る音がしていた。カーテンを開けて見てみるが相当な豪雨だ。数日前にテレビで観た週間天気予報の情報をなんとなく思い出してみるが、雨が降る予報なんてなかったような気がする。ゲリラ的豪雨なのだろうか。洗濯物を干していなかった事にほっと一息ついて、出勤前のカップラーメンを啜った。
その後、簡単に身支度をしてバイトへ向かうため玄関のドアを開ける。出かける前に止んでくれればいいなと期待したがダメだった。さっきまでと同じ勢いで雨は強く降り続いている。
玄関前にいくつもできた水たまりを避けながら、俺はビニール傘をさしてバイト先へと向かった。嫌だな、きっと店に着く頃にはズボンの裾がびしょ濡れになっているだろう。

バイト先へは歩いて20分、自転車なら10分ほどで行ける。途中にある最寄駅を超えた先、飲食店やカラオケ店が軒を連ねている区画に、俺のバイト先もある。
シフト、今日は誰と被っていたっけな。そうだ、副マネージャーと出勤がかぶる前にロッカーを整理しておかないと。あの人に会うといつもロッカーの使い方のことで小言を言われてしまうのだ。出くわさないことを願いながら、けれどいつもあがる頃には疲れていて、ロッカーの整理をする元気が残っていないんだよなぁとも思った。

…そんな、他愛もないことを考えている時だったのだ。信号の色を確認するため見上げた視界の先に、七尾の姿を見つけたのは。
「………」
青に変わった信号を渡れず、俺はその姿をじっと見つめた。七尾は駅の券売機の前、人の邪魔にならない所に突っ立っていた。何度か空を見上げながら、困り果てた顔で溜息をついている。その手には傘が握られていないから、恐らく雨宿りをしているところなんだろう。でも一体どうしてこんな所にいるんだ。七尾が所属している劇団は2つ隣の天鵞絨駅が最寄りで、わざわざあの駅から電車に乗って遊びに来るような街じゃ、ここはない。
信号の反対側、少し歩いたその先に、七尾がいる。自分でも呆れてしまうほど俺はその姿に釘付けになった。嗚呼ずっと会いたかったんだと思い知る。…どうしてだろう。どうして俺の心はいつまでもこんなに。
もう一度青に変わった信号を、俺は今度こそ渡った。ゆっくり、アスファルトの縞模様を見つめながら踏みしめるようにして。少しだけ鼓動が速くなる。
普通に声を掛けられるだろうか。何でもない顔をして「なにしてんの」と言えるだろうか。祈りながら、俺は横断歩道を渡りきった。
券売機前に進み傘をゆっくり閉じる。数メートル先に七尾がいる。まだ俺には気付いていない。ジャージ姿の七尾は小脇になにか紙の束を抱え、相変わらず空の様子を伺っていた。
一度、本当に大きく心臓が鳴ったので「うるさい」と心の中で叱りつけ、俺はそれから息を吸った。
「七尾」
声は、変に上ずることもなく平静を装えたと思う。そのことに安堵していると、七尾が数秒後こちらに気付いて、途端に驚いた顔をしてみせた。
「え!?みのクンだ!!」
七尾はそれから表情を一気に明るくし、何の躊躇いもなく俺のすぐそばまで駆け寄ってきた。
「久しぶりッスー!わー!まさかこんなとこで会えるなんて思ってなかったッス!!」
さっきまでの緊張が途端に、嘘みたいに解けていく。嗚呼そうだ。七尾の屈託ない笑顔が真っ直ぐに響いて、いつだって余計なものを払い飛ばしてくれるのだ、こうやって。
俺も七尾につられるようにして笑いながら「久しぶり」と答える。
「何してんの?雨宿り?」
「そーなんスよ~…雨降る前まではここでフライヤー配ってたんだけどね、急に大雨になっちゃうんだもん。参ったッス」
どうやら七尾が脇に抱えていた紙の束はフライヤーらしい。その束を大事そうに抱え直して「どーすっかなぁ…」と、七尾はひとりごちた。
「…誰か、携帯で呼んだら」
数ヶ月前、七尾たちの劇団寮まで足を運んだ時、両手に買い物袋をぶら下げながら俺に声をかけてくれた人の姿を思い出す。七尾が「おみくん」と呼んでいた長身の男の人だ。きっと彼なら七尾の窮地にすぐ駆けつけてくれるだろうなと思ったのだ。
「それがね、最悪なことにスマホの電源が切れてんスよ…」
「…あー…そうなんだ…」
「しかも財布も忘れちゃって!Suicaは行きの電車で残高なくなっちゃうしさあ…。傘も買えない電車にも乗れないしで…あ~も~詰んだッス!どうしよう!」
七尾はかなり本気で嘆いている。多分ここで動けなくなってからだいぶ時間が経過しているんだろう、その様子からはずいぶん疲弊と苛立ちが伺えた。
「電車代、貸す?」
俺の提案に七尾は首を横に振った。
「う~、みのクンありがとッス…!でもね、フライヤー絶対濡らせないから、天鵞絨駅着いたとしても結局雨が止むまで待ってなきゃいけないんスよ。これ持ってなかったら別に、走って帰っちゃえばいいんだけど…」
なるほど、八方塞がりらしい。雨が止むか誰かが迎えにきてくれない限り、七尾はやっぱりここから動けないようだ。
「も~…ただ突っ立ってるの飽きたッス…暇潰せるものも何もないし…」
「…」
街は相変わらず豪雨だった。降り注ぐ大量の雨が地面を打って止めどなく流れていく。濡れた傘をたたんで改札へ向かう人が、傘を開いて水浸しの街へ向かう人が、俺たちの脇を何度も通り過ぎていった。
「………じゃあ」
もう少し冷静になれば、本当は他にも方法はあったと思う。例えば俺の携帯を七尾に貸してやって劇団の寮に電話をかけてもらうだとか、傘と電車賃の両方ともを七尾に貸してやるだとか。
けれど俺の口からついて出た言葉はそのどちらとも違ったのだ。
「傘とか充電器とか貸せるし、今から俺ん家来る?」
それが一番自然なことのように言ってのけながら、嗚呼これはただの私欲だと俺は気付いた。
「えっ、いいの!?」
「いいよ、狭いけど。俺ん家すぐそこ」
「マジで!ほんとに!?うわ~メッチャ助かるッス!」
相変わらず屈託のない顔で笑う七尾に、俺の心臓は何故だか細い針で刺されたように小さく痛んだ。だってこれは善意だけじゃない。俺は後ろ手に下心を、いま咄嗟に隠したのだ。
俺は卑怯で臆病だ。七尾に真っ直ぐ想いを伝えたこともないくせに、こんな事はするりと思いついてしまえる。
好きな人と二人きりになりたい。言葉にしたら至極単純なその願いは、こうでもしないと俺には、叶えられない。
「あ、ちょっと待ってて。電話する」
七尾に断りを入れてからスマホを取り出し、数歩遠ざかったところでバイト先に電話した。休みの電話を入れるのは、この前風邪を引いて39度の熱を出した時以来だ。
数コールの後、電話口に出たのは恵先輩だった。
「…あの、千堂ですけど」
『はい~。なに~?』
「…すいません、今日休ませてほしくて」
鼻を擦りながら言うと、電話の向こうから明らかに機嫌を損ねた声が返ってきた。
『ええ?なんで~?困るんですけど~』
「ごめんなさい、今度埋め合わせするんで」
『今日は団体予約2件入ってるし千堂いないとキツいよ~。え、てか何で~?風邪?』
「…風邪じゃないですけど…」
『いや連絡も急すぎるしさ~!無理~。来て欲しいんですけど』
口調は相変わらずまったりしているが、恐らく相当怒っている。いつもよりだいぶトーンの低い恵先輩の声に、俺は少したじろぎそうになった。
「…あの、実は」
『なに~?ほんと困るんだけど…』
「…好きな人が」
『は?なに~?聞こえないよ~』
「好きな人が、これから家に来るんで」
通話口に片手を添え、猫背になりながら告げる。ちらりと斜め後ろを見やったが、七尾は鼻歌を歌いながら空を見上げているだけで、こちらを気にしている様子はなかった。
「…この先こんなこと、多分もうない、から……」
これは本当に職場の先輩にかけている電話なのだろうか。俺は我ながら呆れていた。今おかしいことを言っているということは、ちゃんと自分でもわかってはいるのだ。
けれど電話の向こうの声は一気に、軽やかに弾み出した。
『へっ、なにそれマジ~!?好きな子ってこの前言ってたやつだ!?やばいじゃんマジ頑張んなよ千堂、超応援するよファイトだよ~!こっちは何とかするからさ、任して~!マジめっちゃ応援してるから私~!』
「え…は、はい…」
『決めろよ千堂~!がんば~!じゃあね~!!』
そうして電話はあっさり切れた。手のひらを返したかのような恵先輩の態度に呆気に取られながら、けれどやっぱり彼女に頭が上がらなくて俺は笑った。
色恋沙汰が大好きなのは勿論そうだけど、それだけじゃない。恵先輩は優しい。そして頼りになる先輩なのだ。もう繋がっていない電話の向こうへ、俺は「ありがとうございます」と最後に小さく頭を下げた。
「ごめん、電話終わった」
七尾の方へ振り返ると「うッス!」と元気な声が返ってきた。畳んだ傘のボタンを外しながら、はたと気付く。ここから家までの道のりを七尾と相合傘することになるんだ。…平気な顔して、果たして俺は傘をさせるだろうか。
「…傘、一本しかないんだけど…」
「ん?うん!俺っち持つ?」
七尾は、さも当たり前のように言ってのける。そのお陰で俺は安心して肩の力を抜くことが出来た。
思えばいつもそうだったな。少し緊張しながら手を伸ばそうとすると、お前は自然な笑顔で「なに?」って、笑いかけてくれるんだ。だから俺は何度も手を引っ込めてきた。魔がさしそうな瞬間を「なんでもない」と言って、何度もやり過ごすことができたんだ。
「俺が持つよ。行こ」
傘の柄を持つ俺の右手に、時たま七尾の左腕が触れる。七尾とこんなに体を寄せ合ったのは多分初めてだ。何か聞いたり話したりしようとも思ったけど、やめた。意を決して絞り出した声はどれもこれもきっと、雨の音にかき消されてしまうだろうから。
ドキドキしていた。まるで七尾を、自分の傘の中に閉じ込めて独り占めしているような気分になった。この時がずっと続けばいいな、なんて、子供みたいな考えが頭の中をよぎる。
雨で視界が霞む街を、俺は、七尾を連れて歩いた。


「それじゃあお言葉に甘えて、お邪魔するッス~!」
玄関の扉を開けて七尾を中に招くと、彼は元気よくそう言ってから白のハイカットスニーカーを脱いだ。
「フライヤー無事?」
「うッス!一番表に持ってたやつだけちょっとふやけちゃったけど、あとはだいじょぶッス!みのクンありがとー!」
七尾は答えてから部屋の中を一度見渡して「すげ~…」と零した。
「…なにが?」
部屋の電気を点けながら聞き返すと、何故か七尾は瞳を輝かせながら俺を見た。
「男の一人暮らしって感じッス!」
「うん、まあ、男の一人暮らしだから」
「あはは」
荷物をベッドの脇に下ろして笑ったけれど、実は心臓はかなり五月蝿かった。
七尾が俺の部屋にいる。何の変哲も無い灰色一辺倒な世界の中に、突然、無数の色を纏った彼が現れたようだった。七尾だけが色を持っている。俺の部屋を背景にして立つ彼の姿は鮮烈で、どうしてか目が眩みそうになった。
「…なんか飲む?お茶かコーヒーしかないけど」
「いいの?ありがと!コーヒーって甘くないやつッスか?」
「いや、缶の甘いやつ」
「じゃーそれ!」
リクエストに応えて、冷蔵庫(ちなみに元から備え付けの、扉が一つしかない一人用の冷蔵庫だ)から缶コーヒーを二本取り出す。自分の分もあわせてテーブルに乗せ、七尾の方へクッションを差し出した。
「ありがとう、失礼しまッス」
「うん、あ、携帯貸して。充電する」
「は~、みのクン神様ッス…ありがとう!」
七尾からスマホを受け取り充電コードに繋げる。しばらくすれば起動もできるようになるだろう。充電中の画面表示になっていることを確認してから、俺はそれを床にそっと置いた。
「これ、次の公演の?」
テーブルの隅に置かれたフライヤーの束を見ながら尋ねると、七尾は大きく頷いて答えた。「うん!俺っちが所属してる秋組の、2回目の公演なんス!この人が主演!」
缶コーヒーのプルタブを起こしながら七尾の説明を聞く。指差された人物を見てすぐに分かった。ああこれは、あの時俺に丁寧に頭を下げた長身の彼「おみくん」だ。そういえば彼に「もう太一に関わらないでくれ」と言われたことを思い出した。…頭まで下げられたというのに、俺は彼の願いを今、踏みにじっている。
「ひひ、でね、みのクン。俺っちなんと準主演」
七尾が嬉しそうに言いながら指をさした先にはバイクに跨る女の子が映っている。二度見してやっと気付いた。これは七尾だ。
「え、女の子役やるの」
「そーなんスよ!びっくりでしょ!」
「…え、可愛い」
フライヤーをまじまじと見つめながら率直な気持ちを漏らすと、七尾は「いっ…」と、変な声をあげた。
「…ふ、複雑だ…複雑ッスよ、みのクン…」
「あはは、なんでよ。喜ぶとこじゃないの」
「えぇ~…ありがと…いや、えぇ~…」
口角を下げて目を細める七尾に「変な顔」と言って笑ったら、七尾もそんな自分がおかしくなったのか「あはは」と笑った。…そっか、複雑なんだ。じゃあ今、笑った顔を見て同じことを思ったことは言わないでおこ。
「…フライヤーか。俺さ結構懐かしいやつ何枚か持ってんだ、まだ」
「ん?」
テレビ下の本棚まで移動して目当てのものを引き摺り出す。それはGOD座時代、俺が個人的にかっこいいなと思い、捨てられずに残しておいた公演フライヤー数枚だった。
「これとか。かっこよかったよね」
テーブルの上にそれらを並べると、七尾も見た瞬間に「懐かしい!」と声を上げて喜んだ。
「これ、晴翔クンが二重人格の役のやつ!」
「そうそう。この公演の飛鳥さんの芝居、俺すごい好きだった」
「俺っちもー!ほんと別人みたいな演技だったよね、声まで全然違うんだもん」
「うん。あとこれも俺すげー覚えてる」
「俺も俺も!これ丞サンが黒幕だったやつだよね!」
「そう。七尾の役もちゃんと覚えてるよ。毎朝鐘鳴らすやつ」
「そうだ、いつも鶏10匹連れ回して」
「うん、みんなのこと叩き起こして」
「あはは!思い出した、役名が「コケコッコ」だったんスよこれ」
「あはは、なにそれマジ?知らなかった」
「話に出てこないからって、名前テキトー過ぎッスよね!あはは、笑ったな~」
一緒に思い出しては、笑う。あの頃はきっと、七尾と同じ場所から同じものを見てた。眩しくて目を細めながら、一緒に同じものを見上げていたんだ。
「ねえみのクン。丞サンも今MANKAIカンパニーにいるって知ってたっけ」
「えっ、なにそれ」
初耳だった。前に七尾に会いに行った時は劇団のホームページに高遠さんの名前など載っていなかった筈だ。ということは、あの後に入団したということなのだろうか。
「俺っちは「秋組」に所属してるんだけどね、秋組の旗揚げ公演のあとに「冬組」が発足されてさ。丞サン、そこに所属してるんスよ!」
「わ~…マジか…。じゃあ高遠さんの演技いまもそばで見てんだ。いいな」
「いっひっひ、いいでしょ」
子供のような顔で七尾が笑うので「ムカつく」と思わず返してやったら、嬉しそうに「丞サンのお芝居は今もシビれるッス!」と七尾は言った。
GOD座にいた時のことを思い出す。少しとっつきにくい印象があった高遠さんは、けれど最後に会った日、優しく「頑張れ」と言ってくれた。何度も主演を務めあげてきた尊敬すべき先輩に、あの時肩を叩かれ、ずいぶん気分が高揚したのを覚えている。
「…へへ、懐かしいな。この頃も丞サンかっこよかったよね。晴翔クンもさ、いつも役に100パーセント入り込んでて」
フライヤーを眺めながら、七尾は一枚ずつを丁寧に撫でた。自分がそこに映っていなくても、きっと全てに深い思い入れがある。それは俺も同じだった。全部覚えてる。だって毎日一生懸命、芝居と向き合っていた。
テーブルの上に並ぶそれらと、七尾が持ってきたフライヤーを一緒に見つめる。七尾の夢は途切れることなく今日までずっと続いているのだ。道の先で七尾は夢を形にする。「準主演」としてそこに映る七尾の姿は、他に並べられたフライヤーの高遠さんや飛鳥さんと同じように、眩しかった。
「…この人「おみくん」だよね」
「そう!みのクンよく覚えてるッスね」
「…そりゃ、覚えてるよ」
あの時、はっきりと敵意を持った目を向けられた。きっとこの人も七尾に特別な気持ちを抱いているんだろう、俺と同じように。
…忘れる訳がない。俺の方が先なのにと、馬鹿みたいな思考が何度も過ぎったのだ、あの日のあと。
「なんかさ、臣クンってホントに優しくて「みんなのお兄ちゃん」みたいな感じなんスけど。いや、お兄ちゃんって言うよりお母さんかな」
「あはは、お母さん?うん」
「でもね、最近いろいろ…分かった事があって。臣クンなかなか言わない人だから、俺っちも多分、全部を分かった訳じゃないと思うんだけど。…それでもちょっと、前より近づけた気がするんス」
「…うん」
「この公演で、臣クンの中の何かが、良い方に変わったらいいなって思ってさ。今まで俺、いっぱい臣クンに助けてもらってきたから、俺ができることなら何でもしたいなって」
慈しむように、フライヤーに映る「おみくん」を七尾は見つめる。深い絆と、愛情と、それから特別な温もりがそこにある。嗚呼俺のことなど眼中にないんだな。心臓が軋みそうになって、俺はうまく息を吸えなかった。
「お芝居だけじゃなくって、主演の臣クンのこと、俺、準主演として支えたいなって。…えへ、なんかこんな事思うの初めてなんスけど」
「…そっか」
「あは、なんか変な話しちゃった!みのクン聞き上手なんだもん」
照れたように頭をかいて、七尾は缶コーヒーを勢いよく飲んだ。…羨ましいな。「おみくん」は七尾の「初めて」を、これからいくつ手に入れることが出来るんだろう。彼はきっと、それら全てを大事にする。周りが付け入る隙もないくらい、力強く抱きしめる。
「…主演と準主演か。すごいね。おめでとう」
フライヤーを見つめながら言うと、七尾は弾んだ声で「ありがとう」と言った。どうしようもない寂しさが急に襲ってきて、そんな自分に呆れた。こんな風に感じる俺のことが、俺はすごく嫌いだ。
「みのクンに観に来てもらえたら、嬉しいな~…俺…」
こちらの様子を伺うように七尾は言うが、俺は頷けなかった。本音を言うと、観たくない。だってこの公演を観ながら抱くだろう自分の感情が、もう予想がついてしまうのだ。どんな内容かは分からないが、フライヤーを見る限り「おみくん」が演じる役と七尾が演じる役の二人が、共に旅をするような話に見える。もしかしたらこの二人は恋人という設定なのかもしれない。…そんなの、観れない。
「…どうかな、わかんない」
「え…あ、そ…そっか……」
分かりやすく落ち込む七尾があまりに素直で、俺は思わず小さく笑った。缶コーヒーを一口飲みながら、不自然にならない理由を思いつく。
「俺ね、今バイトの鬼だから」
「ん?」
「シフト、ギチギチに入れてんだ。観に行きたいけど、行ける時間ないかもなって思って」
「…そっか…うん。わかったッス」
きっと、空気が湿っぽくならないようにと七尾は笑ったんだろう。つまらないことを言い出す俺に、内心ガッカリしているのかもしれない。…そう、そうなんだよ。俺ってほんと臆病で、つまんなくってさ。
「……芝居からさあ」
言われる前に言う方がマシだ。七尾からはっきりと言われてしまうより、頷かれるだけの方が、まだ。
「ほんと、遠ざかっちゃってさ俺。観劇も全然してないし、映画すら観なくなっちゃって。バイト行って寝て起きてまたバイト行っての繰り返しでさ」
俺の言葉を、七尾は黙って聞いていた。
「…つまんないよね、なんもないんだ俺」
飲み干して、空になった缶コーヒーをテーブルの上に置く。スチール缶の底がテーブルの表面とぶつかる音がやけに響いた。
「つまんなくないよ」
七尾がやけにはっきりとした口調で言った。顔を上げるとそこには、俺を真っ直ぐ見つめたまま、少しも瞳を逸らさない七尾がいた。
「働いて、ちゃんと自分の力だけで生活しててさ。すごいよ。なんもないって何スかそれ」
「……」
「芝居しててもしてなくてもみのクンはみのクンじゃん。真面目で頑張り屋さんなとこ、俺、今も変わってないんだなって思ったよ」
「…七尾」
「かっこいいよ。みのクンはかっこいい」
嗚呼いま、不意を突かれてしまった。そっと触れられた涙腺に慌ててかぶりを振り、視界が揺れてしまわないように、俺は無理やり笑う。
「…ふ。かっこいいの基準、変だよ」
「変じゃないし。…あ、てか今のセリフ俺っちのパクリだ!思い出した!」
「あははバレた」
「真面目に言ってんのに!なんスか、もう!」
なあ、七尾。俺は自分のことをかっこいいなんて思ったこと、一度もないよ。意気地がなくて臆病で、格好つかないなって、いつも思ってた。
なのに、そんなことを言われたら。そんなにも迷いなく、お前に言われてしまったら。…困るな、やめてほしい。だって泣きたくなってしまうじゃないか。

…好きだよ。どうにかして届かないかなあ。

「雨、止まないッスねぇ」
外から聞こえる雨は休むことなく世界を濡らす。目を瞑ってその音をじっと聞いた。まるで逃げ込んだ隠れ処の中、七尾と二人きり、雨宿りをしているみたいだ。
「…七尾さ」
「ん?」
「今から俺と即興劇しない?」
唐突な提案に七尾は一瞬驚いたようだが、すぐさま笑って「いいッスよ!」と快く頷いた。
「ひひ。どんな設定にする?みのクンとエチュードやるなんて初めてッスね」
「うん。…俺がさ、コソ泥で」
「えっ、みのクンがコソ泥!?あはは!うんうん、それで?」
「うん、それで警察に追われてて、七尾のこと人質にして立て籠もってんの」
「俺っちが人質ッスか!うおお、なんかスリルある設定ッスね!」
「うん」
「そしたら俺っち女の子のがいっか。今度の公演の練習にもなるし!」
「…いや」
七尾の言葉に俺はゆっくりと首を横に振る。
「七尾は、七尾のまんまでやって」
「…ん?」
「七尾は七尾役」
俺の言葉に首を傾げ、七尾は不思議そうな顔をする。そりゃそうだろう。即興劇を提案しておいて「お前は役を演じるな」と言っているんだから。
「…わかった。なんか難易度高そうだけど!バッチコイッス!」
無邪気に笑う七尾はまだ何一つ、俺の胸の内に気づいていない。それが俺にとって、どれほど有り難くて同時に歯痒いことだったか。ねえ七尾にはさ、想像もできないでしょ?
「…何で俺がお前を人質に選んだか、分かる?」
いつもより少し低いトーンで尋ねる。七尾は、今がまさにカチンコが鳴らされた時だと理解したのだろう。どこか怯えたような表情をして俺を見た。
「…わかんないよ」
「…そっか、そうだよね」
俯いて相槌を入れ、それからテーブルの脚を掴んで少し向こうへ遠ざける。俺と七尾を隔てるものがなくなった。
俺の様子を怯えながら伺う七尾の、その手を取った。七尾の体が分かりやすく震える。これも全て演技なのだろうか。だとしたらなんて自然なんだろう。本当に脅して拉致しているのかと錯覚しそうになる。…そうだった、七尾は芝居がすごく上手いのだ。
「…本当に欲しいものが、いつも手に入らないんだ俺」
七尾の手の甲を撫でて、それからその手を緩く握る。
ねえ七尾。どうして俺はこんなにもずっと、お前のことを諦められないんだろう。会わないでいればいつかその内、と、たかをくくっていたのになあ。
思い出が、記憶の中のお前が、全然薄れてくれないんだ。消えてくれないんだよ。手に入る筈ないって分かってるのに。きっとこれから先、どんなに手を伸ばしても届かない程遠くなってしまうって、想像もできるのに。
笑った顔がさ、陳腐な言葉しか出てこないんだけど、ほんとに眩しくてさ。元気出るんだ。俺ももう少しだけ頑張れるかもって思わされるんだ。いつも俺をぬかるんだ場所から掬い上げるんだよ、七尾が。七尾だけが。
「…正攻法じゃさ、ダメなんだ。お前にも昔言われたけど、ビビリだから。だからこんなやり方しか思いつかない。…ごめんね」
俺の手に握られた七尾の右手が小さく動いた。ごめんね。だけど待ってほしい。もうちょっとだけこのまま。
「………好き」
いつか、手を伸ばしても届かない程遠くなる人の、けれど今だけはここにある、その手を握って告げる。
「七尾が好き。ずっと前から好きだった」
「………」
綺麗な色の目が、俺をじっと見つめている。そういえば前、盗んでしまいたいと思ったことを思い出した。そう感じるのは俺だけじゃないんだろう。「おみくん」だってきっと。
…手に入れるのは俺じゃない。それも勿論わかってる。わかってるよ。
「…みのクン」
「諦めらんなくてごめんね。いつもはもうちょっと…なんでも、投げ出すの早い方なんだけど」
「…」
「俺、今まで何回も七尾の言葉に助けてもらったんだ」
今までお前が俺にくれた言葉を思い出す。優しいとか暖かいとかじゃない。お前の言葉はいつも強くて、びっくりするほど力があるんだ。一体この体を何回引っ張り上げてもらったかな。数え切れないや。
「…ありがとね。全部嬉しかった」
お前は知らないだろう。誰かを暗がりから引っ張り上げるその腕の力が、本当に強いこと。「おみくん」のこともそうやってお前は、きっと掬い上げたに違いない。
「………好きだよ」
手を握りしめてゆっくり顔を近づける。一度だけでいい。キスをしたいと、思ってしまった。けれど顔を少し傾けた瞬間に、七尾に空いている方の手で、唇をしっかりと塞がれた。
「…好きな人がいるんだ」
俺の唇を塞いだまま、七尾は揺るがない声で言った。
「俺にもいるんだ。だから駄目だ」
「………」
きっぱりと拒否され、俺の狡くて卑怯な想いは真っ二つに断ち切られた。…嗚呼やっとだ。やっと想いは砕かれてくれた。
「…うん。ありがとね」
七尾の手を唇からそっと外して笑うと、七尾は泣き出しそうな顔をして「なんでお礼言うの」と言った。
「最後まで全部聞いてくれたから」
「…き、聞くよ、そんなの…何言ってんスか」
「困らしてごめんね」
「…なんで謝るんスか、もう…」
七尾は今にも泣きそうだった。少しだけ震える声を聞きながら、ああこんなに真っ直ぐ、誰かに強く想いをぶつけたことは初めてかもしれないなと俺は思う。その初めての相手がお前で、俺は嬉しい。
握った手を離そうかと思った矢先、充電コードに繋がれた七尾のスマホが鳴った。数コールで終わらない呼び出し音が部屋に鳴り響く。これは恐らくメールではなく電話の着信音だ。
七尾と一緒にディスプレイを見る。「寮」と表示されているのを確認し、夢からそっと起こされたような気になった。
「…立て籠もるのもここまでか」
コソ泥になりきってシメのセリフを吐く。すると七尾は数秒面食らった顔をして、けれどすぐに笑った。
「結局みのクンもみのクンだったじゃん」
「うん、自分の芝居の限界を感じた。俺もまだまだだな」
「あはは」
笑い合いながら手を解く。
聞いてくれて、返事をくれて、最後にこうして笑ってくれて。七尾、ほんとにありがとね。「好き」の気持ちは、まあ何とか、なくせるように頑張ってみるけどさ。この「ありがとう」の気持ちは、これからもずっと忘れないよ。大切にするよ。

それから電話に出た七尾は慌てた様子で何度も謝罪をし、そのあと元気よく「おッス!」「うッス!」と相槌を入れていた。
数分後に電話は切れ、七尾がこちらを振り返る。
「みのクン、丞サンが△△駅まで車で迎えに来てくれるって!」
「へっ」
予期せぬ人の名が挙がるので俺の声は上ずった。それがおかしかったのか、七尾は笑いながら「どしたの」と尋ねてきた。
「いやだって…。…あの、俺のこと言わないでね」
「え!なんでッスか話すよ!てか一緒に駅まで行く?久し振りに会えるよ!」
「いい、絶対やだ、無理」
「あはは、なんで!」
なんでもどうしてもない。さっき七尾にキスまでしようとした俺が、一体どんな顔で高遠さんに会えばいいと言うのか。もしも高遠さんにカケラでも気づかれてしまったら俺は恥ずかしさで地に埋まる。
「うーん、まあそんな言うならわかったッス。じゃあ丞サンに、みのクンの話いっぱいしとくね!」
「だからほんとやめてお願い」
「え~、なんでッスか~!」
俺が嫌がる理由がよく分からないらしい、七尾は結構本気で残念そうな顔をしている。いやでもそんな顔されたって無理なものは無理だ。
さっきまでの諸々がフラッシュバックして、俺は顔から火が吹き出そうだった。第三者の、それも共通の知り合いの名前が挙がったことで一気に現実に引き戻される。冷静になって考えたら有り得ない。なにキスしようとしてんだ俺は、なに舞い上がってんだ、バカか。
七尾はそんな俺の気持ちも知らず、雨の上がった窓の外を見つめ「止んでるッスね!」と明るい声で言った。
「みのクン、コーヒーごちそうさま!それからスマホもありがとうッス。ほんと助かったッス」
「…うん……」
「みのクン?」
七尾の顔が見れなくてそっぽを向いたが、わざわざ覗き込まれてしまった。顔を見るなり笑われて、俺は更に居たたまれなくなる。
「あはは、みのクン何で赤くなってるの」
「…なってねぇよ…」
精一杯の悪態も、結局その笑顔に包まれてしまうのだ。見ないでほしいと思うのに、お前の顔は見ていたいと願うんだから、なんだか恋って勝手だ。

玄関にしゃがんで、七尾は白いハイカットスニーカーの靴紐を片方ずつ結んだ。その後ろ姿を俺は見下ろす。脇に置いたフライヤーの束を持って立ち上がる時、七尾は言った。
「…困ってないからね」
「…うん?」
七尾は前を向いたまま振り返らない。だから今どんな顔をしているのか、俺には見えないままだ。
「困らされてない、嬉しかった。みのクンありがとう」
そして振り向いた七尾の、その瞳に全てを奪われる。
俺は思うのだ。どうしてこんなに簡単に、全部掻っ攫っていってしまうのかな。ああ、間違えたなぁ。泥棒の役はお前にやってもらえば良かったんだ。
「…一枚ちょうだい」
「ん?」
「フライヤー。行けるかもしんないから」
受け取るため手を差し出すと、七尾は今日一番の笑顔を見せて大きく頷いた。
「待ってるッス!!」
玄関の扉を体で支え、水溜まりだらけの街を行く七尾を見送る。何度も何度も振り返り大きく手を振ってくる七尾に苦笑して、どうしてか、ちょっと泣きたくなってしまった。
誤魔化したくて「わかったってば」と叫び、俺も手を振った。



「千堂~どうだった~!?きめてきた~!?」
数日後。
出勤前、制服を身につけている途中で恵先輩に早速聞かれた。ポロシャツのボタンを留めながら、俺は適当に返事をする。
「はあ。まあ」
「ひゃ~千堂やったじゃんお疲れ~!すごいよマジすごい!やる時はやる男だって信じてたよ~!」
「…」
「告ったの?付き合うことになったの?」
身を乗り出して質問してくる恵先輩をちらと見る。あと五分で出勤時間なのに彼女は全く着替えが済んでいなかった。
「先輩、遅刻しますよ」
俺が時計を指差して言うと恵先輩もそれに気付いて「わ~!」と慌てだした。
「あとでたっぷり聞くから~!ちゃんと全部話してよ千堂~!」
「はいはい」
店名がプリントされた手ぬぐいを頭に巻いて、一足先にシフトカードに打刻する。
七尾のことを聞かれたらどんな風に話をしよう、そうだなえっと。強くてひたむきで、頑張り屋で真っ直ぐで、笑った顔が眩しくて…。
…いや、言えないな。それを聞いている恵先輩の、ニヤケ顔を想像して俺は首を横に振った。

更衣室から駆け足でやってきた恵先輩が打刻する。それから彼女はシフト表を確認し「あれ~?」と声を零した。
「千堂、来週二連休入れたんだ。珍しいね~?」
「…あー」
少し上を見上げながら、俺は思い出したように答えた。
「…ちょっと、芝居を観に行こうと思って」
俺からそんな言葉が出てくるとは思っていなかっただろう先輩が、首を傾げて俺を見る。

うーん、どこから話そうかなあ。長くなるんですよね、これがまた。