ほんとはね、私も学校いった事なかったの。
そう心の中で呟いた瞬間だった。私は遠い世界の昔のことをふと、思い出した。
ねえデンジ君、おかしいよね。このたった一瞬に見たこともない日常がね、私の頭の中を駆け巡ったんだよ。
これは一体なんだろう。あんまりにも鮮明だから不思議だった。まるで誰かに見せられた映画みたい。無理やり聞かされた、違う世界の物語みたい。
血が止まらない。意識が冷たくなっていく。薄暗い路地裏、アスファルトの上に横たわったらデンジ君、窓の向こうに、キミの後ろ姿が見えた。
キミは公安の制服じゃなくて、どこかの高校の学生服を着ていた。
白いワイシャツと紺色のスラックス。シャツのボタンはいつも上二つを空けてたね。首元から垂れてる灰色の柄ネクタイは結び目が緩くて、いつだって左右のバランスがおかしくて、キミが一向にきちんと結ばないから、私、ネクタイの結び方を覚えたんだよ。
何回も結んであげたね。「レゼ結んで」ってねだるキミの声を、結ぶ時に見える喉仏の形を、私、こんなに覚えてるよ。
「今日俺ん家来る?」
黒板に書かれた日付けを見て、今日が何日かを思い出す。六月の半ばだった。窓の向こう、今日も朝からずっと雨が降っている。雨雲の厚さにため息が出そうになった時、キミが私にそう言った。
「デンジ君の家?いいの?やったー」
顔の横でVサインを作るとキミも同じようにピースして、嬉しそうに笑った。
笑った時に見える、キミの歯が好き。それを伝えるとキミはいつも「あ?なんで?」って聞き返したよね。
歯の形が、他の人と違うんだ。キミに噛まれると、目を閉じていてもキミだと分かる。キミに噛まれたらきっと私はキミのことを思い出せる気がするんだ。例えば何度生まれ変わって、全部を忘れてしまっていても。
だから、好き。理由はいつもはぐらかしていたし、ちゃんと伝えたことはない。でも、キミの歯でキミに噛まれるのが私、いつも、好きだった。
「デンジ君ち、誰かいる?」
「ん?今日?いや誰も?」
デンジ君はケロッと答える。意図が伝わってないみたいだから指を一本だけこっそり掬って絡めて、君をじっと見つめた。
「やった」
キミの指が、途端にギクシャクする。こういう時に顔が赤くなるのはキミと私、本当はいつもどっちが先だったんだろう。
今日着てる下着はなんだったっけと思い返す。そうだ、水色のやつ。キミが「これ好き」って言ってくれたやつだ。
「…えぁ、アァ〜?…あ、そぉ。そうだよな、やったわ」
「うん」
「……」
キミが喉を鳴らすから、一度だけ上下に動いた喉元を見て私の心臓も鳴った。ドキドキした。キミとなにかを約束する時はいつもこうだ。初めてみたいにドキドキする。
「…じゃァ〜あの、あれだ。帰る時は一緒ん帰ろ」
「うん」
指を解く。キミが頭の後ろを適当にかきながら、自分の席に向かう。隣の席のクラスメイトとなにかを話して、小突き合って、キミの「ギャハハ」という笑い声が聞こえる。
十七歳のキミは、最初からこの世界に生きている男の子そのものだ。教室、机と椅子、ノートと教科書、笑い声、話し声、チャイムの音。どれもが当然のようにキミの生きる世界にある。キミはこの世界で生きている。
…変なの。変だね。見慣れてる筈の光景が特別なものに思えた。本当はどこか違う世界のことも知っていて、でも私たちは忘れてるだけなんじゃないかって、ここは何度目かの世界なんじゃないかって、そんなことをふと感じて、首を傾げた。
「………」
背中をじっと盗み見していたらキミが急に振り向いて、照れ隠しのように、ムッとした顔をしながらVサインを作る。
私たちは、そうやって付き合ってた。
ねえデンジ君。付き合ってたんだよ、私たち。
その日、世界史の先生からデンジ君は居残り課題を出されてしまった。小テストが今回も赤点だったからだ。
放課後、キミはウンウン唸りながら課題の用紙と睨めっこしていた。前の席の椅子を反対側に向けて、キミの机を二人で囲む。唇を突き出しながら手元のシャーペンをクルクル回すキミをぼんやり眺めるのも、私はそういえば好きだった。
「帰れませんねえ」
「…うん」
「雨も止みませんねえ」
「…うん」
デンジ君は生返事を繰り返して、問題文を何度もシャーペンの先でなぞった。口が尖るのは、キミが心底悩んでいる時のクセだ。
「…やべぇ。何一つわかんねえ」
「そうですねえ」
「レゼわかる?」
「わかりませんねえ」
「マジかよ…やべえじゃん」
デンジ君は勝手な休憩を自分に設けたんだろう。用紙の端っこになにか落書きをし始めた。
「なに書いてるの?」
「ん〜?レゼ」
髪の部分をシャーペンでこれでもかと黒く塗りつぶして、その下に適当な線で輪郭と口を付け足す。こんなの言われなきゃ絶対わからない。デンジ君は絵が下手くそだ。
「アハハ!下手!」
「ハァ〜?超似てるし」
「こんなに剛毛じゃないですー」
「でもレゼこんな感じじゃん、顔の半分くらい隠れてんじゃん」
描き終えた私の似顔絵の横に、デンジ君はまた新たになにかを描き始めた。今度は髪の毛がギザギザしてる。ああ、たぶんキミの自画像だ。
「私とデンジ君が並んでるの?」
「そぉ」
嬉しかった。二人とも全然似てない。でも並んでる。並んでる私たちをキミが、描いてくれた。
「…私、顔出した方がいいかな」
つぶやきをデンジ君が「うん」とすぐに拾った。試しに前髪を持ち上げてオデコを出してみる。
「どうですかね?」
机の向こう側にいるデンジ君と目が合った。窓の外から聞こえる大雨の音が、まるで古いフィルムを回す音のように、遠くでかすかに、絶えず鳴っている。
「……超糞可愛い」
心臓が鳴った。爆弾みたい。キミから放たれるまっすぐな言葉は、いつも私の心臓の真ん中に大きな穴を空ける。
「……」
机の上、シャーペンを握ってるキミの手の甲をそっと撫でた。そしたらキミの反対の手が私の手を覆うから、息が詰まった。
「…好き、レゼ」
前髪から手を離して、代わりにその手で自分の顔をとっさに隠した。赤い顔を見られるのは、だって今は演技なんかじゃない。…恥ずかしいよ。
「……」
雨の音が止まない。キミがゆっくり顔を倒して、私を下から覗き込んでくる。心臓がうるさい。うるさいよ黙ってて。邪魔しないで。
「…顔さぁ、やっぱ髪で隠してんのも好きかも」
口元を隠したまま「なんで?」と尋ねたら、その手を優しくどかされてしまった。
「こうやって覗くの、なんか好きだから」
それで、四回目の「好き」がすぐ近くで聞こえた後、キミの口が私の口と重なった。
私も好き。やだな、どうして言葉になってくれないんだろう。だからせめてもの気持ちだ、息の音で答えた。目を閉じてキミとのキスを必死で辿った。例えいつか目が見えなくなっても、すぐにキミだとわかる私でいたいと思った。
なくなる前からいつも、キミとの毎日がなくなることを考えてる。
予防線を張りたい。いくつだって保険をかけたい。盗まれないよう鍵をかけたい。次もキミに会いたい。キミをキミだと思い出したい。どんな私たちになっても、またこうやって、キミとキスがしたい。
「……レゼ好き」
キミが、そればっかり息継ぎみたいに繰り返すから、どうしてか泣きたくなった。お願いデンジ君忘れないで。忘れた時は思い出して。もしも私が忘れてるその時は「思い出して」って、私に言って。
「デンジ君の邪魔しちゃ駄目だよ」
一体いつからそこにいたのか。
扉の向こう、廊下からこちらを見ていたのは世界史の先生だった。
「アッ!!??」
デンジ君は絵に描いたように慌てた。慌てた勢いで席を立ち上がりその勢いのまま脛を机の足に思いきり打ちつけて「イッテェェ〜〜〜…ッ!!」と呻きながら、その場に蹲った。
「おや」
先生はまっすぐこちらに向かって歩いてきた。私がデンジ君の心配をするより先にデンジ君の前にしゃがみ込んで「大丈夫?すごい音がしたね」と、彼の背中を先生は撫で上げた。
「びっくりさせてごめんね。どう?課題は終わりそう?」
「…ァ、はい……」
「痛かったね」
「えぁ、はい」
デンジ君の手を取って、先生は椅子にゆっくり彼を座らせた。促されるままデンジ君はシャーペンを持たされて、また課題と向き合う。
「まだ一問も解けてないんだ…。難しかった?」
「あ、はい」
「全部授業で教えたことだよ。思い出して」
「あ、はい」
「わからない時は教科書を読み返してもいいよ。でも彼女に教えてもらうのは駄目です」
「あ、はい」
「できそう?」
「できます」
「うん、いい子だね」
先生はデンジ君の頭を犬みたいに撫でた後、立ち去る間際に私へ目をやった。
「デンジ君の為に作った課題だから、あなたは無闇に手伝っちゃ駄目だよ」
「……」
「返事はできる?」
「…はい」
「うん。いいね」
先生は満足したのか、それ以上なにかを言うことはなかった。教室を後にした先生の規則正しい足音が遠ざかっていく。私たちは同時に顔を見合わせて、小さく息を吐いた。
「…え、いつからいた?マジで全然気付かなかった俺」
「最初っからずっといたのかもね」
「エッ」
「あの人そういうところあるもん。なんか苦手。目が怖いし」
「え、そう?」
「この会話も聞かれてるかも。うわ〜やだな〜怖〜」
両腕をさすって身震いのジェスチャーまでしてみせたけど、私の言うことがイマイチわからないのか、デンジ君は首を捻って「そぉか〜?」と、納得してなさそうな顔をするだけだ。
「優しいじゃん。俺ァ好きだけどな、けっこう」
「出たよ。洗脳されているよキミは」
「洗脳〜?アハハなんだよソレ」
デンジ君は笑ってるけど、私は割と本気だった。あの人が苦手な本当の理由が、どこかに、たしかに、あった筈なんだ。だけど私は忘れてる。どうしてそんなことを思うのかはわからないけど、この感覚は「忘れてる」にすごく似てると思った。
「来世も来来来世もデンジ君の前に現れるよ。気をつけた方がいいよ。…キミ、ちょっとバカだから忘れちゃうと思うけど」
「あっ、バカっつったな今。バカって言う方がバカなんだぞレゼのバーカ」
「…じゃあデンジ君「アナル」って英語で書ける?私書けるよ」
「エロ女!」
ギャハハと笑って、キミの尖った歯が覗く。
あ、いま噛まれたいなって、思った。
それからデンジ君は一時間かけて世界史の課題をやり遂げた。出来上がった用紙を先生に提出した後、私たちはお互い傘をさして、一緒にバス停に向かった。
「全然止みませんなあ」
「ん〜、でも俺けっこう雨好き」
「えっ!なんで?」
「喉乾いてる時こうやってやったら飲めるし」
デンジ君は傘の中で上を向いて、口をパカッと開けた。舌を伸ばして、きっといま想像の中で雨粒を掬ったんだろう。舌を口の中にしまってから私を見て「な?」と得意げな顔をした。
「…愚かだ〜キミって奴は…」
「ア?愚かって言う方が愚かなんだよレゼの愚か」
「アハハ!バカの一つ覚え」
「うるせえバカって言う方がバカだ」
小学生みたいなやりとりを繰り返して、私たちは豪雨の街を歩いた。途中で始めたしりとりも山手線ゲームもマジカルバナナも、中盤あたりで私が繰り出す単語にキミが決まって「エロ女!」って叫ぶから、勝敗が毎回なあなあになって、一緒に笑った。
私たちはそうやって、付き合ってた。
ねえデンジ君。付き合ってたね、私たち。
びしょ濡れのバス停で隣に並び合った。古くてボロボロの時刻表にデンジ君は顔を近づけて「ゲ〜ッ、行ったばっかだ」と顔をしかめる。
「いいじゃん。雨の中のランデブーですよ」
「ランデブーってなんだっけ」
「デートってこと」
「お〜そっか、いいじゃん」
キミの笑った顔が遮られて、傘が邪魔だなと思った。だから自分の傘を畳んでキミに体を寄せた。寄り添う時、片方の肩が雨に濡れてそこだけシャツが透けてしまったけど、そんなの全然、どうだっていい。
「入れてくださーい」
「ア〜…?…別にいいけどよ」
「ありがとうございまーす」
デンジ君の肩に自分の頭を預けて、寄りかかる。デンジ君の匂いがした。十七歳のキミからは、安っぽい洗剤と安っぽいワックスの匂いがする。…ドキドキする。
「……レゼさぁ」
「うん?」
「…あ、やっぱいいや。何でもない」
「プッ、なにそれ!気になるよ」
「あァ〜…いい。言ったらマズイ気ぃするこれ」
「やけに勿体ぶるなあ。なに?えっちな事かいエロ男君」
「……」
私のニヤニヤ顔にも乗ってこないで、キミはゆっくり、目が合ったままで真剣に頷いた。
「…肩んとこ透けてて。レゼの」
「あ、これ?アハハ。うん、濡れちゃった」
「……下着の、あぁ〜、紐…?が、見えてて」
「……」
「それさぁ水色のやつだろ。こん前ン時着てた」
デンジ君は鼻の頭をポリポリかいて、迷いながら、でも結局、その先も全部言葉にした。
「超好き。…俺一番好きかも、それ」
「……」
そう言って、キミは傘を持つ手を変えた。外側の手にしてしまうから、私たちは今までよりもっと身を寄せ合わなきゃいけなくなって、一つの傘の中、隠れるようにお互いの体を近づけた。
「…後でいっぱい見して」
キミに耳元で囁かれた瞬間、心臓が、爆弾みたいに破裂するかと思った。
キミが傘一つ分の隠れ家の中、誰にも気付かれないように、一人だけの内緒みたいに、私の顔を覗き込む。
「……レゼ」
「好き、デンジ君」
キミの目に私が映るから、涙が出てしまった。
声が震えるのはどうしてだろう。よくわからなくて、でももういいやわからないままで笑ってしまおうと思ったら、笑う前にキミにキスをされた。
キミが好き。キミが好きだよ。私たちはこうやって付き合ってたんだ。ねえデンジ君、付き合ってたね、私たち。
キミがゆっくり舌を入れてくるから、私もそれに応えた。迷いながらシャツの生地を掴んだ。それを合図にしてデンジ君の口から「好き」という言葉が溢れた。
「…好きレゼ、好き」
キミの「好き」の言葉と同じ数だけ涙が滲んだ。口が熱くて溶けちゃいそうだと思った。
キミとのキスを忘れたくない。私、絶対忘れたくない。次の時も思い出したい。キミのことをキミだって何度でも、思い出したい。
どうしたらいい?どうしたら忘れないでいられる?いやだよ、消さないで。誰も消さないで。キミが好きだ。
「…んぁ、なぁレゼ、ベロ」
「……へ、なに…?」
「ベロ出して。めいっぱい突き出して」
ボヤボヤ滲む視界のまま、キミの言葉通り舌を突き出した。前髪をキミが耳にかけて、キミは私の舌を噛んだ。
その時たしかに私の中の爆弾が、破裂した。
「…ぁ、ァ」
「俺ん噛む力、覚えててレゼ」
「…う、うん…」
「忘れないで絶対」
「…うん」
「おばあちゃんなっても、将来ボケたりしても、ちゃんと思い出して」
「うん」
「俺のことも噛んで。忘れてもちゃんと思い出すから」
「うん」
「絶対思い出すから」
「うん」
キミの舌を噛んだ。血が滲むくらい強く噛んだ。二つの舌がお互いの歯で一つになった。溶けて、血の味がして、どっちがどっちの舌かわからなくなった。
「好きレゼ。大好き。絶対ずっと好き」
大雨が降り続けて、バスが来なくて、もう私たちは一生このままでいられる気がした。悲しくて怖い。いつかなくなってしまうから、絶対なくなってしまうから、なくなってしまうことが怖くてたまらない。
ねえデンジ君。私たち、花びらみたいだったね。
散ってしまったらもう自分たちの生きるこの世界が、たった一枚の薄っぺらだったことになんて気づけないんだ。
散った後はもう、ゴミだね。私たちはゴミになって、気付いた誰かになんの感慨もなく拾われてしまって、きっと簡単に、ゴミ箱に捨てられる。
「私も田舎のネズミが好き」
路地裏、引き金を引く前に心臓を貫かれた。腕を一つ切り落とされて、反対の手を首に伸ばしたけど、それもダメだった。
血が止まらない。意識が冷たくなっていく。薄暗い路地裏、アスファルトの上に横たわったら視界の先、窓の向こうにキミの後ろ姿が見えた。
ねえデンジ君、まただね。私たちまた最後まで思い出せなかったね。いつもそうだね。悔しいな。もう声が出ない。もうキミに、伝えられない。
どうして舌を噛んだあの時に私、キミのことを思い出さなかったんだろう。最後にこうして思い出すくらいならいっそ最初から、キミを殺しておけば良かったのかな。…どうだろうな、違うかな。
ねえデンジ君、次に会う時は私たち、思い出せるかな。花びらが散るその何回目だろう。何回目に私はキミをキミだと思い出すだろう。
私たちいつも、花びらみたいだったね。