Caution

※最初から最後までモブ視点のモブ一人称です。
※モブというより作者のオリジナルキャラクターのようになっています。
※臣太の世界のつもりですが臣太表現はほとんどないです。
※丞さん、晴翔くん、レニさん、臣クンがそれぞれチラリと登場します。レニさんと晴翔くんはかなりヒールな役割です。
※モブ→太一くんの表現が結構あります。
※GOD座を捏造・勝手に解釈しています。公式設定で出ていない部分は全て作者の勝手な妄想です。



花と泥棒






「千堂稔」と書かれたネームプレートを引っこ抜いてゴミ箱に捨て、ロッカーの扉を開ける。
奥底に眠っていた私物を全て引きずり出したら、インクの切れたボールペンやらいつ買ったか思い出せないフリスクやら出てきて思わず笑ってしまった。他の団員に「おまえのロッカーは汚い」とよく言われてきただけのことはある。
荷物もゴミも全て取り除いて、最後にロッカールームの端にかかっていた雑巾で内側全体を軽く拭く。
新品同様とまではいかないが、昨日までの状態と比べたら随分見違えた。ここまでやれば文句ないでしょ。

荷物をカバンに詰め込んで肩にかける。
俺は一年半所属していた劇団を、今日でやめたのだ。

「千堂さん!」
事務所一階の正面玄関に辿り着いたところで後輩から声をかけられた。稽古の合間の休憩時間なんだろう、そいつはジャージ姿だった。

「あの、お疲れ様でした」
「あー、うん。…じゃあね」
淡々と言葉を返すと、相手はちょっと寂しそうな表情をしてみせた。
「あの、演劇、続けるんですよね?」
「わかんない、どうだろ。とりあえず金がないからしばらくはバイト漬けになると思う。じゃあね」
「…そうなんですね…。…はい、じゃあまた」
「またね」ではなく「じゃあね」としか言えなかったことに、もしかしたら相手は気づいていたかもしれない。
…正直、またどこかで会えるのかと聞かれたら分からない。俺はこのまま演劇を辞めるような気も、何となくしている。
この場所で手に入れたもの、見てきたもの、感じたこと全て。これから先の人生でもう一度、箱から取り出すようなことはあるのだろうか。もしかしたら一度もないかもしれないな。

玄関ロビーを抜けて自動ドアをくぐる。少し歩いたところで立ち止まり、自分がいま出てきた建物を見上げた。
「劇団GOD座カンパニー」と書かれた看板は今日もやけにギラギラと、その文字を主張するかのように陽の光に照らされ輝いていた。

天鵞絨町をゆるゆると一人歩いた。
俺にはあんまり金がない。
いつも着ているせいでくたびれてしまった洋服と、二ヶ月ほど放置している伸びた髪が通りがかりのコンビニのガラスに映って、ずいぶんみすぼらしいなと思った。
早いところバイトを探さないといけない。今月の家賃と光熱費を払ったら貯金はそういえば空になってしまうんだと思い出して、少し焦った。

スマートフォンで地図を見ながら、俺は今までのことを思い返す。




◇◇◇◇◇◇




…この話をするのは、少し気恥ずかしいんだけど。
芝居を始めようと思ったきっかけは、好きな舞台俳優がいたからだ。
俺は別段、舞台や演劇に興味はなかった。けれどたまたま友達に誘われて見に行った、とある劇団の公演が凄く面白くて「こんな楽しい世界があるのか」と純粋にワクワクしたことを、今でもはっきりと覚えている。
公演の度に別人のように姿を変える一人の役者を、気付けばいつも目で追っていた。訳のわからない変人の役をやっていたかと思えば、極悪非道な悪人を演じる時もある。彼の演技は、まるで役が憑依しているかのように見えた。その様子を生で観ると、何というか鳥肌が立つような鋭さを感じるのだ。
そして彼は、幕が降りるとスイッチが切り替わったように元の姿に戻る。元来陽気で明るい性格であろう彼は、どんなにシリアスな役を演じた時でも終演後には伸びやかに笑って観客に挨拶をした。屈託のない人の良さそうな笑顔は、きっとたくさんの人の心をホッとさせたに違いない。
俺はそれを見るのが好きだった。
役に取り憑かれたような彼から感じる張り詰めたような緊張感と、その緊張の糸が途端に断ち切られる瞬間の温度差が、何故か俺には心地よく感じられたのだ。
彼という役者そのものに、俺は惹かれているんだなと理解した。

彼が、所属していた劇団を辞め、更に大きな劇団へ移籍するという話を耳に挟んだ。劇場内に居合わせた彼のファンが会話しているのを偶然聞いたのだ。

現劇団の舞台では最後となる公演で、彼はいつも以上に素晴らしい芝居を見せてくれた。主役を演じた彼の演技に、途中、ほんの少しだけ泣かされてしまったのはここだけの話だ。
公演が終わり、彼はいつものように元の自分に戻ってから、共に切磋琢磨してきた仲間へ、そして場内にいる観客たちへ向けて、挨拶をしてくれた。

「僕は芝居が楽しくてやめられません。これから先もずっと、やめられない自分でいたい。舞台の上ではどんなものにでもなれるから、僕は沢山のものに変身し続けたいです。そしていつか、僕の芝居を観てこの世界に興味を持ってくれた誰かと、同じ舞台の上で一緒に変身するのが、僕の夢です」

劇団員から花束と観客から大きな拍手を贈られた彼は、嬉しそうに、幸せそうに笑った。俺はその笑顔を客席から見つめ、拍手の波に漂いながら思ったのだ。

ああ、俺、やってみたいな。
あの上で変身してみたいな。

新しいことを始めるには勇気が必要だ。
俺は自身の進む方角を決断するのに、しばらくはウダウダと悩んでいたように思う。
決意が固まったのは、その日から数えてちょうど一ヶ月経った頃だ。


◇◇◇


俺はバイトを掛け持ちする事にした。軍資金を集めなければと思い立ったのだ。
彼が新しく所属する劇団は「GOD座」という名前だった。その劇団の情報をネットで確認して、入団するにあたり必要なこと等を事前に調べた。どうやら他の劇団より少し敷居が高い様子だ。けれどできるなら俺は、彼と同じ舞台に立ちたい。彼の演技を、客席よりもっと近い場所から見たい。
今までの人生の内で、こんなに熱心になれたことがあっただろうか。自分でも驚くほど、俺は真っ直ぐ突き動かされていたと思う。

半年弱のバイト漬け生活を経て充分な軍資金を貯められた俺は、勇んでGOD座の門を叩いた。

けれどそこで待ち受けていた結末が俺の出鼻を最強に挫く。入団して数日経ったある日、彼がGOD座を辞めていたことを俺は知ったのだ。
「じゃあ俺もやめるか」という考えが瞬間的に頭をよぎった。だって俺が数ある劇団の中でここを選んだ理由は彼の存在があったからで、それ以外には何もない。
けれど入団してすぐに「やっぱりやめます」とは何だか言い出せず、せっかく手に入れた「劇団員」という肩書きをわざわざ捨てる事もないかと思い直して、俺はこぼれそうになる溜息を飲み込みそのままGOD座の一員になった。

俺みたいな素人はもちろん「下っ端」という役職から階段を登る事になる。劇団員として与えられたのは少しの稽古と、大体が雑用だった。
それでもなんだかんだ、俺は毎日をそこそこ楽しく過ごしていた。気の置けない仲間が、ありがたいことに何人かいたからだと思う。
俺より少し先に入団していた面子といろんな話をした。

「千堂って○○さん追って入団したらしいね。あの人いいよね、俺も好きだったなあ」
「何でここ辞めちゃったんだっけ?」
「なんでだっけ?詳しく知らないや。今も芝居やってんの?」
「いや〜なんの情報も聞かないなぁそういえば。もうやってないのかもね」
仲間たちの話をぼんやり聞きながら、ああ、ちっちゃい夢があったのになあと、少し残念に思ったのを覚えている。

俺は彼に伝えたかった。
あなたの芝居を見て俺はここに来たんですと、あの日の彼の言葉に繋がる想いを、伝えたかったんだ。


◇◇◇


毎日雑用をこなしていると徐々にレッスン室を使える時間が長くなり、そうすると必然的に先輩の劇団員とも顔を合わせる機会が増えていった。
飛鳥晴翔さんや高遠丞さんの名前と顔をしっかり覚えたのがこの頃だ。
彼らの練習風景を間近で見られるのは貴重な体験だった。何度も舞台の上で主要な役を演じる彼らからは、やはり気迫を感じた。

それから少し経って、俺は初めて役を与えられた。
もちろんそれは名前のないエキストラだったけれど、それでも台本が与えられ、正式に決められた稽古の時間があり、通し稽古ではその参加者の一人になれた。

初めて役をもらったその公演で、俺は七尾太一という劇団員を知ることになる。

赤い髪がトレードマークの彼は、かろうじて役名はあるもののメインキャストとは呼べない、いわゆる「脇役」を任されていた。
俺と彼の役は舞台上で同じ場面に立つことはなかったので、パートごとの稽古の時は顔を合わせることはない。だからその姿を見るのは通し稽古の時だけだった。
最初は「ずいぶん綺麗に染まった髪色だな」くらいしか思っていなかった。おそらく彼は俺より年下だろう、高校の制服から稽古着に着替えるところを、何回か見たことがある。(ちなみに俺は入団当初19歳だった。)
短いセリフを発するだけの彼から突出した何かを感じることは特になく、この頃彼に対して抱いていたものは「劇団員のうちの一人」という印象だけで、それ以上も以下もなかった。

ある日、メインキャストを演じるうちの一人が高熱を出して稽古を欠席した。その日は通し稽古が割り当てられた日だったため、他の団員はどうしたものかと頭を悩ませた。
不在の劇団員が演じる役は語り部のようなポジションであり、とにかく断トツでセリフ量が多かった。
台本を見ながらセリフをただ読む穴埋め作業なら誰にでもできるが、立ち回りや間の取り方をいつも通り再現することはかなり難しい。そしてメインキャストを演じる先輩たちは、自分の役とその役の掛け合い部分があるため代役を務めることはできそうにない。
仕方ない、アンサンブルキャストのうちの誰かに台本を見ながら演じてもらおう、と意見がまとまりかけたところで「あの」と手を挙げる人物がいた。

「俺っち、セリフ暗記してるんで台本見ないでやれるッスよ」
そう言ったのは七尾太一だった。

驚いた。メインキャストの面々が、繰り返される掛け合い練習の中で他の役のセリフも覚えてしまった、というなら分かる。しかし彼は通し稽古でしか顔を合わせない筈であり、その役との掛け合いも特にないのだ。

「何言ってんの?できもしないのにそんな見栄張らないでくれる」
溜息をつきながらそう言い放ったのは飛鳥さんだった。前々から他の団員に対して物言いがきつい人だとは思っていたが、今日も彼の言葉は辛辣である。
「本当か?ならお前が代わってくれるのが一番いいが…」
七尾太一を真っ直ぐ見つめながらそう言ったのは高遠さんだ。高遠さんはいつも多くを語らないし稽古場に感情を持ち込むことも少ない。純粋に尊敬できる役者で、だからこそ少し声をかけにくい先輩の一人だった。

「はいッス!任してほしいッス!」
飛鳥さんと高遠さんの言葉に笑顔で頷き、七尾太一は臆する様子もなくそう言った。

飛鳥さんと他数名が半信半疑の中、通し稽古は始まった。
序盤からいくつもある長いセリフを、七尾太一は宣言通り何も見ずにスラスラと進めていった。
…それだけじゃない。七尾太一は間の取り方も、息継ぎの場所も、言い回しの速度も、体の動きや視線の方向まで全て完璧に再現してのけた。姿が七尾太一なだけで、あとは欠席している団員本人と何一つ違わない。
度肝を抜かれた。どうして彼はこんな事が出来るんだろう。

七尾太一は稽古の最後まで一寸の隙もなく代役を勤め上げ、他団員からの賞賛と小さな拍手をもらった。
飛鳥さんは小さく舌打ちをしていたが、高遠さんは「すごいな七尾」と素直に感心していた。
「へへ、役に立ててよかったッス!」
鼻の下をこすり嬉しそうにしている彼を見て、ああ、似ていると俺は思った。
七尾太一の人懐っこい笑顔は、俺が追いかけたあの人とどこか通じるものがあったのだ。

その日稽古が終わった後、ロッカールームで鉢合わせになった七尾太一に初めて声をかけてみた。

「あの」
俺の呼びかけに少し驚いた様子の彼は、目をパチクリとさせてからワンテンポ遅れて「はいッス!」と返事をした。

「えっと…今日の通し稽古、俺も参加してたんですけど」
「ああ、一緒だったッスよね!お疲れ様ッス!」
「あ、はい、お疲れ様でした。…あの、××さんの代役、すごかったです」
「え、マジッスか?」
「はい。すげービックリしました。全部完璧に再現してたから。かっこよかったです」
「う、うわー!照れるッス!へへ、ありがとうッス!」
言葉通り照れているのか、彼は自分の両頬を手のひらで抑えてみせた。こういう彼の仕草の一つ一つは年相応に見える。素直で可愛い人だなと思った。
「えっと…初めて喋ったッスね。名前は…」
「千堂稔です」
「せんどーサン!俺、七尾太一って言います!よろしくッス!」
差し出された右手を自分の右手で受け止め、俺たちは握手をした。
「…七尾さんって、高校生?ですか」
「うッス!今度の誕生日で16になるッス!せんどーサンは?」
「俺19です。この前誕生日でした」
「じゃー3つ年上サンなんスねー!これから色々お世話になると思うッスけど、よろしくおねがいするッスー!」
握手の状態のまま繋がった手をブンブン振って、七尾太一は笑顔で言った。弾む声と嬉しそうなその表情が、何だか尻尾を振る犬みたいだ。
「はは」
「え、なんスか急に」
「犬みたい」
「はーっ、また言われた!なんなんスかね!?俺っちそれ言われるの数十回目なんスよ!そんな犬っぽいスか!?」
「うん、犬っぽいです」
「メッチャ断言された!」
「あはは」

七尾太一という人物に、俺はすぐに好感を持った。
稽古の時に見せられた一面と、素の彼の屈託の無さはミスマッチでギャップがある。それが俺にはとても心地よく感じられた。
あの人に重なる部分がいくつもあって、ああ、こういう人間につくづく惹かれるタチなんだなと思ったのを覚えている。


◇◇◇


それから、稽古場で顔を合わせるたびに七尾太一と会話をした。
彼の人懐っこい雰囲気にほだされて、相手は先輩であるにも関わらず敬語がどんどん抜けてしまった。でも俺の砕けた喋り方を彼が気にする様子はなく、むしろ喜んでくれていたように思う。
彼が俺を見かける度に「せんどーサン!」と声をかけてくれるのが純粋に嬉しかった。俺もそれに応えるように、彼を見かけた時は必ず声をかるようにした。
初めて会話を交わした日から数週間経った頃、俺たちはすっかり仲良くなっていた。

「もうすぐ公演初日ッスねー!記念すべき、せんどーサンの舞台デビューの日!ッス!」
「そーゆー言い方しないで。アガるから」
「あはは、アガっちゃうんスか」
公演を目前に控えたある日、稽古帰りの道を俺たちは二人並んで歩いていた。
「メインの人たちもみんな調整バッチリだし、今回の公演も無事成功するといいッスね〜」
「さっきからなんか七尾さんの余裕を感じる。感じ悪い」
「え!なんでッスか!思ったこと言ってるだけなのに!」
俺の理不尽な言い分に心底驚く様がおかしくて笑うと、彼も同じように笑い返してくれた。
「俺っちね、せんどーサンのそーゆーとこ好き」
「?どーゆーとこ?」
「なんか、パッと見ダルそうにしてるって言うか、ヤル気なさそうじゃないッスか。でも本当は真面目でビビリなとこ!」
「ねえ、全然嬉しくねーけど」
「あはは、ギャップ萌えってやつッス!」
何がギャップ萌えだよと内心思う。そんなこと言ったら、そっちだってギャップの塊のくせに。
「……七尾さんさあ」
その先を続けようとしたら「前から思ってたんスけど」という彼の言葉に遮られた。
「俺っちのことさ、「七尾さん」じゃなくて呼び捨てで呼んでよ!」
「え、なんでよ。だって七尾さん先輩じゃん」
「でもせんどーサンのが年上じゃないッスか。なんか、さん付けで呼ばれるとやりにくいッス!」
「え〜…マジか…じゃあ、えっと…」
「七尾でも!太一でも!どっちでもいッスよ!」
正直、呼び捨てで呼ぶのはためらいがあった。いくら気が置けない相手だと言っても、彼は俺より古株の、れっきとした先輩なのだ。
なんと返そうか決めあぐねていると、彼は特に答えを催促する様子もなく言った。
「ねえねえ、そしたら俺っちさ、せんどーサンのこと「みのクン」って呼んでもいい?」
「え、ああ…うん。いいけど」
「良かったー!ずっと呼びにくいなって思っててさ。へへ、みのクン!」
…違う、今のは。
昔付き合っていた子に、同じように呼ばれていた過去があって、だから、少しだけドキリとしたんだ俺は。それだけだ。
鼓動が速くなった理由を探して、俺は無理やり納得することにした。

「で、みのクンはさっき何言おうとしたんスか?」
あまりに自然に「みのクン」と呼ぶものだから、苗字で呼ばれていたのがまるで遠い過去のことのように感じてしまう。こういうところは、彼の生まれ持った才能なのかもしれない。
「…七尾さあ」
下の名前を呼び捨てにすることはどうしてもできなくて、だから苗字を呼び捨てで呼んだ。七尾はそれに対して特に不満もないらしく、そのまま俺の言葉を聞いてくれていた。
「前にやった通し稽古の時に、××さんの役を完璧に代役したことあったじゃん」
七尾は「あー、あったッスねぇそんなことも」と合いの手を入れた。
「セリフ暗記してただけじゃなくて、間の取り方とか全部同じだったからさ。なんであんなことできたのかなって、聞こうと思って」
「…」
俺の問いに少し考えるそぶりを見せてから、七尾は語った。
「……俺っちね、この劇団入って結構長いんスけど、メインキャストに選ばれたことないんスよ」
頭の後ろで手を組んで七尾は言う。明るい声色で、自嘲するように短く笑った。
「なんでかなぁ…やっぱ華がないんスかね。だから、通し稽古でメインやってる人たち見るといつも羨ましくてさ。一回でいいからやってみたいなって思っちゃうんスよ。代役でも何でもいいから、チャンス回ってこないかなって」
「………」
「…で、そんな事ばっか考えながら他の人の芝居も丸暗記してるんス。なんかあった時はいつでも代われるようにって。…そんなのホントは、意味ないのにね」
七尾は笑いながら同意を求めるようにこちらを見た。
「へへ、せこいっしょ」
「…どこが?」
俺の言葉が予想外だったんだろう。七尾は驚いた顔をしていた。
「やりたいって思うのも、チャンス回ってくるの待つのも、その時の為に頑張って練習するのも、全部かっこいいけど」
「…」
「かっこいいよ七尾は」
その時一瞬だけ七尾の瞳が揺れた。それを見て初めて、彼の瞳はなんて綺麗な色をしているのだろうと俺は気づいたのだ。
盗んで、隠してしまいたくなるほど、綺麗だと思った。

「…みのクンって変ッス」
「は?なんでよ」
てっきり、ありがとうと言ってくれると思っていたのでムッとした。けれど七尾はそんな俺の態度を気にする様子もなく、楽しそうに笑うだけだ。
「あはは、かっこいいの基準、絶対変ッスよ!」
「そんなことねえし。なんだよ、なんでそんな笑うの」
「あはは」
七尾は少し早歩きをして、俺の数歩前を歩く。
「…ありがとう、みのクン」
振り返らないまま言われたものだから、表情を覗くことは叶わなかった。だからこの時、七尾がどんな顔をしていたのか俺は今も分からないままだ。
少しだけ掠れていた声に気づかないふりをして「うん」と答えたけれど、思い返して、今は少し後悔してる。
…あの時、肩を抱くくらい、頭をそっと撫でるくらい、しても良かったんじゃないかって。


◇◇◇


それから数ヶ月。
相変わらず名前のない脇役しか巡ってこない日々が続いた。
七尾のところにも大役はまわってこない。他のアンサンブルキャストの誰より七尾の台本はボロボロで、マーカーの跡だらけで、何箇所も折り目がついている。それを誰も何も言わなかったけれど、俺はずっと知っていた。七尾が人一倍努力していること。メインキャストへの強い想いがあること。
七尾の台本を少しだけ盗み見たことがある。自分の役の部分だけじゃなく、掛け合う相手役の演技の細部、照明や音響のタイミング、ミーティングで話し合った内容まで。七尾の台本は書き込みだらけだった。稽古が終わった後も、きっと家に帰ってから何度も読み込んでいるのだろう。全頁こんなに開きグセがついた台本を、俺は他に知らない。
…俺は七尾に、報われてほしかった。もしかしたら自分のことより強くそう思っていたかもしれない。七尾のひたむきさがいつか陽の目を見るようにと、ずっと願っていた。
それでもメインキャストの顔ぶれは、見慣れた面子から変わらない。彼ら一人一人と七尾にどんな決定的違いがあるのか、俺にはよくわからなかった。
七尾は以前自分のことを「華がない」と言っていたが、本当にそうなのだろうか。俺は不思議に思っていた。本当にそれだけの理由で全てが片付くのか。

そんな折、俺より後に入団した後輩の劇団員が、何故だか突然次回公演でメインキャストに選ばれたことがあった。
七尾はそれを知った時もいつものように笑って「選ばれる人は選ばれるんスよねぇ」と言っていた。でも、俺は納得できなかったのだ。その劇団員に特別な何かがあったようには感じない。七尾以上のひたむきさを感じたこともない。
俺は七尾に「なんか裏があるんじゃないの」と漏らしたが、彼は困った顔をして「そんなこと言うもんじゃないッスよ」と言うだけだった。

そもそもこの劇団では、配役はどのようにして決められているのだろう。それは思うに、きっと入団順でもなければ推薦、立候補でもない。
はっきりと言葉にできない違和感を、俺はしばらく抱え続けた。

そして、漠然と抱いていた疑問は確信に変わる。

ある日ロッカールームの扉を開けようとしたところで、中から例の、メインキャストに選ばれた後輩の声がした。どうやら電話で誰かと話しているらしい。
相槌を数回打った後、その後輩は電話口の相手に向かって言った。
「メインキャストへの配役の件、本当にありがとうございました。振込みなんですけど、昨日無事に入金したので…はい、確認お願いします。また今後もよろしくお願いします」
聞いた瞬間に、ああそうか、と納得した。
この劇団は、役を金で買うことができるのだ。
きっとそれ以外にもいくつか手段はあるのだろう。電話口の向こうの相手、おそらく神木坂の、手となり足となるような手段が。
頭の中がすうっと冷えていくのを感じた。
へえ、そっか。どれだけ稽古をこなそうが、真面目に練習を積もうが、芝居と真摯に向き合おうが、そんなに大した意味ないのか。…一体、正攻法でメインキャストを勝ち取った人はどれだけいるんだろう。
この場所にいることに意味が見出せなくなりそうで途方に暮れた。俺は芝居がしたかったのに。稽古を積んだら上達して、上達したら誰かに認めてもらえて、そうしたら舞台の上に立って自分の演技をたくさんの人に見てもらえる。そういう世界にいると思っていたのに。


◇◇◇


「七尾はさ、なんでこの劇団に入ったの?」
ある日偶然帰る時間が重なった七尾に、帰路の途中で尋ねた。
俺は稽古にあまり身が入らなくなっていて、GOD座に通う理由も、七尾の「また明日ね」という別れ際の言葉を守るため、それだけになっていた。
夕暮れが終わり夜に変わろうとする時間帯、徐々に紺色に染まってゆく空を見ながら七尾は答えた。
「ここはやっぱ有名だし、大きいから。ここでメインキャストやれたら俺っちも目立てるだろうなって思って。超不純な動機ッスよ」
「…他の劇団に移ろうとかは思ったことないの?」
「ん〜。考えたこともあったッスけど…。でもなんか、ここをやめちゃったら俺、諦めグセついちゃうような気がするんスよねぇ」
「そうかな、そんなことないと思うけど」
「え〜なんスか!みのクンさっきから!俺っちに劇団やめてほしいの?」
「…そういうことじゃなくて」
「へへ、冗談ッス。でもさ、他の劇団行ったって同じような結果しか待ってないなら、移る意味ないじゃん」
こういう話をしている時の七尾はいつも複雑な顔をする。笑っている筈なのになぜか寂しくて、隣にいるのに遠く感じるのだ。手を伸ばしても彼の本音に辿り着けそうになくて、だから俺は言葉を飲み込む。
他の劇団ならきっと違う未来があるよ。俺がこう言っても彼はきっと「みのクンは優しいね」だとか「気遣わせてごめんね」と言って、今みたいな顔で笑うだけなんだろう。

「みのクンは?他のところに行こうとか考えてる…?」
少しだけ不安そうに聞いてくれたのが嬉しくて思わず顔が緩んだ。首を横に振ると七尾は安堵の溜息を吐いて笑った。
「俺っち達もいつかメインキャストやりたいッスね。THE根性!雑草魂!ッス」
「うわ、雑草かあ…」
「あはは、図太くいくッスよ!」

俺には七尾が雑草だなんて思えない。お前はスポットライトを浴びて咲く、きっと花だよと思うのだ。だから、いつかやってくるその時までどうか枯れないで。綺麗な花が咲くのを、信じていてほしい。
…いくらなんでもそんな台詞は、芝居の上でも恥ずかしくて言えそうにないから、そっと心の中にしまった。


◇◇◇


ある日から急に、七尾がパタリと稽古に来なくなった。
次回公演の台本にも七尾には役が与えられておらず、まるでこの劇団から七尾が忽然と姿を消してしまったみたいで、俺は動揺した。
同期や先輩に何回か聞いたが、誰も何も知らないと言う。大所帯のこの劇団では、メインキャスト以外の団員の存在などどうでもいいことみたいだ。

俺はショックだった。
七尾が、仮に自分の意思でここをやめたんだとしたら、一言くらいなにか俺に伝えてくれると思っていたからだ。
本人に確認を取りたくても俺は七尾の連絡先を知らない。連絡先を知らないでいたことにこの時初めて気がついて、ああバカだと思った。
神木坂さんに聞いたら何か分かるのかもしれないが、それをする気はあまり起こらなかった。俺には言う必要がないと思ったから、七尾は何も言わなかっただけのことだ。なら俺も同じように、知る必要がないという事なんだろう。

ああまたこうやって俺は、置いてけぼりのような気分を味わう。
七尾の屈託のない笑顔や、ボロボロの台本、寂しそうな表情、そして俺に言ってくれた言葉を一つ一つ思い出す。
…なんだよ。何にも言わずにいなくなっちゃうのかよ。図太くいこうって、お前言ってくれたじゃん。
悲しくなって、その悲しみをどこへやったらいいのかも分からなくて、俺は一人うな垂れていた。

それから数日後、やる気も起こらないまま稽古へ向かった日。ロッカールームで稽古着に着替えていると、斜め後ろにいた数人の後輩が何かを話し込んでいた。
俺はその会話を聞き流しながらロッカーに荷物を入れた。ふと、七尾のロッカーを見る。ちゃんとネームプレートも貼ってあるし、数個のマグネットや何かのメモも変わらず扉にくっついたままだ。もし七尾が除籍したんだとしたら、数の限られたロッカーだ、これから入る人へ明け渡すためこういったものは全て外されるはずだろう。ということはやっぱり七尾は、ここを辞めたわけじゃないのかもしれない。
そんなことを考えながら靴を履き替えていたら、後ろの会話の途中に「七尾」という名前が突然出てきた。

「その話マジ?げ〜、七尾さんスパイやってんの?」
「晴翔さんから聞いたからマジだよ。ドン引きだよな〜。今その劇団に入団したフリしてるらしいよ、そんで公演メチャクチャにして潰すんだってさ」
「それってレニさんから頼まれて?よくやるなあそんなこと」
後ろを振り返って後輩達を見る。そのうちの一人は、この前メインキャストに選ばれた例の奴だった。会話に夢中なのか、俺が見ていることに誰も気づいていない様子だ。
「レニさんから「メインキャストやらせてやる代わりに」とか言われたらしいよ。そんな事のためにスパイとか、普通する?」
「しないよな〜…。どんだけメインキャストやりたいんだって話だよ」
「執念だな、怖え〜。スパイする前に芸を磨けよってな」
氷のように頭が冷えて、俺は履き替え終わった外履きの靴を思い切りロッカーに叩きつけた。大きな衝突音が響いて、後ろの会話はそれと同時に止まった。

…そっか、そうだったんだ七尾。何も知らなかったよ、俺。

「………七尾が」
自分の声が苛立ちで少しだけ震えているのが嫌だ。短く息を吐いて、普通に話せるよう数拍置く。
「…七尾がそれでメインキャストやれるなら、俺は別にいいけど」
後輩達はみな目を見開いている。誰かの喉が「ごく」と鳴る音がかすかに聞こえた。
「お前らみたいな芸磨かない奴らばっかりで使えないと思ったんだろうな、神木坂さんも。だから七尾に声がかかったんじゃないの」
「………」
「引くとか怖いとか言ってるけどさ、お前らだって言われたら平気でやるんじゃないの?ウダウダ話してる暇があるんなら、その新品みたいな台本もうちょっと読み直したりすればいいのに」
後輩達の脇に置いてある台本はどれもまるで未使用のように綺麗だ。虫唾が走った。
「…ああ、陰口叩いたり、役を買うための金用意したりで暇じゃないよな、ごめんね邪魔して。好きなだけ続けて」
投げた靴を拾ってロッカーに投げ入れる。乱暴にロッカーの扉を閉めたら、後輩達の肩がビクリと上がった。
そのままロッカールームを後にする。胸糞の悪さは消えず、ジャージのポケットの中にしまい込んだ手を俺は強く握りしめた。

七尾。
お前がここに帰ってきたら俺「おかえり」って言うよ。メインキャストに選ばれたら「おめでとう」って言う。
何も聞かないから、待ってるからさ。
…だからあんまり泣かないで。

今きっとどこかで七尾は泣いている。
何となく思うだけなのに、でもそれは確信のように俺の心を占拠して、どうしてか俺まで泣きたくなった。


◇◇◇


それからしばらくして、高遠さんがこの劇団をやめることを知った。
少し驚いたけれど、どこか納得がいくような気もした。高遠さんは芝居に対してストイックだ。だからこそこの劇団に対して思うところがあったのかもしれない。

高遠さんがやめる前の最後の稽古、途中に挟んだ休憩の時を見計らって、俺は彼に声をかけた。

「…あの」
高遠さんに話しかけるのは少し勇気がいる。前も言ったように話しかけにくいのだ。無駄に構えてしまいそうになるのをこらえて、俺は高遠さんを見上げた。
「なんだ」
高遠さんが額にかいた汗をタオルで拭き取りながら俺を見る。
「お疲れ様でした」
「…ああ」
その一言が別れの挨拶であることを汲み取ってくれたのだろう、高遠さんは少しだけ目を細めて深く頷いた。
「高遠さんの芝居、いつもかっこよかったです。これからも応援してます」
「…」
チラと顔を上げると、高遠さんは顎に手を当て何かを思い返しているような素振りをしていた。俺の言葉より気にかかることが、何かあったのだろうか。

「…お前は、七尾と仲が良かったよな」
まるで予想していなかった高遠さんの呟きに思わず目を見開く。どうして今ここで七尾の名前が挙がったのだろう。
「…はあ。まあまあ、多分…」
「あいつから連絡はあったか?」
高遠さんの問いに首を横に振る。すると高遠さんは「そうか」と短く相槌を打ち、また少し何かを考えているような仕草をしてみせた。
「…七尾と、なんかあったんですか」
「いや…すまん、なんでもない」
なんでもないわけがないことは明白だ。問いただしたい気持ちに駆られたが、相手は高遠さんである。決して口数の多くないこの人が、一度言い淀んだことを改めて明かしてくれるとは思えなかった。

「…○○を追ってこの劇団に入ったんだってな」
急に話題が変えられたことに少しだけ不満があったが、顔には出さないようにして頷いた。
「はい。入った時期すれ違っちゃいましたけど」
答えると「それは運が悪いな」と言って高遠さんは笑ってみせた。笑うとずいぶん印象が変わるんだな。とっつきにくさが一瞬で消えた。
「あの人もこの場所とソリが合わなかったんだろうな。今ならよくわかる」
「…高遠さんもそうなんですか?」
「そうだな。俺も結局だめだったな」
高遠さんは遠くを見つめるようにして言った。きっとたくさんのことを思い返しているのだろう。当然だ。この人は何回、何十回と、このGOD座で大役を務めた人なのだ。
「○○の芝居、いいよな。俺も好きだったんだ」
高遠さんの言葉に気分が高揚した。あの人の芝居の話をできるなんて、思ってもいなかったからだ。
「はい。…もう一回くらい、あの人の芝居見たかったです」
「人づてに聞いた。どこの劇団かは知らないが、まだ芝居は続けてるそうだ。きっとこれからまた見れる機会があるだろ」
初めて聞く話だった。消息不明の彼の情報は当然のように一切得られず、今どこで何をしているのか俺には見当もつかないままだったのだ。
けれど、今もやっている。どこかの板の上で、彼は変身しているのだ。
「お前のこれからにも期待してる。がんばれ」
高遠さんはその言葉を最後にして、稽古へ戻っていった。

たくさんの思いが胸の中を駆けていく。
あの人、芝居やめてなかったんだって。またいつかあの人の芝居見られるかもしれないんだ、嬉しいな。しかもさ俺、高遠さんに「期待してる」って言われたよ。社交辞令かもしれないけどさ、嬉しいもんだな。
なあ、お前と話したいな。
会いたいよ七尾。


◇◇◇


俺はどこかでわかっていたかもしれない。
七尾が正式にGOD座をやめたことを後に知った。
ある日のミーティングで話されたその話題に食いつく人は誰もおらず、まるで出欠確認のように淡々と議題は流れた。

もぬけの殻になった七尾のロッカーを横目で見る。派手なデザインのキャラクターマグネットが全て外されたそれは、やけに殺風景に見えた。

あの人も七尾もいなくなった。俺にはもう一つも、この場所にとどまる意味がないんだな。


◇◇◇


それから行動に移すのは早かった。
俺は数日後、神木坂さんに退団のための書類を提出した。彼は事務室の椅子に座ったまま、こちらを見上げることもなく書類を受け取った。

この人は、果たして俺の名前を知っているのだろうか。何のために劇団を背負って、多くの劇団員を抱えているのだろう。その一人一人を、どう思っているのだろう。
どうして七尾に…よりによって七尾に、この人は囁いたのだろう。

言ってやりたいことがいくつかある。でも全て吐き捨てたところで、この人には何も届かないんじゃないかと思った。
ああ俺は今どれほど冷めた目で神木坂さんを見下ろしているんだろう。

「…七尾がここをやめて良かったです」
呟くように言うと、神木坂さんはほんの少しこちらを見上げた。ギシリと椅子が音を立て、この部屋の静けさを強調する。
「あんたみたいな人から離れられて、ほんとに良かった」
言ってから頭を下げると、頭上から隠す様子のないあけすけな舌打ちの音が聞こえた。
「…早く出ていけ。お前はもう部外者だ」
俺の提出した書類に乱暴に判を押しながら、神木坂さんはそれだけ言った。

事務室を後にすると、廊下で飛鳥さんとすれ違った。
「やっぱり捨て駒を追いかけるんだ?」
飛鳥さんに声をかけられるのはこれが初めてだったが、言われた言葉の意味が全くわからない。でもその表情から、これから嫌味を言われるんだろうな、ということは何となく予測できた。
「…捨て駒?」
「七尾のことだよ。あの役立たずの後を追いかけに行くんでしょ?」
物言いが辛辣だとか性格がキツイとか、そういう次元じゃない。誰かに対して「捨て駒」なんて表現を、俺は生まれてこのかた使ったことがない。

「まさかスパイとして潜り込んだ劇団に、ほんとに入団しちゃうなんてねー。すごい神経してるよ」
初耳だった。七尾がここをやめて今どうしているかを、まさか飛鳥さんから聞かされるとは思わなかった。
…そうか、七尾は今違う劇団にいるんだ。芝居から足を洗ったわけじゃないんだな。それがわかっただけでもホッとした。
「…七尾、今、どこの劇団にいるんですか」
「なんだ、本人から聞いてないんだ?MANKAIカンパニーっていうショボい劇団だよ」
聞いたことのない劇団名だ。ショボいという表現はきっと語弊があるだろうけど、ここほど大きな劇団ではないのかもしれない。
「なんであんな奴を構うのか理解できないけど。まあ好きにしなよ。お前も別に、いてもいなくても構わない存在だからさ」
「……」
何を言われてもそんなに腹は立たない。飛鳥さんが俺に興味がないように、俺もまた、この人に特別な思いがないからだ。
「えっと、お世話になりました。じゃあ」
飛鳥さんの言葉に全く繋がらない無感情な返答をすると、彼は明らかに不愉快な顔をした。
「…丞もお前も…ほんと馬鹿ばっかり。あんな奴のどこにそんな…」
途中から聞き取れないほど声が小さくなり、もうこれは独り言なんだろうなと思った。漏れた言葉の隙間から、飛鳥さんの抱いている感情がなんとなく滲んで見えた気がする。
この人はきっと、七尾のことが特別嫌いなんだろう。どうしてそうなのかはわからないけど多分、無関心になりきれずにいる。だって今俺の前で見せている飛鳥さんの悔しそうな表情は、ただの「捨て駒」に向けるにはあまりに感情が剥き出しだ。

「…早く行けよ。目障りだから」
飛鳥さんはこちらを目一杯睨んでみせたけれど、何故だかその様子に手負いの動物のような痛ましさを感じて、その目に怖さも苛立ちも感じなかった。
「…飛鳥さんの演技、好きでした、俺」
飛鳥さんは一瞬だけ唇を噛んでから、俺をより一層きつく睨む。何か言いたかったのか口を少しだけ開きかけて、でもそのままつぐみ、俺に背を向け歩き出してしまった。
…言わないほうがよかったかもしれない。彼もきっと沢山の思いと過去があって、今の地位を確立したはずなのだ。軽率なことを言ってしまったんじゃないかと後悔した。
一度も振り返らない背中に小さく会釈をして、俺もその場を後にした。




◇◇◇◇◇◇




コンビニ前で立ち止まりスマートフォンを操作する。
MANKAIカンパニーという名で検索したら劇団のホームページがすぐに出てきた。ホームページには劇団員の紹介や今までの公演内容、劇場までの地図などが掲載されている。
劇団員の中から、七尾の名前を見つけた。本当に、七尾はここの劇団員になっているんだな。俺は画面に映る「七尾太一」の文字を見ながらその事実をゆっくりと噛み締めた。
劇場までの地図にはもう一つ別の目印がある。小さく記されたそれには「劇団寮」と添えられていて、劇場からさほど遠くない位置にあることがわかった。
「…寮制なんだ」
ひとりごちて、考える。
もしかしたら七尾も寮を利用しているかもしれない。今からここに向かったら、会えるかもしれない。

…会いたい気持ちはある。だけど七尾もそうだとは到底思えなかった。俺に何も告げなかったということは、つまりきっと、そういうことだと思うのだ。
大体、会えたとして俺は七尾に何を話したいと言うんだろう。済んだことをほじくり返す気もないし、なんで言ってくれなかったのかと責める気持ちも毛頭ない。じゃあ、一体どうして。
「…」
答えをしらばっくれることはできそうになかった。だって、何を話したいとか聞きたいとか、そんなことはどうでもいいんだ。そんなこと、本当は自分が一番よくわかってる。

俺は七尾に会いたいんだ。
ずっとずっと、会いたかった。

やっぱり引き返そうかと途中で何度も思ったが、結局行き着く答えは毎回同じで、結論は振り出しに戻る。俺はスマートフォンの画面に表示された地図を頼りに歩き続けた。
顔が見れたらいい。挨拶をする程度でいいんだ。そう思いながらMANKAIカンパニーの寮を目指した。

ほどなくして目的の建物が見えてきた。
飛鳥さんは「ショボい」なんて言っていたが寮であるこの建物はずいぶん立派だ。その佇まいから結構な年月を感じた。歴史のある劇団なのかもしれない。
少し離れた所から入り口を覗いた。門の奥に玄関があるみたいだが、その付近には今は誰もいないみたいだ。もう少し近くから中の様子を見ようと移動したが、外からでは特に見えるものはなかった。

「うちの寮に何かご用ですか?」
突然背後から声をかけられ思わず肩が上がる。振り返るとそこには、食材の入ったスーパーの袋を両手にぶら下げた長身の男が立っていた。
男は首を傾げて俺に軽く微笑んだ。人当たりのいい笑顔だ。団員の一人なのだろうか。
「…えっと」
どこから話せばいいのかわからなくなり口ごもってしまった。自分の要領の悪さに嫌気がさす。これじゃ不審者と思われても仕方ない。
「誰かの知り合いかな。もし良ければ呼んできましょうか」
「あ、えっと、はい」
親切な言葉に慌てて頷くと、男はもう一度微笑んでから「誰を呼んできましょうか」と付け足した。
「あの…七尾に会いに来たんですけど」
その瞬間、男の顔つきが急に変わった。
「…太一に?」
男の取り巻く空気が急変したものだから、俺は訳がわからないまま一歩後ろへ下がってしまった。
「失礼ですが、太一とはどういう関係ですか?」
男はまっすぐ俺を見つめながら尋ねる。じっと動かないその視線は迫力があり、警戒と威嚇の念が込められていることがすぐにわかった。
「…同じ劇団、だっただけです、けど」
俺がそう言った後、男はいよいよ俺をはっきりと睨んだ。
「…GOD座か」
男は低い声で唸るように呟き、その後もう一度俺を睨んでから言った。
「頼む。もう太一には関わらないでくれ」
「……」
「もうお前らには関係ないはずだ。会いに来たりしないでくれ」
そして男は大きな体を折り曲げて深く頭を下げた。
「……」
男の頭を見つめながら俺は理解する。七尾はここで、とても大切にされているんだな、と。
俺がGOD座(「元」ではあるが)だとわかった途端顔色を変えたということは、七尾が元々GOD座の団員だったことも、どういう経緯でここに来たのかも全て知っているということだろう。知ったうえで、七尾を迎え入れているんだ。
そして多分、ここからは俺の勝手な推測だけど、この男にとって七尾は特別な存在なんじゃないかと思う。この人の敵意は、GOD座ということを抜きにしても変わらず俺に向けられたままのような気がした。
…俺は、この人相手にこれ以上食い下がる気になれない。ただ顔を見に来ただけだと弁明するのも、自分はもうGOD座の人間ではないと説明することも、なんだか話しているうちに虚しくなってしまいそうだ。
なんの躊躇もなく「関わらないでくれ」と言って頭を下げたこの人を、かっこいいと思った。いつも傍観しているだけの臆病な自分とは違う。

この人がもしもあの時、俺と同じ立場にいたら。
七尾がスパイを任されたと知ったその瞬間、この人ならきっと神木坂さんに直接言いに行っていただろう。「やめさせてくれ」「関わらないでくれ」と。今こうして七尾から俺を遠ざけようとしているのと同じように。
…俺はあの時、何も行動に移さなかった。ただ七尾を待っていただけだったんだ。

「…はい」
敵わない、と思った。これは決して勝負なんかじゃないけど、でもはっきり勝てないんだ俺は、と思った。

そのまま踵を返そうとした時、男の後方から聞き覚えのある声がした。
「臣クーン!」
声の主はバタバタとこちらへ向かって駆け寄り、長身の男の背を軽く叩いた。
「買い物の帰りッスか!?今日のご飯なになに?」
「…太一」
「ん?……あ」
七尾は男の顔を見上げ、それからゆっくりとこちらへ目を向けた。

「………みのクン」
七尾の見開かれた目が俺を見つめたまま固まる。俺はこの場にそぐわず、相変わらず綺麗な色をしているな、なんてことをぼんやり考えていた。
七尾は高校の制服を着ていた。ちょうど学校が終わってここに帰ってきたところなんだろう。料理のメニューを聞くということは、やっぱりこの寮で生活をしているんだ。
「……久しぶり」
笑いかけたかったのに、思わず俯いてしまった。自分のこういうところがいちいち情けなくて、やっぱり臆病だと思う。
「…あ、久しぶりッス!えっと、いつ振りだろ…」
「帰るよ、俺」
遮るようにしてそれだけ言った。七尾に「おみくん」と呼ばれた男が、七尾の前に腕を出して、俺との間に一定の距離が保たれるよう遮っている。自分がどれだけ招かれていないかが、よくわかった。
「え、でも」
「顔見に来ただけ。元気そうで安心した。じゃあね」
軽く手を振って、俺は今度こそ踵を返した。

自分の足元を見つめながら止まらず歩き続ける。
ああ、会いに行かなければよかった。七尾、困ってただろうな。「おみくん」と呼ばれていた人も、俺のことをさぞ不審に思っていることだろう。
…もうこれで、きっと最後だ。
最後に顔が見れて良かった。新しい七尾の居場所が、あたたかいところで良かった。

後悔と名残惜しさを一緒くたに心の奥の方に押し込めて、暗くなり始めた道を進む。
今日は帰ったら求人サイトを片っ端から見て、新しいバイトを探そう。稽古に費やしていた時間は、これから丸ごとバイトの勤務時間に代わるはずだ。どんなバイトにしよう。深夜帯にシフトを入れたらきっと稼げるだろうから、掛け持ちという手も悪くないな。

MANKAIカンパニーの劇団寮から真っ直ぐ進んで最初の曲がり角に差し掛かった時、後ろから予期せぬ声がした。
「みのクン!」
俺をそう呼ぶ人は、彼しかいない。
振り返ると息を切らせた七尾がそこにいた。

「…七尾」
追いかけてこなくていいのに。さっき「これで最後だ」って、自分に言い聞かせたばかりなのに。どうして走ってくるんだよ七尾。

「…っ…はぁ、追いついた、良かった…」
「…もう、用済んだのに」
「俺っちは済んでないッス」
胸が苦しいのに、結局俺はその何倍も嬉しいんだ。俺を追ってきてくれた七尾は笑って「みのクン変わってないね」と言った。
そうだね、変わってないよ。相変わらずその笑顔が、俺は今でもずっと好きだ。

公園の中の自販機でコーラを二本買って、そのうちの一本を七尾に渡した。七尾はずいぶん嬉しそうに喜んで「俺っちコーラ大好きなんスよ!」と言った。
「そうなんだ。覚えとこ」
七尾の好きなものを選べたことが純粋に嬉しくて笑うと、七尾はもっと晴れやかな笑顔を返してきた。
「あとホットドッグとハンバーガーとピザとポテトも好きッス!」
「うん、そこまでは覚えないけど」
「あはは」

時間はもう夜に差し掛かっていた。公園には人影がない。少しペンキの禿げたベンチに並んで座り、俺たちは同時に缶のプルタブを起こした。
「…さっきの人」
「ん?」
「おみくんって人。大丈夫?怒ってんじゃないの」
俺が尋ねると七尾はブンブンと首を横に振った。
「大丈夫ッス!ちゃんと話してきたから!」
「…なんて?」
「みのクンはたくさんお世話になった人だからって!二人で話したいから行ってくるって、言ってきたッス!」
「…へえ…」
おみくんとやらは今頃、心中穏やかではないに違いない。よくあの状況から七尾を送り出したなと思った。身長だけじゃなく器もきっと大きい人なのだろう。心の片隅で「すみません」と頭を下げておいた。

「…みのクンはさあ」
七尾が俯きながら言った。
「もう、全部知ってるよね」
少しの沈黙の後俺が頷くと、短く笑ってから「そうだよね」と消え入るような声で呟いた。
「俺っち、みのクンに軽蔑されるの怖くて…嫌われたくなくて、言えなかった。…ごめんなさい」
缶を握る両手に力が入る様子を横目で盗み見た。七尾にとっては掘り返したくない過去に決まってる。俺のせいで七尾が今それを掘り返しているのだと思うと、謝りたい気持ちで胸が一杯になった。
「黙っていなくなってごめんね、みのクン」
「…俺もごめん」
「え、なにがッスか」
「今更会いにきて」
思ったままを伝えると、七尾はいつもより強い口調で俺の言葉をたしなめた。
「何でそういう事言うんスか。会えて嬉しいに決まってるじゃん」
そんな言葉が返ってくるとは思っていなくて少し面食らった。きっぱりと言い切った七尾は、なんだかあの頃より凛々しく見える。
「…うん」
コーラを煽った。ペットボトルより缶の方が美味しく感じるのはどうしてなんだろう。炭酸の刺激が喉を通り過ぎていくのが気持ちいい。
…七尾の言葉に胸が詰まって、だから無理矢理に俺は平静を装った。

「今日やめてきたんだ、俺」
「ん?なにをッスか?」
「GOD座」
七尾は驚いた顔で「え」とこぼした。
「みのクンやめちゃったんスか!?なんで!?」
「なんでって、やだったから」
「…え、ええ〜…」
けろりとした俺の様子に七尾は少し戸惑っているようだった。俺は構わず続ける。
「で、明日からバイトしまくろうと思って。金が全然ないからさ。だから、七尾たちの公演見に行けるのはだいぶ先になるかも。ごめんね」
「…みのクン、芝居やめちゃうの?」
「わかんない。どうだろ」
俺の返答に七尾は押し黙ってしまった。俺ももし逆の立場だったら、なんと返せばいいかわからなくて黙ってしまうだろうから、この沈黙は仕方ないものだ。

「…みのクン」
「ん?」
「やめないで」
その瞬間、俺は七尾の瞳に捕まる。
不思議だ。俺はその瞳があんまり綺麗で、やっぱり盗んでしまいたいと思うのに、盗まれるのは決まって俺の方なのだ。
七尾は知らない。何度お前がたくさんのものを奪っていくのか。

「……なんで?」
はぐらかすようにして笑ったら、七尾は一層真っ直ぐな瞳で「みのクンの芝居が好きだから」と答えた。
…なんだよ。何にも言わずにどこかへ行ってしまったくせに、俺が逃げようとするのは許してくれないんだ。

「俺も七尾の芝居が好きだよ」
「…」
「ずっと前から好きだった」
「…こ、答えになってないッス!」
「あはは」
こうやって笑ってみせるのも実は大変だ。たくさんの本音を散りばめた言葉を吐くのは、少しだけドキドキした。

「…みのクン、あのね」
「ん?」
鼻の頭をぽりぽりと掻きながら、七尾はポツポツと語り始めた。
「俺っちね、今までずっと苦しくて、しんどくて、それが当たり前だと思ってたんだ。GOD座はさ、すごく大きな劇団で、俺っちみたいな奴がメインに選ばれないなんて当然だし、なにかズルでもしなきゃ舞台の真ん中に立てるわけないって、ずっと思ってた」
「…」
「台本何百回読んだって、人の演技研究して真似してみたって、本当は意味なんかないのにって、ずっと思ってたんだよ。…でもね、そうじゃなかったんス」
「…ん?」
先を促すように相槌を入れると、七尾はゆっくりと続けた。
「俺、芝居が楽しかったんだ。好きだから続けられてたんだ。GOD座にいる間はずっと苦しいばっかりだった。でも意味はきっとあって、俺があの時積み上げたものは今ちゃんと自分の力になってるって思うんだ」
「うん」
「…そう思えるようになったの、MANKAIカンパニーのみんなのお陰なんス。だから俺っち、これからもこの劇団のみんなと一緒にいたい。みんなと舞台に立ちたい」
GOD座にいる時とは違う。七尾が語る世界には「みんな」がいて、その「みんな」と一緒じゃなければ叶えられない夢ができたんだ。
それは俺にとって寂しくて、でも同じくらい嬉しいことだった。七尾が真っ直ぐ咲ける場所を見つけられてよかった。たとえそこに俺がいなくても。

「…うん」
笑って頷くと、七尾も照れたように頬を染めて「へへ」と笑い返した。少し胸が痛かったけど、この笑顔を今独り占めできたから、それだけでいい。

「あ、臣クンからだ」
スマートフォンをポケットから取り出し、七尾が画面を立ち上げる。どうやらメールが届いたらしい。
「今日の晩御飯はハンバーグらしいッス!やったー!」
無邪気に笑う七尾は可愛い。「おみくん」もきっと俺と同じように、この笑顔を見る度にそう思っているんだろう。
「さっきの人が作るの?」
「そーッス!臣クンの料理やばいッスよ!マジでプロの味だから!」
「へえ、そうなんだ。俺も食べてみたい」
何気なく返した言葉だったのに、何故か七尾はしばらく考え込んでみせた。
それから数秒後、七尾はあることを提案した。
「……みのクン、うちに来るのどうッスか?」
「は?」
予想もしていなかった言葉に思わず素っ頓狂な声が漏れる。
「だって寮に入ったらお金も色々浮くだろうし!カレーの割合が多いけど美味しいご飯毎日食べられるよ!稽古もみっちりできるし、それから脚本家が団員のうちの一人なんスけど、ストーリーはいつもオリジナルだし当て書きしてくれる事もあるから、役を演じるのもメチャクチャ楽しいんス!あ、でも寮の部屋余ってないな…うーん、でもでも!監督先生に相談することはできるッス!今日にでも俺っち聞いてみよっか!?」
名案を思い付いたとでも言わんばかりの表情で七尾がまくし立てる。俺は勢いに押され話の途中に割って入るのが少し遅れてしまった。
「ちょ、ちょっと待って七尾」
「はいッス!」
なんなら鼻息まで荒い七尾は、いつもより余分に光を纏わせた瞳で俺の方を向いた。
「俺は無理だよ」
「なんでッスか!みのクンなら絶対みんなと仲良くなれるッスよ!俺っちが保証する!!」
「…」
自分の考えが最善だと信じて疑わない七尾に溜息がこぼれそうになる。そんなわけないのに、バカだな七尾。

悪気のない彼に、最後に渾身の一撃を送ってやることにした。

「…ほんとは俺、攫いに来たんだ」
「ん?」
「お前のこと攫いに来たんだよ、ずっと好きだったから」
「………え」
時が止まったかのように、七尾はこちらを見つめたまま動かない。
せいぜい驚いて。俺の積年の想いはそんなに軽くないから。

「七尾の笑った顔見てると、なんか頑張れるんだ俺。だから隣にいてよ。俺の隣で笑ってて。お願い」
七尾の瞳に街の光が映って、時たま宝石のように輝くのを俺は見つめる。こんな風に光る瞳を俺は他に知らない。
「俺と一緒に来て。お願い」
「………」
七尾の顔がじんわり赤くなっていく。パクパクと繰り返し動く口元がなんだかおかしくて、堪えきれずに小さく笑ってしまった。

「…なんつってー」
舌を出して言うと、七尾は数テンポ遅れてから「え!?」と、心底驚いた様子の声をあげた。
「な、な、なんなんスかみのクン!!」
「なにって、芝居じゃん。即興の」
「…な、なんなんスかマジで!!」
「俺の芝居好きだって言ってくれたから、お礼にと思って」
「なんなんスか!!!」
「あはは」
動揺を隠そうともしない七尾は面白くて、笑ってしまうくらい可愛い。どうしようもなく抱きしめたくなって、ああこの思いをどうやってやり過ごそうと考えた。
「メッチャ騙された!!メッチャ騙されたッス!!!」
「よかった?俺の演技」
「よくないッス、最悪ッス!!」
まだまだ顔の赤みが引かない七尾が俺を睨んで抗議する。その様子はまるで子犬が唸っているみたいで、俺は我慢できず声に出して笑った。
七尾が「ねえ怒るよ!?」と言うので「ごめんごめん」と慌てて謝る。
「は〜笑えた…」
「いや笑えないッス、最悪ッス。みのクン酷いッス」
「あはは」

俺の告白に、きっと七尾はあの瞬間、真剣に心を向き合わせてくれた。一瞬でも俺のことだけで頭をいっぱいにしてくれた。
それが凄く嬉しかったから、視界が滲みそうになるくらい本当は嬉しくてたまらなかったから、この想いはこのまま自分で持って帰ることにするよ。困らせたりしないから、安心して。

「…そろそろ行こっか」
七尾の持っていた空き缶を取って立ち上がる。自販機横のゴミ箱に缶を二つ捨てるのと同時に七尾もベンチから腰を上げた。
「…コーラご馳走様、みのクン」
まだ何か言いたげな彼に「うん」と相槌を打つと、咳払いが一つ響いただけでそれ以外は何も言われなかった。
公園を出て天鵞絨町を歩く。こうして二人で並んで歩くとまるであの頃と同じだ。稽古の日の帰り道のようだった。
ほどなくして俺たちは分岐点に差し掛かった。

「元気でね、七尾」
「…うん、みのクンも」
分かれ道で最後の言葉を交わして軽く手を振った。
またいつか会えるかはわからない。だから「またね」はやっぱり言えなかった。
振り返らないようにと心に決めて、俺は七尾に背を向け歩き出す。
最後にたくさん話せてよかった。笑った顔が見れてよかった。会いに行ってよかった。

「…みのクン!」

…ああ、もう。
振り返らないと決めたばっかりなのに。
簡単に覆る意思に自分で呆れた。でも、だって無理だ。七尾の声を振り切るなんて、俺にできるわけがない。
振り向いたら、同じ場所に突っ立ったままの七尾がこちらを見ていた。
「俺!さっき一個言いそびれてた!」
七尾が両手をスピーカーがわりにして口の横に当てる。声は驚くほど真っ直ぐ俺の元まで届いた。

「GOD座にいる時は苦しいばっかりだったって、さっき言ったけど!でも俺、みのクンといる時は楽しかった!みのクンがいたから俺、続けられたんだ!」
「……」
「ありがとうって!ずっと言いたかった!みのクンありがとう!!」

…そんなの俺だって。
伝えたい思いはどれも言葉にならず、喉の途中で引っかかる。油断したら視界が揺れてしまいそうだったから、俺はそれを食い止めるのに必死だった。

「会えてよかったッス!みのクンまたね!」
七尾が両腕を目一杯伸ばして大きく手を振る。
また会えるかわからないけど、未来のことはわからないままでもういいや。なんの疑いもなく「またね」と言ってくれた七尾に掬い上げられたから。

「うん、またね」
俺も片腕を上げて手を振ると、彼は大好きな笑顔で笑ってくれた。




◇◇◇◇◇◇




俺は大抵いつも欲しいものが手に入らないし、踏み出す一歩が遅くて間に合わないことが多い。おまけに肝心なところでビビるから、言えなかった言葉やできなかったことばかり積もって、後悔がたくさん散らばる。

いつかそんな自分を変えられたらいい。今もどこかで芝居を続けているあの人のように、笑顔の裏に沢山の努力を重ねる七尾のように、まっすぐ、ひたむきに。
その時俺は何を追いかけて、どんな夢を見ているだろう。

もしまた、芝居を続けているなら。
欲しいものは必ず手に入れる大泥棒の役でもやってみたいなと思うんだけど、どう?