01.
後ろに置いたバケツは既に山盛りになってしまったので、もう甲板にそのまま上げる事にした。ビタビタと、濡れた体を打ち付ける音がそこら中で響く。
「トービトビトビトービウオー!」
船長はえらく楽しそうだ。
無理もない。今のこの状態にコツも忍耐も必要ないからな。
船の周りをバシャバシャと跳びながら泳ぐ、途方も無い数のトビウオの群れを、俺たちはせっせと網で打ち上げるのだった。
「まだまだ働けよテメーら!こんな機会は滅多にねえからな!」
後ろから偉そうに喝を入れたのは、今夜これらを美味しく調理するであろうコックである。
俺たち船員により、まだまだ数を増やしていくトビウオを前に嬉しさを隠しきれないようだ。
喝を入れながらも、その表情はどこか嬉々としていた。
「ちょ、ちょっと俺、腕が限界で…サンジ君よ、交代なぞ…」
トビウオの大群が船を囲い出してから一時間くらい経つだろうか。
それなりの重量のある網を上げては下ろし下ろしては上げて…ひたすらその繰り返しだ。さすがにきつくなってきた。
勿論おれ以外の奴は誰も根を上げる事はなく、まだまだ力が有り余っているように見えた。
まあ、そんなもんは今に始まった事じゃないから全く気にならない。
俺は遠慮なくバトンタッチの為網を差し出した。
「ったく、しょうがねえなお前は」
サンジは溜息の後にすぐ網を持つ役を代わってくれた。
「見とけよクソッ鼻。俺の華麗な網さばきを」
…かっこつけてるつもりなんだろうか。
申し訳ないけど、サンジの飛ばしたウィンクと手に持ってる網とがミスマッチで…なんていうか、凄くシュールだ。
「………。あ、俺クーラーボックス持ってくるわ」
その場から離れようとすると、すかさずサンジに首根っこを掴まれた。
「つれねえな。隣にいろよ」
俺にだけ聞こえる声でサンジは言う。
不意打ちの台詞だったので、赤面してしまった。…大失態だ。
「おま、おま、お前な、そういう言動は謹めよ。聞かれたらどうすんだ」
「だって二人になれる時間、全然ねえんだもん」
不貞腐れた表情でそんな事言われたら…そりゃ何も言えなくなるわ!嬉しいわバカ!
「さっさと手ぇ動かせよグル眉…」
隣にいるルフィの更に奥、わざとらしい溜息と共にそう言ったのは勿論ゾロである。
「……あぁん?なんだとコラ…」
「働けっつったのお前だろ。いつも口ばっか動かしやがって…」
「っぬかしてんじゃねえぞクソ野郎!いつも寝腐る事しか脳がねえテメエに言われる筋合いねえんだよ!あと今しゃしゃってくんじゃねえ!取り込み中だバァカ!」
「取り込んでねえだろ、暇だからウソップに構ってもらってんだろ」
「…っそぉれぇを取り込んでるっつってんだよマリモオオオォォ!!」
網を放り投げ、サンジはゾロに掴みかかる。
…結局、サンジの言う「華麗な網さばき」とやらは一度も見れぬまま、俺は再び網を手にするのであった。
うーん…「二人になれる時間がない」ね…。
お前にも原因があると思うけどなぁ。
その日の夜はすこぶる豪勢だった。
メインディッシュは何十人前かと問いたくなる量のトビウオの唐揚げだ。噛んだらサクッと音がしそうな、揚げたてのトビウオがテーブルのど真ん中に山を作っていた。
「うほー!うまそー!いただきます!」
ルフィの台詞を皮切りに、みな次々と唐揚げを口に運んだ。
俺も例に漏れず、取り皿に己の分を確保しながら口に詰め、急いで咀嚼しながら箸を動かした。
「んめぇっ!こりゃ働いたかいがあったってもんだなむごふっ!おふぇっ!」
「落ち着けよ、まだまだあるんだから」
コップに水を注ぎながら、サンジは嬉しそうに言った。
ちょっと前にサンジの料理が好きだという旨を口にしたら(言おうと思って言った訳じゃねえけど)、首傾げるほど喜ばれた事がある。
こいつにとって一番嬉しい言葉って、きっとこれなんだよなあ。
「お、見ろよこれ。変なヒレ!」
俺の箸の先に偶然つままれたトビウオは、他のとは違ってヒレがギザギザになっていた。
「ほら、サン」
「ん」
サンジは箸を持っている俺の手ごと掴み、ギザギザのトビウオを強引に自分の口へ運んだ。
「うん、うめえ」
にかっと笑うその顔は最高に良いんだけど、あの、場をわきまえないかい、サンジ君。
俺はキョロキョロと周りを素早く見渡し、俺たちを注視している輩がいないか確認した。
特にナミは勘が良い。もしこれをキッカケに気付かれでもしたら…恐ろしい。一生、それをネタに脅迫され続けるだろう。
幸い、唐揚げの山が死角となってくれていた。
男共は勿論食事に夢中である。俺はほっと一息ついた。
「サ、サンジ君よ。こういった行動は公共の場では慎みたまえ」
「へへ」
あ~だめだ聞いてねえわコレ。料理の事褒めるとネジ取れるんだったコイツ。
しまりのないその笑顔も、くっそう…やっぱり最高に良いぞバカモノ。でも絶対言わねえぞコノヤロウ。
つられて口元が緩まないように、俺は引き続きトビウオを口に運び続けた。
翌朝。
目を覚ますと、とても珍しい事に俺が一番早起きだった。
いつもだったらとっくにキッチンで準備を始めているはずのサンジが、まだ床で毛布にくるまって眠っている。
「ん~…起こしてやるかね…」
盛大な欠伸をしてからサンジの元へ向かう。
まだ重たい瞼を擦りながら、俺はサンジの肩をゆっくりと揺すってやった。
「朝だぞーう。起きろい」
「…ん~…」
「飯の準備、大丈夫か?」
「…頭…クソいてぇ…」
サンジはこめかみを抑えながら、だるそうに呟いた。
昨夜、酒でも飲んだのだろうかと疑問に思っていたら、サンジは俺を見るなり変な顔をした。
「………てめえ、誰だ」
「はぁ?」
朝っぱらから予想外の冗談をかまされ若干腹が立つ。
この野郎、眠い目こすってわざわざ起こしてやってんのに。
「んな事言ってる暇あんのかお前。そろそろ他の奴も起き…」
「誰だっつってんだよオロすぞクソ野郎」
サンジは先ほどまでのダルさが嘘だったかのように素早く立ち上がり、眉間に縦皺を寄せた。
「…は?」
冗談、じゃなさそうだぞこれ。足を構えている。俺を本気で蹴るつもりだ。
「ね、寝ぼけてんのか!?なんなんだよ急に!」
「答える気ぃねえって事は、オロされてえって事だな。あの世でクソ後悔しろ」
「ちょ、ちょ!笑えねえから!!や…やめてください!!」
涙目になり懇願するが、サンジは構わず足を真っ直ぐ振り上げた。
ヤバイヤバイヤバイ死ぬ。
俺は咄嗟に両手で頭を守った。サンジの蹴りの威力の前では、そんなの全く意味がないというのに。
足が降りてくる軌道を薄目で見た。
嗚呼死ぬ。死んだ。
訳も分からないまま、何故だか俺は両思いになってホヤホヤの嬉し恥ずかし初めての恋人に、こんな突然、理不尽に蹴り殺され………って、あれ、痛くない。
そっと目を開けると、ルフィの伸びた片腕とゾロの鞘に収められた刀が、サンジの足を抑えつけていた。
「サンジ!男部屋で喧嘩すんなってナミに言われただろ!」
「朝からうるせえ」
ルフィとゾロの台詞を聞き終えたサンジは大人しく足を下げた。
そしてチラと俺の方に視線を向けた後「…なんだ?テメエらの知り合いか?」と尋ねた。
「…」
「…」
「なんだよその顔。驚いてんのはこっちだっつうんだ。ちゃんと説明しろよ」
ルフィとゾロは顔を見合わせ、最後に二人して俺へ視線をよこした。まるでなぞなぞの答えを求めるかのように。
「…いや…俺にも、何が何だか…」
俺の引きつった笑い声が男部屋に響く。
その数秒後、沈黙を打ち破りルフィが元気よく「ウソップだ!俺たちの仲間だろ!」とサンジに言った。
異様な空気をものともしないその勇敢さ。さすが我らが船長、と拍手したいところだが、状況は全く好転しなかった。
「だから誰だよ」
サンジの一言に、誰もが言葉を失くす。
俺には、はっきりと分かる。サンジは寝ぼけてない。冗談を言ってる訳でもない。
…だって昨日までのサンジとは別人なんじゃねえかと思うほど、俺に向ける眼差しが他人行儀なのだ。
その目に見つめられて、俺は背筋が凍るような感覚を覚えた。
02.
ブットビウオ。
全く、ふざけた名前である。名付けた奴出てこい小突いてやるから。
「ここ見てくれ。この症状で間違いないと思うんだ」
チョッパーが殊更分厚い生物図鑑を開き、あるページを指差した。
甲板に集まった俺たちはチョッパーを囲むようにしてそのぺージを覗いた。
ブットビウオという学名がつけられたその魚は、確かに昨日唐揚げとして食べたトビウオとよく似ている。
「えーと…「群れで生活する。稀にヒレの形が他と異なる者がいる。その確率は2万分の一」…」
チョッパーに読み上げられた文章を聞きながら「あ」と、思わず声が出た。
「?なんだウソップ」
「いや、そういや昨夜サンジの奴が食ってたなと思って。…ギザギザのヒレのやつ」
「じゃ、間違いないな。「万が一そのヒレを持つトビウオを口にした場合は、微弱ではあるが脳神経を刺激するとされている。起こり得る症状は記憶障害が主である。」だって」
「…記憶障害…」
今朝、俺に向けられたサンジの目を思い出し、ゾッとする。
何でよりによって、俺の事だけスコーンと忘れてしまったのか。器用過ぎるだろ大馬鹿野郎。
「時間が経ったら戻るの?」
背後に立っていたナミが俺の肩に両手を乗せ、チョッパーに尋ねた。
「戻るみたいだけど、ん~…実例が幾つか載ってて…期間は結構バラバラみたいだ」
「な、長くて、どの位の期間だ?」
恐る恐る尋ねると、チョッパーは図鑑から目を離さぬまま「三年だって」と答えた。
「…さ、さん…」
三年。気が遠くなりそうだった。
だって三年って、出会ってから今日までの時間の方が、遥かに短いじゃねえか。
色んなスッタモンダを乗り越えて、やっと両思いになれたのに。今までサンジから貰った沢山のものをやっと、これから返していけるって思ったのに。
…なんでこんな、突然…。
「大丈夫、あいつはすぐ思い出すよ」
ルフィが立ち上がり、いつもと変わらない調子で言った。
気休めとか慰めじゃなくて、本心からそう言ってるんだとすぐに分かった。
「ま、うるせえ奴に絡まれる機会が減るんだ。しばらくはゆっくり出来るぜウソップ」
チョッパーを挟んで向こう側にいるゾロが、笑いながら言った。
俺を励ます為というより「役得だな」という本音が聞こえてきそうな笑顔だ。
「…そうだな」
二人の言葉に頷きながら、俺、今ちゃんと笑えてるかな、と不安になった。
上の空だ。誰のどの言葉も、聞こえてはいるのに頭の中に入ってこない。
サンジの記憶が、何年も戻らなかったら…俺はこの気持ちをどうしたらいい?
リセットしろってか?無かった事にしろって?
出来る訳がない。
気のいい仲間として接しながら自分の気持ちを殺し続けるなんて、絶対に同時には出来ない。
どうしよう。…どうしたらいい?
悔しいよ、こんな時一番に聞きに行きたい相手は、お前だっていうのにさ。
「っはー!お待たせナミさん!モーニングの完成だよ~!」
キッチンのドアを開け、いつもと同じ調子でサンジが目をハートにしながらナミの名を呼んだ。
「ついでに野郎共、てめえらも食え!」
何一つ変わらない。俺の事を忘れているという事以外は、本当に何も。
「…っ…」
慌てて下を向いた。こんな簡単に、泣きそうになるなんて。
『泣きたくなったら誰の所に行くんだっけ?』
サンジの言葉を思い出し、唇を力一杯噛んだ。
テメエの所だよ。忘れてんじゃねえぞアホ眉毛。
「だからその時冷蔵庫の鍵を針金で開けたのがウソップなんだって!」
朝食をたらふく食った後、食器を片すサンジに熱心に話しかけているのはルフィだ。
「あぁん?ふざけんなよクソゴム、お前が力技で壊しやがっただろうが」
「ちげぇよ!どうなってんだよサンジの頭!!」
「あぁ?俺の頭はいたってまともだコラ」
ルフィは先程から思い出せる限りの、俺が登場するエピソードを掘り起こしている。
パチンコの微調整をしつつ、背中で二人の会話を聞いている俺は「なるほど」と思った。
俺が少しでも関わっていた出来事は、サンジの中で都合良く改変されているようだった。
前後の辻褄が合うように、俺がした行動、発した言葉は、別の誰かのものにすり替わっているのだ。
…ほんと、どんだけ器用なんだハリ倒すぞ。
先程から嘘つき扱いされてイライラしてきたのか、ルフィはいよいよ「サンジ、お前バカだ!」とキッパリ宣言してのけた。
「んだと、こんのやろ…」
…やばい。本気でイラついた時の声だぞこりゃ。
振り向きたくねえけどこういう時に止めるの誰って、俺しかいねえもんなぁ…。
「ストップストーップ!」
両方の手のひらを二人に向け、俺は続けた。
「ルフィ、こりゃ説明してどうにかなる問題でもねえよ。だってサンジは「忘れてる」とさえ思ってねえんだから」
「じゃ、どうすんだ!」
「…うーん」
サンジの方を見ようか迷って、結局やめた。
また今朝のような目をされるのは、心底しんどい。
言いたくもない、あてにならない言葉しか思いつかなくて、自分の口からそれを言うのはとても嫌だったのに。
でもこの台詞は、俺が笑いながら言わないと意味が無いんだよな。
「どうにかなるって」
ちゃんと、笑って言えた自分を、本当に偉いと思った。
午後。
船首にカモメがとまっていたので、久しぶりにスケッチをした。何も考えたくないので、殊更集中してやった。
あの後、笑って言った俺に対し、サンジが「…だとよ」と追い討ちをかけてきたので、トイレに行く振りをしてキッチンを飛び出した。
きっとこれから、山のようにあるだろうに、こんな事。
どうしても堪えきれず視界が滲んでしまった。…お先真っ暗だ。
カモメの翼の部分を細かく描写していると、後ろから「よお」と声をかけられた。
サンジが、すぐ後ろに立っていた。
ああ、その声も姿も昨日までと何一つ変わりないのに。
…やっぱり、どうしたって違うのだ。俺に向けるその目だけが、どうしても。
「………」
はじめまして、とか、言うべきなのだろうか。
嘘つきでやらせてもらってます、改めましてここは一つ、宜しく頼みます。とか、言ったら良いんだろうか。
「あー…ウソップ、だったか?名前」
先に言葉を発したのはサンジだった。
煙草に火を点け、俺にチラと視線を送る。
「…おう」
「俺はサンジだ」
「…知ってる」
「そっか…そうだったな」
俺にとっては「忘れられてる」という状況だけど、サンジからしてみりゃ「初対面」なんだよな。
どんな距離感で話せばいいのか、探っているのだろう。
「…自己紹介、してやろうか?」
「おお、頼むわ」
自分で言って後悔した。面白おかしく話せる元気があまりない。
「俺はウソップ。又の名をキャプテン・ウソップだ。部下は八千人ほどいたんだがな、ルフィにどうしてもと頼み込まれたんで、まあ仕方なく、この船に乗ってやったって訳だ」
「…あぁ?」
「夢は勇敢な海の戦士になる事。狙撃の腕はこの海一。趣味は発明。あ、それから俺に本気の喧嘩は売らない事だ。血を見る事になる」
「言ってくれんじゃねえか…誰の血だよ?」
「俺だ」
サンジは一瞬目を見開き、その数秒後に「お前かよ!」と突っ込んだ。
…やっと、やっとだ。
やっと今日初めて、俺に笑った顔を見せてくれた。
「ハッハッハ!クソおもしれえなお前」
「そりゃ良かった」
俺が笑い返すと、サンジは安心した様子で煙草の煙を吐き出した。
「ま、面倒かける事になるけど宜しく頼むぜ」
「おうよ」
俺の返事を聞き満足したのか、サンジは再びキッチンに戻っていった。
その背中を見送る途中で「あ」と思い出したように上を向き、俺の方へ振り返ると「コーヒーいるか?」と尋ねてきた。
「…うん」
「あ~…悪い、好み知らねえや。ブラックか?」
「…いや。ミルクも砂糖もタップリ」
俺の返答に「チョッパーと一緒だな」と笑って、今度こそキッチンへ戻っていった。
俺はまた、スケッチを続ける。
とっくのとうに船首から飛びたってしまったカモメを、何とか記憶に頼って描き進める…振りをした。
描きかけのスケッチがポタポタと濡れていく。
止まれ止まれと心の中で何度唱えても、全く意味がなかった。
コーヒー淹れたらあいつはまた、ここに戻って来てしまうんだから。それまでには止まれよ。いいか絶対だぞ。
声を必死で殺しながら、笑顔を見れた安堵感で泣けた。
いつまでこのままなんだろうという不安で更に涙が流れた。
何で忘れちまうんだよ。どうして、よりによって俺のことだけを。
好み知らねえだと。ふざけやがって。
お前、俺に何百杯淹れてくれたと思ってんだよ。
思い出というものは、誰かと共に振り返るからこそきちんと胸の中に降り積もるんだ。
俺が一人覚えていても意味がない。
何もないのと一緒だよ、なあサンジ。
03.
サンジが記憶障害を引き起こしてから数日経った。
人の適応能力とは凄いもので、俺はこの状況に段々と慣れてきている。
その証拠に、初日に抱いていた絶望は驚く程薄まってくれていた。
一番の理由は、サンジが他の仲間と同じように俺に接してくれるようになったからだ。
もう冗談だって言い合えるし、屈託のない笑顔を見る事だって出来る。
時折、口をついて出た思い出話が噛み合わなくて無駄に傷付いてしまったりもするが、それを除けばいたって平穏だ。
「なぁーんか拍子抜けだわ。もっと日常に支障きたすのかと思ってたのに」
ナミが、他のクルーより一回り大きいショートケーキを食べながら言った。
「なんだよ、そのつまんなそうな言い方」
俺もケーキを口に運びなから言い返した。
サンジのおやつは、今日もすこぶる美味しい。
「だって、最初泣きそうな顔してたじゃないアンタ」
ナミにチラリと視線を向けられ、思わず「う」と声に出てしまった。
…あ~やだやだ、観察眼の鋭い奴って。ホントに何見られてても不思議じゃねえな…。
「そ、そりゃあだってお前。ずっと一緒にやってきた仲間に忘れられたら、俺様だって多少は傷つくだろ」
「…ふーん…」
まるで納得していない様子で、こちらを見つめる 。
心の内を読まれないよう、俺は目の前のケーキの味に集中する事にした。
「まあ良かったじゃない?忘れたのがサンジ君の方で」
「?どういう意味だよ」
「言葉のまんまよ。逆だったら手つけられなさそう」
ナミがいたずらっぽく笑った。
「忘れたのがアンタだったら、きっとサンジ君、ショックで寝込んじゃうわよ」
「寝込むって、どんだけナイーブだよあいつ」
「この船で一番、そういう事に凹みそうじゃない?」
ナミの言葉を聞きながら想像する。
もし、俺がサンジの事だけを全部忘れたら。…頭の中で上手く思い描けなかった。
だってサンジの事を丸ごと忘れるなんてさ、なんかさ、それってもはや俺じゃねえ気がする。
「寝込む前に「思い出せ」ってブチギレされて、脳天蹴られそうだ」
「あはは言えてる。まずキレるわね。で、ひとしきりキレてから今度は全力で落ち込んでそう」
すこぶる面倒臭い奴だとため息まじりに言ったら、ナミが小さく笑った。
「…でもアンタは、何でもない振りしたがるから、もっと厄介ね」
伏せ目がちのナミが言う。
ケーキの最後の一口を口に運ぶその動作を見ながら「どういう意図だろう」と思った。独り言のようなトーンだったので、問いはしなかったけど。
「んっナミさ~ん!ケーキもう一切れありますからね!おかわりするかい??」
他の船員達への給仕が終わったのだろう、サンジがキッチンに戻ってきた。
「…出た出た。面倒臭い奴」
ナミの台詞にサンジは首を傾げた。
「ん?」
「何でもない。おかわりは大丈夫よ。私、ちょっと雲の様子見てくるから」
食べかけのケーキが乗った皿を片手に持ち、ナミはキッチンを後にしようとする。
「え~ナミさん、行っちゃうのかい?」
サンジが軽く引き止めるが、ナミは手をヒラヒラとしてみせるだけだった。
「あ、そうだ」
ナミが扉を閉める前に言った。
「アンタ達、ブットビウオで忘れる記憶が「その人にとってどういうものか」知ってる?」
「…?」
ナミの問いかけに俺もサンジも首を横に振った。
「ま、噂ってだけで正確な情報でもないみたいだけどね。…でも私は合ってると思うの」
「なんだよ?」
俺が答えをせがむと、ナミは笑いながら「サンジ君が思い出したら教えてあげる」と言った。
今度こそナミは扉を閉めていった。
不可解なナミの言動に、俺もサンジも肩をすくめた。
「?なんだろうな。は~それにしてもナミさんは美しいぜ。つれないところがまた、こう、グッと…」
「へえへえ」
適当に返すとサンジはギロと俺を睨んだ。
「そういやお前…何だかナミさんと仲がよろしいじゃねえか。…もしかして…」
「ねえよ」
サンジの台詞を途中で遮り、最後の一口に残しておいた苺を頬張った。
程よい酸味が口の中に広がり、全く最後まで本当に美味しい。
「ふう、ならいい。回答次第によっちゃ今テメエ生きてねえからな」
本気にもとれる冗談を言いながらサンジは笑った。
胸がザワザワする。
本当は全部覚えてて、俺をわざと傷付けるためにこんな事を言ってくるんじゃねえのかと、疑いたくなる。
「…サンジは、ナミが好きなのか?」
俺の問いに、サンジはケロリと「当たり前だろ」と答えた。
「ナミさんほど可愛くて聡明で素敵なレディはなかなかいないぜ?逆に普通にしてられるテメエらがおかしい」
「…ほんとに好きなのか聞いてんだよ」
「あ?だからそう言ってんだろ」
「本気かどうかって聞いてんだよ!」
ここまでして、俺はやっと我にかえった。
サンジは少し驚いた様子で、俺をじっと見つめている。
やっちまった。今のは絶対に不自然だった。
でも、だってこいつが、あまりに鼻の下伸ばしてナミへの想いを語るもんだから…。
…ああそうか、これを嫉妬って言うんだな。なんて面倒な感情なんだろう。
「…悪い、なんでもない」
「なんだぁ?クソ怪しいぞテメエ」
サンジが俺の顔を覗き込む。
「もしかして…あれか?俺とお前は恋のライバルってことか?勿論受けて立つぞ鼻野郎」
煙草をビシと俺に向け不敵に笑うこの男の、俺は一体何処に惚れたんだっけかなあ。
いつも勘違いしてばっかりで、デリカシーがなくて、タイミング悪くて、子供みたいに我が儘で…。
あ、やばい視界が滲んできた。
「………馬鹿野郎」
「あん?なんだって?」
俯いたまま小さく零した精一杯の悪態は、やっぱりサンジの耳まで届かなかった。…しっかり聞き耳立てとけよ、馬鹿野郎。
滲む涙を振り切って、勢いよく顔を上げた。
「お前とだけはライバルになれねーから安心しろアホコック!!」
乱暴に席を立ち、そのままキッチンから出るためドアノブに手をかけた。
背中に投げられた「どういう意味だよクソッ鼻」という台詞は、悪いが無視だ。
ガチャリとドアを開けた瞬間、ノブを握る俺の左手をサンジが咄嗟に掴んだ。
こなくそと振り切るが、サンジの手は全く離れる様子がなかった。それどころか力は強まる一方で手首の骨が折れるんじゃと思うくらいだ。
「いってぇな!離せよ!」
「急に態度変えすぎだろ。なんなんだよ」
「なんでもねえし態度も変わってねえ!」
「クソうるせえな、んなデカイ声出さなくても聞こえてんだよクソッ鼻!」
「クソクソうるせえのはお前だろ!このクソ眉毛!!」
「………あぁん?」
あ、本気でキレた時の声だ。思わず背筋がシャキンと伸びた。
サンジが俺に本気でキレるなんて、今まであったかな?思い出せねぇなあ。
俺に好きだと言ってくれてからのお前ときたら、そりゃもう優しかったしエコヒイキだってたくさんしてくれて、些細な喧嘩はすれどそこに本気の怒りなんてなかったもんな。
特別扱いされてたし、甘やかされてたし…大事にされてるなぁ俺って、自惚れたりしてたんだぜ?
…そんなさあ、ゾロに凄む時みたいな声を俺なんかに出してさぁ。力で勝てる訳ない俺に、マジで腹なんか立てちゃって。恥ずかしくねえのかよ。
「………」
サンジが、続く筈だったであろう罵声やら暴言やらの類の言葉を言えずにいた。
腕を掴まれたままの俺は、ああここからどうやって状況を立て直そうかなあと、やけに冷めた思考で考えている。
絶対出るなと食い止めていた涙がポロとこぼれてしまって、その最初の一滴が目頭から滑り落ちてからは、もう堰を切ったようにダラダラと溢れ出てしまった。
「止まれ」よりも「あーあ」という俺の声が頭の中で響く。
何をどう言ったって、今ここで俺が泣いてしまった事を「自然な事」にはできない。適当な嘘や誤魔化しも全く思い浮かばない。
本当に「あーあ」としか言いようがない。
「…はぁ?」
サンジが大袈裟に首を傾げた。本当に心の底から意味が分からんって顔だ。
語尾をグッと持ち上げて言ったサンジに、俺はとても腹が立った。
はぁ?って、言いたいのは俺の方だよ馬鹿野郎。
忘れられて傷付けられて泣かされて、挙句の果てにそれら全部自覚がねえときたもんだ。
言っておくがな、今この場に、記憶障害なんか起こしてない本当のお前がいたら、お前、マジで蹴り殺されてるぞ。
「ウソップに何してくれてんだクソ野郎」とか言いながら青筋立てるんだ、あいつの事だから。
…今目の前にいるサンジが、サンジと同じ外見をした別人だったら良いのに。
アホみたいな事を考えてそのアホさに我ながら呆れた。
「…なんで泣いてんだテメエは…」
「…何でだろうな。はぁ…」
「なんだよ、何ウンザリしてんだ」
「…はは…」
大好きな恋人に忘れられて辛いんだよ。そんだけだよ。
でもどうしても俺は、この男にその事実を告げる気になれなかった。
言ったとしたってお前きっと「嘘だろ?」って、半笑いで聞き返してくんだろ?気持ち悪いとさえ思うのかもな。
…言える訳ねえよ。
お前のそんな表情を見てしまったら、いよいよ悲しさで息絶える自信がある。
「何も聞かないでくんねえかな…」
「は?お前そりゃ…」
「頼むよ」
涙を止められないまま頭を下げた。
そのせいで涙が数滴、床に落ちて吸い込まれていった。
視界の先にあるサンジの両足を見ながら、もういいやと思った。
思い出してもらいたいとか、何で俺の事だけ忘れちまうんだとか、もうそういう事は一切思わないようにしよう。
この男を、お前だと思うのをやめるよ。
泣きたくなったらそうやってシャットアウトしちまおう。簡単だ。
泣くのを我慢して誤魔化すよりは、きっと遥かに。
「………っあ~~~納得いかねぇ!!」
顔を上げると、苛立ちに抗う事なくサンジは頭を乱暴に掻いていた。
「全然意味分かんねえし!クソ気になるけど!…頭下げる程言いたくねえなら仕方ねえ」
サンジは煙草を口に咥え、ライターをポケットから出しながら「分かった、もう聞かねえよ」と言った。
「…じゃあ、そういう事で」
聞かないでくれてありがとう、とは、どうしても言えなかった。さすがの俺も、それを言うのは、悔しくて悔しくて…出来ねえよ。
涙で濡れた頬を両手でざっと拭い、勢いよく鼻水を啜った。
頭が痛い。これだから泣くのは嫌なんだ。体の内側から力を奪われる。
「………俺が全部思い出したら、このクソみてえに訳分かんねえ状況も納得出来んのか」
サンジの問いに「ああ十中八九な」と力なく答えた。
「ふうん、あっそ」
サンジは機嫌の悪さを隠せない様子で、ブハァと煙草の煙を吐きながらそれだけ言った。
右を向いてそう言ったので、サンジの表情は髪に隠れて読み取れなかった。
「俺とだけは恋のライバルになれねぇっつったな、あのクソ意味不明な発言もしっかり覚えとくからな」
何が覚えとくだばぁか、人の事綺麗サッパリ忘れてやがるくせに。…とは言わないでおいた。
言わない代わりにそっぽを向いたままのサンジへ今世紀最大のガンを飛ばした。
なあサンジ。お前が思い出してくれる日を待ちながら、俺はあと何回こんな思いをしなきゃならねえんだろう。
好きな気持ちも涙も、本当ならお前が「隠すな」って言ってくれそうなもの達に、全部蓋をして。
しんどいよ。広い海の上で一人ぼっちの気分だ。