正直なところ、もう限界だった。太一とスキンシップを取る度、みんなに隠れてキスをする度、声を殺して舌を繋ぐ度。息が荒くなって、手は自然と太一の服の中をまさぐる。泳ぐように滑らかに動く。下半身に熱が集まっていくのを感じる。そうして太一が一際かわいい声色で「臣クン」と、俺の名前を縋るように呼ぶ瞬間、自分では制御できない何かのスイッチが、勝手に、簡単に、入ってしまう。
太一の中に入りたい。体を繋げたい。欲望は自らの腹の中、ずいぶん前から煮えたぎるような温度でグツグツと沸いていた。
「…臣クン」
自室で学校の課題に取り組んでいた太一がどこかの問題でつまづいてしまったのか、デスクに座っている俺を申し訳なさそうに呼んだ。
「うん?」
「…助けてほしいッス…」
イスを少し回転させ、俺は太一の方へ体を向け笑う。
「ああいいよ。もちろん」
快諾のための笑顔じゃない。物言いがあんまり可愛くて思わず笑ってしまったのだ。太一は安心したように息を吐いて「あのね、ここ」と、テキストのある部分を指差しながら言った。
「うん?どこ?」
イスから立ち上がり太一の元まで向かう。ローテーブルに胡座の姿勢で課題をする彼の隣に腰を下ろして、俺もテキストに目を通した。
「この問題のさ、文の意味がそもそもよく分かんないんス」
「うん?…ああ確かにちょっとややこしいかもな。…うん、でも多分ここの値のことを聞いてるんだと思う」
テーブルの上に転がっていたペンの内の一つを取り、問題の文章をなぞったり単語を囲ったりしながら太一に伝える。隣でうんうんと頷きながら、太一は俺の説明を理解することに全神経を注いでいるようだった。
「こういう式にすればいいってこと?」
「そうそう」
「そっか!やってみるッス!」
太一が式を走り書きして、それから姿勢を正し式を解こうとペンを動かす。彼の懸命な様子を俺は黙って見守った。
「こうで…こうして…こうなって…」
「うんうん」
「こうか!」
「うん、そうだな」
「すごいッス!臣クン教えるのホント上手い!」
「はは、ありがとな。太一の聞き方が上手いからだよ」
笑ってそう言うと、もっと嬉しそうな顔で笑い返される。だから俺も一層嬉しくなって、堪らず彼の頭を撫でてしまうのだ。
「えへへ~」
太一を、本当に愛しく思う。心からかわいいと思う。日常の中、ささいな瞬間に毎度そう思うのだから困ったもんだ。
それから30分ほどかけて太一は課題を一通り終わらせた。「お疲れ様、頑張ったな」と声をかけると、太一はとびきりの笑顔で「ありがとう!」と言った。
「臣クンのお陰だよ。今度なんかお礼させてッス」
太一が安堵の表情で俺に寄り掛かかるので、その肩を抱いて頬にキスをした。「ひひ」と笑って彼も俺の頬に軽く唇を当てる。愛しくて堪らなくなり、だから今度は頬ではなく唇にキスをした。唇が重なる感触も、離した後に間近で見える太一の瞳も好きだ。太一も同じように感じていてくれたら嬉しい。
「…お礼か…じゃあ本当にお願いしようかな」
「え、うん!なになに?」
「何言っても驚かないか?」
俺が試すように尋ねると、太一は少し狼狽えて「え…」とこぼした。その正直な反応にまた俺は小さく笑う。
「う、わ、わかんない…すごいこと?」
「うーん」
「どんな系?痛いとか怖いとか…?」
「…あー…痛いし怖いかもしれないな…」
斜め上に見上げ顎をさすりながら答えると、太一が「ひぇ…」と言った。
「お、俺っち狂狼には太刀打ち出来ないッスよ…」
「あはは。太一いまどんなこと想像してるんだ?」
「え、新しく編み出したプロレス技の相手役とか…」
「あはは。うーん、違うなあ」
見当もつかないといった表情でこちらを見つめる太一の、無防備な耳に唇を寄せる。
「…二人でホテル、行ってみたいな」
俺の囁きに太一の肩が僅かに震えた。内容にではなく息に、物理的に反応したのだろう。それから数秒後、太一はちゃんと言葉の意味を汲み取って頬を赤くした。
「…ホ、ホテル」
「うん、ホテル」
「…ご、ご休憩とかある方の」
「そう、ご休憩とかある方の」
「…ラ、ラブが付く方の」
「うん、ラブが付く方の」
太一の言葉を一つずつ頷きながら復唱すると、彼はますます顔を赤くして俺の顔をじっと見た。
「…ま、マジッスか…」
「うん、マジだよ」
「…お、俺っち何にも…わ、わかんないッスけど…」
「はは。太一が何でもわかってたら嫌だな」
「そ、そっか…」
「うん」
「…ひょ、ひょえぇ…」
そして顔を両手で覆い黙り込んだかと思うと、指の隙間からチラリと目を覗かせて、盗み見るように俺の方へ視線を寄せた。
「………行く…」
顔を覆ったまま太一が、消え入りそうな声でそう言う。承諾の返事に嬉しくなり、俺は彼の体を引き寄せて腕の中に優しくしまった。
「本当に?嬉しい」
「う、うん…」
「楽しみだな」
「ひょええぇ…やべえぇ…」
かわいい顔を未だ隠している手の、甲にキスをしてやる。すると太一はゆっくりとその手を下ろしてようやく素顔を見せてくれた。キッと上がった眉尻から、決意のようなものを感じる。
「お、臣クン!俺っち!頑張るッスよ!」
笑いながら「俺も頑張るよ」と返すと「臣クンは小舟に乗ったつもりで構えててほしいッス」と言われた。本当にお前はいつも、おかしくて愛らしいことを言う。
「大船じゃないのか?」
「大船は、だってちょっと、その…。ちっちゃいボートくらいのやつ想像してて…」
「あはは」
俺を笑わせるのも、胸を打つのも、鼓動を鳴らすのも。いつだってそれは彼から放たれる言葉なのだ。ああ、太一が好きでたまらないな。愛しさは出会ってからずっと、増えていく一方だよ。
それから俺たちは二人で一緒に、いつどこのホテルに行くかを話しあった。日にちは明後日の土曜日、珍しく夕方まで稽古もミーティングもない休日だ。朝食を食べた後、午前中にバイクで出発すると言う流れに決まった。ホテルは天鵞絨駅と同じ沿線、数駅先にある××と言う大きな街にあるホテルにした。一泊したいところだが、外泊は難しいだろうから(一番のネックは左京さんである。過去に前科があるので許しを乞うのは無理だろう)休憩を利用する。
太一が、寮を出て行く時誰に声をかけられてもいいようにと色々なパターンの受け答えの練習を始めるから、俺も笑いながらそれに付き合った。そういうところが妙に気になるらしい、面白い。
「…どんな感じかな…ホテル…」
それから夜が深まってからも太一はベッドの中、緊張と興奮で眠れないのか思いつく疑問や不安をポツポツと俺に投げかけ続けた。
「うーん、どうだろう。広いといいけどな」
「ってか、男二人で入る時ってどうやって入ればいいんだろ?俺っち変装した方がいい?ちょっと時間ズラして入るとかした方がいい?」
「んー…。普通に二人で一緒に入って大丈夫だと思うぞ」
「受付の人とかいる?先払いッスかね?入る前になんか飲み物とか買っておいた方がいいよね?」
「あー…どうかな。無人のところもあるからなあ」
「む、無人!」
「あと、喉が渇いたら部屋から注文すれば良いんじゃないか?」
「へ、部屋から!」
太一は一つ一つに驚いて、それからブツブツと独り言を話し始めた。そういった彼の様子をベッド越しに伺うのは面白いが、いかんせん、もう夜中の2時だ。夜更かしもほどほどにしないと朝が辛くなってしまう。
「太一、そろそろ寝ようか。また明日話そう」
「はっ、そ、そうだね…うん、そうするッス」
「おやすみ太一」
「おやすみ臣クン」
それから俺は緩やかにやって来る眠気を受け入れ目を瞑った。
翌朝、いつものように6時のアラームで俺は目を覚ます。まだ重たい瞼をこすって上体を起こし、太一が眠っている筈のベッドを見た。普段は7時過ぎまで寝ている太一だが、今朝は珍しいことにもうベッドから降りて制服を着ていた。
「あ、臣クンおはよう!」
「うん…。太一、今日はずいぶん早いな」
ゆっくりと梯子を降りて太一の顔を見る。なんだか少し目が充血しているように見えた。
「…太一、あの後ちゃんと眠れたか?目が赤い気がするんだが…」
俺の問いに太一は少し困った顔をして、肩をすくめてみせた。
「えへ、ちょっと夜更かししちゃったッス」
「大丈夫か?もしかして一睡も寝てないんじゃ…」
「大丈夫!メッチャ元気!あんま寝れなかったぶん今日いっぱい寝るし!」
俺の心配を吹き飛ばすように笑って、太一は肩周りをグルリと回しながら「今日の朝ごはんは何かなー!」と言った。
本当に大丈夫だろうか。学校の授業中に眠りこけてしまうかもしれないし、体育の授業中に倒れてしまったりするかもしれない。過保護と周りは思うだろうが、太一のこととなると心配になってしまう。そうじゃなくたって明日体力を使うだろうし、多少は無理もさせてしまうかもしれないのに。
そんなことを考えながら朝食をとる太一を注視していたが、やはり太一は美味しそうに俺の作ったベーコンハムエッグとサラダを平らげるだけだった。出掛ける時「くれぐれも無理はするなよ」と声を掛けたが「お母さんみたい!」と笑って軽く流されてしまった。俺の杞憂に終わることを願いながら、行ってらっしゃいと頭を撫でて太一を送り出す。
まあ、太一は俺より若いしスタミナもあるしな。一晩くらいの寝不足なんてどうとでもなるのかもしれない。
その日は大学が終わった後薬局に寄り、必要なものを買い揃えることにした。コンドームとローション、それから念のため、イチジク浣腸も。
「……」
特に馴染みのないそれをまじまじと見る。パッケージ裏面の説明を読みながら、これを前にした太一の反応を想像してみる。これにはさすがに彼も怯えて首を横に振るかもしれないので、まあ、使わないかもしれないことを念頭に置いておく。
太一は自分だけが右も左も分かっていない、と思っているのかもしれないが、俺だって同性と行為をするのは初めてだ。そりゃあ緊張もするし、果たして上手く出来るのかという不安だってある。太一を気持ち良くさせてやれるだろうか。辛い思い出にさせてしまうようなことは、本当にないだろうか。
今まで何回か、感情の波に流され勢い任せに誘ったことがある。その度に太一は必ず頷いて、少しの不安と期待に目を潤ませながら俺に身を任せてくれた。けれど、未だ太一と俺は繋がったことがない。寮では必ずと言っていいほど邪魔が入るし、外出先ですら呼び出しを食らって未遂に終わってしまった過去がある。
俺は、何としても次のステップに進みたかった。いつか一つになる為の大きな一歩を一緒に、もういい加減、超えてしまいたいのだ。
擦り合ったり自慰を手伝うような形でお互いに達したことはあっても、太一の後ろについては実はまだ一度も触れたことがない。言わば未開の地なのである。
…今回は、今回こそは。最後まで出来なくてもいい、上手く挿入できなくても構わない。何としても太一の後ろに、触れたい。あわよくば舐めたいし、指を入れて気持ちいいところを探し当てたい。瞼の裏に思い描く太一は短い声を何度もあげて、涎を垂らしながら腰を震わせる。時折俺の名を呼んでは「だめ」と「気持ちいい」を交互に繰り返す。俺の指が前立腺を探し当てて責め立てるようにそこばかり刺激してやれば、泣きながら声を上げて、シーツにしがみつきながら穴を締め上げて、快感に襲われながら全身を震わせる。
前ではなく後ろで気持ち良くなる太一のことを想像し、俺は危うく薬局店内の通路で勃起しかけてしまった。…いけない。かぶりを振って脳内の淫らな太一の姿をかき消す。思ったように上手くはいかないかもしれない。それでもいい。最後、二人で一緒に笑って次の約束ができることが目標だ。「またしよう」と心から言えるような、そんな明日にしたい。
そして一度深呼吸をしてから、商品を手に俺は会計前の列に並んだのだった。
寮に帰ってからは組別稽古、夜飯、風呂といったいくつものタスクをバタバタとこなさなければならず、結局部屋で一息つけたのは22時前だった。
「太一、今日はさすがにもう眠いだろ。ベッドに上がるか?」
ベッド下のソファーに座ってタブレット端末を熱心に操作する太一に声をかける。太一は顔を上げて「そうする」と素直に頷いた。
「いよいよ明日だね臣クン…」
薄暗い部屋の中、太一の小さな声がポツリと放たれる。彼の緊張が伝わってきて、無性に愛しくなった。
「うん、よろしくな」
「よろしくね…」
きっと両手とも、掛け布団の端を握りしめているのだろう。想像に容易くて俺は彼にバレないよう小さく笑った。
「…今日な、薬局寄ったんだけど」
「うん?」
「明日のこと考えてたらさ、店の中で勃ちかけちまって。笑っちゃうだろ」
緊張が少しでも解れればと思い、笑い話の一つとして太一に今日の出来事を話してみる。しかし彼はとびきり大きな「え!」という驚嘆の声をあげ、話の続きを催促した。
「臣クン一体どんなこと想像したの!?」
「ん?そりゃ…んー…内緒」
「ひえ~…気になって寝れないよ…」
「はは、今日はたっぷり睡眠とっておかないとさすがにしんどいぞ。そろそろ寝よう」
「え~じゃあちゃんと教えてほしいッス…」
太一が子犬のようにねだるので、柵越しに手を伸ばして頭を撫でてやる。
「明日話すよ。今日はもう寝よう」
「…え~…ちなみに薬局で何買ったの?」
一向に眠気を帯びない彼の声に苦笑しながら「いろいろだよ」と答えてやるが、それではやはり納得してくれず「いろいろって?」と更に質問を投げかけられてしまった。うーん、明日の為にもたっぷり睡眠をとってほしいんだけどなあ。
「明日使うかもしれない、いろいろだ」
「ひょえ…」
「よし太一、寝よう」
「なんかスゴイもん買ったんスね…ここじゃ言えないような…さすが元ヤン」
「元ヤンは関係なくないか…?」
「さすが狂狼…」
「それも関係なくないか…?」
「どうしよう俺メチャクチャ緊張してきた」
全く寝る体勢に入ろうとしない太一の頭を、今度はポンポンと緩く叩いてやる。言い聞かせるように「もう寝よう」と言うと、やっと太一は頷いた。
「俺っち明日頑張るね臣クン」
「うん、一緒に頑張ろうな」
「小舟に乗ったつもりでね臣クン」
「わかったわかった、小舟な」
笑いながら「おやすみ」と交わして、それから俺たちは目を閉じた。
翌朝7時前くらいに目を覚ますと、なんと太一が既に身支度を整え終えていた。まさか、と不安がよぎる。
「…太一」
「あ、おはようッス臣クン!」
俺の不安はおおよそ的中したのだろう。太一の目は昨日よりも赤く、そして目の下にはかすかにクマが出ていた。
「もしかして昨日もちゃんと眠れなかったのか?」
「…えへ、なんか冴えちゃってさ」
2日連続で寝不足なのはさすがに心配だ。俺は梯子を降りてから太一の元まで歩み寄り、両肩に手を置いた。
「今日はやめておこうか、太一」
「え、なんで!やだよ行く!」
「でも体、辛いんじゃないか?今日はもうゆっくりした方が…」
太一は「チッチッチ」と舌を三回鳴らして人差し指を立てた。
「俺っちのスタミナをナメてもらっちゃ困るよ臣クン。三徹明けで中間テストに臨んだ伝説の男ッスよ」
「初耳だな…良い点は取れたのか?」
「そこは気にしなくていい」
「そうか…」
「とにかく、俺全然平気だから!さあ予定通りご飯食べたら出発するッスよ臣クン!」
太一の勢いに押され、俺も軽く身支度を整える。二人で談話室へ向かい、俺はキッチンへ入って朝食の準備を、太一はテーブルの上を拭いたりコップを並べたりした。
休日の朝はみんな起きる時間がまちまちだ。平日のにぎやかさが嘘のように静かな時だって稀にある。今朝がまさにそれだ。広い談話室の中には俺と太一の二人だけ。太一ともしも二人暮らしをしたら、こんな幸せな気持ちで毎朝過ごせるのだろうか。ちょっと、にわかには信じがたいな。
朝飯の準備が一通り終わり、出来上がった皿を4枚両腕に乗せてテーブルへ向かう。
「太一、できたぞ」
頬杖をついて俯いている太一に声をかけると、太一はビクリと大袈裟に反応して腕を膝の上に戻した。口の端に、ほんの少しヨダレが垂れている。
「あ、うん!」
「…今、寝てたか?」
太一は勢いよく首を横に振って「全く!」と答えた。
「ちょっと考え事してただけ!」
「…」
「美味しそう!いただきます!」
手を合わせる太一を見ながら俺の心はせめぎ合う。やっぱり今日はやめた方が良いのかもしれない。今日無理をしたら明日以降に響いてしまうだろうし、何より、万全な態勢で臨まないと、得られる筈の快感も得られないかもしれない。そのせいで太一が「俺のせい」だなんて、もしも感じてしまったら。今日のことが太一にとって「失敗」に終わるのは嫌だ。どうしても避けたい。
「太一、今日はやっぱり…」
言いかけるが、太一はその先まで言うことを許さなかった。
「俺ホントに元気だから!ホントに心配しないで臣クン。お願い!」
顔の前で手を合わせてそう言う太一に、結局俺はわかったと言うしかなかった。
少しの不安を抱えつつ、俺たちは朝食を食べ終え出掛ける準備をした。
「いざ出陣ッス…!」
玄関の扉を開きながら、空を見上げて太一が言う。戦に行くような心持ちなのだろうか。本当に太一の発言はおかしくて面白い。
「太一、気を楽にな。遊びに行くつもりで行こう」
「あ、遊び!?遊びなの臣クン!?」
「いやそうじゃなくて…えーと、あんまり気張るとほら、体に力が入っちまうかもしれないから」
「…そか…」
「俺も緊張しないように気をつけるからさ。力抜いて、いっぱい気持ち良くなろう」
言いながら太一の腰あたりを撫でると、太一の顔はみるみる赤くなってしまった。
「ひぇ…」
「リラックスだ、リラックス」
「…うん…」
「よし行こう」
扉を開きかけていた太一の手の上に自分の手を重ね、更に扉を向こうへ押す。一歩前へ進もうとしたところで、赤い顔のままの太一がこちらを振り返り、俺を見上げた。
「…大好き臣クン。俺のこと、好きにしてね」
その瞬間、体に雷が落ちたような感覚がした。ビリビリと鋭い刺激が全身を駆け巡って、髪の毛が逆立ち鳥肌が立つような気さえした。それくらい、衝撃だった。薬局で思い描いた太一の姿がフラッシュバックする。太一の奥の奥まで責めて、これでもかと啼かせる自分を想像する。
好きだ、愛してる、かわいい、啼かせたい。太一が「もうやめて」と思わず懇願してしまうくらい、気持ち良くさせてやりたい。寮の玄関先だということも忘れて、俺は興奮のままに太一にキスをした。
「…早く行こう、太一」
彼の唇を少しだけ舐めて、瞳を見ながら囁く。太一は目を細めながら俺を見つめ返した。
「もうあんまり我慢できそうにない」
「…うん」
「俺も好きだよ、いっぱいしよう」
そのまま肩を抱いて玄関を出る。太一がシートの後ろに座って俺の体をしっかり掴んだことを確認してから、俺はバイクのエンジンを掛けた。
連れ去るような気持ちでバイクを走らせる。今はもう、じわりと広がるような愛しさより燃えるような欲望が胸の内を占めていた。優しくしてやりたいがそうできる自信がない。なくなってしまったのだ、太一のせいで。どうしてあんな目をして、あんなセリフを吐いてしまうのだろう。劣情が込み上げてしまう。抑えられない。俺のスイッチを恐る恐る、だけど俺に断りなく勝手に入れてしまうのはいつだって太一、ただ一人お前だけだ。
目的地までの道のりが焦ったく、俺はいつもより前のめりになりながらグリップを力強く握った。
30分ほどバイクを走らせ、ようやっと××駅に着く。近くの駐車場にバイクを停めて太一のヘルメットを取ってやると、彼の喉元から唾を飲み込む音が聞こえた。
「…行こうか」
「…うん」
手を取って指を絡めると、緊張しているのだろう、やけに冷たい体温が指先から伝わった。
「太一、大丈夫だ。上手くいかなくたっていいよ」
「うん…でも…」
「俺も緊張してる。一緒だよ」
「…うん」
俯いていた太一が顔を上げ、不安そうに俺を見つめる。
「…俺、臣クンが思ってるような感じにできないかもしんない」
「うん」
「臣クン幻滅するかも…」
「するわけないだろ。そんなこと言うなら太一だって、俺にガッカリするかもしれない」
「そんなん、するわけないじゃん!」
俺の言葉を遮るようにして、太一がそう言う。強く握られた手に嬉しくなって、俺は太一の額に自分の額を寄せ目を瞑った。
「俺もそうだよ。…同じなんだ」
触れ合う指から、額から、いっそ想いが全て伝わってしまえばいいと思う。心が繋がってしまえばいいのにと思う。…ああだから人は、一つになりたいと願うのかもしれない。
俺の言葉に太一は頷いて、それから小さく笑った。「そっか、同じだ」と呟く彼の声に、やっと微かな安堵を感じた気がした。
目的地へはそれから10分ほどで着いた。入口の自動ドアを潜る時の太一がこれでもかというほど挙動不審だったので、俺は何度も何度も背中をさすってやった。
ロビーには誰もおらず、穏やかなBGMが静かに響くだけだった。どうやらこのホテルはタッチパネルから自分らで好きな部屋を選択するシステムらしい。
「パネルが光ってる所が空室なんだな。太一はどこがいい?」
「……」
太一はキョロキョロと忙しなく瞳を動かして辺りを観察している。…俺の声は、今は聞こえていないらしい。
「ここにしようか」
肩を叩いて、最初に目に付いたパネルの一つを指差す。太一は瞬時に意識をこちらに向け、コクコクと素早く頷いた。
「選んだらそのまま自動で部屋のロックが外れるみたいだ。行こう」
「は、はい」
何度と解してやっても、もう場面が切り替わるたびに太一の緊張状態は振り出しに戻ってしまうようだ。俺は苦笑しながらいつものように彼の頭を撫でた。こういうところが可愛くておかしくて、いつまで経っても褪せたりしない。変わらない初々しさについ笑ってしまった。
エレベーターに乗って階数のボタンを押し、扉を閉める。そっと耳にキスをすると、あまり色気のない「ぎゃっ」という声がした。
「太一、リラックス」
「む、無理」
「深呼吸」
「スゥー…ハァー…」
「気を楽にして」
「…む、無理…」
「あはは」
うーんこれは、ベッドの上に辿り着いてからも長くなりそうだなあ。
エレベーターを降りて廊下を進む。目的の部屋の前に到着したので、先に扉を開けて太一を中へ誘導してやった。
「どうぞ」
「お、臣クン慣れてる…」
「慣れてない。言っとくけど俺だってさっきから心臓バクバクだ」
「ポーカーフェイス上手すぎッス…」
「そんなことないよ」
太一はそれからゆっくり室内へと進み、何度も瞬きをしながら内部を見渡した。
「…うあー!」
「広いな」
「臣クン!テレビが!」
「うん、でかいな」
「ベッドんとこ、花が!」
「うん、きれいだな」
「ライトの色が!」
「うん、勝手に変わるな」
太一は一つずつに驚きの声をあげ、部屋中のものを確認して回った。
「待ってなにこれ、なんスか?え、こっから音楽流せるの?」
ヘッドボードに備え付けられた有線チャンネルボタンを太一がいじっている間、俺は自分の上着をハンガーにかけて吊るした。部屋の中に響く音楽が幾度も変わる。ひとしきりいじって満足したのか、太一は次に自分の興味を引くものはないかと辺りを再び観察し始めた。
「太一、トイレは?行かなくて平気か?」
「うん。臣クンテレビ付けてみていい?」
「いいよ。じゃあ先にトイレ借りてるな」
トイレの扉を閉めて、さてどんな風に進めていこうかと思案する。初めてのホテルにはしゃいでいる太一を見ているのは面白いけれど、時間は無限ではないし、ずっとそうしている訳にもいかない。どこかのタイミングでやはり切り替えなければ。かと言って急いて押し倒したりしようものなら、太一はガチガチに固まってしまうだろう。怖がらせないように、体の力を抜いたままゆっくり進めてやりたい。いやしかし俺は、そんなことをずっとああだこうだと考えていられる余裕があるのだろうか。そんなものは途中から全て放り捨てて、興奮のままに太一の体を責め立ててしまうのではないか。…うーん、だめだ、そういう自分を容易に想像できてしまう。
トイレの個室の中で立ったまま腕を組んでいると、突然部屋から女性の喘ぎ声が大音量で聴こえてきた。途端に太一の「ぎゃー!」という悲鳴が響いて音が消える。恐らくテレビを操作していたら誤ってアダルトチャンネルを点けてしまったんだろう。扉の向こうで慌てふためく太一の姿を想像して、俺は我慢できずにまた笑った。
…しのごの考えてしまうのは、自分もきっと思っている以上に緊張しているから。もういっそ一緒に体を固くして、分け合えばいい。変に装わなくていい。なんだって分け合ってしまえばいいんだ。
トイレから出ると、赤い顔をした太一が慌てた様子で「おかえり」と言った。
「うん、ただいま」
やけに良い姿勢でベッドの脇に座る太一の、隣に腰を下ろして肩を抱く。
「さっき悲鳴が聞こえたけど」
「えっ、いや、あの、なんかテレビに変なのが映ったから」
「変なのって?」
「う、だ、だから…」
口ごもる彼の顎に手を添えて顔をこちらに向かせる。そのまま返事も待たずにキスをすると、明らかに太一の体に緊張が走ったのが分かった。
「…ふ」
「え、な、なに…」
「いや、緊張するななんて無理があるよなぁと思って。もうこうなったらとことん緊張しよう」
俺の言葉に太一は目を見開いて、それから笑った。
「あは。そう言われるとなんか逆に気が楽だ」
「よかった。ちなみに俺はまだ緊張のせいでポーカーフェイス崩せてないから。太一、頼んだ」
「ふふ。小舟乗る?」
「乗る」
笑いながら何度も唇をくっつけて、少しずつ、二人一緒にベッドへ体を預ける。柔らかな毛布が心地よく、まるで暖かい海の中に沈むような感覚だった。
「大っきいね、ベッド」
「うん」
「気持ちいね」
「うん。気持ちいな」
太一の頬や鼻先にキスをしながら頷く。太一はくすぐったそうに、けれど気持ち良さそうに笑って俺の背中を優しく撫でた。
「…臣クンあったかい。気持ちい」
「うん」
「…なんか変なの。さっきまで臣クンに触られたら俺、石みたいになっちゃうかもって思ってたのに、こうやってされると一番落ち着くよ」
「…うん」
「…気持ちい…」
太一がうっとりしながら何度もこぼす。俺はその声がもっと聞きたくなり、首、耳、うなじへ唇を寄せながら太一の服の中に少しずつ手を忍ばせた。
「…俺も、気持ちいいよ」
「…」
「あったかいな、太一」
「……」
「…太一?」
「………」
返事がない。まさかと思いながら顔を上げると、そのまさかである、なんと太一は気持ち良さそうに目を瞑って寝ていた。
「…太一、ちょ…嘘だろ」
胸の上あたりを軽く叩くが起きない。全く起きる気配がない。
「う、嘘だって言ってくれ太一」
少し強く揺するが駄目だ。ユサユサと揺らされながら、太一は何故だか「ひ」と笑ってみせた。…もう夢まで見ているのか。そんな。嘘だろ。
「嘘だろ…」
俺が頭を抱える横で太一が本域の寝息を立て始める。スヤスヤと、本当に心地好さそうに眠る彼の顔を見ているととてもじゃないが無理やり起こす気にはなれなかった。溜息が漏れる。やりきれない気持ちが胸に充満して、それからやっぱり溜息が出る。
「……」
太一の隣で緩く膝を抱え、俺は項垂れた。なんだよもう、なんだってんだ。本当に今日を心待ちにしていたのに。今日こそと思っていたのに。
その時太一が寝返りを打って、ズボンのポケットから何か小さなメモノートが顔を出した。手に取って表紙を見ると、そこには「七尾太一の極秘デート術ホテルスペシャル入門編秘蔵ノート」と書かれていた。
「……」
黙ってページをめくる。そこにはラブホテルの使い方や料金相場、マナーや禁止事項などが事細かに書いてあった。これを、この二日間で書いたのか。俺が寝たのを見計らってから、夜、一人こっそりと。
「…もう、本当にお前は…」
隣で眠る彼の頭を少し乱暴に撫でる。いろんな感情が綯い交ぜになって、また溜息に変わってしまった。嬉しくて、愛しくて、でもやっぱりどうにも恨めしい。
俺がどれだけ期待していたか。見たことない太一を見たいと、どれだけ渇望していたか。全くもう、気持ち良さそうに眠っちまいやがって。せめてもの腹いせにと、俺は無防備なその寝顔をスマホで連写してやった。
二時間後にセットしておいたアラームの音で太一はハッと目を覚まし、それから飛び起きて辺りを見渡した。ハンガーにかけていた上着を羽織る俺を見ながら、太一は顔面蒼白になる。
「………お、臣クン……」
「…ん?」
「俺、寝ちゃったの……?」
「ああ、はは。寝不足だったもんな」
「……嘘……」
「気持ち良さそうだったよ。起こす気もなくなるくらい」
鞄を持って中から財布を取り出す俺に、太一は深く頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!」
「……」
「臣クン…お、怒ってる…?」
太一は恐る恐る俺の表情を確認した。…うーん。このまま許してやるのは癪だな。ものすごく。
「…太一の馬鹿」
「へっ」
生まれて初めて言われたかのように太一は目を丸くした。
「もう知らない。帰るぞ」
「あ、ま、待って臣クン!」
部屋の扉へ向かう俺の後を太一が慌てて追いかける。扉手前に設置された支払機に金を投入殆ど入る前と同じ状態の部屋を出て、俺たちは無言のままエレベーターに乗った。
「……」
「……」
「お、臣クン」
「…なんだ」
「ごめんね」
「許さない」
「ええぇ…」
「あと3日は根に持つ」
「…うへ…」
太一は顔を手で覆って「そんな…」と零したが、それから数秒黙りこくってしまった。もしかして泣かせてしまったかと焦り顔を覗き込む。すると彼は困ったような、けれど少しにやけたような表情で俺を見た。
「…さっき臣クンメッチャ可愛かった…」
「…うん?」
「太一の馬鹿、もう知らないってやつ」
何を言い出すのかと思えば、太一はそんなことを照れながら吐露した。俺は驚いて開いた口を閉じるのを忘れた。
「もっかい言ってもらってもいいッスか…」
「…言わない」
「えぇ~なんで、一回だけ」
「言わない。言うもんか」
「ひぇ~~可愛いっ…言うもんかだって」
「太一、俺けっこう怒ってるからな?わかってるか?」
「わかってる!わかってるよ!ごめんね臣クン、次は絶対こんなことになんないから!」
「信用ならないな」
「ホントにごめんね。また来よう?ね?」
「ふん」
「かわ…じゃなくて、ホントにごめんって臣クン!」
全くもう本当に太一は。意地悪してやるつもりで怒ってみせたが、もういい、知らない。本当に知らない。そんなに何度も可愛いと言われて嬉しい男がいるものか。…自分も普段何度も言っていることは、この際棚に上げておく。
寮に帰ってきてからも謝るくせにどこか嬉しそうな様子の太一を見て、忘れた頃に寝顔の画像を送りつけてやろうと俺は心に決めたのだった。