クズどもに捧ぐバラッド

OMT parallel

01.



 酒の飲み過ぎで足元がフラついていた。線路下の連絡通路を歩きながら、壁一面に広がるスプレーペイントを流し見して、タバコに火をつける。
 客から送られてくるLINEを確認して適当な営業文を無表情のまま、一行だけ打ち込む。
『俺もまた会いたい。次もいっぱい話そう。』
既読なんて、いっそ付かなくていいのに。だけどその願いとは裏腹にすぐさま何かしらのリアクションが返ってきてしまうことを俺は知っている。可愛らしい動物のスタンプだとか、それから、大好きや愛してるの言葉だとか。

 もう、疲れた。泥のように眠りたい。タバコの灰が音もなく落ちて、暗いアスファルトの上で呆気なく砕けた。

 深夜三時の地下連絡通路には自分以外誰もいないと思っていたが、向こう側の出口とのちょうど真ん中辺り、壁を背もたれがわりにしてしゃがんでいるの誰かの姿が見えた。
 一瞬、ホームレスかとも思ったがどうやら違う。路上に胡座をかくその人物の前には蓋の空いたギターケースが置かれており、チューニング中なのだろうか、ギターの一弦ずつが順番に音を鳴らしていた。
 弾き語りの歌い手なんだろう。立ち止まる気などさらさらなかったのに…ふと目をやった一瞬だった。視界に入り込んできた鮮明な髪色に、少し足が止まった。
 電灯が不規則に点滅している、薄暗くて陰鬱な地下道。灰色と黒でしか描かれない閉ざされた空間。でも、歌い手の髪はまるでモノクロの写真に一枚だけ舞い落ちた、赤い花びらのようなのだ。
 ひどく、目を引いた。いや引かされたのだ。アルコールに漬かった脳に一滴、冷水が垂らされたような感覚がしたのだ。
 チューニングが終わったのか、赤髪の歌い手はヘッドに付けたチューナーを取り外すとネックをそっと左手で、握った。

 彼とは反対側の壁に背を預けて、アコギの音色と歌い手の声を聴く。吸い終わったタバコを踏みつけて靴の裏で火を消す。
 ああどうして。早く帰って、頭から爪先まで鉛のように重たいこの体を布団に投げ出そうと思っていたのに。
 六弦を抑える左手の指の動きと、俯いたまま歌うその髪色を、俺はじっと見つめた。

「得意なことがあったこと
 今じゃもう忘れてるのは
 それを自分より得意な誰かがいたから
 ずっと前から分かってた
 自分のための世界じゃない
 問題ないでしょう
 一人くらい寝てたって」

 聴いたことのない歌だ。もしかしたらこの歌い手が作った歌なのかもしれない。
 歌詞はずっと、卑屈と諦めの思いを語り続ける。だけどきっとサビなんだろう、少しだけ力強くなった歌声はギターのコードの上、叫ぶようにして最後「ららら」と、ハミングではなくはっきり、刻みつけるように歌った。
 愛しているとかありがとうとか幸せだとか、世界の眩しさを語るような歌だったらきっと、俺は途中で諦めて再び歩き出していただろう。だけどはなから諦めている主人公の気持ちが、嘆きが、俺の足を止めた。その一曲が終わる最後の瞬間まで結局、俺はその場から動かなかった。

「僕らはみんな解ってた
 自分のために歌われた歌などない
 問題ないでしょう」

 歌の後半、そう語られる主人公の思いに自分自身をこっそり重ねた。…どうしてだろう、気持ちが楽になったのだ。
 不思議だった。匙を投げるような言葉が、歌声が、確かに今、俺の心を軽くしたのだ。

 客はみな口を揃えて俺のことを好きだと言う。一体俺の何を見て、どんな夢を重ねて、手前勝手にそんなことを吐き散らかすんだろう。
 自分に向けられた誰かの好意なんか、本当は存在しないでほしい。そんなもの一つだって無くていいのに。重たい。苦しい。嘘ばかり平気で重ねるこの口を、誰も信じてくれなくていいのに。
 だからだ。だからこそ、心が軽くなるのだと気付いた。
 決して俺のためなんかじゃないこの世界で、俺は勝手に生きてる。投げ出してほしいし、本当はいつだって、見限ってほしかった。ずっとそう思ってた。そう思っていたんだということに、歌を聴きながら初めて気が付いたのだ。

 最後のコードが鳴って数秒、再び静けさに包まれた地下道の真ん中で、俺は歌い手に小さな拍手を送った。いや、気がついたら送っていたのだ。
 歌い手はそれからようやく顔を上げ、俺をその目で捉えたようだった。
「…ひひ。あざッス」
 歌声から受けた印象と少し違う。彼は俺が思っていたよりずっと屈託のない顔で笑った。
「お兄さん仕事帰り?こんな遅くまでホントご苦労様ッス」
「…ああ、うん。ありがとう」
「えーと今のは、◯◯の××って曲でした!ご静聴ありがとうございまッス!」
「……」
ずいぶん、フレンドリーなんだな。てっきり話しかけられることも、最悪、目が合うことすらないまま次の歌を歌い始めるのかと思っていたから、少しだけ面食らってしまった。
「…初めて聴いた。きみのオリジナルかと思ったよ」
「まっさかぁ!俺っちこんな歌作れないッスよ!」
「へえ、そうか。…良い歌だな」
「ね。俺もこの歌大好き。なんか気持ちが楽になるんだよね」
「…うん。わかる」
「ほんと?」
赤い髪の彼の目が、その時僅かだが輝いたように見えた。俺の気のせいだろうか。わかってくれて嬉しいと、心の声が聞こえた気がした。
「…ひひ。お兄さんとはなんか気ぃ合うかも。もう一曲聴いてってくれる?」
「うん。歌って」
頷くと彼も嬉しそうに頷いて、数回の深呼吸の後に次の曲の最初のコードが鳴った。
 二曲目は、さっきより明るい印象の曲だ。穏やかなメジャーコードと共に、今度は自室で手作りのプラネタリウムを作る主人公の物語が始まる。

「四畳半を拡げたくて
 閃いてからは速かった
 次の日には出来上がった
 手作りプラネタリウム」

 目を閉じる。彼の声にじっと耳を傾ける。優しい歌い方はまるで星の光みたいだ。遠くでぼんやり光る、優しい光だ。

「消えそうなくらい輝いてて
 触れようと手を伸ばしてみた
 一番眩しいあの星の名前は僕しか知らない
 いつだって見つけるよ 君の場所は
 僕しか知らない
 僕しか見えない」

 歌が終わり、彼が胡座のまま会釈する。俺は再び拍手を送って、それから数歩進んで目の前にしゃがんだ。
「…ありがとう。いい歌だった」
「えへ、これもね〜おんなじ◯◯の曲でー…」
嬉々として始まった曲の解説をBGMにして、俺は鞄から長財布を取り出す。万札を二枚抜き取って小銭の散らばるギターケースの中に置くと、彼は「えっ」と、驚いた声をあげた。
「諭吉!?なんで!?」
「ん?投げ銭」
「えぇー!?多いよさすがに!」
「でも二曲聴かせてもらったし」
「いやいやいや…え!?うわお兄さんもしかしてランボルギーニとか乗ってる人?庭にプールついてる人?」
「……」
あまりにも素っ頓狂なことを言うんだな。…なんだか変わってる。思わず笑ってしまった。
「ふっ…あはは、バレちゃったな。あとフェラーリとベンツも持ってる」
「ひえぇ〜!…え?嘘だよね?え、ホント?」
「んー?…はは。どっちだろうな」
「え〜どっち!?嘘だよね!?え、なんかお兄さん読めないんスけど!」
嘘ばかり吐くこの口に、これほど素直に、そして楽しそうに翻弄されてくれる誰かが今までいただろうか。
 楽しいな。そう思った。この青年と話していると楽しい。まだ髪の色と歌声以外は何も知らないのに、不思議だな。

「…おみって言うんだ、俺」
「ん?」
「お兄さんじゃなくてさ、名前で呼んでほしいな」
「……」
目を見つめながら言うと、何故か彼は不敵に口の端を持ち上げた。
「…さてはお兄さんホストだな〜?」
「…どうして?」
「口説くの上手だもん。ふーん、おみって名前で働いてるんだ」
新しいタバコに火をつけながら「本名だよ」と答えたが、目の前の人物は全く信じてくれなかった。軽く肩を揺すって「うんうんそっかー」と笑うだけだ。
「おみクンね。おっけー覚えたッス」
カーゴパンツのポケットから、彼もタバコの箱を取り出す。白地にくっきり浮かぶ赤い円が、彼の髪色によく似ていると思った。
「吸うんだな。歌うのに」
「吸うよー。あんま関係ないと思うよ喉とタバコって」
「確かにそうかもな、いい歌声だった。聴いてて気持ち良かったよ」
「あーほらまた口説くじゃんそうやって」
自分と俺の間にコーラの空き缶を置いて、彼は気持ち良さそうに最初の一口をゆったりと吸い上げた。
 口から漏れ出す煙をぼんやり眺める。口説いてないよと言おうとして、だけどやめた。口説いていたのかいなかったのか、自分でも今、よくわからなかったからだ。

「俺はね、たいち」
「たいち?」
「うん。ななおたいち」
たいちと名乗った彼は咥えタバコで両手を空け、ギターをそっと爪弾いた。
「…ん〜、んん〜ん〜ん〜…んっんん〜〜」
細い四本の指はフレットの上を機械のように上下する。コードと共に緩やかなハミングが重なる。自分には音楽との関わりがほぼないので、余裕そうに弾き語るたいちの姿が純粋に、とても格好良く見えた。
「…それもさっきと同じバンドの歌?」
「ん〜?…これはねー…」
たいちはフレットから離した左手でタバコをつまみ、少し悪戯な顔で笑ってみせた。
「おみクンとの出会いを祝して即興でいま作った。ひひ」
「すごい。天才だ」
「あはは!そうなんスよ〜困ったな〜俺っちってば天才なんスよ〜」
「もう一万出すよ。これでなにか美味いものでも食ってくれ」
財布からもう一枚抜こうとしたところで、たいちに膝を叩きながら大笑いされてしまった。…どうして。
「あははヤバ!ねえ分かったメッチャ酔ってるでしょ!?」
目尻を拭いながら「あ〜面白いなー」と続ける。冗談だと思われたんだろう、たいちは追加の一万を受け取らないでギターケースを閉じてしまった。別に、中身のないこんな金、本当にもらってくれて構わないのに。

「よし、今日はこれで終わり!最後誰かに聴いてもらえて良かったッス」
「うん。こちらこそ良いものが聴けて良かったよ」
「あははマジでお上手ッスね〜。ところでさ、この辺にネカフェあるか知ってたりする?」
「ネカフェ?」
帰る所がないのだろうか。たいちはスマホを取り出して「もう電池なくてさ、調べらんないスよね」とこぼした。
「ネカフェか…あっちのアーケードの手前にあった気がするけど」
「ほんと?じゃあ今日はそこ行こっかな。シャワー無料だといいなー」
テキパキと身支度を進めるたいちを、頬杖をつきながら俺はぼんやり見つめる。
 言動はこんなにも明るいのに。どうして捨て犬みたいな生き方を、この青年はしているのだろう。…いつから?いつまで?一人きりで?聞いてみたいことが小雨のように、次から次へと降ってくる。

 知りたい。たいちのことを、もう少しだけ。

「…俺の部屋なら」
「ん?」
「俺の部屋ならシャワーもフードもタダだけどな」
…自分の口から勝手に漏れ出た言葉に笑ってしまった。本当にどうかしてる。ついさっきまで泥のように眠りたいと言っていたのはどいつだったのか。
「どうする?ここから近いよ」
「……」
たいちは、ステッカーだらけのギターケースに手をかけたまま、俺をじっと見た。
「…おみクンってさ」
「うん?」
「あ〜…ごめん、やっぱなんでもない」
それきり目を伏せてしまうから、何を尋ねられそうになったのか見当もつかない。続くはずだった言葉は一体、俺のどこに触れようとしたのだろう。

「…え、そしたらホントに、お言葉に甘えちゃおっかな」
「ああ。さっきの歌の続き、良かったら聴かせてくれ」
たいちが置いてくれた灰皿代わりの空き缶に吸い殻を落として、一足先に立ち上がる。時刻は三時半。あと一時間もすれば空は薄ぼんやりと明るくなるんだろう。もう一ヶ月くらい、まともに太陽を見ていない。…今日は見られるだろうか。見られるかもしれない。一人ではなく、たいちと二人で。

 一緒に階段を登る。登り切ったところで振り返ると、数段下から俺を見上げるたいちと目が合った。
 通りかかった車のヘッドライトに反射して、その瞳が水色に光ってみせる。
 …知らなかった。そんな色を、していたのか。
「ん?なに?」
「……いや。なんでもない」
 微笑んで、たいちが階段を登り切るのを待つ。肩が並ぶのと同時に歩き出す。さっき聴かせてくれた歌をそっとなぞりながら、歩き慣れた筈の帰り道をいつもとは違う歩幅で、丁寧に歩く。

「一番眩しいあの星の名前は
 僕しか知らない」

 ビー玉みたいに冷たく光るその瞳を、今だけは、俺しか知らない。それがなんだか嬉しくて、だけどどうしてだろう。同じだけ寂しいと思った。
 何も持ってない、星なんか一つもない、行き場所だってどこにもありはしない。

 そうやって俺たちはあの日、自分のためじゃない世界の片隅、まるで諦めるようにして、出会ったんだ。




02.


 人間のクズだと思う。
 俺の名前はななおたいち。太いに一と書いて「太一」。だけど、親がつけてくれたその名前を体現できた試しはない。例えば誰かに「クズってどんな奴?」って聞かれたら胸を張って「俺みたいな奴のこと」って答えられるくらい、つまり俺は本当に、人間のクズだ。

 三週間くらい同棲していたしょーチャンに、泣きながら出て行けと言われた。

 しょーチャンは服の袖口で目元を何度も拭いながら、タンスの中にある俺の服と下着を引っ張り出した。一つずつ無造作に手渡されて、俺は受け取る度、それらを無言でリュックの中に詰めていく。
「…早く出てって。もう、二度とそのツラ見せんな」
「……ごめんね」
「思ってないのに言わなくていい。ムカつく」
「思ってるよ」
「うるせえよ!聞き飽きたよ太一のごめんねは!」
声の大きさと比例して、しょーチャンのパーカーの袖口もどんどん濡れる。
 思ってるよ。ホントに思ってるんだ。治らない馬鹿でごめんねって、本当に…ねえ、しょーチャン。心の底から思ってるよ。

 しょーチャンとは路上で出会った。歌ってたら立ち止まってくれて、髪の色いいねって声をかけられた。嬉しかったからしょーチャンのピアスのことも、かっこいいねって褒め返した。それが俺たちの始まりだ。
 一時間くらい喋って、その後近くの立ち飲み屋に移動して、更にいろんなことを話した。
 しょーチャンは出会った日から泣き上戸だった。一人が寂しいとか周りにセクシャルのこと内緒にしてるから辛いとか、メソメソしながら全部教えてくれた。
 肩をさすって、なんか可愛いなと思ってほっぺにチューした。俺バイだよだから何でも言っていいよって言ったら、涙目のままで俺を家に、呼んでくれた。
 行くところがなかったんだ。だから二つ返事で頷いた。会ったその日に一回ヤッて、次の日もその次の日もしょーチャンの部屋、俺はまるで寄生虫みたいに当たり前に住み着いた。
 しょーチャンはホントに健気だ。なんにも言ってないのにお揃いのピアスをAmazonで買ってプレゼントしてくれたり、食べ物なにが好き?って聞いてくれて、答えたら次の日すぐそれを作ったりしてくれた。
 尽くすのが好きなんだろう。だからいっぱい尽くされた。グズグズに甘やかされた。名前と歳しか分からない俺のことを、これ以上ないくらい可愛がってくれた。後ろの準備もそういえば俺、しょーチャンと付き合ってる間は一回も自分でしなかったかもしれない。前戯も丁寧で長かっし、してる時、決まって耳元で「だいすき」って言われたな。
 嬉しくてくすぐったくてだけど悲しくて、俺もだよって言えなくて、いつも「うん」とだけ返してた。
 
 しょーチャンが働いてる日は路上へ歌いに行った。好きなことや得意なことが自分には沢山あった筈なのに、どうしてだろう。いつの間にかボロボロのアコギしか、俺には残っていなかったのだ。
 なにかを思い出したくて歌ってるのか、それとも忘れたくて歌ってるのか。いつも分からない。分からないまま冷たいアスファルトの上で歌ってる。
 適当に選んだ歌で、適当に誰かが足を止める。音楽を介すと何でこんなに人はすぐ、心を開いてしまうんだろう。声をかけられて目線を上げたらいつも思うんだ。…寂しいよって、みんな顔に書いてある。

 ◯◯の、黒猫と絵描きが出てくる歌を歌ってた時だ。どんな夜だって行き交う人はみんな満身創痍だから、ピックを弦に強く当てた。負けるか俺はホーリーナイト。そうやって誰かに届けと願いながら歌えばさ…あーあ、ほらね。女の子が一人、立ち止まって泣いてくれた。やっぱり届いちゃう誰かが必ず何処かにいるんだ。
 いろいろ話して、頭を撫でて、一緒にタバコを吸って、その後その子とカラオケに行って、そのまま部屋で一回だけヤッた。
 しょーチャンにはすぐバレた。LINEの通知をオフに変えとくのを忘れてたからだ。待ち受け画面、女の子からの「次はホテルがいい」というメッセージ表示に、俺より先にしょーチャンが気付いた。

「…クズだよ、太一は」
「……そうだね」
「この後だってまたどっかで適当に歌って適当に誰か引っ掛けるんでしょ?俺のことなんかすぐ忘れてさぁ」
「忘れないよ、しょーチャンのこと」
「ふざけんなよ!そんなことないくらい言えば!?病気だよお前!!」
「……うん、そうだね」
しょーチャンは貯金箱みたいなブリキの灰皿を床に叩きつけて「出てけ」と叫んだ。吸わないしょーチャンがわざわざ俺の為に買ってくれた三百円の灰皿が、床に吸い殻を撒き散らした。
 そう言われたら、出て行くしかないんだ本当に。なんにも言い返すことができない。本当に、俺はこの上ないクズだから。
「…バイバイ」
ごめんねは言わない。相手になんにも背負わせない為にと俺が貫いてる、これはポリシーの一つだ。汚いものは全部、俺だけが背負って、出てく。

「……やべ、充電バッテリー忘れてきちゃった」
部屋を出て数十秒。最初に出た言葉がそれなんだもん。俺はホントのクズだ。



 たぶんホストであろうおみクンの部屋は、ずいぶん広くて綺麗だった。と言うか、物が極端に少ない。台所は調味料が沢山並んでるからきっと料理は好きなんだろう。でも生活感を感じたのはそこだけ。あとは本当に、何にもない。

「おみクンってさ」
「うん?」
ちっちゃい折りたたみ式テーブルの前に胡座をかいてたら、缶チューハイと水のペットボトルをぶら下げておみクンが向かいに座った。柔らかそうな素材のスーツから伸びる手首を、ぼんやり眺めた。
「枕営業とかはしてないの?」
ペットボトルの蓋を開けながら、おみクンは小さく笑った。
「はは、どうだろうな。…企業秘密にしとくか」
「わ〜なんかえっち上手そう、その返し」
俺も笑ってプルタブを起こす。チューハイは俺の一番好きな氷結シリーズだった。やった。
「…たいちは?」
「ん?」
「枕しながら放浪してるのか?」
優しそうなタレ目のくせに、口元は割と意地悪そうに歪む。…ふーん、こういう顔もするんだ。モテるだろうなこの人。
「え〜俺っちどんな風に見えてんスか〜やだな〜」
肩をすくめてはぐらかしたら、途端に真面目な目で見つめ返されたから、ちょっとだけ、ドキッとした。
「どんな風にも見えるし…正直、よくわからない」
「…どんな風にも?」
「うん。だから気になる。たいちのことが」
「……」
不思議な人だ、おみクン。冗談も言うし誤魔化すのも上手いのに、自分が問いを投げる時は絶対こっちの目を見てくる。
「おみクンが自分のこと話してくれたら、俺も話すよ」
優しい目と、意地悪に歪む口元。見よう見まねでおみクンとお揃いの返し方をしたらすぐに真似したことを気づかれてしまった。テーブルの向こうで首を傾けるおみクンは、ちょっと不敵に笑った。
「…じゃあ、なにか歌ってたいち」
「あは、いいよ。BGMあった方が話せそう?」
「うん。丸裸にされたい」
「あはは!言い方やらしいッスね〜さすがホスト」
ギターケースを開けて、五年くらい連れ添ってるヤイリを取り出す。胡座の上に乗っけて、弦に挟んでおいたピックをテーブルにそっと置いた。
「指弾き下手クソなんだよなー。でもお家の中だからストロークはやめとこっか」
チューナーは使わずに耳だけで適当にチューニングした。Cのコードを鳴らしながら、なにを歌おうかじっくり考える。
「…じゃ、ギルドって歌。歌うね」
いつもよりずっとテンポを落として、お客サン一人分へ贈れる緩さで、歌った。

「人間という仕事を
 与えられてどれくらいだ
 相応しいだけの給料
 もらった気は少しもしない」

 おみクンは俺の歌を聴きながら、テレビ横に置かれていた丸いガラスの灰皿をテーブルに置いて、タバコに火をつけた。静かに煙は揺れて、どこへも逃げられず部屋の中を不自由に泳いだ。

「悲しいんじゃなくて疲れただけ
 休みをください 誰に言うつもりだろう
 奪われたのはなんだ
 奪い取ったのはなんだ
 繰り返して少しずつ 忘れたんだろうか」

 この次のところが俺、好きなんだ。おみクンも好きだと思う。…聴いててね。きっとおみクンは「わかる」って、思うと思う。

「汚れちゃったのはどっちだ
 世界か 自分の方か
 いずれにせよその瞳は
 開けるべきなんだよ
 それが全て 気が狂うほど
 まともな日常」

 一番を歌い終わって、区切りが良かったからアウトロへ繋げる。終わりに向かいながら小さな声で終盤の歌詞を歌う。
「与えられてクビになって、どれくらいだ、何してんだ…」
…まるで、俺のことみたい。俺は一体あとどれくらいこんな生き方をして、自分をクズだと諦め続けるんだろう。
 最後の弦を弾いて軽く頭を下げる。おみクンはさっきと同じ、路上の時のようにまた拍手してくれた。
「…いい歌だな」
「ね。俺もこの歌好き」
「客に合わせて選曲してるのか?」
「んー?…うん、まあ、そういう時もあるかな、たぶん」
半分嘘だ。そういう時もあるんじゃなくて、大抵いつも、狙ってる。
「…そっか。すごい能力だな」
「そう?…ひひ。あざッス」
おみクンは灰皿のヘリに立てかけたタバコを人差し指で数回叩いて、振り落とされる灰を眺めながら、ゆっくり語った。
「…昔さ、俺、事故で親友を亡くしたんだ」

 おみクンが語る内容は、俺が想像していたよりずっとずっとヘビーだった。
 暴走族の頭だった二人は、敵のチームの奇襲に遭ってバイク事故を起こした。二人のうち助かったのはおみクンだけ。親友サンはその事故で死んでしまった。
 おみクンは親友サンのご両親に許してもらえなかった。死ぬまで消えない十字架を背負わされた。言われなくたって背負わなきゃいけないのに言われてしまって、だからおみクンの十字架は、二倍の重さになった。
 お葬式には、参列させてもらえなかった。後日改めて謝罪も兼ねてお焼香を上げに行ったら、玄関先で、泣きながら殴られた。
 おみクンは親友サンのご両親へ、慰謝料を毎月払う人生を送り続けている。心が砕けるような言葉が綴られた手紙を何通ももらった。許されるなんて思うなと、呪いみたいな電話も何度かあった。おみクンはひたすら謝った。生涯をかけて償っていきますと、頭を下げた。
 趣味だったカメラを辞めた。写真は全部捨てて、思い出を手放して、愛用していたカメラ関係の機材は全部友達に譲った。
 おみクンは自分の心を空っぽにして、効率よく稼げる夜職に就いた。笑顔と甘い言葉を振りまいて、本音や弱音を自分でも見失って、それでも毎月、とっくのとうに番号を覚えてしまった口座に、慰謝料を振り込み続ける。

「…そっか」
短い相槌を打って、ラッキーストライクの箱を揺する。ああ最悪だ、切れてる。さっき吸ったので最後だったんだ。
「…吸うか?俺の」
「ごめん、もらってもいいッスか」
「いいよ」
おみクンのメビウスを一本もらう。美味しい。メンソールを吸ったのは久々だ。
「…人に話したの、初めてかもしれない」
「…うん、そっか」
「ごめんな。タバコ不味くなるだろ」
「ううん、全然」
傷だらけの人だ。俺が思ってたよりずっと。傷だらけだねって言ったら「そんなことないよ」ってきっと笑って言えちゃうくらい、この人は傷だらけだ。
「…俺っちがさ、いつか歌で大金当ててあげるから」
「うん?」
「そしたら二人で一緒にランボルギーニ乗ろ」
「あはは、いいな」
「海までドライブするんだよ。いいでしょ」
「うん」
「おみクンは助手席でさ、好きなCDかけて鼻歌でも歌ってさ」
「…うん」
眉間に手を置いて、おみクンが俯く。…疲れたね。疲れ続ける毎日を送ってきたね。ボロボロだね。ボロボロで、ずっと許されなくて、許されないことだけを生きる意味にして、生きてきたね。

「…くーだらねえとーつーぶやいてー…」
囁くように歌った。爪弾いて、絵本のように歌詞をゆっくり追った。
「さめたツラーしてあるーくー…」
いつの日か輝くことも、月の明かりが自分を照らすことも、そんな日は一生来ないかもしれない。
 それでも俺にはもう、アコギと歌以外なんにもないからさ、おみクン。今だけはおみクンの為に歌うから、少しだけ背中預けてよ。
 お疲れ様。今日もお仕事頑張ったね。ゆっくり寝ようね。クズから贈る、これが今夜の子守唄だよ。
「…エレカシだ。懐かしいな」
「うん。これはねーサラリーマンにウケるんスよ。投げ銭よくしてもらったな」

 月も太陽も昇らない午前四時。
 おみクンが優しく笑うから続きをうまく歌えなくなって、歌詞忘れちゃったって、俺はこっそり、嘘をつくのだ。




03.


 俺はクズだ。叶えたい夢も手に入れたいものもなく、ただのうのうと生きてる。人の命を殺めてなお、こうして息をしてる。死んだ目で金を稼ぎ、死んだ目でその金を振り込んで、死んだ目でただひたすらそれだけを繰り返してる。
 無意味な命をぶら下げて毎晩泥のように眠る。灰色の翌日を迎える。それだけの、正真正銘のクズだ。

 俺の名前はふしみおみ。おみは漢字で「臣」と書く。どんな想いでこの名前が自身に付けられたのかは知らない。何故なら、名付けてくれた人がもうこの世にいないからだ。由来を尋ねる前にその人物はこの世からいなくなった。

 遠い昔。その人がまだ生きていた頃の話だが、その当時は多分ここまで自分のことを冷ややかに感じていなかったように思う。楽しい時には笑えたし、悲しい時はそれなりに涙も流せた。自分の感情に嘘はなく、そもそも感情に嘘を吐くとか吐かないだとか、そんなことを意識することもなく生きていた。
 人間らしかった、それなりに。今振り返るとそんなふうに思うのだ。
 一体いつから、嘘と本音の境目が消えただろう。いま俺は嘘を吐いているなとか、いま俺は本音を伝えられたなとか、自覚する機会がいつの間にか消え失せた。

 腹の底から笑うことがなくなって、それからしばらく経ってのことだ。今度は、悲しいという感情を見失った。
 親友の葬式に参列することを許されず、そいつの家の玄関先でした土下座の謝罪も受け入れてはもらえなかった。俺の喉奥から搾り出されたいくつかの言葉は、そのまま親父さんの履いていた突っ掛けに踏み潰された。一つも、拾われないままだった。胸ぐらを掴まれ、頬を叩かれ、二度とそのツラを見せるなと泣かれた。
 ご両親の涙を、言葉を、怒りを、ボロボロになってしまったその心を、その日はそのまま持ち帰り、部屋の中で途方に暮れた。人の心とはこんなにも重たく、こんなにも形容し難い形をしているのか。知らなかった。…知らなかったな。何一つ。
 俺があの日お前を誘っていなければ。俺があの時少しでも早く後方に気づけていれば。俺がお前の代わりに外側を走っていれば。俺がお前の代わりになっていれば。俺がお前と出会わなければ。
 俺が殺した。俺がお前を殺したんだ。目の前でお前の体が吹っ飛んだ。俺のせいでお前が死んだ。俺がお前を、殺したんだ。
「…死んだ方がいいか…」
カーテンの向こうをぼんやり眺めながらこぼした言葉は、まるで新聞やニュース、映画、ドラマの中の、どこかの誰かが呟いた遺言のようだった。誰にも届きはしない遺言は、そのままゴミ箱に捨てた。蓋を閉じればもう、いくら腐ろうがなんの匂いもしない。

 あの時からだったと思う。自分の感情を自分のものとして感じられなくなった。
 場面ごとに自分を俯瞰して、例えば「これは今悲しい状況なんだろうな」と察知することはできても、実際に悲しくて涙が垂れるようなことは決してない。
 何もないのだ。この、心臓の奥に。名前も知らない白黒映画を、昼間、寝ぼけながらたまたま点けたテレビで観るような、そんな感慨のなさに似ている。

 感情を見失ってからは、今の仕事がすごく楽になった。何もかもが一掃されてだだっ広くなった頭の中は、状況に適した言葉や行動を考えるのにとても向いている。
 相手の欲しい言葉が、すぐに分かった。何をしてほしくてどこに触れてほしくないかも、手に取るように分かる。
 自分の感情はわからないくせに、おかしな話だよな。…いや、だからこそなのかもしれない。まあ、そんなことはもうどうだっていいか。
 相手の望むままを差し出す俺は、いっそ機械のようだと思う。誰かに好きだと言われる度に、頭の奥で部品が軋むような音が鳴る。
 本名の漢字を、違う読み方にして源氏名とした。相手から呼ばれる度にそれを俯瞰する自分の距離が遠くなる。ノイズ混じりのラジオ、何とか聞き逃さないようにと気を付けなければ雑音として聴き流してしまうような、そんな響きだ。
 …死んだ方がいいか。それで喜ぶ誰かがいるならさ。いっそ死んじまおうか。だって何も考えなくて済むもんな?なあ、そうだろう?お前もそう思わないか?
 返事はない。お前さえ、返事をくれる前にこの世からいなくなった。



 ふと、目が覚めた。肩や背中が軋むように痛い。布団ではなくフローリングに身を投げ出して眠ったせいだ。
 テーブルの向こうに横たわる誰かの体、それから、赤い髪が見える。たいちも俺と同じように床に伏せ寝てしまったんだろう。
「…おはよう」
ぐっすり眠る彼へ、届かないだろう一言を送った。
 起きたら誰かがいる。それがなんだか嬉しかった。どうしてだろう、少しの温もりと安心を感じる。一人きりであることの寂しさとは、一人でいる時よりむしろ、慣れきった毎日の中にそっと誰かがいてくれた時にこそ強く感じてしまうのかもしれない。

 時刻は14時を過ぎたところだった。ずいぶん長いこと寝ていたんだろう、体はあちこち痛かったが頭はスッキリとしている。昨夜のアルコールの残骸を感じない起床は、ずいぶん心地が良いものだった。
 さて、出勤は16時。あまり悠長にしてはいられない。風呂に入ったらすぐに飯を作らなくては。
 立ち上がり、テーブルの上の空き缶や吸い殻を捨てる。一向に目を覚ましそうにないたいちにブランケットをかけてやり、俺は風呂場へ移動した。

 シャワーを浴びながら、遅めの昼食は何を作ろうかと考える。ああ、しくじった。たいちの食の好みを聞いておけば良かった。
 自分には誇れるものなど何一つないが、唯一、たった一つだけ、好きだと嘘なく言える趣味がある。それが料理だ。せっかくの機会だったのだから、どうせなら彼の好きなメニューを振る舞ってやりたかったのにな。
 仕事から帰ったら、もうたいちはここにいないかもしれない。これを最後に今後二度と会わないかもしれない。日を跨いだ後の暗い部屋、もぬけの殻になったこの部屋のことを想像する。
 …どうしてだろうな。それがこれまでと同じ日常なのに。少しだけ名残惜しく思う自分が不思議だった。

 風呂から上がった後、冷蔵庫の中を確認しながら三つくらい候補を考える。その中で一番万人ウケしそうなメニューを選択し、食材を作業台の上に置いた。
 先日、少し値の張るソーセージを買ったのだ。これを使って、ホットドッグを作ろう。
「…くぅだらねえとぉ、つぅぶやいてぇ…」
熟睡できたのが良かったのか、今日はやけに気分がいい。普段は絶対こぼれない鼻唄なんか鳴らして野菜を水洗いする。たいちの歌声を思い描きながらなぞるように歌うが、自分が奏でるメロディーがあまりに正しい道を逸れるから笑ってしまった。そう、俺は歌が下手なのだ。
「俺もまたぁ輝くだろおぅ、今宵の月のようにい…」
下手だな本当に。あんまり下手でおかしい。自分の歌に自分で笑ってしまうなんて、生まれて初めてかもしれない。

 15時過ぎ、二人分のホットドッグをテーブルの上に並べ、まだ起きそうにないたいちの寝顔を見下ろした。
 よく寝てる。穏やかな寝息はリズムを崩すことがなく、音楽に携わる者とは呼吸さえ規則正しい拍を刻むのだろうか、とぼんやり考えた。
「…ふ」
二口目を飲み込んだ時、笑いが勝手にこぼれた。この居心地の良さはなんだろう。ずっと昔から、まるで、たいちと暮らしてきたみたいだ。
 彼の持って生まれたものだろう、一緒にいる相手に安らぎと温もりを不思議と与えてしまう。もしかしたら借り暮らしは、この青年にとてもよく似合った生き方なのかもしれない。

 食後のコーヒーと煙草を済ませてもなお、たいちは起きる様子がなかった。15時半。そろそろ出かけなければいけない。
 起こすのは、気が引けた。昨夜俺の話を静かに聴き優しく弾き語ってくれたから、俺も同じような優しさを返したいと思った。
 連絡先を交換していなかったと気付き、彼の分のホットドッグにラップをかけたあと書き置きをした。

『昨夜はありがとう。昼食(夜食?)、良かったら。
なにかあったら080-◯◯◯◯-◯◯◯◯』

 仕事用のスーツを着て、別に拘りがあるわけでも何でもない香水をうなじと手首にふりかけて、俺は部屋を出る。
 …皿が空になってくれているといい。きみの姿が例え帰ってきたその時なくても、それはそれで構わないから。
 交互に進んでゆく自分のつま先を見下ろしながら、また少しだけ笑った。野良猫に餌付けする心持ちとは、こんな感じなのかもしれないな。



 その日は太客が友人を連れて店に来た。ヘルプと一緒に四人でテーブルを囲んでいたが、彼女がなかなかトイレから戻らないので俺も席を立ち確認しに行く。
 客は、トイレ前の狭い通路の端にしゃがみ込んでいた。
「大丈夫?立てるか?」
「ん〜…ジンー…?」
「うん」
「…ひぃっく…ふふ、酔っちゃったどうしよう」
「うん、酔ってるな」
「立てないなぁー…ふふ」
煩わしいな。胸の内でだけ溜息を吐いて、客の前に膝をつく。顔を覗き込むと締まりのない緩んだ笑顔がそこにあった。
「…あのねー…」
「ん?」
「ジンだいすき」
「…うん。ありがとう」
手を差し伸べて「戻ろう」と誘うと、その客は両腕を俺の首に絡めてだらしない笑い声を漏らした。
「へへぇ、ジン〜」
「ん?」
「あのねぇチューしてくれたら立てるかもしれない」
「……」
嗚呼、面倒だなぁ。本当の溜息がこぼれてしまわないよう、笑顔を念入りに貼り付ける。
「…はは。ここで?」
「うん。さっき被りにガン飛ばされた。ショックで立てない」
「本当に?どの子?」
「D卓でスマホいじってる奴。ほら、あの短足の」
「ああ、そっか。…やだったな、ごめんな」
「ね、チューして?そしたら元気になるよ」
顔を傾けて、ゆっくり目を閉じて、感情のないキスをする。客の後頭部に手を添えて舌を突き出せば、たやすく相手の口から声が漏れる。もう少し。あと十秒ほど続ければ、カフェパリをもう一本くらい入れてくれるかもしれない。
「……元気になったか?」
「…うん…えーヤバかった〜いま…」
「どうして?」
「超ドキドキした…」
「はは。…うん。俺もしたよ」
嘘の上に嘘を塗りたくる。口の中が泥まみれのように感じた。
 なあ、きみは知らないだろ?俺は人を殺してる。親友を殺して、人の人生を丸ごと奪っておいて、なのにこうしてのうのうと生きてる。きみは殺人を犯した人間にキスをせがんで、舌を繋いで、胸を高鳴らせて、金を注ぎ込んでるんだ。知らなかっただろ?信じられないだろ?
 …反吐が出そうだった。だから俺はいつだって酒を煽る。飲んで、その度に注がれて、何度だって飲み干して、明日に泥を引き連れないようにと、それだけに意識を向けて今日を終わらせるのだ。

 頼むから、カフェパリをあと二本入れてほしい。そうしたら来週は一日だけ、出勤日を減らせるかもしれない。きみに会わなくて済む日を増やしたい。
 だから唇を優しく掬って、舌の先で舐めて、耳を触って、それから笑った。
 ほら、まただ。名前も知らない白黒映画が始まる。





04.



 ああ久々だ、定期的に見るあの最悪の夢だった。嫌な気持ちで目が覚めて、見覚えのない天井にあれ?と思う。
 えーと、昨日は地下通路で最後の投げ銭を期待して歌ってて、そしたらかっこいいお兄さんが立ち止まって二万投げてくれて…その後どうしたんたっけ。結局ネカフェに泊まったんだっけ。シャワーは浴びたんだっけ。
「…あ」
思い出すのと同時に上体を起こした。そうだ、俺は二万をくれたお兄さんの家に泊めてもらったんだった。

 部屋を見渡す。お兄さんの姿はない。寝てる俺をそのままにして出勤したのかな。だとしたらずいぶん不用心だ。俺が金目のものをスッて逃げるようなことは想像しなかったんだろうか。
「…うわ、なにこれ」
テーブルの上、真ん中にラップのかかったお皿が一つ。二行だけの書き置きを手に取ると、その下にまるでサブウェイのメニューみたいなホットドッグがあった。
 大好物を一つ挙げろと言われたら、俺は迷わずホットドッグと答える。それと一緒にコーラがあったら最強。更にその後吸う一本は格別。
 だからラップに包まれたホットドッグを見て首をかしげた。俺、お兄さんにホットドッグ好きなこと言ったっけ?全然覚えてないや、でも偶然なんてことはないだろうからきっと言ったんだろうな。マジですごい。至れり尽くせりだ。挟まれてるソーセージの大きさに思わずお腹が鳴った。
「やべぇ人に拾われた〜…超ついてる…」
いただきますとありがとう神様を一緒くたに念じて、俺は手を合わせた。お兄さんが作ってくれたのかな、きっとそうだよな、嬉しい、やった、お腹ぺこぺこだ。

 ラップを外して左手でホットドッグを持ち上げた瞬間、玄関になにかの気配を感じて一瞬ゾクっとした。恐る恐るそっちへ視線を動かす。そこにはなんと死んだように倒れてるお兄さんがいた。
「えっ…ちょ、ちょ!お兄さん!」
慌てて駆け寄る。しゃがみこんで肩を小さく揺すると、お兄さんはかったるそうな声で何かを呻いた。
「……わかってるって…」
「お兄さん?おーい、生きてるッスかー」
「……だからアフターは…また今度な…」
お兄さんの口からダダ漏れるアルコールの匂いの強さにビックリした。そっか、今日もお仕事頑張ってきたんだな。
「…え〜?アフターしてくんないの〜」
「……うん、無理…」
眉間に皺を寄せて、まるでうなされてるみたい。なんかおかしくてちょっと笑った。可哀想なのにかわいい。
「ひひ。超ケチじゃんおみクン」
俺が笑うと途端におみクンは頭だけ持ち上げて、ギョッとした顔を俺に晒した。
「えっなんで本名…」
それで、目が合って二秒くらい。おみクンはすぐに合点がいったみたいだった。
「…すまん寝ぼけてた」
「…ひひ。おはよーッス」
笑いながら頭を撫でたら、数回瞬きをしてからおみクンも小さく笑った。
「…たいちが、帰ってきたらまだ寝てて」
「うん」
「なんか安心して…ダメだな、はは。久々に玄関で寝ちまった」
「そっか、お勤めご苦労様。今日もよく頑張ったッス」
おみクンの髪の毛は思ってたより柔らかい。撫で心地がいいな。飽きずにずっと撫でてたら笑い声と一緒に「うん、頑張ったんだ」というセリフが、やたら丸い輪郭で俺の方へ転がってきた。
「俺っちが花丸百点あげるね。立てる?上着脱がしてあげよっか?」
「…たいち食べたか?テーブルに置いといたやつ」
起きたてだからか会話にならない。無防備な時はとことんなんだ、この人。うーんなるほどこれはホントに超モテそう。
「まだだよ」
「じゃあ食べて。旨いんだよソーセージが」
「……」
…ホント、かわいい人だな。頭に置いた手を耳の方へずらしたら、どうなるかな。いや、おみクンがヘテロかバイかもまだ分かんないし、やっぱりそれはやめといた方がいいか。
「…うん。じゃあここに持ってきて食べるよ。待っててね」
最後に頭を優しくポンポン撫でてテーブルに向かう。お皿ごと持ってもう一度おみクンの近くにしゃがんだら、うつ伏せだった体勢を今度は仰向けに変えて、彼は俺の方を真っ直ぐ見た。
「へへ、いただきまッス!」
「めしあがれ」
おみクンに見つめられながらホットドッグに食らいつく。冷めてしまっても、美味しい食べ物というのはその真価を損ねない。一気に口の中に広がったソーセージの味に俺の心は飛び跳ねた。
「うわウマッ!!」
「ふふ」
「やば!え、ヤバくないッスか!?なにこれヤバ!?」
「そう、ヤバいんだ。ソーセージが」
ウンウンと満足そうにおみクンが頷く。玄関に足を投げ出したまま寝転んで、嬉しそうに笑うその様子に胸の裏側の方をくすぐられたような感覚がした。ヤバい、かわいい。どうしようこの人ヤバ。…かわいい。

 決して小振りではないホットドッグを五口ほどで平らげて、一滴も逃すまいと口の周りに飛んだ肉汁も全部舐めとる。おみクンが一層嬉しそうに笑うから、そんな顔は昨日全然見せなかったくせにって、ああ油断も隙もない、超厄介なお兄さんだなって心底思った。
「吸うか?俺の」
おみクンが胸ポケットからメビウスを取り出す。完璧なタイミングで食後の一服まで差し出してくれるんだもんな、人の心をスキャンする能力でも持ってるに違いない。
「…うわ怖ぁ〜…やっぱホスト怖すぎだ、さすがッス……」
「どうして?はは、怖くないよ」
「完全に心読まれてるもん…こうやって全部搾り取られてくんだ…ヤバ…この世の闇ッス」
「いらないか?タバコ」
「いる」
間髪入れずに即答して、箱から一本拝借する。仰向けの体勢のまま今度はズボンのポケットから金色のジッポを登場させて、おみクンは俺の咥えたタバコに火をつけてくれた。
「は〜…ホストの真骨頂見せられちゃったなー…怖…」
「怖くないって。見ろよ、靴も脱がないで玄関で寝てるんだぞ。だらしなさすぎだろ」
「末恐ろしいとはこのことッスよ…」
「あはは、全然聞いてないな俺の話」
笑うと薄く、目尻に皺が寄る。眉毛が少しだけ八の字に下がる。…笑った顔も完璧だ。ヤバい、気を張ってないと本気でハマっちゃいそう。
 昨日の記憶がちゃんと残ってればいいのに。そしたらうまいこと立ち回れるのに。でも困ったなぁあんまり覚えてないや。この人とどんな話をしたっけ。俺どんなこと言ってたっけ。昨日はもうちょっとだけ俺、冷静な感じじゃなかったっけ?

「ジャジャン。なんと携帯灰皿も持ってる」
得意げな顔して、さっきと反対のポケットから陽気にそれを俺の前に出す。不敵に笑えて嘘も上手ではぐらかすのもお手の物で、そのうえお茶目なんて。死角ゼロだこの人。マジでヤバい。
「…超かわいいおみクン…」
灰と一緒にこぼれた本音に、おみクンは「初めて言われた」と言って笑った。その笑顔も完璧。花丸百点だよさっきからずっと。
「…さっきね、やな夢見ちゃった」
おみクン以外の何かに意識を向けたくて、思いついた話題を唐突に振る。いつの間にかその口に煙草を咥えていたおみクンは、仰向けのまま最初の一口を長めに吸って、煙を吐き出すのと一緒に「ん?」と相槌を打った。
「久々に見たな。…最悪の寝覚めだったッス」
「どんな夢?」
「それはもちろん内緒ッスね」
当たり前のように返したら、おみクンはさっきの俺の口調を真似て「超ケチだなたいち」と言った。さすがだ、寝ぼけてたくせにちゃんと聞いてたんだ。抜け目がない。
「知りたい?」
「ああ」
「……」
灰を、小さい封筒みたいな灰皿の中へ丁寧に落とす。こういう時メンソールは頭をシャンとさせてくれるから、悪くないな。
「じゃあおみクンが俺っちの質問答えてくれたら、教えたげる」
「わかった。どんな質問でもかかってこいだ」
玄関に倒れたまんま、えっへんと胸の辺りを拳で叩く。ほらその仕草も完璧。まいったッス降参。

「…恋人はいますか」
はぐらかさないでねってメッセージも込めて結構真剣な表情を作ったのに、おみクンはそれに気付いているのかいないのか、穏やかな笑顔をカケラも崩さないまま答えた。
「いないよ。いるように見えないだろ」
「じゃあ好きな人は?」
「いたらこの仕事してないんじゃないかな、俺」
「……じゃあ」
次の質問は、前も聞こうか迷ったやつ。泊まっていいよって言われた時、この部屋にあがる前に聞いておいた方がいいかなって思って、思ったけど、なんとなくやめたやつ。
「恋愛対象はさ…女の子だけ?同性は?」
遠くで心臓が微かに鼓動を速くするのがわかった。答えを聞くのがちょっとだけ怖いってことは、まあ要するに、俺がもう既にこの人を、そういう目で見てるってことだ。
 しょーチャンの顔が一瞬浮かんだ。たいちはクズだよって、まるでそのワンフレーズが歌のタイトルみたいに、頭の真ん中に大きく浮かぶ。
 優しくされたらすぐ「いいな」って思ってしまう。甘やかされるとすぐ「好き」って言いたくなってしまう。クズなんだ。心の根っこが。

「……あー…」
力の抜けた仰向けを、その途端におみクンはちょっと変えた。体の向きを90度回して、俺から一瞬目を逸らして、それから片手で頬杖をつく。
 気まずそうにした数秒の沈黙で全部を理解した。なんだ、そっか。…そっか、残念。
「…考えたこと、ないな」
「そっか。そうだよね、わかった」
携帯灰皿の中で火を消して、心の火種も一緒に消そうと試みる。危なかった、もっとハマっちゃう前に聞いといて良かった。ホント危なかった。…ギリギリだった。
「…たいち」
「うん?」
「まだ出て行かないで」
「……」
息が一瞬だけ止まった。だって、やだな…困っちゃうよ。おみクンのスキャン能力は、ビックリするくらい性能がいい。
「…あは。え〜?寂しいだけなら女の子にしときなよ。おみクンだったら選び放題でしょ」
「たいちの方がいい」
「いやいやいや〜…え〜?あはは」
まだ半分も吸ってない一本を携帯灰皿に納めて、おみクンは俺の足の甲にそっと手を伸ばした。今度はまるで俺の方が、はぐらかさないでって言われちゃったみたいだ。
「…もっと旨いやつ作るから」
「……」
「食べてほしい。今みたいに。…たいちに」
足の甲に触れてる手を、ぼんやり見下ろす。大きな手だ。指も長くて綺麗。爪の形は縦にも横にも広い正方形タイプなんだな、おみクン。
 …ズルいんだ。肝心なところは何一つ言葉にしないくせに、思わずこっちが飛びつきたくなるようなセリフばっか吐いちゃって。

「……いいよ」
おみクンの手を、そっと上から触る。ねえおみクン。俺が今おみクンの言葉に飛びついてあげた理由はね、さっきすごく嬉しかったからだよ。
 …おみクンって名前。…本当に本名を、教えてくれてたんだね。
 おみクンのギョッとした顔を思い出す。取り乱した顔もかわいかったなって思い出し笑いしながら、手を握る。
「ひひ。俺っち今度はハンバーガーとかピザも食べたいな〜超楽しみだな〜」
「うん」
「特大LLサイズじゃないと満足できないかもしんないな〜コーラもあったら完璧だな〜」
「…ありがとう、たいち」
 おみクンがあんまりにも安心した顔で笑うから、この人ホントに分かってんのかなと疑いたくなった。
 だって、好きになってもいいかって聞いたのに。それでおみクンは、俺からは好きにならないよって言ったのに。なのに「でもそばにいて」なんてお願いしちゃってさ。
 ひどい男ッスよ。罪の塊ッスよ。手を、握り返さないでよ。…もっとハマっちゃうじゃないか。

 ちょっとだけ動揺させてやりたくて指の一本ずつをわざとらしく絡めたら、感心した様子で「指の先硬いんだな。ギター弾くもんなあ」とか言うんだもん。全然相手にされてなくて、ちょっと笑っちゃった。
「爪が短いのっていいな。長い客ばっかりだからさ、なんか新鮮だ」
「男の手が新鮮なだけじゃない?同性と手ぇ繋ぐなんてさ、だってないでしょ?おみクン」
「んー…そうだな、まあ確かに」
さっきからずっと、まじまじと俺の指を観察してる。なんか動物みたい。かわいいな。いちいちかわいくて…やだな。
「…へへ。やった〜おみクンのハジメテもらっちゃったッス〜」
「はは」
茶化したくて言ったのに、笑いながら「なんかかわいいこと言ってる」なんておみクンが呟いたりするから、ますます悲しくなった。…嬉しい。嬉しいから、悲しいや。

 五本ずつ、二人合わせて合計十本の指をさ、この話が終わるまではずっと、繋いでてよ。だって誰にも話したことないんだ。…緊張するからさ、お願い。繋いでてね。

「…さっき見た夢の話、しよっか」




05.



 不自然なくらい目を伏せたままだから、ああ、きみはこの話を誰にもしたことがないんだなと分かった。硬い指先の感触を確かめながら、俺はきみの話を静かに聞く。

 たいちは高校生の頃、とある劇団に所属していた。その当時在籍者が二十名にも満たなかったほどの、それは小さな劇団だった。人から注目を浴びたいという憧れのあったたいちが、恐らく自分でも人並みに、きっとそこそこ輝けるだろうと踏んだのが演劇の世界だった。
 その劇団はまだ無名に等しかったから、たいちの夢はすぐには実現されなかった。でも別にそんなことはどうでも良かったのだ。だって芝居は純粋に楽しい。仲間と一緒に送れる日々が嬉しい。
 モテたいという理由で高校入学と同時に始めたアコースティックギターを時折、仲間の皆に披露したりした。身内だけの小さなステージだけど、いつだってささやかな賞賛と拍手をもらえた。間違いなくその頃が一番幸せだった。そんな風にわかるようになるのは、いつだって、全てが思い出になってからだ。
 
 ある日、他の劇団からきみは唐突に声をかけられる。ずいぶん名の知れた大きな劇団だ、一体どうして?きみは内心胸を高鳴らせていた。
 それはいわゆるスカウトだった。けれど引き抜き等の類ではない。いまきみが在籍中の劇団を潰すためスパイになってほしいと、きみは声をかけられたのだ。成功した暁には必ず、我が劇団で主演を演じてくれと言われた。きみには間違いなく才能があると。
 舞い上がった。辺り一面に花が咲いた。当時高校生だったきみの耳にはもう届かない。それは決してスターになる才能という意味じゃない。スターになる為ならなんでもできる才能、という意味だったんだ。
 いつか大きな舞台で喝采を浴びてみたかったきみは迷って、だけど自分の夢を叶えることを選択した。

 自分の手を汚すことは拍子抜けするくらい簡単だった。良心を捨てるだけでいい。とある小さな劇団の一劇団員だったきみは、いつものように仲間と芝居の鍛錬をしながら、笑いながら、汗をかきながら、自分の良心だけを上手に殺した。
 匿名の脅迫状や脅迫電話を繰り返して、劇団の内側から不安を煽った。でもうまくはいかない。きみが差し出した障害物に尚更皆は一致団結して、円陣の中にきみを入れたまま、一丸となって本公演に向け魂を燃やした。
 潰さなきゃ意味がない。でも捨てたはずの良心が今更顔を覗かせてくる。みんなが自分に笑いかける。誰一人自分を疑わない。
 きみには退路がなかった。何十通と手作りの脅迫状を送ったのに、心を殺して脅迫電話をかけたのに、小道具も隠してやったのに、衣装だってズタズタに切り裂いてやったのに。それでも誰一人匙を投げ出そうとしてくれない。きみは誰にも疑われることのないまま、一人ぼっちのまま、負けたのだ。
 きみのしたことは全てバレた。きみの部屋から作りかけの脅迫状と、脅迫電話の時に使うカンペが見つかった。

 取り囲んだのは二十名にも満たない劇団員たちだ。だけどきみは、何千人もの前で処刑される罪人のような気持ちだったんだろう。
 土下座した。皆が見ている前で額を床に擦り付け、涙と鼻水を垂らしながら謝罪の言葉を延々と繰り返した。きみを見下ろす何人かはきみと同じように泣いていたと言う。裏切られたと誰かが言って、聞きたくないとまた別の誰かが言って、信じられないと、しゃくりあげて泣く誰かだっていた。
 きみは肩に優しく手を置かれて、もういいよと震える声で言われた。許されたわけではない。それは、出ていってくれという宣告だった。

 それから、たいちは行く宛を失った。スパイを持ちかけてきた劇団にだって行けるはずがない。恨み言を唱えに行く元気も、そもそも資格だってありはしない。
 劇団の寮に住んでいたことも不運のうちの一つだった。早速今日から寝泊まりする場所がないのだ。ホームレスという文字が、その時たいちの頭を横切ったと言う。
 実家は電車を乗り継げば帰れる距離にあったが、けれど帰る為に必要な、下げるツラがない。なぜなら役者になると言って家を出た自分のことを、最初から家族の誰も応援してくれてはいなかったから。半ば勘当のように家を出たたいちに「おかえり」と言ってくれる者はいないのだ。

 何一つ手に入れることのないまま、たいちはボロボロになった良心と使用期限の過ぎた夢をカバンに詰めて、忘れるための生活を送ろうと決めた。貯金が尽きるまでその日暮らしを続けた。高校は行かないまま自主退学という形になった。進学する気なんてそもそもなかったのだから、もうどうだっていい。
 ぼんやり眠ると決まって悪夢を見てしまう。それが怖くて、逃げられるものをいつも必死で探した。自分には何かなかったか。何か一つで良い。人並みに、そこそこで良いんだ、趣味や特技がなかったか。
 雑踏の向こうから路上ミュージシャンの歌声が、その時たまたま聞こえた。…ああ、そういや。あれでいいか、もう。



「…どうッスか、最悪過ぎて引いたでしょ」
長い間伏せていた目をようやく元に戻して、たいちは何事もなかったかのように笑った。
 驚きはしたが、でもそれと同じだけ納得もできる。芝居をするたいちの姿はなんとなく想像に難くないし、それになにより、きみの目の色をこれでやっと的確な言葉で言い表せられる気がした。夢を挫折した者の目をしているんだと…いや、そんなこともちろんきみには言えないが。
「…引いてないよ」
たいちが指を解こうとするから、俺は追いかけるように指先に力を込める。上体を起こしてその目を見つめる。きみを許さなかった人々のことを思い浮かべながら、きみの目を見る。
「あは。まだ繋いでてくれるんだ。やっさしい」
「……」
必死に茶化すから、もっと強く手を握った。
「……その、俺がいた劇団さ」
「うん?」
「今は超有名になってんスよ。全国も回ってるし、演劇系の雑誌にも特集組まれたりしててさ」
「…そうか」
笑って「良かったよね、ホント」と言うたいちの笑顔の奥に、何もない訳がない。ないんだよ、分かるさそれくらい。

 辛かったな。忘れたくても忘れられないよな。許されなくて、ひとりぼっちになってしまって、きっと長いこと途方に暮れたよな。
「悔しかったな」
俺の口からこぼれ出た言葉に一瞬だけ動揺してみせたが、すぐにまた笑顔に戻って、たいちは軽く笑い飛ばした。
「あはは、さすがにそれ俺が言ったらあたおか」
「うん、でも悔しいな」
「…やー…はは…」
「たいちもそこにいたかったよな。…悔しいよな」
「……」
 お前の過去に何一つ関与してない、無関係な奴の、無責任な相槌だよ。何を言ってるんだ正気かと、石を投げたい誰かがいるなら俺に投げてくればいい。
 いくらでも受けるよ。いいんだ、だって俺はクズだから。気にしなくていいよたいち。正論のサンドバッグに俺がなるから、お前はどうしようもない本音をこぼせばいい。
 …許してもらえなかった人間が自分以外にいるなんて、そんなのは、まっぴらごめんだ。

「………」
繋がれた手から一切の力が抜ける。たいちは唇を精一杯噛み締めて、なのに笑おうとするからだろう、すごく変な顔をした。
「………もうちょっとだけ、やりたかったかな…お芝居」
「うん」
「もうちょっと…ホントにもうちょっとだけさ…みんなと一緒にいたかったかもなぁ…」
「うん」
俯いて、空いてる方の手でピースサインに使う二本の指を開閉しながら「ここ、カットね」と冗談を言う。だから俺も一緒になって「カット機能ないんだごめんな」と冗談を言った。
「……っ…あは、永久御蔵入りッスよこれ…」

 俺は何も知らない。一切を知る由もない。だからお前の震える肩だけがさ、たいち。俺の知ってる全てだよ。
 許されたかったよな。許してほしいなんて言わない。言うつもりもない。だけど許されてみたかったんだ。許された先に今とは違う未来があったかもしれないんだ。悔しいよな。悔しくていいよ当たり前だ。そう思ってしまうことくらい、世界のどこにも響きはしない人間一人ぶんのみっともない感情くらい、存在することを許してほしい。
 それすら許してもらえないなら、そんな世界は、クソ喰らえだよ。
「…こ…あは、こ、困るよ…」
「…うん?」
「おみクン…優し過ぎだよ…」
「……」
優しさって、一体なんだろうな。相手の望んでいる言葉を並べて、震える肩を抱いて、ずっとそばに寄り添ってやることを言うのだろうか。
 もしそれが本当に優しさなのだとしたら俺はたいちの言う通り、よほど優しい奴なんだろう。でもなたいち。俺は、俺をそんな風にはこれっぽっちも思わない。
 優しさとは、きっと決して優しくはない人間の、憧れから作り出された偶像だ。これが優しさだろうと狙って撃ち放たれた散弾だ。予測で導き出された計算式の、イコールの右側だ。
 本当の優しさとは、形なんかない。本当に優しい人が狙いも計算もなく自然にやってのける偶然の上にしか存在しない。それを優しさだと自覚していない人の中からしか、生まれないんだ。

「…ありがとう。よく言われるよ」
繋がれた手を軽く持ち上げてゆらゆらと揺らした。たとえ偽物でもお前の心が今少しでも軽くなるんなら、まかせてくれ。いくらでも贈るよ。
「…らぁらー…ららぁーらー、らんらんらぁー」
「……」
口から出まかせのメロディーをこぼしてみた。思いつくままやるものだから、たまにつっかえたり音程がグラグラ揺れたりする。とてもじゃないが音楽とは呼べないそれを、たいちはそっと笑ってくれた。
「…ふふ。それなに?」
「ん?たいちとの出会いを祝して即興でいま作ったんだ。すごいだろ」
「あはは、うんすごい、天才」
「そうなんだよ天才なんだ。困っちゃうよな」
「あはは」
あの時、多くを聞かずにただ、歌ってくれただろ。笑ってくれただろ。適当な冗談を並べてさ、お疲れ様って。俺に言ってくれただろ。
 それを優しさって言うんだ。振り返った時にやっと初めて気づく、まるで霧みたいな、形のないそういうものこそをきっと、優しさって言うんだ。
 見よう見まねの偽物しか返せない。ごめんな。少しだけ悔しいよ。お前には本物を返してやりたかった。
 …こんなことを思うのは、そういえば生まれて初めてかもしれないな。たいち。

 壁に背をくっつけて膝の間に顔を隠すたいちと、その夜はずっと、手を繋いでいた。





06.



 窓の向こうがぼんやり明るくなってきて、始発が走る電車の音も遠くで聞こえ始めて、いい加減臭いからお風呂借りるねってシャワーを浴びて、寝巻きを借りて、缶チューハイを一本飲んで、タバコを吸って、歯を磨いて、寝る前に二、三曲弾き語って、そういやライン交換しようよってIDを送って、クッションとバスタオルとブランケットで作った即席の布団を床に敷いてもらって、すぐ隣のベッドから聞こえてくる寝息を聞きながらスマホをいじってても、やっぱりずっとダメだった。ずっと消えてくれなかった。
 練習途中の歌の弾き語り動画を探した。右手で画面を空中に固定しながら、左手で幻のフレットを握る。C#m7から始まるサビを、声を出さず口パクで歌う。

 おみクンが好きだ。好きだな、どうしよう好きになっちゃった。
 いやだな。いやだなと思いながらコードを抑える指は不安定で、きっといま音を鳴らしたらものすごくヘタクソなんだろう。
 俺はバカだ、どうして全部話しちゃったんだ。優しくされたら縋っちゃう自分を知ってるのに。それでこの人は、絶対優しく聞いてくれるって分かってたのに。
 久しぶりに始まりから終わりまで全部なぞった最低最悪の思い出は、おみクンにどんな風に届いただろう。俺のことを内心見損なって、引いていたかもしれない。いや実際はそんな感想すら湧かなくて、心底どうでもいいと思っていたかもしれない。
 好きでもなんでもないお客さんを相手に相槌を打って、適当な隙間に優しい言葉をかけてやる。やったじゃん俺っち超ラッキーだってタダで本物のホストに接客してもらっちゃった。…ごめんね、タダ働きさせちゃったね。
 一番大好きなバンドに、恋の歌があんまりなくて良かった。恋愛ソングはきっと当分歌えない。歌いながらたまに、泣いちゃうかもしれないから。
 明日は起きたら人通りの多そうな場所に繰り出して、やたら明るい歌ばっかり歌おう。弾き語り動画を途中で停止して、登録してるゲーム実況のチャンネルを開く。
 好きな気持ちがちょっとでいてくれるうちはいい。だけどちょっとじゃなくなっちゃったその時は出ていかなくちゃいけない。出ていく時は、うまいこと黙って行かないとな。もうすぐやってくるだろう未来のシミュレーションをして、俺は既に観たことある実況動画ばっかりを何時間も観続けた。

 昼ごろ、誰かと話しているおみクンの声がして目を覚ました。ぼんやり薄目を開けると台所の方、点いてないタバコを指に挟んでぶら下げたままのおみクンが、スマホを耳に充てていた。
「……わかりました、それじゃ…はい」
通話が終わったのか、耳からスマホを離してひと息つく。憂鬱そうな、緊張しているような、まるで面接に行く前みたいな表情だった。
 じっと見てたら数秒後、起きてる俺に気付いて困ったようにおみクンは笑った。
「こら、いつから盗み聞きしてたんだ」
「……わかりましたのとこから」
「嘘つけ。本当のこと言わないと足の裏くすぐるぞ」
意地悪な笑顔に笑い返して「なんでもお見通しで怖〜」って、言ってあげた。嘘と方便ばっかりで生きてきたから、こんなふうに、ホントに本当のことを言った時に信じてもらえない。オオカミ少年の気持ちがいま世界で一番よくわかるのは、きっと俺だ。

「俺、食べたら出るから」
起きて一回目のご飯を食べながらおみクンが言った。テーブルの上に並んだお手製の味噌汁と肉野菜炒めは、やっぱり文句のつけようがないほど美味しい。「簡単でごめんな」って枕詞がついた野菜炒めの豚肉は、いちいちプリプリでご飯がすすむ。
「そうなんだ、ちょっと早いね?同伴ッスか?」
「…うん」
やたら暗い顔で俯く。よっぽど会いたくないお客さんなのかな。仕事だから選べないもんね。ホストはやっぱり大変だ。
「この世の闇ッスね…」
ボソッと呟いたら、おみクンが八の字に眉を垂らして笑った。
「そのフレーズ、俺結構好きだな」
「ホント?じゃあ作っちゃおっかな、この世の闇ってタイトルの歌」
「あはは」
笑う元気があるから、大丈夫なのかな。どうなんだろうわからない。聞かれたくないことは質問したくないから、味噌汁を啜りながらおみクンの様子をこっそり伺う。
「たいちの今日の予定は?」
「俺?俺はねー、ちょっくら稼いでくるッスよ」
「路上?」
「うん。大金持って帰ってくるから楽しみにしてて」
「はは、わかった」
味噌汁を飲み終えてもやっぱりわからない。わからないまま、結局ごはんもおかずも全部綺麗になくなってしまった。

 おみクンの出発と合わせて俺も部屋を出た。手を振って別れて、一日半ぶりの外の空気を目一杯吸い込む。コンビニでタバコと炭酸を買ってから都合の良い場所を探した。
 夕方前の時間帯はあんまり打率が良くないけど、暗記途中の歌を練習するのにもってこいだ。五時のチャイムが鳴るまでを一つの目標にして、適当な公園のベンチで俺は一人アコギを鳴らした。
 せめて万札は持って帰ってあげたいとこだ。美味しいご飯二回も食べさしてもらったし、タダ働きもさせちゃったし。この歌の練習が終わったら万人ウケしそうな曲もいくつか見繕っておこう。財布の紐が緩いお客さんに、どうか沢山会えますように。

 二時間くらい経っただろうか。そうやって練習していたら、コード譜を表示してた画面が急にラインの呼び出し画面に変わった。まだ交換してホヤホヤの、それはおみクンからの着信だった。
 通話ボタンをタップしてスピーカーモードに切り替える。練習をやめたくなくて、太ももの上に置いたまま「もしもーし」と言った。意識の半分はギターに残して、覚えたてのコード進行を繰り返す。
『あー…たいち。俺だけど』
スマホ越しのおみクンの声は、なんだかちょっとだけ硬い感じだ。通話が苦手なタイプなのかな。
「うん、どうしたんスか俺クン」
『…あー…はは。…いま何してる?』
「いまねー、イケメンのリーマンさんとストゼロ飲んでる」
適当に嘘八百を吐いたら、スマホからあははって笑い声がした。あのさあ。笑ってないで探りの一つでも入れてほしいんスけど。
『…たいちさ』
「うん?なに?今日は家帰れないよーって?」
『いや…あー、そういうことじゃないんだ』
やけに歯切れが悪い。本題がなかなか見えてこないからきっと言いにくいことなんだろうな。こういう時はこっちから当てにいってあげないと。
「俺のことは気にしなくていーッスよ。どこでも寝れるし」
『…うん、そうか』
「実は彼女サンいたとか?なんかバレちゃった?」
『いや、違うよ。…あのさ、たいちさ』
「うん、なに言われても大丈夫ッスよ。なんでも言っておみクン」
『……金を、もらってくれないかな。ちょっと困ってて』
「…金?」
どういう意味か全然わからなかった。ない頭をとりあえず全力で回転させてみる。え、なんだ?運び屋とか?頭にヤの付くあっち系?それとも特殊詐欺とか?あ、わかった受け子の最中?お巡りさんにバレちゃった?
「…いま誰かに追われてるってこと?」
恐る恐る聞いたらまた笑われた。結構本気で当てにいったのに。
『…ストゼロ飲み終わったらでいいから、会えないかな』
「いいけど…えっと、おみクンどこにいるんスか」
『家に戻ってる。冷蔵庫の中なに入れてたかなと思って』
「…えぇ…?」
変だ。だって同伴中なんじゃないの?そろそろお客さんと一緒にお店に向かわなきゃいけない時間帯だろうに。なんで家に戻ったの?それも理由が冷蔵庫の中って。
「…ホントに同伴だったの?」
『……ちょっとさ、今から屋上行ってみようかな。立ち入り禁止なんだけどな、ここに入居した時から実は気になってたんだ』
「おみクン?」
『たいちさ、金が欲しかったらでいいよ。忙しかったら無理しないで』
「ねえおみクンって」
『邪魔して悪かった、もし会えたらまた後で』
そう言って通話はあっけなく切れた。暗くなった画面と無言のまま見つめ合う。しばらくしてから背中にヒンヤリしたものが走って、喉が鳴った。
 …なにいまの。絶対やばい。絶対そうじゃん、やばいやつじゃん絶対。
 慌てて立ち上がり、ギターをしまってケースを背負った。ここからおみクンの部屋があるマンションまで、どんなに急いでも二十分くらいはかかってしまう。クソ、こんなことならおみクンと一緒に出発しなきゃ良かった、部屋でダラダラしておけば良かった。俺の馬鹿、急げ、走れ、馬鹿だ、もっと速く走れ、馬鹿野郎、なんであの時「笑う元気があるから大丈夫」って思ったんだ。知ってるじゃん俺。ずっと前から知ってたじゃんか。
 ボロボロな人ほど笑うんだ。もう無理だよって時にこそ、人は、笑うんだ。

 おみクンの部屋があるマンションに到着した頃、既に俺は全身で息をしていた。こんなに長い距離を全力疾走したのはいつぶりだろう。ギターが重い。膝に手をついて必死で呼吸を整えていたら、頭上からやけに平べったい「おーい」という声がした。
 見上げると建物の一番上、屋上の柵に寄りかかって俺を見下ろすおみクンがいた。
「はーっ…もー…おみクン大丈夫!?」
叫んでも、ひらひらと手を振ってくるだけ。一体なんだって言うんだ、メチャクチャ心配したじゃないか。
「…はー…今から行くからね!そこいてよ!」
おみクンが二回頷いたのを確認してエレベーターに乗る。真っ直ぐ上へと運ばれながら、俺はやっと肩の力を抜いて息を吐いた。
「焦るじゃんマジでさぁ…」
 良かった。生きてた。…もしかしたらって思っちゃった。

 最上階に着く。屋上へ続く出入り扉はそもそもなかった。幅1メートルほどの通路の一番奥には清掃道具類がいくつか立て掛けられていて、通路左手側に鍵のかかった扉と、右手側には俺の胸と同じ高さの塀が続いていた。その塀の向こうが屋上だ。
 ギターを先に塀の向こう側へ下ろして、それから続けて自分も乗り上げる。降り立ったその場所は四方の柵以外なんにもない、ひどく殺風景な場所だった。
「…来てくれたんだ。ありがとう」
おみクンが柵に背中を預けて緩く笑ってる。足元には茶色い紙袋がひとつだけ置かれてる。俺を見てる筈なのに、目が合ってる気が全然しない。…ねえ、どこを見てるの。なにを見てるの。おみクン。

「これさ、もらってくれると助かる。使い道思いつかなくて」
紙袋を指差して「はは」って短く笑う。やけに乾いた声は小さな風に煽られて、簡単にどこかへ飛んでいってしまう。
「……おみクン?」
「車二台くらい買えるんじゃないかな。中古だったらランボルギーニもいけるかもしれない」
「おみクン」
「あー…どうだろう、ちょっと無理か。でも何年かは遊んで暮らせると思う」
思わず駆け寄った。俺の声が届いてない。目が、全然合わない。
「ねえ、おみクン」
「……間違えたなあ、俺…」
怖くて手を取った。あんまり冷たい温度に余計怖くなった。
「馬鹿だなあ。何年も気づけなかった」
「間違えてない」
「はは、そうだな、もう間違えない。大丈夫」
「おみクンは馬鹿じゃない」
「たいち、もし腹減ってたらさ、冷蔵庫の中に色々作って入れておいたから食べて。友達とか呼んでもいいし」
「おみクン俺のこと見て」
両方の手を掴んで揺さぶったら、おみクンはゆっくり目を閉じて俯いた。昨夜握り返してくれた手が今はどうして。まるで石みたいだった。
「…もういいからって。もう忘れてくれって、言われたんだ」

 ああ、行かせなきゃ良かった。意地でもおみクンにしがみついて、俺っちのこと置いてったら泣いちゃうよとかなんとか言って、困らせてでもいいから止めればよかった。
 一人で行かせちゃった。俺は大馬鹿野郎だ。

「何も受け取ってもらえてなかったんだ。…笑っちゃうだろ」




07.



「私たちのことは忘れてください」
 深々と頭を下げられた。親友がまだ生きていた頃、家に何度か遊びに行ったことをふと思い出す。あの頃よりずいぶん薄くなった親父さんの頭をぼんやり眺め、そういや何年経ってるんだったっけ?と頭の中で指折り数えた。


 なんの前触れもなくかかってきた電話は、名前を登録する前に覚えてしまった番号だった。親友が住んでいた実家だ。
 出だしの「はい」という声が掠れた。続く「もしもし」はもう少しまともな声にしなければと喉に力を入れる途中、電話の向こうの人物はそれを待たずに用件を告げた。
 ◯時に××の喫茶店で会えないか。
 それはずいぶんと抑揚のない声だった。会うことを提案されたのはこれが初めてだ。
 頷くとすぐに電話は切れた。店内で俺を待つ親父さんの姿を見るのは嫌だな。そう思って、約束の時間より三十分くらい、早く着くように家を出ようと決めた。

「…伏見くんが償う罪なんてないって、分かっていたんだ本当は」
向かいの席、親父さんは店員からコーヒーを受け取って「どうも」と会釈をした後、しばらく間を置いてからそう言った。
「感情の持って行き場がなかった。きみを罵ることであの時は、やっと立ってたんだ」
白いコーヒーカップから湯気が立ち上っている。注がれたコーヒーはどこまでも黒くて、じっと見ていたらなんだかその中へ落ちていってしまいそうだなと思った。
「……たった一人の…息子だったんだ」
テーブル越しに一度だけ目が合う。けれど親父さんはすぐにガラス窓の向こうへ顔を傾け、焦点を遠くへ合わせた。
「これからもずっと私たちの、かけがえのない息子なんだ」
「………」
何を言えばいい。いま、俺は。いつものように自分を俯瞰しろ。状況を正しく判断して、その場に合った適切な言葉を選び取ればいいんだ。ほら、早く。
 けれど頭の中は驚くほど真っ白で、考えひとつ浮かばない。
「きみの人生の多くを奪って台無しにしたよな、私は」
「……いえ俺は…いや僕は」
「わかってて動けなかった。ずっと何年も。…そりゃ怒るよなぁこんなんじゃ息子も」
「……」
「夢枕に立つんだよ。いつまでダンマリ決め込んでんだクソ親父って」
「……」
こめかみの奥からキーンという甲高い音が鳴って、それが頭全体に広がった。暑くなんかないのに脇に汗をかいて、寒くなんかないのに口元が小さく震えた。
「きみからのお金はいつも必ずおろして、ずっと保管してた。一円も手をつけてない」
そうだったんですか。
「ここに全額入ってる。少し重たいけど…持って帰ってください」
はい、わかりました。わざわざすみません。
 脳内で流れるセリフがさっきから一つも声になってないことに、この時の俺は気づいていなかった。

「きみにしてきた沢山のことを覚えているのに、きみの目を見ながらすまないと、どうしても言えない。…弱いんだ本当に。私たち家族の中で一番強いのがアイツだったから…支えがなくなって、どうしたらいいか分からないまま生きてる」
「……」
「これからは、何もしていただかなくて結構です。お願いします」
そして最後に深々と、頭を下げられた。
「私たちのことは忘れてください」
 


 今日あったことを話すと、彼は紙袋に一度だけ目をやって「へえ」と呟いた。ああ、またタバコが不味くなるような話しちまったな、ごめんな。
 柵の外に目をやる。七階建ての屋上からは、もっとずっと遠くまで見えるんだと思ってた。案外低いもんなんだな。街に埋もれた景色はずいぶん騒々しくて、どこもかしこも他人事だ。
「…なあ、たいちに一個だけお願いしたいことがあるんだ」
「…なに?」
夕日がビルの隙間から顔を覗かせている。ずいぶん窮屈そうだな。どうしてか、息継ぎに失敗してもがいてるように見えて仕方がない。
 夕日ってかわいそうだなと初めて思った。広くて青い空を味わうことのないまま、あんなに狭い場所で夜にバトンを渡すだけの役だなんて。
「ここから落ちた後、確認してくれないか。もしまだ息してたら悪いんだけどたいちに」
「それ俺がわかったって言うと思ってんの?」
「あー…そうだよな、やだよな。七階って低いんだなぁと思ってさ。違う方法にするか、そしたら」
「さっきからなんなの、本気で言ってんの?」
「電車とかもなあ…んー…迷惑だろうし…」
顎に手をやってぼんやり思案していたら、突然両頬をパシンと掌で挟まれた。
 初めて見た。きみはそんなに怒った顔ができるのか。

「わかったもういいよ。俺がその人に慰謝料払ってもらうから」
「ん?」
「おみクン死んだら俺がその人に言うよ。許されるなんて思うなって。一生十字架背負えよって。毎月決まった金額振り込んでもらってさそれでも言うんだ。誰が許しても俺だけは絶対許さないからって。電話もかけるし手紙も出す。まかしてよ脅迫状も脅迫電話もお手のもんだから」
「……たいち」
「それでさ、その人が死ぬ間際に札束叩きつけるんだ。一円も使ってないからって。こんなのいらないからって」
「やめてくれたいち」
「やめない。おみクンが奪われたもの俺も全部奪う。それで最後に捨てるんだ目の前で」
「……」
たいちの目があまりにまっすぐ俺の体を貫いてくる。痛いな。きみの目が青いから、痛い。
「…俺はなんにも、奪われてないよ」
「そう思ってるのはおみクンだけだ」
「だってはなから何も持ってないんだ。奪われるものなんてない。な?わかるだろ?」
「何も持ってないって思わせたんだよ周りが。周りにそうやって思わされただけだ」
「違う、わかってくれよたいち。奪って壊したのはいつも俺なんだ」
「違うってば聞いてよ!」
たいちごめんな。ごめん、あの時たまたま足を止めてごめん。どうしようもないこんなクズの為にきみは歌を歌ってくれたのに。それだけで充分だったのに。こんなことになるなら金を置いて立ち去れば良かった。こんな話を聞かせるつもりなかった。無駄な時間に付き合わせてしまった。
 ほら、また奪ってる。今たいちの時間と涙を、俺は奪ってるよ。

「…大学辞めた子とか、体売って店通ってる子ばっかりでさ」
客たちひとりひとりのことを思い出したいのに、顔も名前も出てこない。ぼんやりとした輪郭の内側は皆黒塗りで、ああ俺はやっぱり最低のクズだなと思い知る。
「みんな俺に金を落とすんだ。自分を切り売りして、俺のために頑張ったよって笑うんだ。エースにしてあげるねって、ずっと推しだからねって、なんでもするよって。そうやってみんなから巻き上げた金を…笑っちゃうよな。俺は全部ゴミに代えてたんだ」
親友の命を奪って、その家族の未来を奪って、せめて俺にできることはないかと探して、探したその先でまた別の誰かの多くを奪った。壊して奪って回った。それだけの人生だった。
 生きてちゃいけなかった。それだけは間違えちゃいけなかったんだ。それだけを間違えなきゃどれだけマジだっただろう。…でもしょうがないよな。だってそんな風にしてわかるのはいつだって、全てが思い出になってからだもんな。本当やんなっちまうよ。…なあ?たいち。
「クズがさ、なにか償えるとか返せるとか…そんなこと思っちゃダメだよなぁ?…はは」
笑うと、たいちは俺の頬から手を離して「そうかもね」と言った。温かかったなと、離れてから初めて気づいた。

「…俺っちさー、いま練習してる歌あるんスよ」
たいちはひとりごとを言いながら塀に立てかけてあるギターケースの元へと歩いた。俺に背を向けて、ストラップを肩にかけるといくつかの小さな音を鳴らす。
「おみクン聴いてほしいな。お願いしてもいい?」
「いいよ。…俺でいいなら」
その場に腰を下ろして、数メートル先の彼を眺める。俺の方へ向き直ったたいちは、まるでヒューマン映画の主人公のように笑った。
 始まったのは、不燃物置き場の前で出会う誰かと誰かの物語だ。

「大長編の探検ごっこ 落書き、地図の上
 迷子は迷子と出会った 不燃物置き場の前」

 優しくて静かなメロディーだ。きっとこれもたいちが言ってた××というバンドの歌なんだろう。歌詞からなんとなく、共通したぬくもりを感じる。

「嫌いな思い出ばっかり詰めた荷物を抱えて
 ずっと動けない自分ごと埋めてと笑った
 似てて当たり前 そういう場所だから」

 てっきり、アップテンポな曲をかき鳴らすのだと思っていた。元気出してよ死ぬなんて言わないでよってメッセージを歌に込めて。もしそうだったら困るな、どんな顔で聴いていたらいいか分からないなと不安だったから、ちょっと拍子抜けだ。
 …俺のために選んでくれた一曲なのかな。よくわからない。手持ち無沙汰がなんとなくやりづらくて、俺は少し迷ってから煙草に火をつける。

「大丈夫じゃない自分も動けないしな
 ああもう、見つけたものは本物だよ
 出会ったことは本当だよ
 捨てるくらいなら持つからさ、貸してよ
 なるほど これだけあれば当分お腹減らないな
 一緒にここから離れよう
 離れよう」

 ずっと目をつぶって歌うから、あの青い目が見えない。いま見えたら夕日の色と重なって、きっとすごく綺麗だろうに。

 ぼんやり、死んだ後のことを考える。もしも俺が死んだら、一目だけ母さんに会えるかな。もし会えたら名前の由来を聞きたい。教えてくれるだろうか。それとも怒るかな。なんでここにいるんだバカ息子って、頬を叩くくらいはしてくれるだろうか。
 親友のあいつはどうかな。あっちの世界には道路があるんだろうか。もしあるなら、また一緒に走りたい。今度は二人だけで、最高時速で、どこまでも行きたい。
 少し考えて、いや会えるわけないじゃないかと思い直す。バカだなあ、だって俺が行くのは地獄なんだから。

「何を背負っても自分のものじゃないなら
 どれだけ大事にしても偽物だよ
 でも大事なことは本当だよ
 預けたものならいらないさ
 迷子の、まーまでも…」

 たいちの声が急に揺れる。そういえば練習中と言っていたし、歌詞かコードを忘れてしまったのかな。
 でも、そうではなかった。
「きみさえーいれば、きっと僕でいらーれるさ…いっしょに、ここから…離れよお…」
たいちは歌いながら、泣いていた。

 ステッカーだらけのギターを見つめる。きっと長い時間を共にしてきた、彼にとって大事な一本なんだろう。俺にもあっただろうか。誰に偽物と言われても、それでも大事なことは本当だよと迷いなく言えるような何かが、あっただろうか。
 …ああ、写真は捨てなくて良かったかもな。持っていたら見返すことができたのに。今この手に大事なものがなくても、あったことを思い出すくらいはできたかもしれないのに。
 写真、そういえば俺たくさん撮ってたよな。悪ふざけする仲間、日曜大工が趣味だった親父の後ろ姿、その親父に連れて行ってもらった母さんの故郷、バイト代を必死で貯めて買ったバイク、そのバイクで初めて行った先の町並み、なんでもない日の、なんでもない瞬間を、撮ってたよな、俺。
 親父、元気にしてるかな。迷惑をかけたくなくて黙って出てきてしまった。もうすぐ十年くらいになるだろう。酒の飲み過ぎで肝臓をやってないといいが…ああ、どの口が言ってんだって怒られちまうか。
 写真も、バイクも、どうしてこうなってから思い出すんだろう。たしかに大事だった。大事なものを大事だと言える時代が、俺にもあった。

「大丈夫、見つけたものは本物だよ
 出会ったことは本当だよ
 捨てられないから持っていくよ
 迷子だった時も…」

 一度は泣き止んで必死に立て直そうとするのに、たいちはまた次のサビで声を震わした。鼻を何度も啜って、左手をフレットから離して目元を乱暴に拭いて、それでもガタガタになった音楽を、最後までやめなかった。

「出会った人は生き物だよ、生きてたきみは笑ってたよ、迷ってた僕と歩いたよ…偽物じゃなーい…荷物だよ…っ…」
「……」
泣くなよ。泣かないで、たいち。
「これだけーあれぇば、きっと…ひっ…ぼ、僕でいらーれるさぁっ……」
サビの、音が一番高くなるところでそんなに泣きじゃくるなよ。情けないなぁたいち。そんなんじゃ投げ銭してもらえないぞ。
 …バカだな、たいち。バカだよ。
「…一緒に、ここから、離れよう」
「……うん」
泣き声と歌声の真ん中で揺らぐ言葉に、自分にしか聞こえない声で頷いてみる。不燃物置き場の前で手を繋ぐたいちと自分を思い描いてみる。
 いつも勝手に始まる白黒映画がその時初めて色をつけた。フィルターぎりぎりまで灰になった煙草の火を消し忘れて、ただ、なんかいいなと思った。悪くないかもなと思った。写真を撮りたいなと思った。

「…ご静聴、あざッス」
鼻水を啜ってからたいちが頭を下げる。小さな拍手を送ると、彼は照れたように頭を掻いて「自分史上最高に下手だった」と笑った。
「…そんなことないよ」
「あ、いいッスそういうの。お世辞はノーセンキュー」
「お世辞じゃないよ」
「いい、わかってる。俺っちもそこまで馬鹿じゃないんで」
「……バカだよ」
俺の一言にたいちは目を見開いて「へっ」と間抜けな声を上げた。ああ、今の顔よかったよたいち。カメラを持ってたら絶対撮ってた。
「…マジか…おみクンに馬鹿って言われた……」
「なあ、たいち」
「…なんスか…高校中退の馬鹿に何の用スか…」
ギターをケースにしまいながら項垂れるその様子もいい。おかしくてかわいい。写真に撮りたい。忘れた頃に引っ張り出してきて「この時泣きながら歌ってよな」って、からかってやりたい。
 「おみクン超意地悪じゃん」というたいちの声が簡単に想像できるから、思わず笑ってしまった。

「…旨いの作ったんだよ。食べてるところ、俺に見せて」
後先もたいちの都合も考えずに放ったら、結構大きなため息を吐いて、それから彼は笑った。
「……しょーがないなぁ」

 歯を覗かせて笑う口元、それとは不釣り合いの真っ赤な目元。
 そういうのを優しさって言うんだ。全然知らなかっただろ、知らないきみだから優しさはそこに宿るんだよ。たいち。




08.



 冷蔵庫の中からいくつも出てきたタッパーの数に驚く。一体この人はどんな精神状態で台所に立ってたんだろうって考えて、ゾッとした。
 バケツリレーの要領でテーブルの上に運びながら、この冷蔵庫の中身が空っぽじゃなくてホントに良かったと思った。もしも空っぽだったら今おみクンはこの世にいなかったかもしれない。もしもの世界はちっちゃなネジ一本の有り無しで簡単にこの世界と入れ替わる。
 じっくり考えたらそんなのメチャクチャホラーだ。…うわヤバ怖。だからブンブン首を振って怖いものは追い払って、タッパーの中身当てクイズに俺は一人勤しむことにした。
「たいちの好きなメニューがあるといいけど」
最後のタッパーがレンジの中で回るのをぼんやり眺めながらおみクンが呟く。一足先にテーブルの前で俺はあぐらをかいて、ぼんやりしてるおみクンの背中をぼんやり眺めた。
「俺っちなんでも食べるよ。レバー以外だったら」
「レバー駄目なのか?」
おみクンは意外だって顔してこちらを振り向いた。
「うん。俺はいま内臓を食ってる…って思っちゃうんだよね」
「じゃあソーセージも駄目なんじゃないのか?腸の皮に刻んだ肉突っ込んでるんだから」
「言い方!やめて怖い!」
「あはは」
あのさぁ笑ってる場合じゃないんスよおみクン。一つでも間違えたらその途端おみクンが消えちゃいそうで、さっきから俺は心臓がバクバクだって言うのに。

「はい。これで全部。めしあがれ」
一膳しか箸を用意しないおみクンがちょっと嫌だった。自分が食べる気はさらさらないんだ。…ふーん、いいよ見てろ。俺の食欲そそる食べ方でその気にさせてやる。
「いただきまッス!」
勢い良く手を合わせてタッパーの蓋を次々開ける。おみクンのおみクンによるおみクンのための「食べてる俺を鑑賞する会」は、そうやって幕を開けた。
「…うわウマッ!!」
フワフワのオムレツ、にんにくの効いた唐揚げ、形の揃ったロールキャベツ、惣菜のパックとは別次元のポテトサラダ、魔法の味がするミートソース。全部美味しい。ホントにあり得ないくらい美味しい。
「…ふふ」
テーブルの向こう側、肩肘をついておみクンが満足そうに笑う。もっと笑ってほしくてどんどん食べた。胃袋が破れてもいい。おみクンが作ったものを何一つ残したくなくて、食べ続けた。
「旨い?」
「うん、意味わかんないくらい美味しい」
「たいち、口の右のとこ。唐揚げの衣ついてる」
「今それ気にしてらんないからちょっと後にして」
「あはは」
笑って。ねえいっぱい笑ってよ。おみクン笑ってくれるなら俺どんな冗談も言うよ。

「………」
テーブルの向こうが急に静かになる。ミートソースを勢いよく吸い込んでから、俺はチラリと視線を持ち上げた。
「……おみフン」
飲み込まないまま名前を呼ぶせいで、おみクンって呼べなかった。口の中をポカンと晒す俺を、おみクンは涙をポタポタ落としながら、だけど笑って、まっすぐ見てた。
「…写真撮りたい」
「……」
「カメラ、人に譲らなきゃ良かった。結構高いやつだったんだ」
「……」
「撮りたいよ。口のまわり汚してるたいちのこと」
「……」
撮ってよ。撮っておみクン。俺のこと撮って。いっぱい撮って。寝起きもあくびもくしゃみもいいよ。全部撮って。撮って、おみクン。
「…捨てなきゃ良かった。たいちに俺の撮った写真見てほしかった。別に上手いわけじゃないんだけどさ、自分でもいいなって思えた写真だって…あったんだ。少しは」
ボタボタ泣きながらそれでも笑うから俺はいてもたってもいられなくなって、テーブルの反対側、おみクンの隣に膝をついてその体を思い切り抱きしめた。
「…奪うばっかだった訳ないんだ、おみクン」
「……」
「あげてるんだよ。…忘れないでよ」

 おみクンを罵ることでなんとか立っていた親友のお父さんに、おみクンは、なんとか立てるその足場をあげたんだ。
 おみクンをエースにしたいって体を切り売りする女の子たちに、おみクンは、辛いこと全部忘れられる優しい時間をあげたんだ。
 奪ってばっかりな訳ない。ねえ、自分の心を一番最初に殺して、おみクンはずっと何かをあげてきたんだよ。もう殺さないで。これからは自分のこと一つも殺さないでよ。自分にあげてよ。自分に返してあげようよ。
 もうここからは、おみクンがもらう番だよ。
 
「…おみクン好き」
「……うん」
「あとおみクンのごはんも好き」
「はは、正直でいいな」
この人が好きだ。自分でも不思議なくらい。笑わせたい。笑った顔を見ていたい。たまに指を繋ぐくらいでいい、指を繋げる距離に、ずっといたい。だからどうかお願いだ。
「…死なないで」

「……」
 十秒くらい、時が止まったみたいに俺たちは言葉をなくした。頬を濡らしたおみクンが、俺の目を見ながらゆっくり両手を上げる。その手が、その手がいま俺の頬をそっと…。
 ……触ってくることはなく、おみクンは両方の手でカメラのフレームを作って、その奥から覗く目で俺をイタズラにからかった。
「いい顔してる」
「…はっ!?」
「うん。いま絶対シャッターチャンスだった。間違いない」
「いや間違ってるし!いま絶対チューする流れだったじゃん!!」
「だめだな、やっぱりカメラ買おう。せっかくだから前よりいいやつ買うか」
「だめだな、じゃないんスよ!なんなんスかマジで!!」
「あはは」
おみクンは両手で作ったフレームを解いて、笑いながら俺の頭をぽんぽん撫でた。おかしい。絶対おかしいこんなの。いまキスされると思った絶対されると思ったのに!
「ピザもハンバーガーも、まだ食べてもらってないもんな」
おみクンは笑いながら胸ポケットにあるタバコの箱を取り出して、自分の口に一本、それからもう一本を俺の口に勝手に刺した。
「旨いの作るよ。期待してて」
「いっ…いらねぇ〜!いま俺が欲しい言葉それじゃねぇ〜!」
「あはは。ほら煙草こっち向けて。火つけてやるから」
無理やり吸わされた食間の一本のせいで、怒ったらいいのか泣いたらいいのかよくわからなくなってしまった。さすが現役ホストだ、はぐらかすのが最強に上手い。何でもかんでも有耶無耶にして、こっちの質問には答えないまんまで、それで俺は気付いたら全部持ってかれちゃってるんだ、怖い怖すぎる。
「マジでこの世の闇ッス……」
「そうだよ、この世は闇だらけのクソまみれだ」
タバコの煙を大きく吐いて、なんだか嬉しそうに上を向く。全然意味がわからない。わからないのに…もう。やっぱりその笑った顔好き。

「なんか聴きたいな。一曲歌ってたいち」
「出たよ無茶ぶり…いい加減にしてよ…」
「適当に吸いながらでいいから。な」
「…っとにさぁ〜…」
咥えタバコをプラプラ揺らしながら、仕方なくギターケースを開いた。おみクンほんと勝手。タラシ。性悪。詐欺。
 だけどそれでもお願いを聞いてあげちゃうのはさ、まあしょうがないよね、惚れた弱みってやつッスよ。フレットを握って二つ三つコードを鳴らしながら、なにを歌ってあげようか考える。

「…えー、お集まりの皆様」
「おっ、なんだなんだ」
ふざけて始めたライブMCに、おみクンもふざけながら乗っかってくる。少し前へ身を乗り出すその感じもやっぱりかわいい。大好きだよ、おみクン。
「このライブも次の曲で最後となるわけですがぁ…」
「なんだそりゃー短いぞー」
「そこ、静かに」
「あはは」

 ねえおみクンまかしてよ。伊達に嘘と方便ばっかで生きてきた訳じゃないよ。もういいやって思った時は歌ってあげる。笑わしてあげる。おみクンが望むならたとえお腹いっぱいの時でもごはんいっぱい食べてあげる。
 今までのおみクンからもらったお金を、これからのおみクンが使おうよ。新しいカメラを買おうよ。ド派手な外車もレンタルしようよ。ドライブ行こうよ。俺が運転するよ。行ったことない所に行ってみようよ。その先で写真を撮ろうよ。いっぱい撮ってよ。まだ見せてない俺の恥ずかしい顔、おみクンの為ならいくらでも見せるよ。

「それでは聴いてください。僕の愛する人に捧げます」

 たった一人のためにラブバラードを歌う。覚悟しててね。この片想いが実を結ぶまで、俺が歌うのはずっとずっと恋の歌だ。