恋のボヤージュ


05.百年に一度の恋



 その夜、新聞配達員のカモメが号外を配達しにやってきた。

 どうやら今夜のストリングシャワーは日付が変わってすぐ、午前0時20分から見え始めるらしい。
 船の上にいるから分からなかったが、各地の街では盛大に祭りを開催しているようだ。
主要な都市の賑やかな様子がいくつも新聞に載っていた。
「これもストリングシャワーの力?」と煽り文句が流れる横で、海軍と海賊が楽しそうに肩を組んでいる写真もあった。

 0時20分まで二時間くらい余裕がある事を確認する。
 夜更かしするであろうクルー達の為夜食を作ってやろうと思い立ち、風呂から上がった後もう一度キッチンへ入った。
遅い時間帯だ、相当冷えるだろうから何か温かいものがいい。アサリが余っていたのを思い出したのでクラムチャウダーを作る事にした。あとは腹が減ったと喚く船員が出てくるだろうから、サンドウィッチでも用意しよう。


 既に甲板に集まり歌って踊る連中を窓越しに見ながら、俺は早速準備にとりかかった。

 スープに投入する為に野菜を細かく切っていると、トントンと、外から扉を叩く者がいた。
返事をする前に扉を少し開け、その隙間から顔を覗かせたのは、やっぱり、お前じゃないといいなあと思うのに、お前なんだよな。

 ウソップが眉を吊り上げ、睨むようにしてこちらを見つめている。

「…さみぃから、ドアしめてくれ」
まな板に視線を戻しそう言うと、その後すぐ扉の閉まる音がした。
「サンジ」と、俺を呼びかける声がしたので、出て行ったのではなく入ってきたのだと理解する。

「甲板にいたら冷えるだろうからさ、あったけえもん作ってんだ今」
「サンジ」

 ウソップを見ないまま会話を続けようとしているのに、ウソップはそれを許してくれない。
もう一度強く俺の名前を呼んでから、迷う事無くすぐ横まで歩み寄ってきた。

「なあ」
諦めて、一度小さく深呼吸した。

 何でもねえ顔しろ、気合いれろよ俺、と自分にエールを送り、諦めてウソップの方へ顔を上げる。
やっぱり怒ったような表情で俺を見つめるウソップが、そこにいた。

「…なんだよ」
少し笑って尋ねると、ウソップは少し考えるようにしてから口を開けた。
「大丈夫かよ?お前」
来ると思っていた言葉が、予想通り、来た。

「なにが?」
「何か考えてんだろ。…っつうか、悩んでるんじゃ、ねえか」

 包丁をまな板の上に置き、軽く手を洗った。料理は一旦中断だ。こいつが隣でこんな顔している限り、いつも通りにはこの手は動かないだろう。
胸ポケットから煙草を取り出し、ウソップの問いかけに何も返さないまま火を点けた。

 慣れしたんだ香りが口の中に広がるのを待ってから、俺は瞳を閉じる。あーあ、こんな風になるなら最初から、意地でも無理して、何でもない態度を取っておくんだった。

「…まあ、お前がそう見えたんなら、そうなんだろうな、きっと」
どこか人事のように呟くと、悲しそうな顔をするウソップが見えた。
俺が簡単には口を割らない事を悟ったのだろう。

「俺でいいなら、何でも聞いてやる。お前には借りもあるしさ」

 …だからさ。お前だけには話せねえって、分かってくれよ。
お前を慰めたあの時の俺の事なんて、忘れてくれていいから。借りなんて、貸してねえから。
 俺の心情など知るわけも無いウソップは、諦めずに俺の言葉を待つ。
そんな顔じゃなくて、笑ってるお前の方が見たいんだけどな俺は。

「クソ余計な気使ってんじゃねえよ。…もう行けって、マリモが冬眠しねえように見張ってた方がいいんじゃねえか?お前は」
皮肉や嫌味を言おうとしたつもりはない。
だけどウソップは俺のその返答がすこぶる気に食わなかったらしい。「なんだよそれ!」と怒りを露にした。

「俺は今、お前の心配してんだよ!分かってんだろ!」
「分かってるよ。だから、いらねえからほっとけって言ってんだ」
「…なんだよその言い方は!」

 ウソップの一段と強く響く声を聞きながら、俺は別の事に思考を傾ける。

 ゾロを好きなくせに、俺にまで情けをかけてきて、俺の感情を雁字搦めにするこいつが、兎に角とても憎たらしい。
でもほんの少し、気にかけてくれた事に喜んでいる自分もいる。それがクソ悔しい。
情けないくらい、俺は完敗じゃねえか。ただ隣でじっと、楽しそうにしてるお前を見ているだけで、良かったのに。

 欲張りになっていく自分は惨めで、哀れで、格好悪いったらねえ。

「…俺は、ただ…」
 ウソップが今度は小さい声で、独り言のように、続けた。

「俺はさ、全員で笑って、ストリングシャワーを見てえんだよ。お前が一人辛そうにしてたら…俺も、辛いから」
「……」

「…お前が笑えないなら、多分俺も笑えねえ」

 その言葉に、まんまと、いとも容易く、俺の心臓は握りつぶされた。

 俺をいいように翻弄してやろうなんて、お前はそんな事微塵も考えてない。
それは純粋な優しさで、仲間を気遣う温かい気持ちだった。その優しさを、受け取らない理由なんてない。一つもないんだ。
 …独りよがりな悲しさなんかで、どうしてこいつの優しさに腹を立てたりしたんだろう。

 そうだよな。惚れた時点でもう俺は、お前に完敗してるんだった。
最初から負けているのに今更、なんでもない振りをしようとするから、こんがらがる。惨めになるんだ。

「お前はすげーよ」

 ウソップは「はあ?」と首を傾げる。

「参った、てめえの勝ちだ」
初めから決まっていた。認めて受け入れるだけだったんだ。
お前が俺を好きじゃなくても、その優しさに何度でも救われてしまう事を。

「お、おう?よくわかんねえが…お前の負けだな!」
ウソップは困惑しながらも、勝ちという言葉が嬉しかったようで、俺が見たかった笑顔をやっと見せてくれた。

「俺も悩むさそりゃあ。なんせ絶賛横恋慕中だからな」
手の内を明かしてしまえば、なんと心は軽くなる事だろう。変なプライドも意地も煙草の煙のようにすうっと消えていくのを感じた。

「おっ…!?横恋慕!?お前が!?」
「そんな驚くなよ。お前だってしてんだろうが」
バンダナ越しに軽くゲンコツをしてつっこむと、ウソップは「いてっ」と目を瞑った。

「てめえも読んだんだろ、あの本」
 頭のてっぺん辺りをさすりながら「ナミに借りたやつの事か?」とウソップは尋ねる。
「そうだ。第二章で書いてあったじゃねえか。見れば恋が叶うって。…じゃあさ、惚れてる奴が別の奴に惚れてる場合…しかもその相手も同じ場所にいるなんていう、クソみてえな状況の場合は、一体どうすりゃいいんだろうな」

「…」
言葉を失うウソップが、ただ、じっと、俺を見る。かける言葉が見当たらないのだろう。いつもあんなに、忙しなく口を動かしているくせに。

「報われねえのが分かってるからさ。…そりゃあ元気も出ねえだろ」
笑って、想いを寄せている本人へ自嘲気味に告げる。
さあてどう励ましてくれんのかね、このお人よしは。

「…ナ、ナミか?それ…」

ウソップの言葉に時が止まる。
うん?何がナミさんだって?よおく考える。つまりこいつはええと、俺の想い人がナミさんであると、そう結論付けた訳か?

「………まあ、そうなるわな…」

 ウソップの、大はずれもいいところな解答を聞いて、俺は殊更でかい溜息をついた。
 いや、いいんだ分かってた。お前が俺の気持ちなんぞ考えた事もねえってのは。
それを考慮したうえで、ナミさんの名前が出てくるってのは、普通に考えれば一番自然で、なんていうか当たり前だ。

「そうか…サンジお前…本気だったんだな…」
俺が溜息の前に漏らした言葉で、自分の予想が当たってしまったのだと勘違いしたようだ。
…ああもう、そうかじゃねえよアホかお前は。
 もう内心ボロボロだった俺に、誤解を解く元気は残っていない。本気の恋ほど上手くいかねえもんだなあと、遠巻きに自分を笑うので精一杯だ。

「お、俺…んーと、そうだな…何出来るかわかんねえけどさ!…協力できる事は何でもするぜ!その、仲間同士の、そういうの、だから…難しい事もあると思うけど…うん」
「…やっぱり、ハッキリ言わなきゃ伝わんねえもんだな」

ウソップの、しどろもどろという表現がぴったりな応援を軽く流し、俺は内心ひどく落ち込む。
だって駄目だこいつ。てんでダメダメだ。協力するとか言ってきやがる。
俺を傷つけるのがそんな楽しいか。…ふざけんなよ長っ鼻。

「は、はっきり…言うのか?…そうだな!おお、もう言っちまえ!それが男ってもんだぜサンジ!」
「多分この様子じゃあ、伝わってねえと思うんだよ、微塵も」

「うむ、確かに。お前の態度ときたら、相手が女ってだけで毎度一緒だもんな」
「100年に一度とか、恋が叶うとか、横恋慕とか…もう知ったこっちゃねえ。俺の気持ちを守ってやれんのは俺だけだ」

「いや待てサンジ!俺も守ってやるぞ!なんたって勇敢で尚且つ心も優しい偉大なキャプテンウソップ様だからな」

「………」

 素っ頓狂な会話は続く。
俺の全力投球のストレートボールはことごとく、ウソップのミットに届かない。っていうか多分こいつが持ってんのグローブじゃなくてバットだ。彼方へ打ち返されてる気がする。

「…キャッチボールをしてくれよ…」
頭を抱える俺に「泣くなサンジ!男だろ!!」と励ますウソップを本気で蹴りたくなってしまったのは、とても自然な事だと思うんだが。どうよ。

「…時にお前、言っちまえとかクソ簡単に言うけどよ」
「おう?」
「なんて言ったら一番伝わると思う?協力してくれんなら、それ位一緒に考えてくれよ」

 多分今までの人生の中で、人の恋の悩みに耳を傾けるなんて事はほとんどなかったんだろう、心底困った顔で「あー…そうだな…ん~…」と、唸りながら、必死で言葉を紡ごうとしている。

「…うむ、まあそれはだな、サンジ君。自分なりのオリジナルの言葉が一番、いいのではないかな」
「てめえの協力ってのはその程度か。キャプテンウソップの名が聞いて呆れるな」
潔く逃げの体勢に入ったウソップに思い切り煙草の煙を吹きかけてやれば、ゴホゴホと咳き込みながら「何をするのだ悩める少年よ!」と、変な口調で抗議を申しだされる。

「よし分かった、恋に悩める君の為にこのウソップ様が伝授してやろうとも、相手の心に響く告白の台詞を!」
「おう頼んだ」
素直に耳を傾ける俺に少々面食らいながらも、得意げな様子で「おっほん!」と、ウソップは咳払いをしてみせた。

「まず、自分の思いが真剣なものであるという事を伝えるのが始めの一歩だな」
「おう、どうすりゃいい」
「ええと、そうだな。「今から言う事をどうか笑わないで聞いてください」出だしはこれで完璧だ」
新しい煙草に火をつける前に「それから?」と俺は促した。

「それからこう繋げるんだ。「貴女にだけは言わなきゃいけない事があります」ってな!」
「おお、いいじゃねえか。それで?」
「そんで、ほら…もう後は、あれだよお前」
ネタが尽きたのだろうか、「あれあれ」と言うだけでその「あれ」が何なのかをウソップはなかなか言わない。

「その後は?ウソップ」
「えーっと…ほらだから」
「なんだよ」

「…ああも~!思いつかねえ!最後は「貴女が好きです」でフィニッシュだ!どうだこの野郎!」

 苦手な分野の話題だったのか、早々にギブアップをするウソップに思わず笑ってしまった。
お前だって恋、してんじゃねえのかよ。何だってそんなに赤くなりながら早口で喋るんだ。
 …でも俺、多分、お前のそういう馬鹿みたいに不器用なところが、好きでたまんねえんだと思う。

「クク…ああクソ参考になったぜ、ありがとな」
慣れない事に頭使わせて悪かった、と頭をポンポン叩けば、ウソップは困惑しながら「今ので…?」と呟く。

「つうかよ…やっぱお前が自分で考えた方がいいと思うぞ俺。俺より慣れてそうだし」
そう言うウソップに、俺は小さく笑った。
分かってねえなあ。こんなに人を好きになるのは初めてだっていうのにさあ。…お前の口から出た「好き」の二文字で、笑っちまうくらい、だって心臓が煩くなるんだ。

 もうそろそろ料理を再開しないとまずい時間だ。俺は咥えていた煙草を、結局火をつけないまま灰皿に置いた。手を洗って包丁を動かす。

「連中がてめえを待ってる。先に甲板行っとけよ」
「…楽しく見れそうか?ストリングシャワー」
心配そうに尋ねるウソップに、今度はちゃんと。

「ったりめえだ。覚悟も決まったしな!」

 笑顔で返せた。

「俺は!絶対に!サンジの味方だ!幸運を祈るぞ!!」
親指でそうサインをするウソップに、もう腹は立たない。気付けよバカヤロウ、とも思わない。

 ただ、今夜。
お前の楽しそうに笑う顔を見たら、悲しくなってしまうだろう俺に、お前にまた心配かけちまうかもしれない俺にさ、一瞬でいいから夢、見させてくれよ。
お前の隣で流星群を眺めて「クソ神様」って、祈ってしまうだろう俺を、許してくれよ。
もうそれ以上は何も望まないからさ。

 俺に言われたとおり甲板へ走り出すウソップの後姿に、聞こえないよう小さな声で「好きだぜ」と呟いた。





 鍋を煮込んでいた火を止め、サンドウィッチを手際よく皿の上に盛った。
時刻は0時を過ぎて10分経ったところだ。予定より遅くなってしまったが何とか間に合った。

テーブルの上にサンドウィッチを乗せた皿を置き、鍋の中をゆっくりとかき回す。よし上出来だぜ。

 相当冷え込んでいるだろう甲板に備え、滅多に着ないコートを羽織る。
両手と頭に器を乗せて足で扉を開けた。芯まで冷えるような夜風が全身を襲った。

「っさみいなこりゃ…おいてめえら!!これでも飲んであったまりやがれ!!」
「うっは~~!!飯~~~!!」

 やはり一番最初に飛びついてくるルフィに「今度は火傷すんなよクソゴム」と忠告をしてやる。
 三匹の馬鹿は歌えや踊れやで騒いでいたからそんなに寒そうにしていなかったが、俺より一足先に甲板へ出ていたナミさんは両手を固く組みながらブルブルと震えている。

「んっナミっさん!!!大丈夫かい!!??愛がつまったこの特製スープで温まってください!!」
ナミさんの元へ向かう途中で、他の連中用の器を乱暴に渡し、一際値段のはる食器に注がれたクラムチャウダーを震える体へ差し出す。ナミさんは鼻を赤くしながら「ありがと」と笑った。

「ナミさん…寒いのでしたらこの俺が、直接あたためて差し上げまっす!」
「はあ~…美味しい」
フルシカトされても尚目をハートにし続ける俺の背後には、面倒臭そうな表情でゾロが立っていた。

「おいアホ眉毛、酒は」
「ああん?酒が飲みてーんならサンジ様って呼んでみろクソ腹巻」
「あるんだな、キッチン見てくる」
「待て飲ませてやるとは言ってねえ!おい!クソ筋肉野郎!」

 クソマリモの腹巻を後ろから掴むと面白いくらいに伸びた。なんて伸縮性のあるゴム素材だ。

「だっはっはっは!ゴムゴムの腹巻だなゾロ!!」
ルフィが横から野次を飛ばす。
ゾロは腰にかけている刀の鞘に手をかけ「笑うな…」と睨む。が、若干赤面しているようにも見えるのでただの照れ隠しである事が分かった。

「これ、こっからキッチンまで伸びるんじゃねえかあ?ちょっとそのまま歩けゾロ」
「…てめえら…馬鹿にしやがって…!」
チャキ、と小さな音がする。
いよいよゾロが鞘から刀を引き抜こうとした時だ。ナミさんが俺たちの後ろで「あ」と言った。

 ナミさんの方へ振り返り、目線を空へ向けている事に気付く。

 俺たちも揃って空を見上げる。そこには、本当に、百年に一度しか見られないのもしょうがないと思う程の、言葉を失うような、すげえ世界が広がっていた。




「…」

 ゾロの腹巻を放すと「バチン!」と音がしたが、誰もそれに気を留めたり笑ったりなどしなかった。
だって、そりゃそうだ。誰も空から、目が、離せない。

「す…っげえええええええええええぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
ルフィが両腕を高らかに上げて雄たけびみたいに吠える。

「これは…すげえな、確かに」

 星が物凄い速さで駆け抜けていく。数え切れない程の光が、意志を持っているかのように空を滑る。
瞬きをすると瞼の裏に光が残るくらい強い輝きだ。光の軌道が消える数よりも、新たな星が残す軌道の数の方が多いから、夜空はどんどん光の糸で溢れていく。
 海面にも流星群の瞬きが反射して、なんだか、光の絨毯の上を進んでいるような錯覚を起こした。

「…綺麗…」

 ナミさんは息を呑み、口元を抑えながら夜空を瞳に映した。ウソップはチョッパーを抱っこしたまま、口をあんぐり開けている。抱えられたチョッパーもウソップの腕の中で瞬きもせず空を見る。ゾロさえいつもの眠そうな顔を見せず、目を見開いて夜空を眺めていた。

 俺は危うく、持っていた皿を落としそうになった。
サンドウィッチを乗せた皿をそっと下へ置き、しゃがんだ体勢のまま、星の群れを見上げる。

 海の向こう、ここからでは見えないが、何処かで花火が上がる音がした。
この海域にいる海賊が、この瞬間の為に花火を打ち上げたのだろうか。

「うおおおおおおお!!!」
その音を合図に、ルフィは腕を伸ばしてマストの頂上を陣取った。
帆の上から顔を覗かせ「あっはっは!すっげえええ!」と、また、最高の笑顔で吠えた。

「…カヤ、見てるかな、これ…」
ウソップが呟く。
「見てるさ、羊の奴も、お前の子分のあいつらも」
ゾロがウソップの呟きを拾い、普段はあまり見ない優しい表情で応えた。ウソップがゾロの言葉に、鼻の下を擦りながら笑う。

 …なあ、良かったなウソップ。星に夢を叶える力なんかなくても、例え神様なんていなくても、今この瞬間を、お前がゾロと過ごせた事を俺は本当に、良かったと思う。
 俺にだけ星が笑ってくれないとしても、それでもさ。お前がこんな奇跡みたいな瞬間を過ごせるんなら、俺はもう、何もいらねえよ。



 自分の分のサンドウィッチとクラムチャウダーを持って、空を見上げる船員達に気付かれないよう、足音を立てずに船尾へ向かった。

 船尾から見るストリングシャワーは、まるで星がこちらへ向かってくるようだ。光が海の向こうから駆けてくる。
星達は俺の事など見向きもしないで頭上を通り抜けた。
 少しぬるくなったクラムチャウダーを啜り、俺はしゃがみこむ。

「………だせえ…クソ…」
今にも涙を零しそうになる涙腺に力を入れた。
 泣くな。絶対泣くな。笑って見るって、ウソップと約束したじゃねえか。

「…クソジジイ達も見てっかな」
世話になった連中や、今まで出会ってきた美女達の顔を夜空に思い浮かべる。
みんなどんな思いで、この幾千の星を眺めているだろう。
…こんな気持ちで空を見上げる誰かは、一体、どの位いるんだろう。

 まだ半分ほど中身が残っている器を自分の横に置き、煙草に火を点けた。星の光と煙が混ざり合って、夢の中のような世界が視界に広がる。
 意味もなく、煙を輪っかにしながら吐き出した。輪は数秒後すぐ消えて、俺以外に見つけてもらえる事はなかった。

「…なあ、今あいつが隣に来てくれたら」
尚も軌道を残し続ける星達に、縋るように祈った。

「もう、何も望まねえから」
星にそんな力などなくても…神様がいなくても。

「…俺にも、夢見させてくれよ…」

 悲しい独り言は、誰の元にも届かず消えた。そりゃ、そうだ。あと少しあと少し、と手を伸ばして、あわよくば、と思い続けて…多くを望みすぎた。

「…なんてな」
 冗談のように独り言を終わらせて、煙草を思い切り吸う。
これが吸い終わったらもう戻ろう。スープのおかわりを用意していたと、嘘でもついて。

「…おっまえ…楽しく見るっつったじゃねえか…」

 そして俺は、半分も吸っていない煙草をスープの中へ落とした。
…手が震えた。一瞬、視界が揺らめいた。最高に意地の悪い神様は、俺の首を真綿で絞めるように、また俺に期待を持たせやがった。

 何で来るんだよ。なあ。どうしてくれんだよこのスープ。…ウソップ。



「キッチンにもいねえし…っとに!構って君だなお前は!」
俺の横に胡坐をかいて座り、肩をバシバシと叩く。その手が余りに暖かいから、膝の間に顔を埋めるしかなかった。我ながら本当にクソ情けない。

「サンジほら!下向いてたら勿体ねえだろ!?百年に一度だぞ!!」
「…分かってる」
「分かってんなら顔上げろよ!あ、今すげえデカイ星流れた!」
「……おう」

 あとちょっとしたら、顔を上げる。ズボン生地に滲みこんだ水滴が乾いたら。だから、頼むから待ってくれよ。

「…なあサンジ」
ウソップが俺の背中をさすりながら優しく語り掛けるので、嗚呼こりゃ泣いてるのばれてるなと思った。
畜生、俺もお前くらい嘘がうまくなりてえよ。

「俺さあ、今日さあ、すげえ楽しかったよ。なんつうかさあ…ほんと、心から純粋に、楽しかった」
「…そうかよ」
「それさあ、お前のお陰なんだなって思って」
「…」

 慰めの言葉なのだろう。ウソップはきっと、他の誰が相手でもこういう優しい言葉がかけられる奴なのだ。鼻水を啜り、黙ってその言葉を聞いた。

「多分な、お前にばれたあの日より前に、このストリングシャワーがやってきてたら…俺も、泣いてたと思うんだ」
…俺「も」って言うなクソ野郎。

「お前があの時、味方でいてくれたから。俺の悩みを何でもねえ事みたいに言ってくれたから…だから今日な、ちゃんと笑って、ほんと綺麗だなって思いながら見られた」
「…」

 ああ畜生。止まれと思うのに次から次へと。ズボンの生地には鼻水までついてしまった。

「サンジ、俺も絶対、味方だから」
「…」
「お前一人じゃねえからさ。…星、見ようぜ」

 俯いて出来たほんの少しの空間の中で、服の袖で涙を拭き取り、ゆっくりと顔を上げた。
お前からそっぽを向くような角度になっちまったけど、それはもう、俺のなけなしのプライドだ、見逃せ。

「あ、ほらまた!あれ!あの星でけえ!」
ウソップが背中をばんばんと叩く。そっぽを向いているからどの星の事を言っているのか分からなかったが「そうだな」と返しておいた。

「サンジ。俺達、この船の皆と見れて良かったよな」
「…ああ」

 本当に、そう思う。気の許せるあいつらと…横恋慕でも、叶う見込みのない恋だとしても、お前と、この星が見れて良かった。

 幸せと、同じだけの悲しみを乗せて、星はまだ駆ける。…夜だというのに今、世界は太陽が昇るよりも眩しく煌めいている。


 自分のものじゃないみたいな心臓に「うるせえ」と、声に出さず一喝した。俺はゆっくり、ウソップの方へ視線を動かす。

「なんかそうめんに見えてきた俺…」
「ウソップ」
空へ向けていた目線を、ウソップは慌てて俺の方へ合わせた。

「いや、腹減ってるわけじゃねえぞ」
「なあ、ウソップ」

 ウソップは俺から目を反らさず、優しい表情で「ん?」とだけ返した。
 嗚呼俺は、本当に、信じられないほどお前が好きだ。


「…今から言う事、笑わないで、聞いてくれ」
「ん、おお!笑うわけねえだろ!どうした」
「…お前にだけは言わなきゃいけねえ事がある」
「おお、なんだねサンジ君」

 震える手は、寒いから。心臓がうるせえのは、寒すぎて息が上手く吸えないから。
そう思い込んで、今にも反らしてしまいそうになる目を、俺は必死で、ウソップへ向け続ける。

「……」
「…サンジ?」
「…」

「どうした?」
首を傾げるウソップの、冷え切って赤くなったその指先を、そっと、自分の手で覆った。

「お前が好きです」

 百年に一度の星が降る。
 お前の瞳の中に映るその星を、俺は一生、忘れないと思う。