Chapter.04
「ここ立ちなさい、ここに」
おばさんがダイニングの隅を指差す。ボロボロの上履きを脱いで、汚れたプーマを隣に並べる。指をさされたその場所へ進もうとしたら「とろいんだよ早く」と背中を数回叩かれた。
頭の中で「諦める」のレバーを一番上まで持ち上げる。くっきりイメージすることで少しだけ自分に暗示をかけられる。レバーを上げたから、俺は今から起こる全てをちゃんと諦めることができる。棒のように立って、おばさんの平手を何度も、なんの感情もなく浴びる。
ランドセルを背負ったまま言われた場所にまっすぐ立ったら、おばさんは俺の頬をバチンと叩いた。ちゃんと痛くて、でも赤く腫れたりはしない。おばさんにとって最適な加減だ。
「私だってね、こんなことしたくてしてるんじゃないの」
おばさんは反対の手を振りかぶって、もう一つの頬を叩いた。
「それでもやるの。アンタの為に。わかる?手のひらがジンジンしてもやるの。アンタの為だよ」
バチン。叩く音が、窓のない薄暗い部屋に響く。
「だから「ありがとうございます」だね?アンタが言わなきゃいけないのは」
バチン。交互に叩かれる頬は、だんだん一つ一つの痛みを積み重ねて、口の中にまで到達する。
「言いなさい。ありがとうございますって」
バチン。バチン。ジンジンする。頬が熱い。
「言いなさい」
「…ありがとうこざいます」
バチン。
「もう一回」
「ありがとうございます」
バチン。
おばさんは手のひらの痛みが引くようにと、自分の手と手を擦り合わせた。俺は、何もしちゃいけない。頬をさすったりしたら、もっと痛い一発がくる。
「…ごめんなさいは?ねえ」
「ごめんなさい」
「聞こえない!」
今度は頭を思い切り叩かれた。頬より音は響かない。でも頬より鈍く、内側まで振動が来る。
「…ごめんなさい」
「もういいよ、何回言ったってアンタはわかんないバカだもんね」
おばさんは「はーぁ」とため息を吐きながら天井を見上げた。一仕事終えたみたいに、さーてあともうひと頑張りと気合いを入れ直すようにして、俺を改めて見下ろす。
「恥ずかしいの、私は。アンタのせいで恥ずかしい思いをいっぱいしてんの。わかる?ねえ」
「…ごめんなさい」
「どうしてわかんないの?何回言えばわかるの?ねえ、アンタのせいなんだよ全部。どうするの?どうにかできると思う?」
「ごめんなさい」
「できないの、アンタには。なんにもできない。ダメなのから生まれてきたからね、どうにもできないのよアンタには」
「……」
「どうして私にもっと感謝できないの?ねえ?態度で示しなさいよ」
「…ありがとうございます」
「そんな言葉が聞きたいんじゃないんだよ!」
左から、耳の辺りめがけて思い切り叩かれた。頭ごと右に向いて、鼓膜の奥からキーンという音が鳴る。…痛いな。今のけっこう、痛かったな。
「かわいげもないし、なんの役にも立たない…。本当に呆れるよ」
おばさんは深く項垂れて、頭を抱えながら嘆いた。大袈裟な小芝居を俺はぼんやり見つめる。
「…わかった。もういいわ」
「……」
え、もう終わり?まだ数えるくらいしか叩かれてない。今日はたまたま疲れてるんだろうか。やった。終わった。思っていたよりずっと早い終了の合図に、俺は胸を撫で下ろした。
「脱ぎなさい」
「…へ」
おばさんがなんて言ったのか、ちゃんと理解できなかった。
自分の聞き間違いだと思ったんだ。だって今、俺ボーッとしてたもんな。ちょっと気を抜いちゃってたから、うん。それでだ。
次はちゃんと聞いておかなきゃ。また重たい一発きちゃうぞ。せっかく終わったのに。しっかりしなきゃ。
「着てるものを今ここで全部脱ぎなさいって言ってんの」
「……」
「裸になれって言ってんの!」
「やだ」
こぼれてしまった言葉に「しまった」と思った。慌てて口を両手で抑える。だってビックリして、思わず敬語が抜けちゃったんだ。ああもうバカだな何やってんだよマヌケ。
「口答えしないで?ねえ」
髪の毛を適当に掴まれた。掴んだその手が前後左右に揺れた。
「早く脱ぎな!ほら!」
「……」
首を横に振った。ダメだ、どうしてもダメだ。「諦める」のレバーが上がりきらない。嫌だ、絶対に嫌だ、裸になるなんて絶対に嫌だ。
「脱ぎな!」
「や…やだ」
「やだじゃないんだよ!早く!」
首を何度も横に振る。嫌だよ絶対にできない。玄関で寝るより風呂場で朝を待つより、叩かれるより、酷い言葉を言われるより、嫌だ。
そうか痛いよりも数百倍耐えられないものがあるんだと、初めて知った。恥ずかしいって、恥ずかしいことをさせられるのって、こんなに無理なんだ。耐えられない。絶対にそんなの耐えられない。
涙で目の前が滲んだ。だめだ、逃げなきゃ。泣くな。逃げろ。泣く前に逃げろ。逃げる前に泣くな。
「…やだ!」
駆け出した。ドアまで一直線で走った。靴は履かなくていい。プーマも今だけは諦めよう。裸足でいい、そのままでいい。おばさんが追いかけてきても「助けて」って叫びながら走ればきっと、きっといる。助けてくれる人はどこかに必ずいる。
ドアノブを捻ったところで、背負っていたランドセルの肩紐をおばさんに握られた。左右両方掴まれて後ろに引っ張られ、俺はバランスを崩してしまった。玄関に尻餅をついた。おばさんが強い力で部屋の奥へ俺を引き摺り込もうとする。
「た…助けて!助けてっ!」
ドアの向こうに叫んだ。大声で誰かに助けを求めたのは、これが生まれて初めてだった。
おばさんが俺の口を片手で塞いだ。ここで諦めたらダメだ、死ぬ。俺はこの人に殺される。本気でそう思って、考えるより先におばさんの手を噛んだ。
「助けて!誰か助けて!」
誰でもいい。本当に誰でもいいんだ。お願い、お願いだ。
四つん這いになってドアに手を伸ばしたけど、ドアノブに指先が届く前におばさんが、俺の体の上に覆い被さった。あんまり重たくて、呻き声が漏れる。怖い、この人に殺される。助けて。嫌だ、怖い。怖いよ。
「…誰に言ってるの?ねえ」
覆い被さるおばさんは、息をゼエゼエさせながら俺の口に上履きの片っぽを突っ込んだ。両手ともしっかり掴まれているから上履きを吐き出せない。大声を出せない。
「誰がお前を助けると思うの?ねえ。迷惑ばっかりかけてるお前のことを」
「……」
「やだとか助けてとか、ねえ。何言ってるの?わかってないの?」
「…うぁ、あ」
「離さないよ。今言うこと聞けないならどうなると思う?ねえ」
「……」
怖い。涙が自分の意思と関係なくボロボロこぼれた。本当に怖いと人間はこうやって泣くんだ。知らなかった。
「怖いよね?怖いでしょ。だから戻りなさい。言うこと聞きなさい」
「……」
「アンタの為なの。全部アンタの為にやってあげてることなの。躾なの。教育なの。言ってもわかんない子には体に覚えさせるしかないの。そうでしょ?そうなんだよ、ねえ」
ドアが遠くなる。実際には俺の目の前にあるのに、どうして。はるか遠くに感じる。
「戻って脱ぎなさい。それだけだよ。できるでしょ?無理なことなんにも言ってないでしょ?」
押し潰されて、苦しくて、うまく息ができなくて、怖い気持ちが体の奥まで浸透して、俺はだんだん麻痺していった。
小さく何度も頷いて、上履きを伝って落ちるヨダレと涙が玄関の床で一つになった頃、おばさんが言った。
「がんばろうね龍彦くん。一緒にがんばろう」
何度も「ね?」と言われて、その度に頷いた。もう首を横に振れなかった。本気で「がんばろうね」って言ってるこの人が怖くて、次に刃向かったら今度こそ殺されると思った。
ランドセルの中にある、11桁の命綱を思い出す。
助けて穂輔。助けて。
ランドセルをおろして上下の服を一枚ずつ脱いだ。パンツだけになってその場に立つと、おばさんは「それもだよ」と俺の下半身を指差して言った。
「下着もだよ。全部脱ぎなさい」
「……」
「早く」
「……はい」
ゆっくりパンツを下ろす。俯いて脱いでいる途中、おばさんは「恥ずかしがらなくていいの」とため息混じりに言った。
「別にいやらしい気持ちなんかないんだから。バカなこと考えないでよ」
「……」
一番下まで下ろして、二つの穴から両足を潜らせる。自分の横に落ちている服の上にパンツを乗せると、おばさんは「そうよ、できたじゃない」と言って何度か頷いた。
寒い。体が震える。裸になった自分を見られている。ギュッと目を瞑ったけど恥ずかしさは少しも消えなかった。
「…はあ…時間かかったねえ、ほんとに」
「……」
「今日はずっとそのままでいなさい。私だって恥ずかしい思いたくさんしてるんだから。こんなの、甘い方よ?甘過ぎるって怒られちゃうわよ、私」
「……」
「ありがとうございますでしょ」
「…あ…り、がとうございます…」
いつもは、もっと簡単に言えるのにどうして。だけど上手に言えなかった。言いながら泣いてしまった。体を震わせて泣く俺を見て、おばさんはヤレヤレとうんざりするように、首をゆるく左右に振った。
「泣きたいのはこっちなんだから…やめてちょうだいよ」
おばさんはそれからダイニングテーブルの一脚に腰掛けて、テーブルの上にある煎餅の包装を破いた。バリバリと噛み砕く音がやけに大きく聞こえた。俺がまた逃げ出したりしないようにと、おばさんは、一瞬だって俺から目を離さない。
「泣かないの。男の子でしょ」
泣きたくて泣いてる訳じゃない。勝手に、さっきから溢れるんだ。震えも止まらない。止まれと思えば思うほど、俺の呼吸はメチャクチャになって声が、嗚咽が、漏れた。
「やんなっちゃうわ。悪いことしてるのはアンタの方だって言うのに」
「……」
「私が悪いみたいじゃない?やぁね~…本当に」
バリバリ。また新しい煎餅がおばさんの口の中で粉々になる。
それからニ時間くらい、おばさんは椅子に座ったままぼんやりと俺を眺めていた。ぶたれないし、ひどいことも言われない。だけど間違いなく今までで一番つらい時間だった。いつ、終わりの合図が出るのか。その瞬間だけを俺はひたすら待っていた。
夕方のチャイムの音が、遠くで聞こえた。おばさんは「あら、もうそんな時間なの」とひとりごとを呟いた。
「…どうしようか。躾の途中だけど…そろそろごはんの用意もしなくちゃいけないし」
「……」
「忙しいの。忙しいのにアンタの為にこんなに時間を割いてやってるの。わかる?ねえ」
「……」
「ん?」
「…ありがとう…ご、ざいます…」
「そうだね。そう言うのが正しいよね」
おばさんは椅子から立ち上がり、俺の頬をペチペチと軽く叩いた。
「雨戸をね、閉めてくるから。ここから動かないで?」
「……はい」
「すぐ戻るから。ね?待ってなさい」
おばさんは、まずダイニングの隣の部屋の雨戸を閉めた。何度も俺の方を振り返って、動いていないか確認をしながら。
雨戸のある部屋はもう一つある。おばさんとおじさんの寝室だ。寝室はダイニングから一番遠くて、どうしても二つの部屋は視覚が遮られる。おばさんは寝室へ行く前にもう一度俺の元へやってきて、それから「わかってるね?」と念を押した。
何度も頷いた。涙を流しながらブンブン頭を縦に振った。おばさんは俺の必死さに満足したのか「すぐ戻るからね」と最後の忠告をして、寝室へ移動した。
おばさんが見えなくなった瞬間、俺はランドセルの中にある国語のノートを急いで取り出した。胸に抱いて、ダイニングテーブルの向こう側にある電話機へ駆け出した。
裸のまんまで外へ出るのは、嫌だ。できない。だけど服を着る時間はない。逃げようとする俺に気付いたらおばさんは今度こそ、俺を包丁で刺すかもしれない。だったら数字を11回。11回押すそれだけなら、急げばきっと間に合う。
穂輔が書いたページを震えながら開いて、震えながら受話器を持って、震えながら数字を押した。
早く、早く、急げ、間違えるな、慎重に、だけど急げ。
ノートに書かれた通りの11桁を押し終えて、最後に発信ボタンを押す。寝室の窓はちょっとだけ立て付けが悪いから、数秒、さっきより時間がかかるはずだ。まだ向こうでガタガタと、おばさんが雨戸を押したり引いたりする音が聞こえてる。もう、この瞬間しかない。これを逃したら、チャンスは二度とない。
五回くらいコール音が鳴って途切れる。
「…穂輔!」
咄嗟に名前を呼んだけど、電話の向こうから聞こえてきたのは穂輔の「もしもし」ではなくて留守電サービス案内だった。そうだ、仕事中は出れないって、そういえば言ってた。きっと今働いてるんだ。
向こうの部屋から雨戸を直す音が止まる。もうダメだ戻らなくちゃ。俺は受話器を元に戻して、大急ぎでさっき立っていた場所へ駆けた。
おばさんの姿が壁の向こうからヌッと出てくるのとほとんど同時、俺はさっきと全く同じ状態になることができた。ノートをランドセルにしまえなくて服の下に隠したけど、おばさんはそれに全然気付かなかった。…良かった。死ぬほど心臓がバクバクしてる。バレてない。ホントに、ホントに良かった。
「……」
おばさんはまた椅子に座り、裸の俺をぼんやりと眺めた。
「…ご飯作らなきゃ…今日は何にしようかなぁ…」
組んだ足をプラプラ揺らして、おばさんが鼻歌を歌う。乾いた涙の跡で突っ張る頬をヒクヒク動かしながら、穂輔に俺は祈った。
お願いだ、気付いて。俺が電話をかけたことに気付いて。
時刻は夜。七時を少し回った頃だ。雨戸を閉め切っているから外の様子は何一つ分からないけど、向こうの部屋で垂れ流しになっているテレビ画面の右上に表示された時刻で、今が何時かを知った。
おばさんは解凍した冷凍食品と惣菜を何品かテーブルの上に並べて、またダイニングテーブルの椅子に腰掛けながら俺を眺めていた。時折テレビの方に目をやって「あら、美味しそう」とか「おっもしろいこと言う人ね」と感想をこぼした。
「そろそろ服着たい?龍彦くん」
「……」
頷くと、おばさんはにっこり笑った。
「いい躾になるねぇ、これ。お互い痛くないし疲れないしね?いい方法思いついちゃったなぁ」
「……」
一体いつまで。もう足の感覚がない。寒さと疲れで、上半身がフラフラする。
目を閉じたらこのまま眠れないかな。何もしてはいけないならいっそ、気を失ってしまいたい。ひっそり願って瞼を下ろしたら、ちょうどその時だった。インターホンの音が部屋中に、唐突に響いた。
「…あら。誰かしら」
インターホンの音は一回では済まなかった。五秒くらいして、今度は四回連続で鳴る。郵便や宅配の人かと最初は思ったけど、きっと違う。だって普通こんなに短い時間に何度も鳴らさない。あ、ほらまた。今度は連続で五回鳴った。
「やだもうなに?迷惑だわ」
恐らく居留守を使う気だったおばさんは、面倒臭そうに玄関まで歩き、ドアの覗き穴で向こう側にいる人物を確認した。それで、確認するなり血相を変えて、今度はこちらへ大慌てで戻ってきた。
「アンタ服着なさい!早く!」
「…え」
「早くしてほら!早く!!」
言われるがまま俺は、数時間ぶりに服を着た。ずっと突っ立っていたから身体中がギシギシして、素早く動けない。おばさんの「早くしてっつってんの!」という声に急かされて、俺は少しだけ慌てる。
全ての服を着たことを確認すると、おばさんは「ここ座っときなさい」と、ダイニングテーブルの一脚に俺を座らせた。
また、大慌てで玄関へ走る。俺はおばさんの後ろ姿を見ながら、もしそうだったらって、でももしそうじゃなかったら悲しいから、ドアが開かれるまでのこのひと時に期待しちゃダメだよなって、だけどそうかもしれないどうしてもそんな気がするって、シーソーみたいに揺れながら、涙がまた勝手に出そうになるのを、必死で堪えてた。
…だって、なんとなくわかったんだ。インターホンの押し方で。
おばさんがドアを開ける。向こう側に立っていたのは、やっぱりだった。見間違いじゃない。頭の中の想像じゃない。
たぶん仕事着なんだろう、紺色のつなぎ姿で、少しだけ息を切らして、決して閉められないようドアに手をかける。
おばさんを通り越してその奥にいる俺を見つけたその人と、目が、しっかり合った。
「……穂輔…」
声は聞こえなかったと思う。ちょうど同じタイミングで喋り出したおばさんの「やだわ稲田さん、どうしたんです?」の声にかき消されちゃったから。
来てくれた。穂輔が、俺のところに。
…ありがとう。「諦める」のレバーが、今ね。ゆっくり下へ降りたよ。
「やだわ本当に散らかってて恥ずかしいんですけど、ふふ。せっかく来てもらったんですもの、ゆっくりしていって」
俺の隣の椅子に穂輔を座らせて、おばさんは機嫌良さそうに穂輔にお茶を振る舞った。赤い急須と灰色の湯呑みなんてこの家のどこにあったんだろう。初めて見た。
「……どーも」
穂輔は形だけの会釈をして、無表情のままお茶を受け取った。湯呑みを握る手を見る。指先が、ビックリするくらい真っ黒だった。そうだ、そういえば自動車整備の仕事をしてるって言ってた。
仕事が終わって、俺が残した着信履歴に気付いて、急いでここまで駆けつけてくれたんだろうか。着替えないで、きっと手も洗わないで。
…そんな人、いないな。いなかった。今までずっと。穂輔以外は誰も。
おばさんは俺の向かいの椅子に座って、それから穂輔にそっと微笑んだ。
「まさか稲田さんの方からいらっしゃってくれるなんて。ねぇ~?龍彦くん。ビックリだよねぇ?」
「……」
黙って頷く。どうしていちいちこっちに同意を求めてくるんだろうって、不思議に思いながら。
「あの、今日はどういったご用件で?なんだかごめんなさいねテーブルの上がいっぱいで。ちょうどね、晩ご飯食べるところだったもんですから」
おばさんがまた「ね?そうだよね龍彦くん」と同意を求めてくる。小さく頷いたら、穂輔がズズッと音を立ててお茶を啜った。
「…顔見たいなと思って」
穂輔がチラッと俺を見る。声が出ないまま穂輔を見つめ返したら「元気?」とだけ聞かれた。
着信残ってたから来た、とは、言わないんだ。…ああ、俺がおばさんに内緒でかけたって想像してくれたのかもしれない。こんな少しの時間に?一瞬の間に?もしそうならすごい。穂輔って、本当にすごい。
「…龍彦」
穂輔が、目を伏せながら俺をそっと呼んだ。
「靴。…どしたの」
「……」
やっぱり見てる。見てないようで、いろんなことを見てる。
玄関に並べた俺の靴に気付いてくれて、なんにも言わなくても見てくれてて、最後に俺へ、ちゃんと俺へ、聞いてくれる。
代弁じゃない。また聞きじゃない。人づてでもない。誘導も尋問も悪意も決めつけもない。俺の目を見て、俺の名前を呼んで、俺が答えることだけを待っている。
「………」
涙が出た。また勝手に。ボロボロ流れた。全然止まらなかった。穂輔が当たり前にやってのける全部は、だって俺には、当たり前じゃないんだ。当たり前だったことなんて一度もなかったんだ。そういう当たり前を俺にも分け与えてくれる人に、出会ったことがなかったんだ。
「あらやだ、やだやだどうしたの龍彦くん。そんなに泣いちゃってちょっと、なにがあったの?」
おばさんがテーブル越しに手を伸ばしてきたけど、その手は穂輔によって遮られた。
「龍彦いま俺と話してるから」
淡々としてて、抑揚のあんまりない言い方だった。穂輔があんまりにも躊躇なく言い放つから、おばさんも思わず手を引っ込めたようだった。
「……」
俺の眼前に影を作る穂輔の手を、俺はなんだか信じられない気持ちで見ていた。ああ今、守られたんだ。咄嗟に守ってくれたんだ。そう思ったら、お腹の底から熱さが登ってきて、また涙が湧いた。
「……ク、クラスの奴らに」
「うん」
相槌が、耳じゃなくて胸に届く。
「よ、汚された……」
「うん」
おばさんがテーブルの向かい側で動けないでいるのを、ぼやけた視界で見る。さっき穂輔に遮られたことがまだショックなのかもしれない。
「…サッカーの…ボールがわりに、されたんだ…」
「……そっか」
自分の膝の上に握り拳を作って、二つ並べる。ズボンの皺をギュッと握る。涙が拳にポタポタ落ちて、落ちた分だけ少しずつ、穂輔の声がはっきり聞こえるようになる。
初めて聞く内容だったのか、おばさんが「そうだったの?やだ酷いじゃない」と口を挟んできたけど、穂輔はやっぱりそれも許さなかった。
「…だから」
穂輔の、その後に続いた舌打ちにおばさんは怯んだ。
「あ、ごめんなさい」
こんな、思わず口からついて出たみたいな言い方、この人の口から初めて聞いた。俺は胸の中で混ざり合う驚きと変なもどかしさで、グチャグチャになった。
「…あとは?それで全部?」
「……」
首を横に振る。穂輔は俺をゆっくり待った。急かさないで、待ってるって態度も出さないで、隣でゆっくりお茶を啜ってる。
「…殴った」
呟くように言った言葉に、穂輔が耳を傾けている。見なくてもわかるのはなんでなんだろう。聞いてくれてるって、ちゃんと聞いて一つずつ受け取ってくれてるって、わかるんだよ穂輔。
「ムカついて…いっぱい蹴ったし、殴った」
「……そっか」
「……」
穂輔は俺を怒るだろうか。殴っちゃダメじゃんって。なんで手ぇ出しちゃったのって。
わからない。穂輔が言いそうなことって、こういう時あんまり想像できないや。
「…あの、ちょっとごめんなさいね?龍彦くんね割とすぐ手が出ちゃう方って言うか…ほら「すぐキレる若者」ってテレビでよく言うじゃない?ああいう感じなのかしらね?典型的な」
おばさんが向かいの席で、ペラペラと淀みなく話し始める。俺はその時俯いていたから、穂輔がどんな顔をしておばさんの話を聞いていたのかは知らない。
「お恥ずかしいんですけど…これが初めてって訳でもないんです。学校から連絡をいただくこともしょっちゅうで。もうね、その度に心臓が止まりそうになっちゃって私!今日もね、さっき学校からお電話いただいて、先生と一緒に帰ってきたんですこの子。もうねぇいつも先生方にはご迷惑ばっかりかけちゃって…」
おばさんの放っておいたらどこまでも続いていきそうな話は、穂輔の「今それ聞いてないんだけど」という言葉でピシャリと遮られた。
思わず顔を上げたら、俺の隣で湯呑みを握りながら穂輔は、驚くくらい真っ直ぐ、おばさんを睨んでいた。
「黙っててってば。龍彦と俺で話してんだから」
「…あ、あらあら……あ~。そうね、そうでした。やだ私ったら」
「……」
穂輔がお茶を啜りながら、目の泳ぐおばさんをじっくり見つめてる。ただ見てるだけじゃなくて…ああそっか、たぶん観察してるんだ。どういう時に視線を逸らすのか、どういう風に慌てるのか、どういう言葉で場を繋ぐのか。そういう一つ一つを見て、知って、静かに自分の中にしまってる。
…ちょっとだけ怖い。どうして怖いのか考えて、ああそうか俺は今までずっと観察される方ばっかりだったんだと気づいてしまった。この目で観察されたらすごく怖いだろうなって、だから思わず想像してしまう。おばさんが穂輔から不自然に目を逸らすから、見てられなくて、俺はまた俯いた。
「帰ってきてからは?なんかあった?」
いよいよ尋ねられた質問に、心臓が大きな音を立てた。唾を飲み込んで息を止め、考えた。言わなきゃいけないのか、言っちゃいけないのか、どっちが正解かわからない。怖い。間違えたら後戻りできない。だから黙って、向かいのおばさんに視線を預けた。
「うん?なんにもなかったよねぇ?」
おばさんは小首を傾げて笑った。やっぱり言っちゃいけないんだ。俺は小さく頷いた。
「…そっか」
穂輔は湯呑みの中身を全部飲み干して、それから立ち上がった。辺りをキョロキョロ見渡して、おばさんに「トイレ借りていーすか」と尋ねる。
「ああはい、もちろん。お手洗いね、そっちの奥にあって…あ、電気点けましょうか?ちょっと分かりにくいかも…」
「いやいーです。…あざす」
携帯電話をいじりながら、穂輔がトイレへと向かう。いくつかのスイッチを点けたり消したりして「あ、これ風呂のか」とか呟きながら、それでも携帯の画面を見つめたままで、最後にやっとトイレへ入った。
「……やっぱり、ちょっと怖い人だねぇ?」
おばさんが俺にコソッと言った。トイレのドアがちゃんと閉まっているのを何度も確認して「かっこいいんだけど」とか「顔はねぇ、ほんとに」ってこぼす。曖昧に首を斜めに傾けたら、おばさんは何故か微笑んだ。
「龍彦くんがね、変なこと言うんじゃないかと思って
ちょっとヒヤヒヤしちゃった」
「……」
「言わなかったの偉かったねぇ?偉かったよ?」
ちっとも嬉しくない。嬉しいどころか、悔しい。言えば良かったんだ、俺は、穂輔に全部。裸にさせられたんだって、何時間もそのまま立たされたんだって、泣いてもいいから言えば良かった。
自分に腹が立って歯を食いしばったら、おばさんは何を勘違いしたのか「褒められると嬉しいね?」と言って笑った。
五分くらいして穂輔は戻ってきた。やっぱりまた携帯をいじって、なにか操作しながら自分の座っていた椅子に腰を下ろす。おばあさんかお父さんとメールをしてるのかと思ったけど、そうじゃなかったんだと俺が知るのは、ちょっとだけ後のことだ。
「…すんません。なんか、急に来ちゃって」
穂輔が顎をポリポリかきながら、申し訳なさそうに頭を下げる。おばさんはちょっとビックリしながらも「いいえ~?やだわぁそんなこと」と微笑んだ。
「ちょっと腹減ってるからイライラしちゃって。…ホントすんません。感じ悪くなっちゃった」
何度も穂輔が謝るからおばさんは機嫌が良くなったみたいだった。「やだぁ」とか「全然です」って嬉しそうに笑ってる。
「あ、そうだ。もしお腹減ってるなら良ければ食べます?もうねぇほら、作りすぎちゃうからいつも私」
「いや、悪いっすよ、さすがにそれは」
「いいのよぉ。ね?いいよねぇ?龍彦くんも。稲田さんが一緒に食べてくれたら嬉しいよねぇ?」
穂輔は、笑ってた。さっきまでの態度が嘘みたいに、おばさんと一緒に笑って、おばさんの気が良くなるようなことを言って、それでおばさんが笑うとまた自分も笑い返す。
「あー…でも旦那さん?帰ってきますよね、もうすぐ」
「ん~ん?あのね主人は帰ってくるのが毎晩遅いんです。ご飯もね、いつも私と龍彦くんの二人で先に済ませちゃうの。せっかく用意してもねぇ冷めたご飯しか食べられないからあの人…。本当は待っててあげたいけど、龍彦くんがいるから…ねえ?ほら、無理やり遅くまで起こしておくのも可哀想じゃない?大人の都合に付き合わせちゃうのもねぇ」
穂輔の短い問いかけに、おばさんは何倍もの量で返した。穂輔は「そっか」と相槌を打って、その後に「大変すね」と、おばさんに笑いかけた。
一緒に食べたことなんて、ほんとは一回だってないのに。なかったよ、穂輔。おばさんは笑いながら平気で嘘をいっぱい並べてる。
「じゃあ一人で家のことやってるんすね。大変じゃないすか」
「え?…ふふ、そんなこと。でもそうね、やっぱりたまに疲れることもあるかな?ほら、学校から急に連絡が来ることだってあるし、気が休まらないって言うか」
「あーそっか。疲れちゃいますよね。俺だったら無理だ、すごい」
「やだ、普段人から褒められることなんてないから。どうしましょう。なんだか照れちゃうわ…」
穂輔が、本当に別人みたいだ。知らない人みたいで、どうしたら良いのか分からない。ねえ、急になんで?俺のことを忘れてるんじゃないかとさえ思った。
「…あの、すんません。なんか冷たい飲み物ってないすか。水でもいんですけど」
穂輔が申し訳なさそうにそう言うと、おばさんは慌てて立ち上がった。
「やだ、ごめんなさいね気が利かなくて。麦茶でもいい?」
「はい。すんません。あざす」
おばさんが冷蔵庫に向かい、俺たちに背を向けて新しいコップにお茶を注いでいる。
居心地がさっきから悪くて、俺はどうしたら良いのかわからなかった。自分の膝に視線を落とす。そうしたら穂輔が隣からそっとテーブルの下、俺の膝の近くに携帯の画面を見せてきた。
「……」
穂輔を見る。だけど目が合わなかった。穂輔はずっとおばさんの背中を眺めながらそのかたわら、催促するように携帯を俺の膝にぽんぽん当ててくる。…早く見てって、ことなんだろうか。
従うように携帯の画面を見た。テーブルの下で行われている俺たちのやり取りに、おばさんは全く気づかない。
『いまからずっとなんもしゃべんないで』
携帯の、たぶんメール送信画面。本文を入力する場所にそう表示してあった。
「……」
何にもわかんなかったけど、頷いた。何度もコクコク首を動かして穂輔に伝える。穂輔は自分の元に携帯を戻すと、今度は黒っぽい画面を新たに立ち上げた。横から盗み見する。下側に表示された赤い丸に穂輔が触れる。そしたら「新規録音」という文字と一緒に赤い線が画面の中央を、右から左へ真っ直ぐ泳いでいくのが見えた。
「……」
なにかしようとしてる。穂輔が。ドキドキした。喉を一回鳴らしたら、おばさんから見えないよう俺の背中を、背もたれごと一緒に、穂輔は一度だけ軽く叩いた。
「お待たせしました。ごめんなさいね、どうぞ」
「すんません、あざす」
穂輔が会釈してコップの中身を一気飲みする。携帯は穂輔の膝に置かれたままだ。赤い線はずっと右から左へ、たまに小さくなったり大きくなったりしながら進み続けてる。
「…龍彦、いい子すよね」
穂輔がポツリと言った。空のコップを見つめながらだったから、呟きはその中に落っこちて、シャボン玉が割れるように消えた。
「なんかうちに来た時ビックリしちゃって。散らかしたりとかワガママ言うとか全然なんもしないから。いい子だなーと思って」
穂輔に「ね」と同意を求められたおばさんは、困ったように笑って「そうかしら」と曖昧に言葉を返した。穂輔は、そんなの全然構わない様子でさらに続ける。
「だから良い育て方されてんだろうなーと思ったんすよ。立派な教育受けてんだろーなって」
穂輔がおばさんを見つめながら何度も深く頷くから「やだ、そんなこと」から始まったおばさんの相槌も次第につられた。「そうねぇ」「大変ですけどね、もちろん」と、否定は肯定の方へゆっくり変化する。穂輔は「や、ホントそー思います」とさらにおばさんを褒め称えた。
「でも学校で問題起きちゃったりすると電話かかってきちゃうんですもんね。えーと…あ、すんませんお名前は…」
穂輔がふと思い出したように尋ねる。おばさんはにっこり穂輔に微笑んで、微笑むだけじゃなく、首をゆっくり横に倒す仕草まで付け加えた。
「あ、私の?ふふ、まき子です。園山まき子」
「うん、まきこさん」
名前を受け取って、穂輔はおばさんを下の名前で呼んだ。おばさんは「やだわ、下の名前で呼ばれることなんて滅多にないから」と、困ったように、だけどすごく嬉しそうに、穂輔に微笑んだ。
「あー…そう。まきこさんとこに電話が行くわけでしょ。ヒヤヒヤしますよね、やっぱ」
「そうねぇ、それはもう本当に。私のやり方がいけないのかしらなんて…ねえ?思っちゃったりして…」
「ね。そーすよね。俺も自分だったら不安なるだろーなって思います」
そこまで言うと穂輔はチラッと、テーブルの下の携帯に目をやった。赤い線は変わらずずっと、同じ速度で流れ続けている。
「…やっぱ叩いたりとか必要なんすかね?言ってわかんないなら体に、みたいな」
「……」
穂輔の言う内容に、ヒヤヒヤする。心臓がキンキンと音を鳴らす。「なんもしゃべんないで」の文字を思い出して、俺は唇をグッと閉ざした。力を入れてないと、何かが飛び出してしまいそうな気がした。
「そう…なのかしらねぇ。どうなんでしょう。よく分からないわ…」
おばさんはとぼけた。穂輔は表情を変えない。穏やかな声のまま続ける。
「…俺も、まあいつかは親になるかもしんないから。先のこと考えるといろいろ不安で。子育てのこと聞きたいんすよね」
「あらぁ、そうなの?稲田さんおいくつなんです?失礼かもしれないけど…」
「あ、俺いま25なんすけど。友達で何人か子ども産まれた奴いて。俺もいつかはなーとか、思ってて」
「まあ、25!お若いのねぇ。そうよね、でもたしかにそろそろね、考え始める頃かもしれないわね」
「龍彦みたいにいい子に育てられたらいーなーと思って。だから聞きたいんすよ。まきこさんのやり方」
穂輔がテーブルに身を乗り出して、おばさんをじっと見つめた。まるで「おねがい」って聞こえてきそうな、そんな表情だった。
「私の?やだわ、どうなのかしら。参考になんてなるかどうか…」
「やっぱ厳しくすんのも責任じゃないすか。保護者としての。俺いい加減だからそーゆーの自信なくて。なんかないすか?信念みたいなの」
「そうね…信念…」
「ルールとか。これは絶対しちゃダメとか、逆にこーゆー時は絶対これするとか」
おばさんはちょっと口ごもって、穂輔に何度かチラチラ視線を送って、だけど穏やかな顔と声に安心したのかポツポツと話し始めた。
「…そうね、まあ…厳しくする時もね?…たまに、あるかな?…どうだろう…」
「へー。厳しくするの大変すよね。心を鬼にしなきゃいけないから」
「そう、そうね…そう、そうなの。大変なんです。毎日手探りって感じで…」
「うんそっか。…あーやっぱまきこさん偉いなー。もっと聞いていーすか。聞きたいな俺」
「んー…まあ、たまにね?本当にたまにですけど…躾だと思って、厳しくすることはあります」
「うん、例えばどんな?」
「そうねぇ…そう…本当にたまになんですけど…まあ、軽くね?言葉で伝わらないなって時は、体にねぇ…」
「うん」
「ほらひと昔前は学校の先生でもあったでしょう?体罰って称して…ねぇ?問題視されてたけど、私は本当にそうなのかなって。子どものためにねぇ?だって…子どものためを思ってすることですから…。それも教育の一環なんだろうし」
「うん、ホントそーすよね。俺も思います、それは」
「そう?そうよね良かった、若い人ってほら、そういうのすごく敏感でしょう?でも甘やかすことはね、簡単だけど…厳しくすることもやっぱり必要な時があるわけだし…」
「うん。やっぱすごいなまきこさん。だから龍彦みたいないい子が育つんすね」
軽やかに続いていく会話は、どこまで行ってもおばさんの肩を持つ内容だった。穂輔の携帯は淡々と、赤い線を泳がせ続けている。
「やだわ…すみません。なんだかこんな話を誰かに聞いてもらえたことがなくて…ごめんなさい私ったら…」
おばさんは、少しだけ泣いた。目元に残った涙を指先でそっと拭いて、穂輔に「ありがとう」と伝えた。
「…全然。いーすよ、俺なんかで良かったら」
「ええ…ええ…」
「いくらでも聞くんで、ほんとに」
「ありがとう…稲田さん」
おばさんの「優しいのね」という言葉に穂輔は笑った。本当に優しそうな顔で、心が通い合ってるみたいに、まるで、恋人みたいに、笑った。
「……辛いの、私も。だけど…龍彦くんのことを思えばこそで…今までずっと」
「うん」
「…たまにね、彼のことを…心を鬼にしてね…」
「うん」
「…彼のために、彼を想って、叩くこともあります。…本当に、軽くですけど…」
「うん。そっか、つらいね」
「どんなに言葉で尽くしても…伝わらないこともあるから…」
「うん、そーだよね」
「だから…彼がこれ以上誰かを傷つけないようにって…どんなに辛くても、叩くことがあるんです。でも誰にも…そんなこと、言えないじゃない…?」
「……そっか」
穏やかな沈黙の中に、おばさんの鼻を啜る音がそっと響く。穂輔は手元の携帯をまた確認して、それから「どんくらい?」とおばさんに聞いた。
「叩くって、どんな感じで?どこをどんくらい叩くんすか」
「えぇと…そうねぇ…」
「全部言っていいよ。まきこさんの気持ちわかるから」
「……」
「つらかったよね。聞かして。ちゃんと聞くから」
「…頬を…頬をね…?軽く…手のひらで…」
「うん。頭は?頭も叩くよね、分かってほしくて必死でさ、叩いたよね」
「ええ、たまに…とても辛いけど…」
「そーだよねつらかったよね。いっぱい叩かなきゃと思ったんだもんね。苦しくてもそーやってやってきたんでしょ?」
「ええ、そうなの…何度も…顔と頭を…私、苦しくて、いつも……う…」
「叩くだけで伝わらない時は?そーゆーことない?辛かったんじゃない?」
「…そう、辛いの…とっても…。だけど私もそこまで鬼にはなりきれないから…」
「そう?そっか。どっかそのへん立ってなさいとかさ、そーゆーのは?それくらいは全然いんじゃないの?必要な厳しさかなって俺は思うけど」
「…そう、そうよね。…そうよね?…そうなの、私…とても苦しかったけど…今までそういうことも、あったんです…あったの…」
「うん、そーだよね。…一晩中とか?つらかったんじゃない?」
「…そう、夜はずっとここにいなさいって…泣くのを堪えて…心を鬼にして、私…」
「うん。一週間に一回くらい?あーもうちょい多いか。どんくらい?つらかったでしょ、全部言っていーよ」
「…週に、二、三回…くらい…」
「もっとあったんじゃない?ほんとは?誰にも言えなくて苦しかったよね、言っていーよ」
「……ええ…そうね…そう…」
「四、五回くらい?」
「…ええ…そう…ええ…」
「…そっか」
「…う、うう…」
おばさんが泣いているところを、俺は初めて見た。この人はこんな風に泣くんだ。何が悲しくて、何が辛くて、何を思って泣いているんだろう。
一つもわからなかった。本当に何一つ。微塵もだ。カケラもだ。
テーブルの向こうにいるこの人を、遥か遠くの、まるで別の星に生きてるなにかみたいに感じた。分からない。こんなに分からない人と、俺は何年もずっと一つ屋根の下で暮らしてたの?…本当に?信じられない。
なんで?なんでだ、今更。怖い。
「…もーいっか」
穂輔がそう言って携帯に目を落とす。赤い丸のマークを親指で触る。ずっと右から左へ流れていた赤い線は、それでようやく止まった。
「…叩いて、一晩中立たして、そーゆーことしてきたんだよね。今までずっと」
穂輔の声が、今度は凍えるような冷たさを纏って、おばさんを刺した。
「何回叩いて何回立たしたの、アンタ」
「…え」
「龍彦のこと何回殴ったの、今まで」
急に変わる穂輔の態度におばさんは動揺していた。目が泳いで、口元が微かに震えてる。
「…全部録ったから今の。だから俺の質問答えてくれる?」
「……え?あ、あの」
「答えられんのか聞いてんだよ。あ?」
穂輔の声が、どんどん低くなる。それで、おばさんの顔が真っ青になる頃、穂輔は最後に言った。
「全部吐けよ。聞いててやるから」
おばさんは固まっていた。微動だにしないで、瞬きすることも忘れて、穂輔を呆然と見ていた。
「苦しかった?つらかった?アンタが?ねえほんと?それ本気で言ってんの?」
「……」
「ねえ、雨ん中逃げてきてんだよ龍彦。飲まず食わずでさ。外でずっとしゃがみ込んでさ、帰りたくないっつって。心を鬼にして叩いてた?そんなんで通用すると思ってんの?」
「…あ」
「教育?なにそれウケでも狙ってんの?この家ん中でどんなことしてたのアンタ、ねえ、普通じゃないでしょ」
しゃくりあげる声が、穂輔の隣でずっと、ずっと止まらない。肩が上下に勝手に揺れる。顔中がもう、涙と鼻水とそれからヨダレでグチャグチャだ。
穂輔はずっとまっすぐおばさんを見てた。半笑いで続けてた。おばさんが硬直する度それを嘲笑うみたいにして、おばさんに問いかけ続けた。
「言えって。どんだけおかしいことしてきたんだよ。なあ」
「……」
「言えない?そーだよね、言えないようなことしてきたんだもんね。ねえ、頭おかしいよね、躾じゃないよねそれ。わかっててやってたでしょアンタ」
穂輔はテーブルの上に携帯を置いて、画像がたくさん並ぶ画面を開いた。その中の一枚を選択する。画面には、この家の風呂場が映っていた。
「あ…」
「ここでしょ?ここに龍彦立たしてたんでしょ?電気点けるな朝まで動くなそのまま学校行けっつって。ねえ」
さっきトイレに行った時だと、その時気付いた。そういえば穂輔はずっとあの時、携帯の画面を見てた。風呂場の電気を点けて、その時も携帯を見てて…そうか、全部わざとだったんだ。あの時穂輔は、写真を撮ってたんだ。
雨の降ってたあの日。初めて穂輔の家に上がったあの夜。この家とこの人のことを話した時、そういえば言った。確かに伝えた。
「今夜はここで反省しなさい。朝は一人で学校行って。電気点けたらだめだよ。このテープの外に出ないで。わかってるね」
おばさんにそう言われたことを穂輔に、確かに話した。
「アンタさぁ、わざわざこんなテープまで貼ってさあ、どういう神経してんの?どういう神経でそんなことしたわけ?旦那も見て見ぬフリしてたんでしょ?龍彦がここにいる間さあ二人で平気で飯食ったりテレビ観たりしてさあ?ねえ」
穂輔が乱暴に、携帯電話の画面を人差し指で叩く。俺が何度も立たされてきた、テープで囲まれた小さな楕円のスペースを、何度も、何度も。
穂輔が人差し指で叩く度、俺は涙を吐き出した。強い力だった。強い力で押し出されて、俺は一向に、何にも止められない。
「……帰って」
おばさんが震えながら、俯きながら、言った。
「帰って。帰ってください。お願いします」
「は?」
「お願いします。帰って。で、出てって…」
「……」
大きなため息と一緒に、穂輔は「あ、そう」と吐き捨てた。なにかを諦めてなにかを放り捨てるような、そんなため息だった。
「…まきこさんさぁ」
穂輔はため息の後、静かに続けた。
「俺のこと覚えてない?」
おばさんは驚いたのか思わず顔を上げた。血の気のない顔面はお化けみたいだ。俺もその時おばさんと同じように、その顔に、お化けみたいで怖いから、内心驚いていた。
「覚えてないか。まあそーだよね、軽くしか接客してないから俺は」
「…なんの…な、なんの…」
穂輔は片手で頬杖をついて笑った。笑ってた。倒れ込んでもう動けない相手の腹を、踏みつけるみたいにして。
「メゾさん。…っつったら分かる?」
聞いたことのない名前を穂輔が口にした途端、おばさんの喉から「ヒュ」という音がした。
「よく相手してもらってたよね。俺も何回かアンタの最初のオーダー取ってたんだけどなー。忘れちゃった?」
「……」
「メゾさんさ、アンタの話よくしてたよ帰りの車で。強烈なおばさんがいるっつって。もう心折れそうっつって」
「や、やめて…」
「しんどかったんだって。アンタの相手すんの。メゾさん優しいからそーゆーことあんま言わないのにさ、それでも言ってたの。ウケるよね、ウケない?」
「やめてください」
「なんで?恥ずかしいの?そっか恥ずかしいね龍彦いるしね?子どもに聞かせらんないよね、言えないよーなことやってたもんね。あーもしかしてまだ通ってんの?ごめんね?これからどんな顔して行けばいーかわかんないね」
「やめて」
「家でも外でも言えないよーなことばっかしてんだもんね?ね、せっかくだから旦那さんにも聞いてもらおっか?何時に帰ってくんの?ずっといるよ?俺」
「やめて!」
おばさんは体を震わせて叫んだ。叫び声の後に鳴る息の音が、動物みたいだった。怖くて見てられなくて、俺はたまらず目を瞑った。
「……さっき録ったやつとさ、それからこの写真。出すとこ出すから」
「……」
「ね。出るとこも出るから。そん時はちゃんと協力してよ。嘘つかないで喋って。嘘ついたらわかる?わかるよね、できる?オバサン」
「…もう、や、やめて…」
「なにが?」
「ごめんなさい…許して…」
「だからなにが?誰に謝ってんのアンタ」
「もう…やめて、やめてください…」
穂輔が笑いながら放った舌打ちが、ダイニング中に響いた。
「やめねーよ。馬鹿じゃねえの」
携帯電話を作業着の胸ポケットに入れて、穂輔は乱暴な音を立てながら席を立った。
「帰るから今日は。また連絡するからさ」
「……う、う…」
「必要あったらここにも来るし。でさ、変なことしたらこっちもやり返すから。トンズラこいても追っかけ回して周りに全部バラすから。ね?やだよね?恥ずかしいでしょそんなの」
「……うぅ…」
おばさんがテーブルの向かいで、両手を顔に当てたまま泣いている。ずっとずっと泣いている。不規則なリズムで漏れる嗚咽は、もうすぐ死んでしまう動物の呻き声みたいだった。
…目を伏せた。手を差し伸べる気は、一粒だって湧いてこなかった。
「帰ろ」
穂輔が、俺の肩に手を置いて言った。
「…え」
「俺んち帰ろ」
当たり前みたいに、言う。プーマを買ってくれた時と同じだ。返事をしない俺にまるで「なんで?」って、逆に聞いてくるみたいに、首を傾げてる。
「……い、いいの…」
涙が勝手に出る。止まらない。視界が全部揺れて穂輔がボヤける。ちゃんと見えない。
「うん。なんかどっかで飯食って帰ろ」
「……」
「荷物は?あるならまとめよっか。俺も持つから」
「……」
「ね、龍彦」
「……」
「一緒に帰ろ、龍彦」
帰る、という言葉は、自分の家に向かう時に使う言葉だ。一緒に帰る、という言葉は、大事な人と同じ場所へ向かう時に使う言葉だ。
一緒に帰ろ、龍彦。穂輔の言葉が何度も俺の胸に響いた。響いて、響いて、俺が受け取り損ねることのないよう何度も繰り返し響いて、受け取れるその瞬間までずっと響いて、鳴り止まなくて、当たり前のように、ずっと。
「……うん」
泣きながら頷いたら、穂輔も「うん」って頷き返した。
ねえ、穂輔。俺、お母さんのこと思い出したんだ。思い出の中の景色は曖昧で、それがいつどこで交わされた会話なのかは、全然わからないけど。
手を繋いでたんだ。俺はまだ全然ちっちゃくて、腕をうんと上に持ち上げて、それでやっと届く高さにお母さんの手があったんだ。
「一緒に帰ろ、龍彦」
俺、ほんとの家族がいた。繋いだ手の温度を、握る強さを、俺を呼ぶ優しい声を、今でも覚えてる。
家族がいたんだ。本当に、いたんだよ。
穂輔が、お母さんとおんなじように俺を呼ぶ。一緒に帰ろうって言う。…だから俺、思い出したんだよ。
色褪せてもどんなに古びても、絶対消えないものが俺にだってちゃんとあるんだって、思い出したんだよ。
段ボール箱やゴミ袋が転がる奥の狭い部屋。お風呂場や玄関に立ってなさいと言われなかった日にだけ、俺が寝室として使っているこの部屋。
俺の荷物は全部ここにある。全部と言ってももちろん大した量じゃなくて、数着の服、下着と、それから靴下。頑張ったら全部ランドセルに入ってしまうくらいの量だ。
「これで全部?他は?」
「ううん」
「そっか。じゃー行こ」
俺が荷物をランドセルに詰め込みきると穂輔は立ち上がって、部屋と部屋を仕切る引き戸を全開にした。ダイニングが見える。おばさんはさっきと変わらない姿勢のまま、ずっと動かなかった。
「……」
数歩先を進む穂輔は、まるではなから何も見えてないみたいだった。そこに何もいないみたいに、一度も視線を預けないでスタスタと歩いてる。あんまりにも冷たい素通りだったから、俺はちょっとだけビックリした。
でも、それが正しいのかもしれない。俺も穂輔を真似して、見ちゃいけないと思って、俯きながら歩いた。おばさんの前を通る時に胸がザワザワして、背中を誰かが撫でてくるような感覚がして、だから顔をあげちゃ絶対ダメだと強く思った。
目が合ったら、ダメだ。呪いとか、怨念とか、そういうのって生きてる人間も持ってるのかな。悲しいとか怖いとか辛いって感情が頂点に触れて、心が割れた時。そういう時に人間は、強い力で人を呪うのかな。もしそうなら、今、おばさんと目を合わせたら絶対にダメだ。
「…あー…そっか、上履きで歩いてきたんだ」
穂輔が、自分の靴を履きながら言った。
「うん」
「どーする?俺ん家まで上履きで行ける?」
「うん、行ける」
「そっか、じゃこっちの靴は俺持つわ」
穂輔が汚れたプーマ二つを右手にぶら下げる。玄関のドアノブに手をかけるのが見えて、俺も慌てて上履きを履いた。かかとが潰れてるから、それはもう、そのままでいいや。
一緒に家を出る。ランドセル一つ分の荷物を背負って、ボロボロの上履きを履いて、穂輔と一緒にこの家を出る。
俺たちがドアを閉めるまでおばさんは何も言わず、動かなかった。閉じられた後もずっと、中からは何の音も聞こえない。
…さっきあんなに本気で、追いかけられたのにな。玄関で覆い被られた瞬間を思い出して体中に緊張が走った。キーンという耳鳴りがして、唾を一回飲み込んだ。
一人じゃ逃げられない。逃げられなかった。穂輔が来なきゃ俺は今もあの扉の向こう、あの家の中、おばさんに見られながら立ち尽くしていたんだろう。「諦める」のレバーを一番上まで持ち上げて、きっと自分の何かを壊して、一回壊れたら決して戻らないと知りながら、それでも俺は俺を、他に方法がないからって、きっと壊してたんだ。
閉じ込められてた。ずっと。寒くて冷たいひとりぼっちの、地獄みたいな場所に、俺はずっと閉じ込められてたんだ。
数歩進んで、広がる夜空を見上げた。雨戸で締め切られていたから気づかなかった。今日は、よく晴れていたんだ。雲が払われた空に小さな光がいくつか浮かんでる。星だ。向こうには月が見える。三日月のカーブは、あんなにくっきり見えるんだ。手を伸ばしたら尖った先を触れるような気がした。つついたら痛そうって思うくらい、あんなに綺麗に、はっきり尖ってる。
ちょっと寒くてくしゃみが出た。穂輔がそれに気付いて「ごめん」と言った。
「なんも上着持ってないや俺」
「…ううん」
「寒い?」
「……ううん」
立ち止まって俯いた。涙が出てきたからだ。泣くな、歩け。早く歩け。そう思うのに思えば思うだけ喉が縮こまって、苦しくて歩けない。
穂輔が肩をさするから、変な呻き声までこぼれた。穂輔だって寒いよ、きっと。真っ黒の指先だって洗いたかった筈だ。汚れた上履きと、つなぎ姿。誰もいない道で立ち尽くす俺たちは、周りには一体どんな風に見えるんだろう。
「…は、裸に…」
「…ん?」
「裸に、させられた。…裸になれって、それでそのまま、ずっと…立ってなさいって…」
「…うん」
「や、やだった…すごいやだった……っ…」
「うん」
「こ、怖かった……怖かった、俺…」
何にも言わずに抱きしめられた。ビックリするくらい強い力だった。ガソリンとタバコの匂いがいっぱいした。全然、いい匂いじゃない。穂輔の匂いは穂輔の体によく似合ってる。骨張ってて、気持ち良くなくて、正直で、灰色だ。
「すぐ来れなくてごめんね」
胸の中で首をブンブン横に振ったら、穂輔は「ほんとごめんね」ってもう一回繰り返して、俺の頭を優しいとガサツの真ん中の力で撫でた。
「……やだったね」
「…う、うん…」
「こわかったね」
「うん……」
頭を撫でる手と反対の手、穂輔が自分の目を擦るのがわかった。だけどわかっちゃったことは内緒にした。だって穂輔はいつも、見ないでって思った時見ないでいてくれたから。
ほんとに、全然いい匂いじゃない。具合が悪い時に嗅いだらもっと具合が悪くなりそうな、そういう匂いだ。泣きながらコッソリ笑った。笑いながらコッソリ「ありがとう」も伝えた。でも穂輔の鼻を啜る音と重なっちゃったから、聞こえなかったかもしれないな。
「……腹減らない?」
腕を解いて、穂輔が顎をさすりながら言う。
「うん、減った」
「ね。歩きながらどっか入ろ」
「うん」
「龍彦なに食いたい?」
前にもされたことのある質問に、俺は今度こそ迷わず答えるんだ。
「ハンバーグ」
穂輔はちょっと笑って「いーじゃん。探そ」と言ってくれた。
少し歩いて、駅の近くにあるファミレスに入った。俺たちの風貌に店員さんはちょっとだけギョッとしてたけど、穂輔の「二人」という言葉に慌てて頷いて、お店の奥のテーブルに案内してくれた。
「なに食おっかなー俺」
穂輔がメニュー表をパラパラめくる。反対側から身を乗り出して覗き込んだら、テーブルの端にささってるもう一つのメニュー表を穂輔が渡してくれた。
…どうしよう、さっきから俺、ちょっとだけ緊張してる。だってファミレスなんて初めて入った。上履きを履いてることが今更恥ずかしくて、せめてもの気持ちでテーブルの下でかかとを直した。
「好きなの何個でも頼んでいーよ」
「…うん」
「俺どーしよっかな…あー…これとこれとこれにしよ」
ドリアとパスタとピザを指差して穂輔はそう言った。
「…え、そんなに…?」
「んー?うん」
「…なんで…?」
口から勝手に溢れてしまった疑問に、穂輔が今日一番おかしそうに笑った。
「あは。えー?なんでって言われても、だって食いたいんだもん」
「……」
穂輔の細い体の一体どこにしまわれるんだろう。不思議だな。
「よく驚かれたわ、こーやって飯屋来た時」
「…誰に?」
「…んー?…んーとね…」
メニュー表を見たまま穂輔はぼんやりなにかを考えてるみたいだったけど、結局、俺の質問に答えることはなかった。
「…龍彦決まった?」
「うん」
「どれ?」
「あの…これ」
トマトソースのハンバーグ。俺の指差したメニューを確認したら穂輔は頷いて「それ超美味いよ」と笑った。
店員さんを呼んで、穂輔がテンポ良くメニューを注文する。途中「龍彦ごはん大盛りする?」と聞かれて、首を横に振った。でも穂輔は料理を三つも食べるのにパスタを大盛りで注文してた。
食べ物が来る間、穂輔が「キッズ」と書かれたメニュー表を広げて間違い探しをし始めた。真剣な顔でキッズメニューを開く穂輔がおかしくてちょっと笑った。どうやら七個間違いがあるらしいけど、どんなに二人で眺めても五個しか見つからなくて、穂輔も「むず過ぎない?」って笑ってた。
少しして、大盛りパスタが一番最初にやって来る。穂輔がフォークじゃなくて箸を取り出してラーメンみたいに啜るから、なんか変でおかしくて、また笑った。
「なんで箸で食べるの?」
「えー、なんでだろ…なんか早く食える気ーする。こっちのが」
「……俺、箸、上手に使えない」
「んー?…うん、別にいんじゃない」
「給食の時笑われたことあるから…ちょっとやだ」
「あー…そっか」
「…左だったらできるのに」
俺がそう言うと、穂輔は麺を啜るのを一旦やめて俺を見た。口をモグモグ動かしながら不思議そうな顔をしてる。まだ次の食べ物が届いてないのに、もう大盛りパスタはほとんど空だ。
「左で持てば?だめなの?」
「だめって言われたことある。汚いからやめなさいって」
「…あのオバサン?」
「うん」
大盛りパスタはいよいよ空っぽになった。穂輔が空いた食器をテーブルの端、通路側に寄せて、それから口の中のものを水で流し込む。
「…じゃーパスタを箸で食うの、超汚いんだろうね」
笑って、穂輔は「左で持ちなよ」と付け加えた。
「かっこいーじゃん左利き」
「え、なんで…?」
「えー?なんかレアじゃん」
「……」
そんなの言われたことない。かっこいいなんて、思ったこともない。「なんかレア」って理由も全然わかんなかったけど、でも、わかんなくたって別に、いいのかもしれないな。
穂輔が言うことはいつもそんな感じだ。根拠がなくて「だって俺がそう思うから」ばっかり。…それって、いいな。
「…ひひ」
「ん?」
「穂輔、口の周りソース付いてる」
笑ったら、穂輔も笑った。口元を紙ナプキンで拭きながら「ウケんだけど」って言ったセリフに、俺もちょっとだけウケた。
それから一気にやってきた他の料理で、テーブルは一杯になった。穂輔が「それでホントに足りる?」って真剣な顔で聞くから、足りるに決まってるのにって思いながら、笑って頷いた。
「ゆっくり食いなよ」
そう言うのに自分はまるで掃除機みたいに食べ物を吸い込んでる。どうしてそんなに、急いでるみたいにして食べるんだろう。
「…穂輔は?」
「んー?」
「なんでゆっくり食べないの?」
どうやらウケたみたいだ。ドリアをかきこみながら笑ってる。
「俺はいーの。胃袋超強いから」
「…ふーん…」
「胃袋だけサイヤ人だから俺」
「…サイヤ人ってなに?」
「え、知らない?マジか。俺ん家全巻あるから読みなよ」
穂輔がドリアを空にして、今度はピザを銀色の器具でガシガシと切る。すごい適当に切るから等分にならなくて、不恰好な一切れが八個できあがった。
「ドラゴンボール。おもしろいよ」
「あ、それ名前だけ知ってる」
「読んだ方がいいマジで。フリーザかっこいいから」
穂輔の話を聞きながらハンバーグを口に運んだ。ほんとだ、すごく美味しい。でもお母さんのハンバーグには敵わないなと思って、そう思えたことがなんだかすごく嬉しかった。
何百枚の食パンが迎え撃ってきたって、その味は消されない。消えないものが、俺にもちゃんとある。
ハンバーグセットを半分くらいまで食べた頃、ふと、気になってたことを思い出した。
「…ねえ、穂輔」
「んー?」
穂輔はテーブルの上に並んだ料理を、その時もう全部平らげていた。苦しくないのかな。あんなにいっぱいあったのに。
「メゾさんって誰?」
穂輔はチラッとだけ俺を見て、だけどすぐに空っぽの食器へ視線を落とした。器に箸やスプーンを重ねて、無言でまた通路側の端に寄せる。
「……昔の知り合い」
「店って、どんな店?」
「…あー……」
決まり悪そうに視線を左右に泳がす。穂輔にも目が泳ぐことがあるんだ。なんか意外だ。
「…龍彦がもーちょい大きくなったら話すわ」
「…なんで?」
「なんでも大きくなったらね。今ちょっと言えない」
「大きくなったらっていつ?」
「んー…50年くらい」
「えっ!」
驚くのとほとんど同時、穂輔が「あはは」って大きな声で笑った。あ、そっか。冗談を言われたんだ。穂輔の笑い方でやっと気付いた。
「ごめん自分でウケちゃった。龍彦62じゃん」
「穂輔だってヨボヨボじゃん。えっと25だから…75じゃんか」
「ホントだ、75ってすごくない?75の自分さすがに想像できないわ」
自分で言ったことなのに、なんでそんなウケてるんだろう。変なの。穂輔って本当に変だ。おもしろい。おかしいよ、もう。何でそんな笑ってるの。
「…ひひ。あはは」
「その頃約束忘れてたらごめんね」
「あはは。絶対忘れてるじゃん、そんなの」
「そーだよだってそりゃ75だから。そりゃ多少はボケるよ」
「あはは!」
声をあげて笑うと、悲しくないのに目の端っこに涙がたまる。笑い続けると、下してないのにお腹が引き攣って痛くなる。
初めてだった。知らなかった。俺いまファミレスでハンバーグセット食べながら、お腹痛くなるまで笑ってるんだ。…信じられないや。
「は~…ウケる。あ、なんかもう一個頼もうかな俺」
「えっ!」
「いやこれは冗談じゃなくて」
嘘だぁ。心の中で疑ったけど穂輔は本当に店員さんを呼んで本当に追加注文してしまった。…すごい。
食べ終わって店を出た後、二人で電車に乗った。穂輔が大人を二枚買おうとするから「俺こども料金だよ」って教えてあげたら「え、小六なのに?」と驚かれた。
「小学生はこども料金だよ」
「へー。半額じゃんヤバ」
「半額だと何でヤバいの?」
「超お得じゃん。俺の倍遠く行けるじゃん」
「……」
穂輔って、考え方が変だ。遠くに行く予定なんて別にないんだけどな。…でも穂輔がなんか嬉しそうだから、いいや。そうだねって頷いてあげた。
満員電車に乗る。一緒に揺られて穂輔の家へ向かう。網棚にプーマを乗せたらそのちょうど下に座ってたスーツのおじさんが不思議な顔をして見上げてたけど、穂輔は気にしてない様子で、ぼんやり窓の外を眺めてた。
あの雨の日、俺が体を引きずりながら何時間も歩いた道のりを、電車はわずか15分で駆け抜けた。
家に着いた途端、つなぎ姿のまま穂輔はリビングのソファに横たわって長い息を吐いた。手すりの部分に頭を預けて目をつぶって、疲れてるのか足を両方とも投げ出して、全身の力を抜いてる。
「…はー…龍彦先に風呂入っていーよ」
「あ、えっと、うん」
ランドセルをテレビボードの脇に下ろして、部屋の中を見渡す。今日はおばあさんもお父さんもいないみたいだ。
「…あの、穂輔」
「んー?…なにー?…」
「ほんとに俺来ても大丈夫だったの…?」
「……」
返事が帰ってこない。近寄って顔を覗き込んだら、穂輔は薄目を開けて眉間に皺を寄せた。
「…ん?…いま寝ちゃった」
「……」
「…ごめん聞いてなかった。なんつった?」
「…ううん。なんでもない」
疲れてるのに、する話じゃないな。きっと。
穂輔を見習って目の前のことをやる。だからお風呂に入ろう。
「お風呂行ってくる」
「いってら」
穂輔がまた懲りずにすぐまた目を瞑るから、ちょっとおかしかった。
お風呂から上がってソファーに寝そべる穂輔を覗き込んだけど、想像以上に深く寝てるみたいだからどうしようと思った。呼んでも肩を叩いても起きない。穂輔だって絶対お風呂入った方が良いのに。
「……」
どうして良いか分からなくて、ソファーとテーブルの間に座り込んだ。ちょうど良い高さだったからソファーに突っ伏して、穂輔の上下に動く胸をぼんやり眺める。
「…お風呂入った方がいいよ」
急に眠くなってきてしまった。だから自分も眠ってしまう前、最後のメッセージを残した。
「俺、言ったからね」
両腕の中に顔を埋めて、穂輔の寝息を聞きながら目を閉じる。
明日からどうなるんだろう。俺の毎日はこれからどこへ向かって、どこへ帰って、どこに繋がっていくんだろう。
全然わかんないな。全然わかんないや、穂輔。だって穂輔は先のことを話さないし説明もしない。聞いてもきっと返ってくる答えは「どーだろーね」とか「俺も謎」とかなんだろう。そんなこと言う大人、いないよ。やっぱり変だ。穂輔は変わってる。
だけど不思議なんだ、あんまり怖くないから。ぼんやりとした不安は、美味しいご飯と眠気の前には歯も立たないんだって知った。
トマトソースのハンバーグ美味しかったな。お風呂気持ちよかったな。疲れたな、眠いな。
穂輔が教えてくれるのは、そんなことばっかだ。生きてるって思う。聞かれてもそれ以上はうまく説明できない。でも、ただ生きてる。
その日は、明かりを点けたまま一緒に眠った。