Chapter.03
その夜、おばあさんは九時過ぎ頃自分の家へ帰ってしまった。ほすけのお父さんが車で帰ってくるなら、自分が停めている原付バイクが邪魔になるだろうから、という理由だった。
口では「やっと帰った」なんて言ってたけど、おばあさんがいなくなった後にちょっとだけ、シンとなった部屋の中ほすけは口を尖らせていた。声がでかいって言いながらしかめっ面を何度かしていたけど、本当はおばあさんが帰ってしまったことが、ほすけは寂しかったのかもしれない。
台所の方、コンロの上に置かれた鍋の中には味噌汁が、普段はきっと使っていないカウンターテーブルの上にはおにぎりがある。明日の朝ごはん用にと、おばあさんが作ってくれたものだ。
ほすけと二人だけの夜だった。昨日、ゴミ捨て場で声をかけられたのがもう随分遠いことに感じる。
「明日の準備しとこっか」
ほすけがテレビを消して、その代わりに今度はコンポの電源を入れる。明日の準備の間のBGMを選んでいるらしい。
「たつひこ邦楽のが好きなんかなー」
昨日とは違うCDを取り出してコンポに入れ、ほすけが再生ボタンを押す。流れてきたのは日本語の歌だった。もちろん初めて聴く歌だ。
「ランドセルに詰めよっか、このへんの」
「うん」
ダンボールの上に並んだ教科書やノートをランドセルにしまった。ヨレヨレなのは結局直らなかったけど、中身はちゃんと乾いてる。これならちゃんと使えそうだ。
せっせと詰める俺の隣にほすけがやってきて、ぼんやりと俺の様子を眺めている。いっぱいあんねとか、重そーとか、ほすけは思ったままの気持ちをひとりごとみたいにポツポツと呟いた。
「ふーん、たつひこってこーゆー字なんだ」
最後のノートをしまう時、ほすけが言った。安藤龍彦。ほすけが見ていたのは教科書の裏表紙にマジックで書かれた俺の名前だ。
「うん」
「画数多いね。書く時めんどくない?」
「うん。めんどい」
「だよね」
ほすけはゆるく笑って「でもかっこいーね」とも付け足した。
「…ほすけは?」
「あー、漢字?」
俺が頷くと、ほすけは携帯電話を取り出してインターネットの画面の検索部分に「穂輔」と打った。
「…俺より多い…」
「あは、俺の勝ち」
ほすけ。…穂輔。頭の中で漢字を数回なぞる。そっか、穂輔。画数は確かに多いけど、やっぱり知った途端にイメージが固まった。穂輔。ああ、似合ってるな。なんでそう思ったか理由はわからない。でも、漠然と思った。
「……穂輔は」
「ん?」
ランドセルに全てをしまい終わって、最後に銀色の金具を留める。二人きりだから、明日の朝にはさよならだから、もうちょっとだけこの人のことを知りたいと、思った。
「学校、好きだった?」
俺の質問に、穂輔が真っ暗な窓の外をぼんやり見つめながら「んー」と言う。こういう一瞬に、きっと言葉をちゃんと探しているんだ、この人は。適当に返したってきっとバレないのに。
「小学生ん時はあんま家にいたくなかったし、学校、好きだったよ」
「…ふうん…」
「給食毎日食えるし」
俺が思ってることと同じようなことを言うからちょっと笑った。俺も、給食は大事だ。
「豚汁とカレーん時は死ぬほどおかわりしたわ。今も出る?豚汁とか」
「うん、出るよ。俺も好きだ」
「うまいよね。あとミートソースも山盛り食ってた」
穂輔は話してると、すぐ食べ物の話になる。
「…ひひ」
「ん?なに」
「穂輔、子どもみたいだ」
「えー、なんでよ」
「食べ物の話ばっかりだ」
穂輔は「うっせ」の言葉と一緒に俺の頭に手を置いた。乱暴で、すごく急で、叩くと撫でるのちょうど間くらい。こんな風に誰かから頭を触られたのは、生まれて初めてだった。
「食うのは人間の基本でしょ」
「…うん」
当たり前のことを、そのまま言う。寒かったら寒いねって。眠かったら眠いねって。美味しかったら美味しい、好きだったら好き、嫌いだったら嫌い。きっとこの人は楽しい時も悲しい時も、それをそのまま言うんだろう。
「……」
この人といると安心するんだと、気付いた。構えなくてもいい。嘘を吐かなくてもいいし、無理をしなくてもいい。そのままでいいよって、言われてないのに伝わってくる気がする。不思議だった。…またちょっとだけ、泣きそうになった。
スピーカーから日本語の歌が流れる。聴いたことのないその歌の歌詞は、英語じゃないからちゃんと文字になって、俺の頭の中に滑り込んでくる。
「…これ、なんて人?」
コンポの方を見ながら尋ねると、穂輔は「くるり」と答えた。
「あんま普段聴かないけどね。…龍彦好き?」
「……」
安心な僕らは旅に出ようぜ。思いっきり泣いたり笑ったりしようぜ。
「…うん」
初めて「好き」と答えられた俺に、穂輔は俺より嬉しそうに「いーね」と言って、笑った。
その夜は俺がソファーで、穂輔がそのすぐ横のカーペットの上で眠った。自分の部屋から掛け布団を持ってきた穂輔は「夜中なんかあったら起こして」と言って、早々に電気を消した。
一人で寝るのがちょっと怖かったから嬉しかった。かっこ悪いから、それは結局穂輔に言えなかったけど。
翌朝。目を覚まして体を起こすと、穂輔は昨日の朝と同じように換気扇の下でタバコを吸っていた。起きた俺に気付くと「はよ」と短く言って、チラリと風呂場の方へ目をやった。
「親父いま風呂入ってて」
「あ、えっと…うん」
「出てきたら一緒に朝飯食べよ」
「うん」
もう穂輔のお父さんが帰ってきてるんだ。ちょっとだけ緊張した。見せてもらった写真を思い出すけど、声や背丈は、どんな感じなんだろう。
「龍彦の寝顔見てたよ」
「えっ」
「へーって言ってた」
「な、なにそれ…」
「あはは、わかんない」
笑いながらタバコの火を消して、穂輔は冷蔵庫を開け「なんか飲む?」と聞いた。穂輔が変なことを言うからうまく答えられなくて「いいえ」と答えたら「なんで敬語?」と、また笑われた。
穂輔がテレビ前のテーブルにおにぎりを運んでいる時、お父さんがお風呂から出てきた。上下紺色のスウェットで、首にタオルをかけていて、写真と同じ、鼻の下と顎にちょっとだけ髭を生やしてる。背はたぶん穂輔よりちょっと大きい。緊張しながら「お邪魔してます」と頭を下げたら、お父さんは顎を手でさすって「はいどうも」と言った。
「なんもお構いできませんで。えーと、たつひこくん?だっけか」
「は、はい」
「うん。こいつから大体は聞いてるから。じゃあ早速食べるか」
お父さんは「よいしょ」と言いながらソファーの、俺から少し離れた場所に座った。それで、顎をさすりながらテレビを点ける。…穂輔とおんなじ仕草だ。
「雨ん中で外いたんだって?風邪引かなくて良かったなぁ」
「あ、えっと、はい」
「最初怖かったろ?あいつ。目つき悪いから」
お父さんがイタズラな顔をして笑う。…よく似てると思った。カカカというその笑い声は違うけど、話し方とか、話す順序とか、やっぱり体勢の取り方と仕草が、穂輔とそっくりだ。
「穂輔ー、茶ぁくれ、茶」
「んー」
台所へ移動して味噌汁を温める穂輔の背中に、お父さんが声をかける。穂輔は振り向かず、後ろ姿のまま返事をした。
ほどなくして、重ねた空のコップを三つとお茶のペットボトルを穂輔が運んできてくれた。穂輔からそれを受け取るお父さんの手を目で追う。大きくて傷だらけだ。
「はいこれ、たつひこくんのな」
「あ、はい、ありがとうございます」
慌てて頭を下げてお茶の入ったコップを受け取る。いけない、俺も何か手伝ったほうが良いんじゃないか?
「…あ、あの」
「うん?」
「つ、つぎますか」
お父さんは数回瞬きをした後、またカカカと笑って「悪いな」と言った。
「俺もあんまり人相良くなくてよ。怖いか?」
「……」
首を横に振った。
「…穂輔と、似てる」
だから怖くない。心の中でそう続けたら、お父さんはちょっとだけ嬉しさを混ぜた顔で「まいったな」と呟いた。
「よく言われる。当事者だとよく分かんねえんだけどな」
そうか、これを言われると穂輔は「ウケる」で、お父さんは「まいる」なんだ。だけど二人とも、嫌そうじゃない。二人の反応を頭の中でこっそり並べて、なんだか俺は「いいな」と思った。
親子って、こんな感じなんだ。いいな。…羨ましいな。
「あのさー親父」
今度は味噌汁が入った器を三つと、箸やフォークを器用に全部持って、穂輔がお父さんに言った。
「ん?」
「食ったらその後車貸りる。俺が龍彦乗せてくから」
「おお、いいけど。荒い運転すんなよお前、お客さん乗せんだから」
「しないし」
穂輔が着席して、いただきますを言いながらおにぎりのラップを開ける。お父さんも俺もそれに続いて、三人の朝ごはんの時間が始まる。
おにぎりは一人二つずつ。一つは中身が鮭で、もう一つは塩味のわかめの混ぜ込みおにぎりだった。どっちもすごく美味しかった。出来立てじゃないのにご飯が柔らかい。すごいな、おばあさんの料理って何でも美味しいんだ。
ご飯を食べた後、穂輔がタバコを吸うのを待っていた。穂輔が灰皿に押し付けたら、いよいよ出発だ。
「…あー、たつひこくん」
ランドセルを自分の隣に置いてソファーの端に座っていたら、お父さんに声をかけられた。ちょっと迷ってるような、決めあぐねてるような声だ。
「…帰った後、なんでも言える誰か、いるか?」
「……」
穂輔から大体は聞いてるんだろう、俺のことを心配してくれてるんだ。嬉しいよりも申し訳ないと思ってしまった。また誰かに新しく迷惑をかけてしまったんだ。自分の中に×のマークが一つ足された気がした。
「……」
黙って頷いた。そんな人、本当は俺にはいないけど、ここで首を横に振ってしまったらお父さんはきっと困ってしまう。
「…そうか」
お父さんは、もう何も言わなかった。なら良かったとも、本当に?と聞き返すことも。
おばさんや学校のクラスメイトの顔がポツポツと浮かぶ。誰の顔も笑ってはいない。冷めた目と冷めた口元で、みんな俺を黙って見ている。
こんな時穂輔は、一番最初にお父さんの顔を思い浮かべるのかな。思い浮かべたその顔は、やっぱり笑ってるんだろうか。…もしそうだったらいい。羨ましいではなくて、そうだったらいいなって、思う。
「お待たせ、行こっか」
穂輔が換気扇を消して俺の元へやってきた。違う世界に迷い込んだかのような二日間は、もうすぐ終わるんだ。
お父さんに玄関先まで見送られ、俺と穂輔は出発した。穂輔にもらった靴を履いたら、靴をもらった時の嬉しい気持ちとこれからあの場所へ戻る憂鬱な気持ちが一緒に湧き上がって、心の中が急に散らかった。
穂輔が助手席側のドアを開ける。中に入ってシートに座る。俺が座ると穂輔も反対に回って運転席に座った。お互いにドアを閉める。「バタン」という音が両方から聞こえて、俺は何かから閉ざされてしまったような気がした。
「住所なんだっけ」
穂輔に聞かれ、あの家の住所を伝えた。穂輔がナビにそれを打ち込んだら、この場所からあの家までの地図が出来上がった。「所要時間、約三十分」の文字が表示される。たった三十分。俺が雨の中、逃げたいと思って歩いた長い道のりは、違うどこかに行かなきゃと必死に歩いた遠い遠い道のりは、車でたった三十分の距離だったんだ。
「じゃー行くわ。シートベルトできた?」
「うん」
「ん」
車が走る。俺が毎日過ごしてきた、それでも俺の居場所ではない場所へと向かう。車は途中、俺が歩いてきた道とは全然違う行き方になった。見慣れない景色がどんどん流れる。
もうおばあさんの料理は二度と食べられないんだと気付いて、なんでもっと食べておかなかったんだろうって後悔した。もっと食べれば良かった。お腹が破れるくらい食べれば良かった。さっき食べた朝ご飯の時だって、おかわりが欲しいと言ったら味噌汁をもう一杯飲めたかもしれないのに。馬鹿だな、なんで言わなかったんだろう。
忘れたくなくて、せめてもの思いで生姜焼きの味を思い出そうと目を瞑る。最初の数十秒はうまく思い出せたのに、段々口の中に広がる思い出は食パンの感触にすり替わってしまって、俺はますます悔しくなった。
「あ」
穂輔が運転中、急に何かを思い出したのか「やば、忘れた」とこぼした。
「龍彦の靴忘れてきちゃった」
穂輔は赤信号で停車すると、俺の方を見て「ごめん必要だった?あれ」と聞いた。
「いるんだったら取りに戻るけど」
「……」
ボロボロで、穴が空きそうで、クラスの奴に何度も「きったねぇ」と言われたあの靴。下校の時靴箱を見たら、誰かが噛んだ後のガムや飴のゴミが入っていた、あの靴。
「…ううん」
「そー?」
「いらない。あんなの」
自分の足元に目をやる。新しいプーマの靴に、ちょっとだけいい気持ちになった。ランドセルの中のヨレヨレになった教科書も、シミ付きのクタクタになったこの服も、穂輔からもらったこの靴があれば大したことじゃないように思えてくるから不思議だ。かっこいい。この靴が俺、大好きだ。
「これがあるから平気」
プーマを指差して笑ったら、穂輔も笑った。
「したらさー、古い方も一応捨てないどくから、必要んなったら取りに来て。いつでも」
穂輔からもらったものを一つ持って、穂輔の家に持っていたものを一つ残す。なんだかそれがちょっと嬉しい。もうこの人に会えるかは分からない。だけど例えどんなに細くても微かな糸が一本だけ、繋がっているような気がした。
「取りに来て」と「いつでも」を胸にしまって、俺はプーマに守られた自分の両足に、ギュッと力を込めた。穂輔がくれるそういう言葉が、嬉しい。
少しして車は目的地に到着した。見慣れた光景、あの人たちの住む家の前だ。
集合住宅なので、建物には住居者専用の駐車場が隣接している。穂輔は「ちょっとだけここ停めちゃおっか」と言って、空いているスペースの白線の内側に車を収めた。
「…ばーちゃんがさー、言ってたじゃん」
穂輔がエンジンを切った後、ぽつりと言った。
「…なにを?」
「誘拐と一緒だって。言われた時は何それって感じだったけど、まー確かに俺、無責任だったかもって」
顎をぽりぽりかきながら「ごめんね」と続ける穂輔は、フロントガラスの向こうを見たままだったから、俺が首を横に振ったことに、今、気づかなかったかもしれない。
「…難しいこと分かんねんだ、俺」
「……」
そんなことない。俺の方がなんにも分からないよ。だって穂輔のいう「難しいこと」が何なのかも、こうして隣にいるのに、よく分からない。
「でも、言われたら分かるから」
「…うん」
「言われないと分かんないけど、言ってくれたら分かるからさ」
「……うん」
「…あー…そんだけ」
「……」
やっぱり最後まで、穂輔が何を伝えようとしてくれてるのかはよく分からなかった。分からないって、素直に言えば良かったのかな。だけど迷ってるうちに時間だけが過ぎて、沈黙に、置いていかれる。
「……なんかさー、ペン持ってない?」
「ペン?えっと…あ、筆箱の中にあるけど…」
「ほんと?ちょっと貸して」
唐突な言葉に内心戸惑いながらランドセルの金具を外して、中から筆箱を取り出す。ペンを渡すと穂輔は「あー、なんか紙あったかな…」と、前方のダッシュボードを漁った。
「あの、ノートもいる?」
「あーいる、ごめん貸して」
一番取りやすかったから、国語の時に使っているノートも渡した。穂輔はパラパラとめくって空いてるページを見つけると「ちょっとここ書いていい?」と言った。
「うん」
穂輔が、ペンを動かす。何かを書いている。覗き込もうとするより先に穂輔は書き終えてしまったみたいで、すぐさまペンとノートを返された。
開かれた一ページを見る。そこには080から始まる電話番号が、右上がりになった斜めの向きで書かれていた。
「それ、俺の番号だから」
「……」
「なんかあったら電話して」
「…いいの…?」
「いーよ」
「…ほんとに?」
「うん、仕事中は出れないけど。履歴残してくれたらちゃんと見るから」
「……」
ノートに書かれた数字をもう一度見つめる。なんかあったら、ここに電話する。なにかあったらかけてもいい電話番号が、自分にある。
まるで命綱みたいだ。そう思った。この11桁の向こうは穂輔に繋がっている。どうしようもなくなった時は、今度は逃げるんじゃなくて、電話をかけられるんだ。
「…わかった」
「うん」
「……ありがとう…」
穂輔が笑うから、笑ってくれるから、俺は胸が苦しくなって上手に笑えなかった。言葉は耳から聞こえてくるのに、笑った顔は視界に映っているのに、どうして穂輔のなんでもない言葉と笑顔は、いつも耳や目より先に胸の方へ届くんだろう。
穂輔と一緒に車を降りて、あの人のいる家の玄関ドアまで向かった。穂輔は片方の手をポッケに入れながらインターホンを鳴らした。
部屋の中から「はーい」という声がして、ドアがすぐに開いた。ドアの向こうにはいつもよりずっと穏やかな顔をしたあの人がいた。
「…あら、あらやだっ、まあ~ご足労おかけしちゃって。ごめんなさいね?お待ちしてました」
おばさんは穂輔の顔をまじまじと見て、それから目線を上から下に何度も動かして穂輔の全身を眺めていた。
「やだわ、ずいぶんお若い方で。どうしましょう、ごめんなさいねそんなに広くはないんですけど、上がっていきます?良ければお茶でも……」
「はあ、別に」
穂輔はおばさんとは対照的に無表情だった。返事も素っ気ない。怒っているのかなとハラハラしてしまったけど、おばさんはそんなのちっとも気になっていない様子だ。
「本当にこの度はご迷惑をおかけしまして…あの、ありがとうございました。ほら、龍彦くんお礼は?言ったの?」
「…ありがとうございました」
言う通りにしないと後で不機嫌になることを知っているから素直に従った。穂輔に向けて頭を下げたけど、穂輔は俺じゃなくおばさんをじっと見つめたままだ。
「…ん?やだわぁふふ、私の顔になにか付いてるのかしら」
「……いや、別に」
穂輔はおばさんから目を逸らし、そのまま少し俯いてしまった。
「あの、稲田さん?本当にご迷惑かけちゃってごめんなさいね?でも、ふふ。稲田さんで良かったわ、こんなに親切にしていただいて」
「……」
「それもこんなにお若くてねぇ~?ね?龍彦くん。良かったよねぇ?」
隣にいる穂輔とおばさんを交互にチラチラ見ながら俺は頷く。若いと何が良いんだろう。全然分からない。
「かっこいい人ねぇ?すごくかっこいいよね?そう思わない?龍彦くん」
「……」
戸惑いながら、でもやっぱり仕方なく頷いた。かっこいいは間違いなく褒め言葉のはずなのに、隣にいる穂輔の機嫌がどんどん悪くなっている気がしてしょうがない。頷きたくない。穂輔がかっこいいとかかっこよくないとか俺には別によく分からないし、どうでもいいのに。俺に振らないでほしい。
「もし良かったら上がっていかれません?なんだったらそのままお昼ご飯もご馳走できるし…ふふ。ねえ?」
最後の「ねえ?」で、また俺の方を見る。もうやめてよと思った。だからランドセルのベルト部分をギュッと握って、穂輔の真似だ。俯いてやった。
「けっこーです」
ぶっきらぼうな一言が、俺たち三人の真ん中に大きな石のように投げ出される。穂輔のその一言はあまりに唐突で、おばさんもきっと受け取り損ねてしまったんだろう。だから言葉は誰にも拾われることなく、玄関先の床に真っ直ぐ落ちた。
「……あら、あらあら。そう?あら~…。そうですか、残念だわ」
おばさんの笑顔にも穂輔はちっとも反応しない。ポケットに手を入れたまま突っ立って、おばさんに形だけの会釈をして「失礼します」だけを置き土産にして、ここから立ち去ろうとする。
「…じゃーまたね」
穂輔が、立ち去る間際、俺の頭に手を軽く乗せてそう言った。
「……」
俺の言葉も待たないで穂輔は行ってしまった。しばらくして駐車場の方から車のドアを開ける音と閉める音が聞こえて、休む間もなくエンジンのかかる音が響いた。
穂輔は、行ってしまった。
「…なんだかちょっと怖い人だったねぇ~?」
おばさんに同意を求められたけど、俺は首を縦にも横にも振らなかった。プーマの靴を見下ろす。穂輔は怖くない。穂輔を怖い人だと思ったことは、一度もない。おばさんの目は節穴だ。
「さぁ、それじゃ龍彦くん。お家入ろっかぁ?」
俺の背中をさするおばさんの手が知らない人みたいで、どうしてかゾッとした。玄関を跨ぐのに緊張した。俺はまた自分の居場所ではないここへ戻るんだ。いよいよ、戻らなきゃいけないんだ。
喉の奥がギュッと締まって苦しい。両足がすごく重たい。だけど入らなきゃ。戻らなきゃ。早く中へ入ってしまえ。なんでだか分からないけどおばさんは今機嫌がいい。それを損ねてしまう前に、早く。早く。
穂輔の手のひらの感触を思い出したくて自分の頭のてっぺんを触った。プーマに守られた足に力を込めた。電話番号が書かれたノートのページを頭の中に思い描いた。
自分の片足が、玄関の敷居を跨ぐ。
「おかえり、龍彦くん」
おばさんの明るい声が耳にまとわりつく。
今までよりずっと、逃げた金曜日の前よりずっと、怖くて気持ち悪いと思った。
日曜日はそれから、寝る時までずっとおばさんの機嫌が良かった。俺に穂輔のことをいっぱい尋ねて、俺がボソボソと答える度に「あら」「まあ」「へえ」「それで?」と明るい表情で相槌を打った。
聞かれたのは本当に、穂輔のことばっかり。年齢とか何してる人なのかとか、結婚してるのかとか。
こっちからお礼言いに行こうかと言って住所を聞かれた時は慌てた。そういえば知らない。答えられない俺におばさんはちょっと嫌な顔をしてみせた。
「どうして聞いておかないの?馬鹿だねぇ」
だけど、少しホッとしたのも本当だ。だっておばさんを穂輔の家に向かわせるのは、なんだかいやだったから。
夜、インスタントの味噌汁とふりかけご飯を食べた。食パンよりずっとずっとご馳走だ。その後も、お風呂や玄関で寝ろと言われないかヒヤヒヤしていたけど、言われないで済んだ。一番奥の畳の部屋、ぺたんこで全然あったかくないけど、床ではなく布団で眠ることができた。
物置みたいで、埃っぽくて暗い、小さな部屋。いくつかのゴミ袋に囲まれて眠る。掛け布団を半分に折って、足の先がはみ出さないように縮こまる。寒い夜にちょっとでもマシになるようにと編み出した、俺の技だ。
月曜日。起きて食卓へ向かう。そっと中の様子を見ると、おばさんは朝ごはんを食べているところだった。
「ああ、おはよう」
「…おはようございます」
顔色を伺う。あ、そんなに悪くなさそう。おばさんの機嫌が昨日に引き続き良好なことを確認して、それからテーブルに近づいた。俺の朝ごはんは食パンだったけど、今日は一緒にマーガリンとインスタントのコーンスープも並んでいた。
「ほら、早く食べなさい。遅刻しちゃうでしょ」
おばさんがそう言って席を立つので、俺は入れ違いで自分の椅子に座った。おばさんが背中を向けてる間に、パンの上に大量のマーガリンを塗る。「勿体無いからやめて」と言われる前に急いで蓋を閉める。この人を無駄に怒らせない技は、他にもたくさんある。
普段より五分くらい早く家を出た。ピカピカのプーマを履いてドアを開ける。扉を閉めて歩き出してから、やっと一息つく。良かった。昨日の夜も今朝も、なんにも起きなかった。顔も頭も叩かれずに済んだ。
交互に前へ進む自分の足元を見下ろしながら、このプーマのおかげかもしれないなんてこっそり思う。穂輔がくれたパワーアイテム、だったりして。
俺と一緒に学校へ向かう二匹のプーマに心の中で「着いてからもよろしくな」と念を送った。
学校に到着して、下駄箱の上履きを適当に落としてからプーマを脱いだ。薄汚れたボロボロの上履きの代わりに下駄箱の真ん中、左右綺麗に揃えてプーマをしまう。かかとの潰れた上履きを履きながら、上下左右の他の人の下駄箱を眺めた。
すごい。俺のが一番ピカピカだ。自慢したくなって、他の奴らの靴や上履きに「いいだろ」と口パクで囁いた。それからついでに「ばーか」「アホ」「なめんな」も。
自分のクラスに到着する。六年一組。体育が得意な男子が多くて、他のクラスより問題を起こす回数もちょっと多いクラスだ。
担任の先生は溝端先生。背が低くて髪の毛が変にチリチリした、声の大きいオバサンだ。男子からそこそこ嫌われてて、女子の半分くらいからも「溝ババ」と影のあだ名で呼ばれてる。だけど一部の女子からはやたら人気があって、合唱コンクールとか作文とか、そういうのが好きな地味グループの何人かは、よく溝端先生に話しかけたり個別で相談をしたりしてる。
俺は、別に普通。先生を好きとも嫌いとも思ったことがない。ただの記号みたいに思ってる。自分のクラスの担任というだけの、記号。
誰とあいさつすることもなく自分の席に着いて、ランドセルの中身を机の中に入れた。穂輔が電話番号を書いてくれたノートは、なんとなく一番下。他のやつがラクガキしようとしても、まず一番下のこれに書こうとは思わないだろう。だから、一番下。
一時間目は算数だ。ヨレヨレの教科書を机の上に出して、パラパラめくった。宿題があったような気がするなと思って、そうだそうだ、◯ページの問題を全部解いておかなきゃいけないんだったと思い出した。
算数だけは他の科目よりちょっと得意で、家で宿題をやらなくてもこういう空いた時間に取り掛かればたいていできる。今回も大丈夫だった。
算数は好きだ。答えがちゃんとあって、単純で簡単だから。なんとなく穂輔のことを思い出して、鉛筆を左手でクルクル回しながら、俺の口元はちょっとだけゆるくなった。
始業のチャイムのスレスレに斉藤と吉村が登校してきた。一組の中で一番声がでかくて、授業中もずっとうるさくて、イスをシーソーしたり漫画やカードゲームのカードを持ってきてたり、とにかく先生に注意されてばっかりの奴らだ。
二人は俺の席の横を通る時、机や椅子の足を数回蹴って笑った。そのせいで机の向きが曲がって、教科書に書いていた数字が変になった。
でも、俺は何も言わない。二人も何も言わない。六年生になって最初の頃は二人ともニヤニヤ笑ってきたし「くせえ」「休めよ」とか言ってきて、俺もムカついて二人の足を思いきり蹴ったりしていたけど、もうそういうことはなくなった。
ニ対一だと不利なのだ。ケンカで負けるとかじゃない。ケンカなら負けない。そうじゃなくて、先生や大人にチクられる。口裏をうまく合わせて、俺が一人で勝手にキレたみたいに、こいつらは大人に伝える。そうすると俺がおばさんにすごく怒られて、いつもよりいっぱい叩かれる。
だから、反応しない。見えてない気づいてないフリをして、やり過ごす。こういう時に「フリ」ができると後が楽だ。だから俺は前よりずっと「フリ」が上手くなった。
二人が立ち去った後、変になってしまった数字を鉛筆の頭についてる消しゴムで消した。ゆっくり書き直す。全然綺麗に消えないから、消し跡の上から何度も強く、答えを書き直した。
斉藤と吉村は、自分たちの席についてどうでもい話をでかい声で話していた。二人の後ろ姿に小さな音で舌打ちをする。心の中で「死ね」と言った。死ねよ。バカ二人。早く死ね。
でも、それくらいだ。その後も、その次の日だって特別大きなことは起きなかった。休み時間にからかわれて喧嘩になることだって下校の時に後をつけられて野次を飛ばされることだって。そういえば先週、ムカついて殴って鼻血を出させたことがあった。それが効いてるのかもしれない。あいつらビビってるんだ。かっこ悪りいの、俺が怖いんだ。
あの時お前らが嘘とホントを混ぜて先生や自分らの親に伝えるから、そのせいで俺は、それを信じたおばさんに何時間も怒られて、何十回も叩かれたんだ。卑怯者、弱虫、なめんなよクソやろうども、死ね、死ね、死ね、早く死ね。
おばさんもこの二日間ずっと穏やかで、叩かれたり風呂場にいなさいと言われることもなかった。なんて平穏な月曜日と火曜日だろう。ちょっと拍子抜けしたのも実は本当だ。だって穂輔と別れた日曜日、俺は密かに、これから始まる毎日にガンを飛ばして、かかってこいよと構えていたから。
穂輔のプーマのおかげかもしれない、本当に。二匹のプーマは俺の守護神なのかもしれない。
大事にしよう。大事に履こう。かかとを潰したり解けたヒモをそのまま引きずって歩いたり、絶対しないように。穂輔、俺大事にするよ。絶対大事にする。
いつかこの穏やかな日々が…そうだな、一ヶ月くらい続いたら。穂輔、その時は電話する。すぐにしちゃうのはなんだか格好悪いから、とりあえず一ヶ月だ。
一ヶ月後に電話をするよ。元気だよって、もらった靴は大事にしてるよって。それから電話越し、もしも俺の言葉に穂輔が嬉しそうに笑ってくれたら、その声が聞こえたらさ、ありがとうも一緒に伝えるよ。穂輔は、喜んでくれるかな。俺からの電話を嬉しいって思ってくれたら、嬉しい。
心の中に打ち立てた自分だけの内緒の目標は、だけど次の日の水曜日、あっけなく砕けてしまった。
水曜日。その日の朝もいつもより五分くらい早く家を出た。早くプーマを履きたかったからだ。もしかしたら俺は、登下校の時間を一番好きになったかもしれない。一緒に歩いてる気になる。二匹のプーマと一緒に、負けないぞという気持ちで、学校へ向かう戦士のような気持ちになる。
水曜日の時間割は楽でいい。一時間目と二時間目が家庭科で、それさえ乗りきればあとは割と好きな理科と算数、その後は一番楽しみな給食だし、給食を食べたら昼休みを挟んで体育だ。
昨日と一昨日の平穏が、今日もきっと続く。吉村と斉藤も、俺にビビってるのかそれとも飽きたのかは知らないけど突っかかってこない。
二人さえいなきゃ学校は俺にとって波の立たない海みたいなものだ。決して暖かくはないけど、適当に浮かんでいればチャイムは鳴る。何も起こらなきゃおばさんに叩かれることもない。
午前中の授業をプカプカ水面に浮かぶようにやり過ごして、給食の時間を迎えた。今日はミートソースとわかめスープだった。大当たりの献立だ。美味しくて、この後の体育で脇腹が痛くなるだろうなと思ったけど、構わず二回おかわりした。
昼休みの後が体育の時は基本的にみんな、体操着に着替えてから遊ぶ。男子は教室の端っこで、女子はトイレとか体育館の裏にある更衣室へ行って着替える。
俺もいつものように教室の端で体操着に着替えた。校庭でサッカーとかドッヂとかしたい奴らは、良い場所が取れるように急いでいた。斉藤と吉村は一番乗りと二番乗りで着替え終わって教室を飛び出した。たぶん今日も他の何人かと一緒にサッカーをしに行くんだろう。サッカーが一番広いスペースを使うから、場所取りの争奪戦が激しいのだ。
二人は、教室の扉をくぐる時なぜか俺の方を振り返ってニヤニヤした。でも、いつものことだから俺は気にしない。俺の着ている服がボロいとか汚いとか、たぶんそんなことを言い合って笑ったんだろう。そんなの、自分だって分かってる。心の中で「早く行けよバカ」と唱えながら無視していたら、二人は特に俺に突っかかってくることもなくそのまま校庭へ行った。
昼休みは二十分しかないから、暇を潰すのにそんなには困らない。俺はサッカーよりバスケが好きだから、たいていは校庭の角にある用具入れからバスケットボールを一つ引っ張り出して、一人でシュートの練習をする。
体育の時間にもっとバスケをやってほしいんだけどな。マラソン大会が近いから最近はずっと長距離走ばっかりだ。ちょっと飽きた。
体操着に着替え終わって、下駄箱に向かった。またプーマを履けるんだとワクワクした。薄汚れた上履きのかかとを潰しながら、そういえばプーマを履いて体育をするのは今日が初めてだと気付いた。もしかしたらいつもよりちょっとだけ、長距離走で良い記録を出せるかもしれない。
「……あれ」
自分の下駄箱の前に立って、思わず声が漏れた。今朝しまったはずのプーマの靴がない。俺の下駄箱は空っぽで、嘘みたいに、もぬけの殻だった。
誰かにパクられた?誰かが勝手に履いてる?でも俺の靴を履こうと思う奴なんてきっといないよな、と思い直して、そのすぐ後に、斉藤と吉村の顔が浮かんだ。
俺の靴をどこかに隠したのかもしれない。上履きで体育やらせようみたいな、そういうことを考えたのかもしれない。
さっき二人が教室を出る時にニヤニヤしていた本当の理由がわかった。バカだ、あいつらホントに超バカだ。死ね。むかつく。
昇降口の向こう、たくさんの人が遊ぶ校庭を見る。あいつら、どこだ。
…それで、隠されただけなら、たぶん大丈夫だったんだ。
上履きのままで体育の授業を受けることも、それで先生にみんなの前で「どうした?」って聞かれることも、みんなからクスクス笑われることも、別に全然、きっと耐えられた。授業が終わってから靴を返されて、あの二人に「ばーか」とか「ウケんなあ」とからかわれても、別に、きっと平気だった。
昇降口の向こう、サッカーをする吉村と斉藤を見つける。二人が蹴っているのはサッカーボールじゃなかった。
蹴って、時にはわざと踏みつけて、笑いながら汚して、コートの外にあった水溜りめがけて蹴って「ナイッシュー!」って喜んでる。二人が蹴って遊んでたのは、俺のプーマの靴だった。
それに気付いた瞬間、頭の奥の方で何かのスイッチがオフになるのを感じた。
暗転する。真っ黒になる。それと同時に目の前が赤くなる。まるで燃えてるみたいに真っ赤に染まる。俺は黒と赤に飲み込まれて、自分を制御できなくなる。
いつも、こうなんだ。
ああまたこれかあ。お前、またそれかあ。少し上から俺を見下ろす俺の冷たい声が、一瞬だけ聞こえた。
上履きのまま走り出す。吉村と斉藤の元へ向かう。俺に背を向けていた吉村の背中を思いきり蹴って、バランスを崩したその一瞬に髪の毛を掴んで地面へ押さえつけた。背中に馬乗りになって、髪の毛を引っ張って地面から少しだけ持ち上げる。それで、今度は下へ叩きつける。
何回もやった。何回も何回も繰り返した。斉藤が慌てて駆けつけてきて俺と吉村を引き剥がそうとしたけど、俺はそれでも辞めなかった。
吉村の足がジタバタ暴れて俺の背中を蹴ろうとする。でも届かない。馬鹿だ、死ね、今すぐ死ね、死ねないなら今すぐ靴を元通りにしろ、できないならやっぱり死ね。
「やめろ!やめろよ!」
斉藤のバカでかい声にきっと周りの人も気づいたんだろうけど、俺はひたすら吉村の頭を地面に打ちつけた。十何回目かのタイミングで吉村の体から力が抜けるのがわかったから、俺は立ち上がって今度は斉藤の顔を殴った。
「っにすんだよてめぇ!」
俺に殴られた斉藤が胸ぐらを掴んで、怒声と一緒に唾を飛び散らせた。俺より体が大きい斉藤は、だけど動きがとろい。だから殴り返されそうになるその一瞬に、今度は顔面めがけて思いきり頭突きした。鼻の上あたりに俺のおでこがまっすぐ当たる。俺の胸ぐらを掴んでる自分の手を離せなくて、斉藤はフラッと空を見上げながらよろめいた。
バカだ。弱い。お前らクソだよ、弱いんだよ、弱虫ども今すぐ死ね。死んで詫びろ。俺の靴を、元通りにしろよほら今すぐ。今すぐ。
俺の胸から離れない手を上から握って、反対の手で腹を殴った。最初の一発を強めに、それから追加で三発。「うげ」とみっともない声を漏らして斉藤はうずくまろうとする。だけど胸元にある手を離さない。うずくまることを許さない。
斉藤が口の端からヨダレを垂らして俺を睨んだ。まだやる気なんだ。まだ自分の方が上にいる気でいる。まだ足りないんだ。
人の形をした砂袋に見えた。いつも頭の中のスイッチがオフになると、相手が人間じゃなく思えるんだ。ただの砂袋、だからどれだけ殴ったって蹴ったっていい。何したっていい。死ね。死ね。死ね。
もう一度拳を握った時、斉藤は白目の部分に赤い線を少しだけ走らせて、笑った。
昇降口の方から誰かの走ってくる音が数人分聞こえる。遠くで誰かが「安藤!」と俺のことを呼ぶ。でも直らない。真っ赤になった視界が直らない。スイッチがオフにならない。
俺は六年生の学年主任の先生と溝端先生に両脇を抑え込まれて羽交い締めになった。
「やめなさい!今すぐやめなさい!」
大人二人分に抑えられて、次の一発を繰り出せなくなる。
離せよ、今すぐ離せ、足りないんだこいつら、バカだから、何回殴っても蹴ってもやめないんだ。今ここでトドメを刺さなきゃダメだ絶対に。またやる。こいつらは何度だってまたやる。だから邪魔すんなよ離せ、離せ今すぐ。
「安藤くんやめなさい!聞こえてるの!」
聞こえないよ。全然聞こえない。記号だって言っただろお前らなんか。やめてほしいんなら俺の靴返せよ。真っさらだった、ピカピカの状態に戻してよ。
俺が何したって言うんだ。俺からお前らになんかしたことなんて一度でもあったか。
いつもお前らはそうだよ、お前らから勝手に、冷たい目をして嫌な顔で笑って、遠巻きに何かを囁いて、俺の言い分なんか聞きもしないで、俺からいろんなことを奪うじゃないか。
奪ってばっかりだみんな。奪われてばっかりだよ。奪われてばっかりだったよ今までずっと。ずっとずっとそうだったんだ、そうじゃない時なんかなかったよ。
もう奪うなよこれ以上。返して。返せよ、俺のプーマを返して。
「安藤!」
学年主任の先生が俺の頬を数回軽く叩いた。頭に血が上った俺を正気にさせるためだったんだろう。頬がジンジン痛くて、そこでやっと真っ赤な視界が普通の色に戻ってきて、頭の中に照明が灯った。
俺から解放された斉藤はその場にうずくまり腹を庇っていた。見下ろした先で倒れてる吉村はおでこから血を流していた。俺が蹴って叩きつけて殴った相手は、人間だった。
「………」
あーあ。ほらお前またやっちゃったな。何回同じことやるんだよ?お前の味方になってくれる人なんてどこにもいないのに。だめなんだってば。手を出したら負けなんだってば。
頭の中でもう一人の自分がそう言った。今更、吉村の頭を掴んだ時の手のひらの感触が、斉藤に頭突きした時の痛みがジワジワ広がる。
またやっちゃった。また負けちゃった。…どうしよう。
「安藤は私と一緒に職員室に来なさい。溝端先生は、すみませんが二人を保健室へ」
学年主任の先生が俺の腕を根元からしっかり掴んで、校舎の中へ連れていこうとした。
「……靴」
こぼれた言葉に先生が「なんだ」と、少し強めに聞き返した。
「俺の、俺の靴…取ってきていいですか」
「後にしなさい。溝端先生にお願いしておくから」
引きずられるようにして歩きながら、よろよろと、校庭の地面を見つめた。
連行されてるみたい。死刑執行。頭の中に浮かんできたその単語に「本当だな」って、もう一人の自分が冷たく笑う声が聞こえた。
俺がこれから味わう全部を、俺はもう知ってる。知ってるから、もういっそ死んじゃった方が楽かもなって、静かに思った。
その後の体育の授業は結局受けられなかった。保健室のイスに座らされた吉村と斉藤の隣、俺は突っ立って俯いていた。
保健室の先生が二人の手当てをテキパキする横で、学年主任の先生と溝端先生が俺を囲む。何があったのと聞いてきたのは溝端先生。俺を挟んで反対側、深く溜息をついたのは学年主任の先生だった。
「…靴を、ボロボロにされた」
俯いたまま呟くと、溝端先生は「それで?」と続きを催促した。それでもなにも、それが全部だ。
「それだけ?他にもなにかされたことがあるんじゃないの?」
「……」
俺が黙っていると、今度は学年主任の先生が低い声で「それだけのことでここまでしたのか」と俺に尋ねた。
「そうだよ。そいつ頭おかしいから」
吉村がイスに座ったまま答える。斉藤も頷いて「俺らちょっとからかっただけだし」と続ける。
「安藤くん…あのね、そういう時は「やめて」って、言葉で伝えればいいんじゃないかな?言葉でちゃんと伝えたらね、伝わることはもっとたくさんあるんだよ」
違う。
「人をからかうのはもちろん良くないことだけど、それでもこんなに暴力を振るってしまったら、安藤くんの方が加害者になっちゃうよ。そうでしょ?」
違う。絶対に違う。
「言葉で伝えられる人になろう?ね?そしたら吉村くんも斉藤くんも、安藤くんの気持ちがちゃんと分かるんだから」
そんなの違う。そんなの絶対に違う。
「なんとか言ったらどうなんだ」
何も答えないでいる俺に、学年主任の先生が急に声を荒げて怒った。俺はますます俯いた。
でも、俯いていてもわかる。イスに座ってる二人は今ニヤニヤしてるんだろう。ニヤニヤしながら、俺の負けと自分らの勝ちを確信してるんだ。
「…保護者の方に連絡するから、みんなここで待っていなさい」
先週と全く同じ流れだった。あいつら二人の母親に連絡が行った後、最後におばさんのところへ電話がかかる。
誰も、吉村と斉藤の二人に「なんでそんなことしたの」とは聞かない。二人を俺以上に責める大人はいない。怪我をした人は手当てをされて、手を上げた人は問いただされる。反吐が出るような「当たり前」だ。
だけどホントはそんなのおかしいだろって思う。なにがおかしいのかと聞かれたらうまく答えられない。答えられないけど…なんで?って。
手を上げればその度に俺側には「暴力」が積み重なっていくのに、×が増えていくのに、吉村と斉藤には何にも積み重ならない。いくら俺をからかってもバカにしても、こいつらには「人をからかった」「バカにした」が積み重なっていかない。二人に×を付ける人は、いない。
言葉で伝えたって意味がないに決まってる。余計笑われるに決まってるんだ。俺の言い分に「そうだ」って頷いてくれる人が一人もいないんだから、誰にも支えてもらえない言葉を放ったところで、効果なんかない。蹴って、殴って、その体を抑えつけてやらなきゃ伝わらない。やめてくれるわけがない。
しばらくして戻ってきた学年主任の先生が「出られそうなら授業に出ておいで」と言ったのは、俺ではなくイスに座っている二人だった。
二人は「はーい」と間延びした返事をして、けろっとした様子で保健室から出て行った。取り残された俺は一人、記号にしか見えない人達に囲まれたままだ。
「…安藤は、今日はこのまま帰るように」
やっぱり。この前と一緒だ。
「お家の方が、帰ってくるようにと。話がしたいそうだ」
そう。それも全部一緒。たぶんあの人のことだ、電話の向こうで先生に言い過ぎなくらい謝ったんだろう。謝って、泣き声混じりの「申し訳ありません」を繰り返して、それで俺が帰ったら、何十回も繰り返し叩く。何時間も繰り返しひどいことを言う。そして頬や耳が疲れ切った頃、風呂場にいなさいと言うはずだ。朝までずっとコース。長くて冷たい、あれが待ってる。
「溝端先生、家まで付き添ってもらえますか。お手数ですが」
「分かりました。…安藤くん、教室に行って荷物を持っておいで。先生、下で待ってるから」
「……」
今、全てを打ち明けたらどうなるのか。
帰ったらあの人に叩かれるんです。沢山ひどいことを言われるんです。夜は電気の点いてないお風呂場で、テープの貼られた場所から動かないよう命令されて、朝までそこで過ごすんです。
言ってみようか。言ったら未来が変わるかもしれない、少しだけ。
「……先生」
先生が「なんだ」と返事をするより先に、心が凍った。今、先生という言葉を「先生」だと思いながら言えなかった。
言えない。言えるわけないよな。この人たちが俺の「先生」だったことなんか、だって…ないじゃん。
伸ばしかけた手を、もう一人の自分が笑うのがわかった。かっこ悪いよ、だって目の前にいる奴ら全員「記号」なんだろ?記号に助けを求めるなんてバカだよ。やめときな。
…そう。そうだね。
「なんだ、安藤」
「……」
なんとか言ったらどうなんだって言ったよな、さっき、お前。心の中で言いながら学年主任の先生を見上げたら、先生が嫌な顔をして「なんとか言ったらどうだ」ってまた言うから、俺はお前の全部を諦めた。
誰もいない教室に戻って荷物を取ってきた後、俺は溝端先生に連れられて帰った。靴は拾ってくれてなかった。忘れてたんだろう、空っぽの下駄箱の前に立つ俺を見てやっと「あ、そうだったね」と先生は慌てた。
そうだよね。どうでもいいんだもんな、俺の靴なんか、みんな。
「ごめんね。先生、今から靴を拾ってくるね」
「…いい」
「え、でも…」
「自分でやるからいい」
また諦める。諦めるとちょっとだけ楽になる。楽になった心と体で、上履きのまま校庭に転がった自分の靴を拾う。
拾っている俺の様子を、授業中のクラスの奴らが見ていた。ヒソヒソ話して、何人かは「帰れ」って野次を飛ばして、吉村と斉藤は笑いながら中指を立てて、体育の先生が「コラ」って、軽く注意する。
諦めてる、全部。だからいい。つらくない。俺、今、楽だよ。
右手と左手に一つずつプーマの靴をぶら下げて、俺は上履きで帰った。泥と砂で汚れたプーマは、朝とまるで別の靴みたいだった。
水を吸ってるから重たくて、ごめんねって心の中で謝った。
プーマのマークが汚れて隠れて、全力疾走するのをまるで誰かに邪魔されてるみたいだ。
ごめんね、嫌だね。誰より速くかっこよく、せっかく走ってたのに。あんなにかっこよかったのに。…汚させて、ごめんね。
溝端先生は家に着くまで何も喋らなかった。この人は二人きりになるといつもこうだ。ちょっとだけ距離を置いて、ビクビクしながら黙り込む。
俺に怯えてるんだろうな。…バカみたいだ。諦めてるからいい。別に全然、いいけど。
あの人の家に到着した。先生がインターホンを鳴らす。中からドアを開けたあの人は、すぐに頭を深く下げて「申し訳ありませんでした」と先生に謝った。
「この子が、本当にご迷惑を…」
先生が片手を胸の前で左右に動かしながら「いえいえ」と言っている間にも、おばさんは頭を下げたまま「すみませんでした」と繰り返す。
「いえ、あの、安藤くんに今日のことはしっかり聞かせていただきまして」
嘘つき。
「あの、私もクラスの子たちにはきちんと言っておきますので」
嘘つき。
「今後こういったことにならないよう、私も最善を努めてまいりますから」
嘘つき、嘘つき、嘘つき。
先生の平べったいセリフが一通り終わると、おばさんは頭を上げて「先生、ごめんなさいねありがとう」と言って、先生の手をそっと握った。
「頼りにしています。私一人では…もう、どうしたらいいのか……」
「いえ、そんな…生徒たちに寄り添うのは、私たち教師の役目ですから」
「はい…はい…もう本当に…ごめんなさいねこんな…ご迷惑ばっかり…」
「いいんですよ。大丈夫。一緒に向き合っていきましょう」
「…はい…はい…」
心が凍っていく。凍って、ひび割れていくみたいな感覚がする。
この人たちは何を言ってるんだろう。おばさんは何に対して頷いていて先生は何に向き合っていこうと言っているのか。本当にわからなかった。
「それでは私はこれで…。安藤くんとゆっくり話してみてください」
おばさんの手を優しく解いて、先生は穏やかに会釈をした。おばさんも丁寧に頭を下げて先生を見送る。
先生の姿が見えなくなるまで、おばさんは何度も頭を下げ続けた。それで、先生が一つ目の角を曲がって完全に見えなくなった後、俺を見下ろして「ふう」と息を吐いた。
「あんたは、なんなんだろうね」
「……」
「なんなの?答えてごらん。あんたはなんなの?」
「……」
両手ににぶら下げていたプーマの靴の、かかとをぎゅっと握った。何も答えない俺におばさんは更に「ダメだね本当に。ダメなのから生まれたから」と付け加えた。
「入りな。ほら、早く」
「……」
「早く!」
頭のてっぺんを強く叩かれる。声を出さないまま俺は敷居を跨ぐ。玄関のドアが閉められて、やけに明るいふざけた効果音が頭の中で鳴った。
タッタラーン。地獄の始まり。終了のお知らせです。
ファンファーレとクラッカーの音が聞こえた。誰が鳴らしたんだろう。聞こえたんだ、本当に。