太一がいい加減、もう、限界に近そうだった。部屋のローテーブルに突っ伏して、項垂れて、長いため息を吐いたかと思えば数秒後に「なんでなんスかね…」と、まるで途方に暮れた旅人のような遠い目で、宛のない独り言をこぼしている。
「……」
明日の準備を無事終えて、あとはロフトベッドへの梯子を登るだけ。俺は、けれど梯子を登らずにテーブルを挟んで太一の向かい側、その場所に胡座をかいて、旅人になった彼の独り言を拾った。
「うん?」
「……俺はね、もう…ダメかもしれないッス」
「うん。ダメかもって?」
「楽しみにしてた大学生活がさ、イベント全部潰れてさ、講義だって全部オンラインでさ、サークル見て回るのとか友達作るのとか、新歓コンパとかだってさぁ楽しみにしてたのに…」
「うん」
「メッチャいい自己紹介トークだって考えてたんだよ。劇団のことも知ってほしいし、もしかしたらお芝居やってる人とだって知り合えたかもしれない」
「うん、そうだな」
太一は虚ろな目をして、ワックスのついてないそのままの髪の毛を自分の片手で乱暴に掻いた。
「しょうがねえやじゃあどっか出掛けてなんか楽しいことしよって思ってもさ、カラオケやってないし俺の好きなハンバーガー屋も臨時休業してるしスケボー担いで公園行っても子ども連れてるお母さんとかがみんな申し訳なさそうに周り気にしながら遊んでてさ…」
「…うーん、そうか…」
太一はそこまで語って、ついに最後は「もうヤダ」と、全てを投げ出してしまった。
「楽しいことなんもない。自粛って言葉聞くだけでウンザリだよ。…ウンザリッス」
「……」
彼は一人でコツコツ頑張ることを器用にやれるタイプだ。だからこういう状況下でも何かしらやりがいを見つけたり、時間を有意義に過ごせるのだとばかり思っていた。
だけど、そうか。成果を誰かに見てもらえなければ全ては彼の中で成就しないのかもしれない。確かに今、こんな時にそれは難しい。
「……免許だって取ったのに……」
もう、太一の声は一歩間違えれば泣き声だった。悲痛だ。どうにかして助けになってやれれば良いんだけどな。
俺はしばらく考え、一つの解決策を見出した。太一のやり切れなさを根本から拭ってやることは出来ないだろうが、でもその代わり、予定を確認すればすぐ実行できる方法だ。
「…じゃあさ太一。俺を乗せてドライブに行くっていうのは?」
太一は力なくテーブルに預けていた上半身をその瞬間にハッと上げ、俺の顔をまじまじと見た。
「…臣クン」
「うん?」
「天才なんスか?」
「いや、はは。そんなことはないけど。でもちょっとくらい気晴らしになるんじゃないかって思…」
「天才じゃん!!行こう臣クン!ドライブ!!」
太一は突如みなぎるやる気を抑えられず立ち上がり、ガッツポーズまで取って、そう叫んだ。
「最高の日にしよう!俺っちに全てを任せて!!大船に乗ったつもりで!!」
「……」
自分の一言でこんなにも目を輝かせてくれるのだ、面白いし、なにより嬉しい。俺は闘志に燃えている太一を見上げながら笑った。
「あはは。おう!」
そうして、俺と太一は今度の土曜日ドライブへ行くことになった。
車の手配も目的地も当日の流れも、一緒に決めなくて良いのかと尋ねたが太一は首を横に振って「俺っちに全てを任せて!」の一点張りだ。プランを立てて、それを俺に披露できることが楽しみなんだろう。彼の楽しみを奪う理由などない。俺は黙ってそれに頷いた。
「ヤバイ!何着てこう!?」
「なんでもいいんじゃないか?太一はなに着たってかっこいいだろ」
「車庫入れ!かっこよくキメないと!」
「安全運転でな。太一なら大丈夫だ」
「最高の絶景スポット調べなきゃ!」
「二人で見れたらどこだって絶景だよ」
「BGM!いいやつ探しとく!」
「あってもなくても、ラジオのニュースだっていいよ、俺は」
太一は両眼をランランと輝かせ、当日に向けての準備を全力で進めようとしていた。俺の声は多分あまり届いていない。また徹夜でもしちまうんじゃないかと少し心配になった。太一、寝不足は運転主の最大の敵だ。どうか寝てくれ。
「俺っちは!今最高に燃えてるッスよ臣クン!!」
スマホに向かって高速フリックをかましながら、太一が嬉しそうに、本当に嬉しそうに俺に言う。俺は苦笑しながら、灰にならないように気をつけてなと、きっとまたしっかりとは届かない相槌を彼へ送った。
そして、土曜日当日。
昨夜、部屋の電気を消す前に「臣クン絶対俺がいいよって連絡するまで寮から出ないで」と言われていた俺は、7時くらいに目を覚まし監督の特製カレーを朝飯として食べた後、部屋の掃除と身支度で午前の時間を費やした。
太一は部屋にはもちろん、寮内のどの場所にもいなかった。俺が起きるより早く準備を終えて、一人出発していたのだろう。
「…もう出ていいのかな」
一人呟いたのとほとんど同時、自分のスマホが震えた。画面を見ると太一からのLIMEが届いていた。
『臣クン、支度ができたら玄関を出て右に向かって歩いてね』
文面を読み、マスクを付けてからカバンを持って、言われた通りに玄関へ向かう。玄関を出て右。それだけ頭の中でもう一度唱えて、靴紐を結び俺はドアを開けた。
空は一面、綺麗な青空だった。良かった、最高のドライブ日和である。太一は晴れ男なのかもしれないな。
玄関を出て右を向き、一人歩く。さて太一は一体どんなプランを練ってきたのだろう。とんでもない隠し球がいくつも転がっていそうで、俺はマスクの下でこっそり笑った。全て委ねて、彼の言動に振り回されるのが俺は好きなのだ。
そのまま進むと、住宅街の中の少し広い道路の脇、そこに一台の車が停まっていた。立ち止まって中を確認しようとすると、運転席側のドアが開かれ、中からやっぱり太一が現れた。
「おはよ。晴れたね」
「……」
黒いワイシャツに、白黒模様の華奢なタイ。七分の丈から覗く手首、その左側にはリストバンドではなく腕時計。タイトな白いパンツとこげ茶色のエナメル靴、それから水色の両目を隠すのは真っ黒なサングラス。
太一は、まったくもって見慣れない装いをしていた。ああ今気づいたがピアスまで見たことのないものを着けている。シルバーの、いつもよりずっと目立たない小さな光が彼の両耳を控えめに彩っていた。
「……太一?」
「ん?なに?」
「いや…なにって…」
俺は戸惑った。内心ひどく動揺していた。だって、これは…俺の目の前にいるこの男は…ええと、誰だ?
「乗りなよ。開けるね」
「……」
太一はそう言って助手席側のドアを開け、顎をクイと持ち上げ「どうぞ」と言った。
「……お邪魔、します…」
促されるまま助手席に座り、シートベルトを締める。太一も反対側から中へ乗り込み、ドアを閉めてからシートベルトを締めた。
俺は動揺しながら彼の横顔を見る。バックミラーを一度だけ見上げ、太一は「行こっか」と、ハンドルを握った。
「……太一?」
「うん?」
「…どうした?」
「はは。どうしたって、なにが?」
いや、なにがって。本当にどうしたんだ。その喋り方は一体。なにかを参考にでもしているのか。まるきり別人だ。
人気のない道を抜け、車は間もなく大通りへ出た。太一のハンドル捌きは上手かったし運転もそつがなかったが、けれど俺は言い知れぬ居心地の悪さのせいで体に力が入ったままだ。
「お腹空いたよね。テイクアウトでもしようか」
「…あ、ああ。そうだな…」
「臣クンなに食べたい?」
「ええと……」
正直食べたいものを考えてる場合ではなかった。だって隣でハンドルを握っている男が、誰だか分からないのだ。一体、本当に、なんなんだ、これは。
「……あー…太一が…決めていいよ」
辿々しく紡がれる俺の言葉に、太一がサングラスを持ち上げて水色の瞳を覗かせる。俺をチラリと見て、それから太一は笑った。
「…緊張してる?」
「……えーと…」
いや、緊張っていうか、いや…緊張じゃなくて、太一…。
「ふ。かわいい」
「……」
太一が衝撃的な台詞を衝撃的な言い方で吐いて、サングラスを戻し前を向く。数秒言葉を失った後、俺は全ての合点がいった。…ああなるほどそうか。はあ…そうだよなあ、なるほど太一が考えそうなことだ、うん……そうかあ。
太一は今日めいっぱい「彼氏」をやりたいのだ。それも多分、太一の中の「最高にかっこいい恋人像」とやらをなぞりながら。
「……」
俺は抱えていたカバンを足元に下ろし、小さく息を吐いた。うーん、そうか…こう来るか…なるほど…なるほどなぁ……。
「……困ったな…」
窓の外を眺めながら一人呟く。太一が飽きるまでは俺も恐らく「かわいい恋人」としてここにいる必要があるだろう。…太一ははりきっている。それはもう全力だ。俺のこの戸惑いさえ「かっこいい彼氏」として全力に楽しんで、隣で味わい尽くしているのだ。
「なんか聴く?」
「…え、ああ…そうだな…」
そうしてスピーカーから流れてきたのは、普段太一が聴くこともないだろう洋楽のラブバラードだった。…こってりとした男性ボーカルの美しい歌声を聴きながら、俺の目はもっと遠く遠くを見つめる羽目になる。
車はしばらく走った後、カップスープのメニューが豊富なチェーン店の駐車場で停まった。
太一はすんなりとバック駐車をキメた。本当なら「すごいな」とか「かっこよかったぞ」なんて言って太一の頭を撫でたいところだったが、それは叶わなかった。何故ならここでも彼は「かっこいい彼氏」を全力で演じてくれたからだ。
俺が座る助手席の背もたれに左腕をかけ、それだけに留まらずスピーカーから流れる歌のメロディーを口笛でなぞりながら、得意げに、だけど余裕を見せつけるようにして、車を停めたのだ。
「……」
かっこいい、と言葉にして伝えるべきなのだろうか。…よく分からない。俺はどういう状態で太一の行動を受け止めていれば良いのか。
「着いたよ」
「……ああ…」
太一はさっさとシートベルトを外し、車を降りてしまった。呆気に取られていたため降りるのが遅れてしまったが、そんな俺のことも、太一はなんなくフォローした。
「はい。気をつけて」
車の外から素早くこちらまで回って、太一がドアを開ける。慌ててカバンを掴み車から出ると、太一は優しく笑って「慌てなくていいよ」と言った。
「時間はたっぷりあるからさ」
「……」
分からない。どうしたら良いんだ。「ありがとう」とか「そうだね」とか言えば良いのか。それとも何も言わずにはにかんでみせれば良いのか。本当に俺は、何も、分からない。
「行こ。何買おっか?」
「……ああ…」
俺の数歩前を歩く太一の後ろ姿をぼんやり見つめる。灰色のマスクを付けた後(いつもは黒なのに。わざわざ今日のためにマスクも新調したのだろうか)、両手をパンツのポケットにしまって、ご機嫌な様子で鼻歌を歌っている。いつもなら「臣クンなに食べる?俺っちはねー」なんて言って、笑いかけてくれるのに。
店内に入る。どうやらイートインは現在やっていないようで、テイクアウトのみ利用できるらしい。「感染防止対策として」という言葉から始まる張り紙が入り口ドアに貼ってあるのを見かけた。
「さ、好きなの頼んでいいよ」
サングラスを外し、畳んだそれを胸元に引っ掛けて太一がそう言った。もしかして俺の分もまとめて支払うつもりなのだろうか。…どうしよう、まいった。
「ええと、あー…あのさ太一、自分の分は自分で……」
言い終わる前に人差し指が俺の口の前にやってきて、太一は優しく「しー」と言った。
「そんなこと言わないの。…な?」
「……」
な。…な、とは…一体…。
「ほら、どれにする?」
メニューを見るよう促され、俺は仕方なく掲載されている料理名の一通りを確認した。ダメだ。多分抗っても太一は俺の申し出を受け入れてくれない。…どうしよう本当にまいった。
「…じゃあ、あー…ミネストローネと…フォカッチャ…」
「ん、オッケ」
太一は店員に俺の分と自分の選んだメニューを店員に告げ、最後に「カードで」と言った。
注文したものを受け取り(もちろん全て太一が持った)、俺たちは車に戻った。…どうしよう全くと言っていいほど食欲が湧かない。
「ちょっと走るよ。食べたかったら食べててもいいから」
「……ああ…」
俺の声がいつもよりずっと小さいことに気づかないまま、太一は再び運転を再開させた。
二十分ほど走っただろうか。たどり着いた場所は寮から3つ分遠くの駅だ。駅と直結した商業施設の地下にはパーキングがあり、太一はそこに車を停めた(やっぱりここでも太一は助手席の背もたれに左腕をかけてきた)。
「お待たせ。お腹空いちゃったよね」
「……ああ…」
俺は時間が経つにつれますます語彙を失っていった。もうかれこれ一時間くらいは「ああ」以外の言葉を発していない気がする。
駐車場内に停車している車はまばらだった。自粛期間中ということもあるのだろう、そういえば道路も随分と空いていたことを思い出す。
「ここの屋上がさ、テラスになってるんだ」
「…ああ……」
「そこで食べよっか。ね」
「……ああ……」
太一はエレベーターへ俺を先導し、最上階の「R」と書かれたボタンを押した。…なるほど、屋上テラスで昼食をとるというのは良い案である。きっと念入りに調べたんだろう。太一は自分のプランが問題なく進行していることにご満悦の様子だ。
「………」
二人きりのエレベーター内。沈黙が、重い。天気が良いからきっと気持ちいいな、とか言えれば良いんだが、やはり俺の口からは「ああ」以外の言葉が出ないままだ。
「…ふふ」
また太一が、柔らかく笑う。俺の体に変な力が入る。
「かわいい。そんなに緊張しなくていいのに」
「……」
どうしたものか。今日は最後までこの調子でいくつもりなんだろうか。太一すまん、俺はもう今にも白旗を上げてしまいそうだ。
屋上のテラスに到着する。白を基調としたテーブルや椅子が等間隔に配置され、感染防止対策なんだろう、一つ飛ばしでテーブルの上に「使用禁止」という紙が貼られていた。
テラスを利用している人は、多くはないが何組かいた。恋人、親子、学生の友達同士。みなそれぞれに感染対策をしながらも、ささやかに楽しい時間を過ごしているようだった。
「ここ座ろっか。どうぞ」
太一が空いている席を見つけ、俺のために椅子を引く。ありがとうと言って座ると、太一も満足そうに向かいの椅子へ腰かけた。
「冷めちゃったかな。それじゃ食べよっか」
「……」
テイクアウトした袋から容器を一つずつ取り出して、太一はそれらをテーブルに並べる。俺は困ったことにまだ、かけらも食欲が湧かない。
「いただきます」
外したサングラスをテーブルの隅に置いて、太一が容器の蓋を開ける。太一が頼んだのはシチューのようだ。彼は中身を眺め「おいしそう」と笑ったが、手をつけようとしない俺に気づくと「臣クン?」と、俺の名を呼んだ。
「食べたくない?」
「…いや…」
「もしかして酔った?飲み物買ってこようか?」
「…いや、違うんだ…あー…」
太一が少し心配そうな顔をして、項垂れた俺のことを覗き込む。
「臣クン…臣クン?大丈夫?」
その声色に、やっとほんの少しだけいつもの太一を感じた。俺はその時ほっとして…今日たぶん初めてだ、やっと、笑うことができた。
「…はー…」
「臣クン…?」
「あのさ、太一…ちょっといいか」
「ん?」
せっかくはりきってる太一を、俺の言葉で傷つけたくない。落胆させたくもない。だけど太一と二人きりの貴重な、ずいぶん久しぶりのデートなんだ。このままずっと居心地の悪さを感じて過ごすのは、さすがに俺だって嫌だ。
だから慎重に言葉を選んだ。いつもの太一といただきますを言いたい。いつもの太一とドライブがしたい。いつもの太一に、俺は会いたい。それが過不足なく伝わるようにと。
「…今日の太一、すごくかっこよかったよ」
俺の言葉に太一は分かりやすく目を輝かせた。ああ、嬉しそうにする太一が見られると嬉しい。続く俺の言葉に期待する彼がかわいくて、俺はまた温かい気持ちで笑えた。
「まるで別人みたいで…なんだろうな、違う誰かといるみたいでさ。…変な感じだった」
「そうなんだ…やっぱ緊張してたんスね臣クン…」
「……」
本当は緊張とは少し違うが…まあいい。体が妙に固くなってたことは事実なんだ。似たようなもんだ。
「それでな、あー…今日は久しぶりのデートだろ?」
「うん」
「俺も舞い上がってたし…その、ほら、運転してる太一を見られるってだけでも、俺にはすごく特別で」
「うんうん」
「だから…あー…なんだろうな…なんというか…あんまりかっこよく振る舞われちまうと、その…」
「うんうんうん」
「……えーと…過剰摂取というか、なんというか……」
「……」
そこまで言うと太一はしばらく黙り込み、それから顎に手を置いて何かを真剣に考え始めた。
…傷つけてしまっただろうか。違うんだ、太一がはりきってくれるのは嬉しいし見ようによっては度が過ぎた全力加減も、俺は大好きなんだ。ただ、ただ…俺はいつもの太一でいてほしい。いつもの太一とデートがしたい。それだけなんだ。
「……俺っち何点くらいだった?」
「…ん?」
太一は厳しい顔をしながら、俺をまっすぐ見つめた。
「正直に。傷つかないから」
「…えーと……」
満点の基準が分からない。が、太一の中にはきっと確固たる「最高の恋人」としての理想像があるだろうから、それにどれだけ近づけていたかの採点をしてほしいんだろう。
でも、もしそうではなくて「楽しいデート」としての点数を聞かれているのだとしたら。…すまん太一。本音を言うと、補習が必要かもしれない。
「…百点満点。いや、二百点満点だな」
俺がそう答えると、太一は「かっこいい彼氏」の皮を途端に全部脱ぎ捨てて「っしゃぁー!!」と、勝利の雄叫びを上げた。
「も~俺っち!超~頑張った!超超超~頑張ったんスよ!!」
「……」
本来の太一があまりにも急に現れるから、俺は少し面食らう。なんだよ、こんな簡単に脱ぎ捨ててくれるのか。…ああそうか、満点の答案用紙が返ってきたから。
そうだ。太一は今日きっと、今の今までずっと、試験の最中のような心持ちで戦っていたんだ。ミスしないようにって、減点されないようにって、細心の注意を払いながら神経を尖らせ続けて。
全くお前は本当に。…もう、馬鹿だな。そこにいてくれるだけで満点なのに。どうしていつも頑張ることを辞めないんだ。俺の前でくらい頑張らなくて良いのに。世界で一番だらしなくたって良いのに。
いじらしくて、健気で、いつだって褒められることを待っている。その為に擦り切れるまで頑張っている。ぐちゃぐちゃに甘やかしてやりたいよ。…かわいい。お前のそんなところが俺は大好きだ。
「イケてない!?今日の服!いつも買わないファッション誌買っていっぱい研究した!」
「ああ、めちゃくちゃイケてる」
「レンタカーも車種どれにしようかって超考えた!乗り心地どうだった!?」
「最高だった、これ以上ないくらい」
「スープのお店、臣クン結構メニューの感じ好きじゃない?臣クン好きそうな所ないかなって沢山調べたッス!」
「ああ、全部食いたくて困るくらいだった」
「でしょっ!?」
太一は力強く拳を握って、それから最後に嬉しそうに、本当に心底嬉しそうに、最高の笑顔で笑った。
「はあぁ~…嬉しい…臣クンに褒められるとホント嬉しい…幸せ指数が半端じゃないッス今…」
太一は椅子の背もたれに上半身を全て預けて、気の抜けた顔で空を仰いだ。投げ出された両足が子どもみたいでかわいい。
「……幸せ」
太一の、誰に宛てた訳でもない小さなひとり言を、だけど俺は嬉しくて強引に拾ってしまった。
「うん。俺もだ」
俺の相槌に、太一がこちらを向いて笑う。青空、水色のビー玉みたいな目、緩やかに吹く風。
優しさと幸福に満たされたその瞬間が俺の視界をそっと撫でるから、まるで一瞬を切り取ったポストカードか何かを眺めているのかと思った。…そう錯覚してしまうくらい、太一がかっこよくて、誰よりも好きで、ドキドキした。
「……好きだ」
口をついて出た言葉は、間違ってこぼれた飴玉みたいだ。太一が目を見開く。顔を赤くして、頭をかきながら「えぇー!」なんて言って慌ててみせるのに、その二秒後には「…俺も」って、笑って返すのだ。
胸が締め付けられて、どうして良いのか分からなくなった。…ああ、かっこいいもかわいいも、彼氏だとか彼女だとかも、そんなのは、どっちがどっちでも良い。好きだ。好きという気持ちの前では、全てはあやふやで明確な形を失って、どうだって良くなる。
間違いない。太一は世界で一番の、俺だけの特別な、最高の恋人だ。
「へへ。頑張って良かったなぁバック駐車。ホントは心臓バクバクだったッス」
太一が嬉しそうにスプーンの袋を開けるので、俺も同じように袋を開け、ミネストローネを掬った。
「スムーズだったな。イメトレだけであんなに上手く?」
「や、実はね!友達に手伝ってもらった!」
太一はシチューを一口運んだ後、一緒に買っていた石窯パンを千切ってシチューの中にくぐらせる。
「高校ん時のクラスメイトでさ、おんなじ時期に免許取った友達がいて!練習しないと下手んなっちゃうよねって話してて、友達も高速の練習したいって言ってて」
「……へえ」
「そんで、兄貴の車あるからーって言ってくれてさ、一緒に練習しまくった!」
「……」
「この一週間くらいで俺もあっちもだいぶ上手くなったんスよ!多分もう20時間くらいはあいつとドライブしたかな~」
「………」
太一が旨そうに昼食をとる。その光景を見ながら、俺は静かに自分の手を止めた。
…聞いてない。そんなの。一つも。
「…臣クン?冷めちゃうよ?」
「良かったな。楽しいドライブができて」
自分の腹に広がるドス黒いもんが、するりと口から吐き出される。太一はその黒さに気づかず、首を傾げて「うん?」と聞き返してきた。
「…20時間も俺以外の奴と、二人っきりの楽しいドライブができて良かったなって言ってるんだ」
「……あ」
太一の顔面が途端に青ざめる。俺たちを取り巻く空気が急激に冷たくなる。
太一の、頑張り屋なところが好きだ。さっきも言ったが度が過ぎるくらいはりきってしまうところだってもちろん。
でも、だけど、頑張っている間に俺のことをすっかり忘れてしまうところが、嫌だ。俺のために頑張っているのだとしてもその最中、きっと頭の中に俺はいない。それを後から突然聞かされる。種明かしの要領で、笑顔で、なんの悪気もなく、唐突に。
…太一の、そういうところが嫌だ。すごく嫌だ。腹が立つ。…こういうの、これが初めてじゃないよな?なあ太一。
「あの、あのさ臣クン」
「背もたれに腕かけるのも友達で練習したのか。上手くいったみたいで何よりだよ」
「ま、待ってそれはしてない!それは俺臣クンにしか」
「甘い言葉吐く練習も付き合ってもらったのか。優しい友達がいてくれて太一は幸せ者だな」
「待って待ってごめん臣クン違う、俺ホントに今日のために運転上手くなりたくて」
「へえ。だったら俺の機嫌の取り方ももう少し上手くなった方が良いんじゃないか?」
一切を遮るようにして、告げる。太一は言葉を詰まらせて、それから口をパクパクと動かして、俯いて、最後に「…うん」とだけ、囁いた。
「……そうだね…」
「……」
黒いものが、なくなってくれない。苛々する。車種も飯屋もルートもこの場所も、全部その友達と決めたんじゃないのか本当は。…ふざけるなよ。
「……上げて落とす天才だな」
吐き捨ててしまった。沈黙の中で食べるミネストローネとフォカッチャはもう、なんの味もしなかった。
「………」
車は、無言のまま進む。
あの後二人で飯を済ませて、なんの会話もないまま車に乗って、今、冷たい沈黙の中で信号が青に変わるのを待っている。
BGMもない。太一は俺の方を時折横目で確認して、けれど沈黙を破れないままハンドルを握っていた。
「……」
太一への苛立ちと自分への嫌悪で、俺の心は最悪のシーソーをユラユラと漕いでいた。フォローしてやりたい。仲直りの最初の一言を俺から、かけてやりたい。だけどできない。黒いものがずっと邪魔をする。
「……臣クン、あのさ」
「なに」
太一は赤信号をじっと見上げながら、恐る恐る言葉を紡いだ。
「…あの、この後一箇所、行こうと思ってたとこあって…」
「へえ」
「……あの、行ってもいい?」
「別に。好きにしたらいい」
「……」
信号が青に変わっても、太一はすぐにはアクセルを踏まなかった。そんなことにすら苛つく。舌打ちが出そうになる。
「青だよ」
「…うん」
車が発進する。こんな気持ちになりたくて今日を、俺は楽しみにしていた訳じゃない。
さっきはごめん。仲直りしよう。空気を変えるための切り札は俺の中にあるのに。俺の中にしかきっとないのに。だけどそれを差し出すのが癪だった。悔しくて堪らなくて、だから俺は結局また沈黙を貫いた。
車はまたしばらく走って、15時を過ぎた頃、大きな自然公園に到着した。この場所は大学生時代、写真部の活動でよく足を運んだ場所だ。
公園内の駐車場で車を停め、太一がハンドルから手を離す。
「……」
「……」
無言の車内、降りようと言うこともない。逃げ場を失った太一はフロントガラスの向こうをずっと見つめていた。
「…で?この後はどうするんだ」
俺も前方を見つめたまま、隣にいる太一に尋ねた。
「…うん、えっと…」
太一は俺の問いに答えようとして、だけどそれ以上の言葉を続けずハンドルに頭を預けて俯いた。ハンドルと額がぶつかる「ゴツ」という音が、車内に響く。
「……ごめんなさい…」
消え入るような、頼りない声だ。苛立ちが虚しさに変わって、黒ではなく今度は灰色のモヤが俺の胸を巣食った。
「…俺、俺……馬鹿でごめんなさい」
「……」
「頭回んないんだ。こーゆーの、これが初めてじゃないのに…本当にごめんなさい」
「……」
それでも無言を貫く俺に、太一はいよいよ音をあげた。
「…ゆ、許して…。俺、頑張ってダメなとこ直すから…」
「……」
太一。なあ、俺だってダメなとこなんか沢山あってさ、本当は全部直したい。直したいんだ。お前をこんな風に追い詰めたくなくて、本当は笑っててほしくて、だけどやっぱり分かっててもほしくて、多くを望んでいて、わがままで自分よがりで、どうしようもない奴なんだ。
…ごめんな。俺だけの太一でいてくれなきゃ途端にヘソを曲げる、どうしようもないダメな恋人なんだよ。……分かってくれよ。
俺はフロントの上に乗せられていたサングラスを手に取り、それを自分にかけた。
「…太一の馬鹿野郎」
薄暗くなる視界、レンズ一枚分遮断される景色。サングラス越しじゃなきゃ本音を言えないくらい、俺だって、下手くそで大馬鹿野郎だ。
「……俺以外を助手席に乗せるなよ」
「…うん…」
「……さっき、それが言いたかった」
「……うん…」
「でも言えなかった。…言えなくてごめん」
「……」
太一がハンドルに預けていた頭を持ち上げる。サングラス越しに目が合う。ビー玉みたいな目が涙でユラユラ揺れていた。
「俺が…俺が、ごめんなさい…」
「……いいよ」
「ご、ごめんなさいぃ……」
「…うん。俺もごめん」
太一が半分ベソをかきながら俺の手を握った。だから握り返した。強く握って、素直に言葉にできなかった分を埋めるように、指を絡めた。
「…臣クン、俺やっぱりダメだ、最悪にカッコ悪い恋人だ…」
「…そんなことないよ」
「ううん、あるんだ。かっこいいとこ見せたかったのに、そういう上辺ばっか気にしてるから大事なものを見落とすんだ。…カッコ悪いよ。最悪」
「……そんなの…俺だって一緒だよ」
黒いレンズの向こう側、太一が俺を見つめる。
振り回されるのが好きだなんて、それらしいことを言っておいてさ。本当は俺がお前を振り回してる。物わかりのいい振りをして、蓋を開ければ独占欲の塊で、お前が一番欲しい言葉を大事な時に送ってやらない。かっこ悪いんだよ。最悪だ。
「…かっこ悪い恋人でごめんな」
サングラスをかけてて、良かった。お前から一瞬だけ目を逸らす情けない自分のことを、悟られずに済んだから。
「臣クンは最高にかっこいいよ」
「違う。かっこいいのは太一なんだ」
「ううん、臣クンだよ」
「……ふ」
どこまでいっても、いつだって俺たちは平行線で笑ってしまう。不思議だな。お前といる時にこそかっこいい俺でいたいのに。だけどお前といる時ほど自分の汚さに気付かされるんだ。…どうしてだろう。
「こんな俺と一緒にいてくれてありがとう」
俺の言葉を太一は迷うことなく受け取って、それから体を強く抱き締めてくれた。…ああほら、こういうとこだよ太一。お前がかっこいいのは、こういうところなんだ。
「臣クン大好き。…俺の方こそ、ありがとう」
「…うん」
頭を撫でて、頬をなぞって、その目を見つめる。サングラスを少し上げてずらせば、太一の瞳に俺が映っているのが見えた。
「……」
言葉だけじゃなくて、態度で示そうか?太一。俺はゆっくり顔を傾けてキスをしようとする。けれど太一はゆっくり後ろにのけ反ってやんわりそれを拒絶した。
「…太一?」
「…お、臣クン、あの…」
「ん?」
「サ、サングラス…メッチャ似合うね……」
「うん?ありがとう」
適当に返事をしてもう一度唇を近づけるが、やはり太一は受け入れてくれなかった。唇を片手で塞がれる。…なんでだ、なかなかキスさせてもらえないことに俺は焦れた。
「…ま、ま…ま、待って」
「どうして。あんまり待てない」
「だ、だだ…だってっ…し、知らない人みたいで…」
「どの口が言ってるんだよ、俺だってその気持ちは今日散々味わった」
「いや、いやそうなんだけどっ…や、待って、待って臣クンほんと!」
「うん。待てないって言ってる」
「き、緊張するんだってばかっこ良すぎて!サングラス取ってよ!」
「……」
そんな言い方をされて誰が外すと思う?馬鹿だな太一そんなの、煽られてるようにしか感じない。
自分のシートベルトを片手で外して、太一を運転席の背もたれに押さえつける。キスを遮ろうとする手のひらを舐めてその手首を掴んだら、情けないほどわかりやすく、太一の顔面が赤くなった。
「ダァッ!?」
謎の奇声を受け流し、邪魔な手をどける。口の端の片方だけをゆっくり持ち上げて見つめる。太一は泣きそうな顔をして俺の服の袖を掴んだ。
「……ひ、卑怯だよ、もう……」
「…うん」
やっと観念してくれたみたいだ。太一は両目を固く閉じ、そうして俺の唇を受け入れた。
「……」
ずっとしたかった。いつものお前に会いたかった。キスしたかったよ、太一。
「…もう…もぉ~~…俺の…俺っちの思い描いてた完璧なドライブデートが……」
「うん」
「こんな…臣クンがサングラスかけただけでこんな…詐欺じゃないッスか…」
「うん」
相槌を打ちながら黒いワイシャツの中に手を入れる。このまま押せるかと思ったが、駄目だった。太一は「ちょちょちょ」と慌てふためいて、俺の手を外へ追い出そうとした。
「ま、待っ…!お、臣クン!!」
「ん?」
「なっ…な~、ななな…?」
「…ちゃんと仲直りしたいなと思って」
「へ、あー…?ん~?…仲直りならもう、済んだんじゃないッスかね…」
首を傾げてハハハと笑われたので、俺もサングラスを額の上に引っ掛けて笑い返した。鼻先がくっつき合うほどの距離で「太一」と呼ぶ。すると太一の喉元から「ゴク」という音が微かに聞こえた。
「…もっとすごい仲直り、したい」
「す、すごい仲直り……」
ネクタイの結び目に中指を差し入れて、自分の方へ引き寄せる。襟元からチラと鎖骨の窪みが見えるから、興奮した。
「……シたい」
同音で、だけど異義で、まっすぐ太一を誘った。太一はとぼけることも許してもらえないまま、俺に押さえつけられて、とうとう頭から湯気を出した。
「…レ」
「レ?」
「……レンタルなのでダメです……」
顔を真っ赤にしてるくせに、内心ひどく動揺しているくせに。だけど口から出た断り文句がやけに現実的で、その真っ赤な顔とあんまりにもミスマッチだったから、俺は思わず笑ってしまった。
「…ふ。なんだよ太一のケチ」
仕方ないなあ、許してやるか。この後太一には帰りの運転だってあるんだもんな。…あーあ。後ろのポケットに一応ゴムを一個、入れてたのになあ。
それから車を降りて公園の中を散策した。利用客はやはりここもまばらで時たますれ違うくらいだったので、俺たちは二人ともマスクをポケットにしまうことにした。
野鳥の鳴き声に耳を傾けたり池を泳ぐ鯉を眺めたり、ゆったりと時間を過ごす。夕方には帰らなきゃいけないから、もうすぐ今日のデートはおしまいだ。
「臣クンあのさぁ」
「うん?」
「サングラス取ってよ」
「んー…。やーだよ」
「や、やーだよって…」
「緊張するんだろ。じゃあしろ。俺以外の誰かと20時間ドライブしてた罰だ」
「そ、それはさ~!さっき話がついたヤツじゃん~!」
「いっそこれからデートする時はいつもかけてようかな。かっこ良すぎて緊張されるのは悪い気がしないし」
「なんか臣クン意地悪じゃない!?ま、まだ怒ってるんスか!?」
「………」
少し小高い場所にある、小さな見晴らし台。手すりに寄りかかりながらぼんやり空を眺めていた俺は、少しの沈黙の後太一の肩を抱き寄せた。
「へっ」
唇を奪う。サングラスが太一の鼻に当たって「カチャ」という音を立てた。
「…かわいい。そんなに緊張しなくていいのに」
俺は意地の悪い顔をして、呆気にとられる彼にそのセリフを送ってやった。
「………あっ!?俺っちのパクリ!!」
「あはは、バレた」
「最悪!この人マジで最悪!!超意地悪じゃん!!」
「あはは、さすが悪役をいくつも演じてきただけあるよな」
「あるよな、じゃないんスよ他人事ッスか!ってかちょっと待って今のマジで意地悪だった!!傷付いたんスけど!?」
「あ、もう一個思い出した。そんなこと言わないの。…な?」
「ねえマジでやめて!?ホントマジでやめて!!?」
「あはは」
「臣クン!!」
なあ太一、次のデートはいつにする?どこに行こうか。何をしようか。
かっこつけたってかっこつかないから、そのままの俺でお前の隣にいたいと願うよ。それでさ太一、絶対にまた最高のデートにしよう。どちらからともなく手を繋いで、それから笑って、もしかしたら喧嘩だってするかもしれないけどさ、それでもいいよ。喧嘩なんか覆すくらいの仲直りをすればいいんだ。
そしてデートの帰り道、最後に俺はきっとこう思うんだよ。
大好きだ。俺だけの特別な、お前は最高の恋人だって。