恋のボヤージュ


08.雨と炭酸水



「あっ…ぢいぃ…俺…死ぬ…」

 だらしなく舌を垂らし、ダイニングテーブルの上で大の字になっているのはチョッパーだった。
もう朝からずっとこの調子だ。
俺はうちわをチョッパーの為仰ぎながら自分の汗を拭った。

 外は昨日の深夜からずっと大雨だ。
そのタイミングに合わせるようにして、船は夏島の海域に入っちまった。
部屋のいたる所からキノコが生えてくるんじゃねえかと心配になる程、湿気が凄まじい。不快度指数は100パーセントを越え今も尚そのパーセンテージを更新中である。

「こらチョッパー。レディの前でそんなだらしねえ格好してんじゃねえ」
サンジが氷をアイスピックで割りながらチョッパーをたしなめた。

「…サンジ俺…体中が…蒸し風呂みたいで…死ぬ…」
毛皮を脱げないチョッパーにとってこの気候は地獄だ。いざとなれば裸になって水でも浴びられる俺達とは違う。可哀想になあ。
何の力にもなってやれない代わりにと言っちゃなんだが、せめてもの気持ちで俺はうちわを仰ぎ続ける。…焼け石に水状態だろうが。

「チョッパーあんた、その毛刈る?やってあげてもいいわよ」
ナミは反対側のイスに座り、氷でキンキンに冷やされた炭酸水を飲みながら言った。旨そうだなあ。
俺にも早く作れ、とまでは言わないけど、せめてサンジよ、一番にチョッパーにやってやれよ。

「…ナミ…なに?…」
いかんチョッパーの意識が朦朧としている。
「8000ベリーで手を打つわ」
ナミは気にも留めず悪戯な表情で笑った。金の亡者は季節関係なく元気である。

 この雨だというのに、キッチン不在の二名は甲板に出ているようだった。
ゾロはトレーニングだろうし、ルフィは大方、視界も悪いだろうに構わずメリーに跨って海を見てるんだろう。
キッチンで湿気に耐えるより雨に打たれてる方がマシかなあ。微妙なラインだ。

「チョッパーお前、水風呂浴びてこい。汗かきすぎだ」
サンジは出来たての炭酸水をチョッパーに飲ませながら、珍しく心配そうに言った。

「う、うまい…なんだこれ…死ぬ…」
「ほら運んでやるから。しっかりしろ青っ鼻」
サンジはチョッパーを肩に乗せて立ち上がった。
洗面所へ続く扉を閉める前に「長っ鼻、そこにお前のあるからな」とだけ言って、その扉を閉めた。
「お、あ、ありがとう!」
サンジが顎を向けた先には、カランと涼しそうな音を立てる炭酸水が置いてあった。
サンジだって暑くて堪らないだろうに、いつだって自分への給仕は後回しだよなあ。

 炭酸水を喉に通すと、目が覚めるような冷たさが体を抜けていった。
今なら俺はこれをバケツいっぱいにしても飲めるぞ。

「っぷはあ!うっめえ」
一気にグラスの半分まで減らしてしまった。
ここからはもうちょっと大切に飲もうと思っていたら、ナミが「ねえ」と言った。

「なんか変よねえ、最近」
「…なにが」

直感で、聞かれたくない事を聞かれる気がした。
そして何を隠そう俺のこういう悪い予感は、物凄い確率で当たりやがる。

「サンジ君の前だとあんた、途端にしおらしくなるじゃない」
ほうらやっぱりな!

「でもサンジ君がそれを強制してる感じもしないし…何かあったの?」
ありましたとも、たくさんの事がありましたとも。
何一つとして言えるわけないので、心の中でだけ俺は頷いた。
「うむ、何かあると言えばあるし、何もないと言えばその通りだ。事実というのは常にいくつかの可能性と複数の答えを併せ持つもんだからな」
ナミはつまらなさそうに「ふうん」とだけ言った。
炭酸水を飲み終えたらしく、空になったグラスをシンクに置いてから「まあ何でもいいけど」と付け加えた。

「うちわ貰うわね。日誌書いてくるから」
背後からナミにうちわを奪われてしまった。
本当にどいつもこいつも自由勝手なもんだ。まあいいけどさあ。何か、もうちょっとさあ…。

「俺の気持ちも考えろっていうか…」
ナミが女部屋へ行くのを見届けてから、一人残されたキッチンで呟いた。
うだるような暑さに負けて力なくテーブルの上、つっぷをする。

 考えなきゃいけない事、突き止めなきゃいけない事は沢山ある。
俺がそれを放棄してしまってはいけないんだという事も、ちゃんと分かっている。
でも脳みそをどれだけ回転させても見えてこない事ばっかりだ。俺は元々、この手の話は苦手なのである。

 何でサンジを見てると、意味もなくどきどきするんだろう。
 いつから、ゾロを好きだって事忘れてたんだろう。



 夜になっても雨がやむ事はなかった。ハンモックの上で横たわっているだけで汗が滲む。
外から聞こえてくる雨粒の音が一層激しくなるので、明日もやみそうにないなあと溜息が漏れた。

「…暑くて眠れねえ…」
音を立てぬようハンモックから降りた。

 昼、重症だったチョッパーが心配になり目をやると、サンジ特性の氷袋を体の周りに数十個並べ、それに包まれるようにして眠っている。
なる程あれならだいぶマシだろうな。…氷が汗をかいて垂れた水滴が、尋常じゃないほどハンモックの下を濡らしているけど。
明日の朝、ルフィ辺りにしょんべん 漏らしたとかからかわれないといいなあ。

 ルフィの怪獣のようないびきを潜り抜け、天板へ続くはしごへ足をかけた。
天板を僅かに開けると、途端に雨が吹き漏れてきた。なるべく男部屋を濡らすことなく、いつもの半分の隙間で開閉を済ませた。

 空はまるでバケツをひっくり返したみたいに雨をたたきつけてくる。視界もすこぶる悪いし、雨粒がでかすぎて痛いくらいだ。
確か今夜の見張りはゾロだったかな。うーん可哀想に。

「ゾロー!頑張れよー!」
甲板からマストの頂上に向かって叫ぶと、頭上からは「おお」という声が、雨粒に邪魔されながらも僅かに聞こえた。

「眠れねえのか?」
マストから顔を出したゾロに尋ねられる。
ゾロは半透明のカッパを身にまとっていた。この大雨じゃあんまり意味無いような気もするけど。

「暑いから、水風呂でも浴びようと思ってよ!何か差し入れいるかー?」
「酒!」
年がら年中同じ事しか言わないゾロに苦笑してしまった。
ようしこんな夜に当番になってしまった可哀想なアイツを、心優しき俺様がちょっとばかりねぎらってやろう。
酒の一本くらい、サンジも見逃してくれるよな。

「じゃ待ってろ!今とってきてやる!」
「おおわりいな!」

 グラスいっぱいに氷をいれて、キンキンに冷えた酒を渡してやりたいところだけど、この雨じゃ運んでる間に酒じゃなくて雨水になっちゃうからなあ。仕方ないけど瓶のままでいいか。

 キッチンの扉を開けて、暗闇の中電球を探し当てくるりと回す。
何回か点滅した後、キッチン全体が明かりで灯された。

「!!」
無人だと思い込んでいた俺はその光景に心臓が止まるかと思った。
ドアを背に後ずさりをしたら「ガン!」とでかい音がしたので、その音に「ひい」と叫んでしまった。
慌てて自分の口元を手で覆う。

 ダイニングテーブルでつっぷしながら眠るサンジが、そこにいた。

「な…何でこいつ、ここで寝てんだよ…」
明かりや物音に起きてこないところを見ると、結構な熟睡なんだろう。
決して寝やすい環境じゃないと思うんだけど。

 そっと顔を覗きこむと、顔の下に何か紙が敷かれていた。
大体はサンジの腕で見えなかったけど、紙の端に書かれた食材の走り書きで、それが何かのレシピだという事が分かる。

 レシピ考えてる途中で寝ちまったのかなあ。でも電気消えてるし。
まさか男部屋までの移動が面倒で、わざわざ消してからここで寝てたのか?

「マメなのかズボラなのか…」
変な奴だなと思った。規則正しい寝息を聞いてると、何だか笑えてくる。

 起こしてやろうか、それとも声をかけずにここから離れるか…。
考えながら隣に座る。電球に照らされたサンジの髪は、まあいつ見ても思うんだけど、相変わらず綺麗で、見ていて楽しい。
色で表現しようとしたら、時間かかるだろうなあ。絵描き泣かせの難しい髪色だ。

「…」

 寝ていてくれれば、こうやって傍にいられるのに。
起きてる時のこいつは何かと心臓に悪すぎる。
充電だの好きだの、言われる度に俺がいつもどんだけ驚いて慌ててしまうのか、分かってんのかなあ。

「サンジ、お前はな、勝手だ」
普段は言えない文句を、気持ち良さそうに眠るサンジに垂れてやった。

「お前ときたら、俺を困らせてばっかりでよ。お陰でナミに勘付かれたぞ。どうしてくれんだ」
それはお前のせいだろ、と真っ先につっこまれそうな内容だけど、寝ているから言い返す事もできないだろう。
そうだよたまには、黙って俺の意見を聞く姿勢くらい見せたっていい筈だぜ、このラブコックが。

「…思う存分、人の頭ん中引っ掻き回しやがって」
 変なの。どうして俺、文句言いながら笑ってるんだろう。
迷惑してる筈なのにどうして、いやな気持ちにならないのかな。
それどころか…なんつうのかなあ、可愛いっちゅうかくすぐったいっちゅうか…うーん。

 憎めないこいつがやっぱり憎たらしくて、そっと頭を撫でてやった。
 柔らかい髪だなあ。ああ内側、暑さのせいで汗かいてやがる。何か拭くものなかったっけか…。

 タオルでもないかと辺りを見渡していると、その瞬間「てめえ」とドスのきいた低い声が隣から聞こえてきた。

「!!!???」

 椅子から転げ落ちそうになる程驚いて、慌てて手を引っ込めようとするが、俺の手首はサンジの手によりがっしりと掴まれてしまった。

「なっ、おっ、いっ…」
なんだよお前いつの間に起きてたんだ、という旨を伝えたいんだが、まあ予想通りつっかえまくって微塵も伝わらない。
おかしいなあ俺の口はいつもなら、サラサラと小川のように淀みなく流れ動くはずなのに。

「…クソ天然タラシ野郎。なめてんのかオロすぞ」
何かよく分からないけど物騒な事を言ってらっしゃる。こ、怖いのでどうか、青筋を消すか手を離すかしてください。
「どういうつもりだてめえ。解答次第ではマジでオロす」
「ど、どういうって、どういう…」
「仮にもてめえに惚れてるって相手に、んな表情で触りやがって…何されても文句言えねえぞウソップ」
サンジが一層手に力を込めるので思わず顔が歪む。「いたい!いたいから!」と抗議をするが、全く相手にしてもらえない。
 青筋は余計に深い影を落としていく一方なので、もう俺は恐怖で腰が抜ける寸前だった。

「いい加減腹立つ。なめてんじゃねえぞ」
空いていたほうの手もいつの間にかしっかりと握られて、いよいよ俺は身動き一つ取るのも難しくなってしまった。
 な、何で?何でこいつ、こんな、急に激怒してるわけ?誰からも返ってこない答えに、思わず涙目になる。

「お…お前だって!勝手に触ってくるじゃねえか!!」
「俺ぁいいんだよ理由があるんだから!!でもてめえには理由なんてねえだろうが!!」
「…な!」
サンジの言い分に俺も僅かながらにむかっときた。
それってよお、あんまりにも勝手なんじゃねえの?

「なんだよ!理由ないと触っちゃいけねえのかよ!!!」

 ひとしきりでかい声で叫ぶと、サンジは一瞬目を見開いて黙った。
返す言葉を探して、眉間に皺を寄せながら口元をモゴモゴと動かしている。

 …で、だ。こっからが問題だった。
 いや何がって、俺はつまり自分の発した言葉が、とんでもなくおかしいものだと気付いてしまったからだ。

 理由なくても、俺…サンジに触りたいって、事?

 俺ははっきり思い出した。この感情は前にもどこかで、出会った事がある。
 手を伸ばせば届く距離にそれはあって、なんとか誰にも気付かれないように、俺はそれに触れてみる。
微かに指先に伝わるその感触を、俺は宝物のように自分の中の箱に大切に収める。誰にも知られず、ひっそりと幸福を得る。
それだけでいい、このままでいいんだと、自分にいつも言い聞かせて。

 …それは昔、俺がまだ、ゾロを好きだった時に感じていた気持ちと、瓜二つだった。

「…」

 言葉を失った。俺は気付いてしまった。俺の「核心」って、これだったんだ。どうしよう。どうしようサンジ。

「…そこで赤くなんのかよ…クソたち悪ぃな…」
 両手を掴んだまま、サンジは乱暴に俺の体を自分の元へ引き寄せた。
香水と汗が混じった匂いが鼻先を掠めて、本当こんなの恥ずかしくてたまんねえんだけど…どうしようもなくどきどきした。

「お前が、今…死に物狂いで逃げ出さねえんなら、キスする」
目の前5センチの距離にサンジの顔がある。
俺の鼻が邪魔してくれそうなもんだけど、サンジはうまい事首を傾げて鼻に当たる事なく俺との距離をつめた。
もうここで活躍しなくてどうするんだよ俺の鼻の大バカヤロウ!

 いつの間にか眉間の皺も青筋もなくて、その青い目は俺をじっと見つめていた。
 懇願するような表情に、逃げてほしいのかほしくないのか分からなくなる。
分かんない。なんも分かんないよ。どうしよう俺。こんなの思った事ないのに。
サンジ、お前ってさあ…こんな、格好良い顔してたっけ。

「……」
息がかかるのが分かる程、サンジの顔が近くなる。
引き寄せられた俺の体は少しも動こうとしない。それがわざとかもしれないと、薄々感づいてる自分が頭のどこかにいた。
ああ、俺、待ってんのかなあ。キスされるの。

 卑怯だって分かっているのに、俺は固く目を閉じた。もう顛末は全部人任せだ。
だってどうしようもない。強く掴まれた両腕にさえほんの少し、でも確かに、嬉しさを感じてる。

「…クソったれ」
耳元で呟かれたサンジの声は、今にも泣き出しそうだった。
次の瞬間両腕は開放され、あんなに近かったサンジの顔が、元通りの距離まで離れていた。

「行けよ」
「…」
「行けって!!」
サンジに殴られたテーブルが、一際大きな音を立てた。
俺の体はその音を合図にやっと動き出す意志を持つ。

「ご、ごめん、なさい」
椅子の足に自分の右足が引っかかったが、振り切ってキッチンを飛び出した。
「行け」と叫んだサンジの、その後の表情を確認する事も出来ないまま、俺は扉を急いで閉めた。
 心臓がまだ、こんな速さで脈を打っている。苦しい。息が上手く出来ない。

 扉の閉まる音に気付いたのか、マストの上から「ウソップー」というゾロの呑気な声が聞こえた。
バカヤロウ今それどころじゃねえよ。

 ゾロの呼びかけをシカトして土砂降りの甲板を大股で進んだ。
天板を乱暴に開けるのと同時に再度頭上から「酒はー!?」というマヌケな声が聞こえてくる。
俺は全ての力を振り絞って「おやすみ!!!」とだけ叫んだ。
その後まだ何か言っているゾロの声が聞こえたが、もう知らん。それに耳を貸す余裕は、今の俺には断じてない。

 天板を閉めきり、誰かを起こしてしまうかもという気遣いも忘れて、俺はドサリと大きな音を立ててハンモックに身を預けた。
 外から聞こえる雨の音が、しきりに俺の頭の中に降り積もっていく。
目を瞑ったところでさっきまでの場面が連続再生されるだけだ、眠れるわけがない。

 雨でびしょ濡れになった全身をそのままにして、俺は「どうしよう」と一人ごちた。
 明日からどんな顔で、あいつと会えばいいんだろう。

 だっていよいよ俺は、自分の気持ちに、気付いた。…いや、気付いてしまったんだ。







 翌日もやっぱり雨はやまなかった。
うだるような暑さと腹立たしい湿気に、いい加減みんな嫌気が差していた。

 案の定チョッパーは「漏らした!」とルフィにからかわれていた。
涙目になりながら否定しているチョッパーの為、誤解を解いてやろうかとも思ったんだけど、何だか体中だるくて、俺はただ黙ってそのやり取りを見ている事しかしなかった。

 サンジは結局朝になっても男部屋には戻ってこなかった。
あの後キッチンで少しでも眠れたのかな。いや、眠れてねえだろうな。
だって俺も、一睡も出来なかった。

 朝飯はどんな顔していいか分からなかったから、極力飯だけを見つめてひたすら口に食べ物を運んだ。
他のやつらに「朝からすげえ食欲だな」と言われたりもしたが否定するのも面倒で「暑さに負けてらんねえからな!」と適当に返しておいた。

 飯を食っている間、結局一度もサンジの事を見なかった。
また「避けられた」って傷付いたかなあ。
でも仕方ない。今回ばかりは俺もどうしようもない。
自分の気持ちに向き合うのが恐くて身動きが取れないんだよ。

 一言だけ交わした言葉は「ほら」と「おう」だけだった。
それはサンジが空になったコップに二杯目の飲み物を注いでくれた時だったんだけど、目を合わさないまま「ありがとう」も言わない自分なんて初めてで、無性に情けなくなって、心の中で「ありがとう、ごめんな」と付け加えた。


 その後チョッパーと一緒に風呂に入って(勿論水風呂)、雨の降る甲板にもサンジの後姿を気にしなきゃいけない工場にも行く気になれず、今こうして男部屋に一人、大して描く気もないくせにスケッチブックを開いている。

 半分くらいまでページが使われたスケッチブックには、ほとんどこの船のクルーの絵しかない。
静物画や風景画も大好きだけど、船上生活中はやっぱり、皆を描いているのが一番楽しい。
表情や、触れないと分からない温度、みたいなものを、描写だけで表すのはなかなか根気がいる。

 昔のページを捲ると、自分でも笑ってしまう位、ゾロで埋まってた。
何でこんなに苦戦したかなあ。今の俺ならスラスラ描けるだろうな。だってもう、ゾロを見ていて苦しくなる事なんてないんだから。

 ×の印で無理矢理中断されてばかりのゾロのページの後、少しするとサンジの絵も出てきた。
真夜中の船尾で、手すりにもたれながら煙草を吸うサンジの様子がそこには描かれていた。

「…この頃は平和だったなあ」
 じっとしてろっつっても言う事を聞かないサンジをたしなめたりして、色塗りのなんたるかを教えてやってもいまいち伝わらなくて。
 あの時言わなかったが、俺はサンジを描いてる時が実は一番楽しかった。
調理道具か煙草か、常にどちらかを持っているあの手が、何だか難しくて描きごたえがあって。
前も言ったけど、難しいっていうのは、最高の誉め言葉だ。俺にとってはな。
 まあ、この感覚もきっと伝わらねえだろうけどさ、サンジには。
変な捉え方して素っ頓狂な回答が返ってくるんだろうなあ。
それでもいいから…何でもいいから、笑った顔、見たいなあ…。

 もう多分、俺はお前を描けない。こんな風に、無心でありのまま描くなんてできない。
それって凄く哀しい。寂しいことだよ、お前のせいだぞサンジ。

 スケッチブックの中、煙草の煙を燻らすサンジの髪にそっと触れてみる。

「…言ったらお前、幻滅するんだろうな…」

 これからどうしよう、とスケッチブックを抱え俯いていたら突然、背後で天板が勢いよく開かれる音がした。

「探したぞウソップ!ここだったかあ!」
天板の隙間から顔を覗かせていたのは、全身びしょびしょになったルフィだった。

「…お前なあ、雨降ってる時くらい屋内にこもれよ」
「それがよお!滑るんだよ俺の草履!新発見だ!!」
目を輝かせるルフィを見ながら、今まで浸っていた自分の感情を無理矢理仕舞いこむ。
気持ちを切り替え終えてから、笑って「それ楽しいのか」と聞くと「楽しい!!」とすかさず返ってきた。

「しかし困ったぜ船長。俺の靴はイーストブルーでは有名なブランドの最新モデルだからなあ。正直、値段を言ったらお前の心臓は止まるかもしれねえな。そして人々の羨望の眼差しを独り占めしてきたこの靴の事だ、雨なんかで滑るとは考えにくい」
「いや俺お前を誘いに来たんじゃねえんだ」
ルフィは俺の台詞には全く心動かされなかった様子で、笑顔のままサラリと返してきた。

「え、そうなの」
「おお。あのなサンジが呼んでた」

その言葉を聞いて心臓が「ばふっ」という、普段あまり聞いた事のない音を立てた。

「サ、サンジ?なんで?」
「俺は何も知らねえけど」
…くそうサンジめ頭を使ってきやがった。
自分が赴いても俺が避けるだろうから、違う奴を使って呼び出してきたな。
畜生こずるい奴め!いや俺も大概人の事言えないけど。

「悪りいなルフィ。俺は生憎多忙で」
「お前が今行かねえと、俺達今日の昼飯抜きだぞ」
なんでだ!そんなのあんまりじゃねえか!
本当に俺が多忙だったらっていう可能性を考えてねえのかあの暴君コックは!

 ルフィの伸びた腕が俺の首根っこを掴み、強引に引き寄せられた。

「ウソップ。いいか、船長命令だ」
お前は何で食い物が絡むと、仲間の命が危ない時くらいの真剣さを見せるんだ。
どうなってんだお前ん中の食い物の比重。

「…わかった、わかったから、じゃあさ!一緒に行こうぜ」
「いや駄目だ。お前は来るなって三回くらい言われたからな」
先手ばっかり打ちやがって、あのグルグル眉毛!!

「でも、ほら、大人しくしてりゃ別に…」
ルフィは思い切り息を吸い込んだかと思うと「昼飯がかかってんだぞ分かってんのかウソップウウゥ!!」と怒号のような地響きのような叫び声を上げた。
俺のにこやかな笑顔を吹き飛ばすには充分過ぎる威力だった。

「…ワカリマシタ」
顔中に降りかかったルフィの唾を拭う事もないまま、俺は甲板へ飛び出した。
…くそう…コックも恐けりゃ船長もこええ。俺は何でこんな船に乗ってしまったのか…。

 振り返るとルフィは既にさっきまでの気迫を微塵も見せる事なく、例の新しい遊びに興じていた。
トホホってのはこういう時使うんだな…トホホ。

 いつもより数倍威圧的に見えるキッチンの扉の前に立ち、一度ゆっくりと深呼吸をしてみる。

 分かっている、サンジは怒る為に俺を呼び出したんじゃない。このままじゃダメだって、このままじゃ何も解決しないって思ったんだ。
俺も怒られるのが怖くて避けているんじゃない。
それは二人きりになったら、この感情が何処から漏れてしまうか分かったもんじゃないからだ。

 いつもはもうちょっとうまく、嘘吐いたり誤魔化したりできるんだけどなあ。
サンジの前だと心も口も全然俺の言う事を聞かなくなる。ついでに心臓も。

「よ、よし」
心の準備を整わせて、そっと取っ手に手をかける、が、その瞬間に勝手に取っ手が下がり、ゆっくりと扉が開いた。

「…日暮れるまで待たす気か」

 隙間から少しだけ見えたサンジの顔は、呆れたような表情だ。だけど安堵しているようにも見えて…いや、それは俺の希望的観測だったかも。



 連日の暑さに備えて、サンジは相当な量を作り置いてくれていたのだろう。
お手製の炭酸水はまだ冷蔵庫にたっぷりと保管されていた。
 それをグラスに注ぎ喉に通しながら、ひたすら沈黙に耐え続けること、およそ20分。
俺のグラスは空になる寸前だったし、サンジが今口に咥えている煙草は多分、俺がここに来てから五本目のやつだ。

 サンジは煙草を灰皿に押し付ける時、その度に何か言おうとして言葉を飲み込んでいる。
相当戦っているのだろう、何かを切り出す勇気と。
 俺はその様子を横目で見ているうちに、随分と心情が落ち着いてしまった。
この調子じゃサンジに俺の感情がばれる事もねえだろうな、だってサンジはずっと、テーブルの木目を凝視している。

 炭酸水のおかわりをもらおうと椅子から立ち上がると、すかさず「待て!」と止められた。
俺の方へ顔を上げたサンジの表情を見て、ああ、と気付く。

「これ、おかわり貰おうと思って立っただけだ」
空のグラスを顎で指しそう言うと、サンジは溜息を小さく吐き「ああ、そうかよ…」とほっとしたように呟いた。
ゾロが好きだった事がお前にばれた時、そういえばこんな風に、席を立つお前を咄嗟に止めたっけな。
あの時も、サンジが席を立った理由は飲み物のおかわりを淹れる為だった。
お揃いだなと思って、そんな事にいちいち嬉しくなる自分に一人赤面した。

「おかわりな。俺がしてやるから。座ってろ」
五本目の煙草の火を消してサンジはキッチンへ立つ。
俺は灰皿に溜まった吸殻の山を見ながら、こいつは一体一日に何本吸う気なんだろうと考えていた。
すると突然後ろから「ガチャン」という、食器が床に叩きつけられる音がした。

「どうした!?」
慌てて振り返ると、どうやらサンジがグラスを落として割ったようだった。

「…ああ、いや、何でもねえよ」
サンジは黙って散らばった破片を拾う。
そういえばサンジが食器を割るところなんて初めてかもしれない。それだけ焦っているのだろうか、と気付いた。
俺なんかを相手にして、こんな右往左往しちゃってさあ。本当に変な奴だよお前は。

 手伝おうと思い一緒にしゃがむと「あぶねえから」と言われた。
俯いたまま言われたものだから、どんな顔しているのか分からない。
でも耳を見る限り、多分その顔も、赤いんだろうな。

「…ウソップ」
「うん?」
お互いしゃがみこみ、破片を拾いながら、やっと会話が始まった。

「…昨夜…わるかったな」
「…うん」

 サンジ、俺は知ってるよ。
お前が、謝るのが本当に苦手な事や、嬉しかったり悲しかったりすると、結構すぐ泣いてしまう事も。
破片で切れた指先に気付かないくらい、今必死な事も、ちゃんと知ってる。

「…お前の気持ち知ってて、最低な事しようとした…忘れてくれ、ってのは、ムシがいいけどよ…」
「うん?」
最後の破片を拾いながら、サンジはそっと「嫌わないでくんねえかな…」と言った。

 …その縋るような声に胸がいっぱいになったのは、なんかもう、しょうがねえと思うんだ俺。
否定するのも慌てるのも、ほとほと疲れた。
素直に「愛しいなあ」って、思っていたいよ、もう。

 血が滲むサンジの指先に自分の手を重ねた。

「…嫌いになんかならねえ」

自分の顔が赤いのも、もう気にしない。
だって赤くなるのは当たり前なんだ。
恥ずかしいと思うのも恥ずかしい事じゃない。それでいいんだ。
サンジにどきどきする度に、自分自身に首を傾げなくたって、もういい。

「あと、謝んなくていい」
「え、な、な、なんで」
サンジがまるで俺みたいにどもるから、思わず笑った。

「別に俺、怒ってねえし」
「…」
「コックが、料理以外で指けがしてんじゃねえよ、ばかたれ」

少しだけ重ねた手に力を込めた。
石のように固まるサンジに、ざまあみろと思う。

 お前が体に触れてくる度に充電されていたのは、お前だけじゃなかったんだと思い知る。
俺も戸惑いながら、その温度を暖かいと思ってた。きっと最初から、今みたいに。
…こんな事言ったら、お前卒倒するんじゃないかな。いつか絶対言っちまうだろうから、せいぜい覚悟しとけよ。

「…お前はクソ恐ろしい奴だよ」
サンジが頭をかきながら呟いた。
「おお、俺もお前が恐ろしいぞ、奇遇だな」
「…なんで」
「内緒だ」

俺のその回答に「クソむかつく」と怒りを露にした目の前の男は、以前自分も俺の問いかけに「内緒だクソ野郎」と返した事を、もうすっかり忘れているんだろうなあ。
自分の事は棚に上げておいて、すぐ怒るんだからよ。勝手な奴だよ本当。

「…何笑ってんだてめえ」
サンジに指摘されて初めて、自分の口の端が持ち上がっている事に気付いた。
赤い顔をしながらこちらを睨むサンジに、口元が余計に緩まないよう気をつけながら「別に」と返すと、今度はいよいよ小突かれた。

「はー、クソ。…いいからてめえは座って待っとけ。違うグラスに入れてやるから」
サンジは立ち上がり、食器棚から新たにグラスを取り出した。
グラスの中に注がれる氷と炭酸水が、涼しげな音を立てる。その音を聞きながら俺は椅子に座った。
サンジの後姿を覗き見ながら、誰かに「怖い」なんて言われたのは初めてだなと思った。
サンジが俺を「怖い」と言った、だなんて、誰も信じねえだろうな。

「昨夜の新しいレシピさ」
サンジは俺の目の前に、なみなみと炭酸水が注がれたグラスを置いた。
グラスの内側では泡が次から次へと上へ登っていく。

「レシピ?」
「昨夜お前がキッチン来る前まで、レシピ考えてたんだよ」
俺は「ああ」と思い出した。サンジの腕の下に、沢山のメモが書き込まれた紙が一枚、そういえばあった。

「完成したのか?」
二杯目の炭酸水に口を付けながら尋ねると、サンジは途端に嬉しそうな顔になり、さっきどもっていたのが嘘のようにペラペラと喋りだした。

「おお、持ってたレシピ本に載ってた「ヒヤシチューカ」っていう料理を参考にな、俺なりに考え改良を加えた、今年一番の自信作だ。そのまま作ろうと思ったんだが、調味料がどうしても足りなかったからよ。それで俺が考えた改良版ってのが、まあ見事に今ある食材と調味料で作れちまうわけよ」
 うんうんと適当に相槌を打つと、どんどん専門用語が飛び出しサンジの口は更に忙しそうに動いた。

「クソ暑い日が続くからよ。冷たいモンの方が喉通るだろ?俺の優しさから生まれたこのアイディア、お前はどう思うよ?」
「うん、そりゃすげえわ」
「だろ?ねえ材料で悩むんじゃなく、発想を転換させる。で、新レシピが生まれるって訳だ、俺は俺の頭の回転の速さがときに恐ろしい」
「そうだな、確かに旨そうだ」

聞き流しながら、多分かみ合ってない返事を俺はしている筈なんだけど、サンジの笑顔はますます輝いていく。
分かった、こいつ料理の話してる時は相手の言ってる事全く聞いてないわ。

 やれやれと溜息をつこうとしたらサンジが身を乗り出して「今度食わせてやるからクソ楽しみに待っとけ」と言った。
その時の笑顔は悔しい事に、心臓が止まるかと思う位…格好良かった。

 その後も続く料理談義は大体何を言っているのか分からなかったが、それでも俺は相槌をやめなかった。
身振り手振りで、その自慢のレシピが完成するまでの経緯を説明してくれるサンジを見ていて、思う。

 サンジって本当、料理の事になると目輝かせて、まるで人が変わったみたいな屈託のない顔で笑うよなあ。
そんな顔されたら、蹴られても罵られても、俺はお前を本気で憎む事が出来ない。
やっぱりお前って、勝手でずるいよ。ちくしょう。



 なんていうか。ほんと自分でも、笑っちまうんだけどな?
…これを言っても、お前は信じないだろうけど、うーんでもやっぱり信じてほしいなあ。
勝手でずるいのはどっちだよって、軽くなら蹴ってもいいから、その後はやっぱり、今みたいな顔で笑ってほしい。

そしたら俺、嬉しくて泣いちゃうかもしんないけど。

 …サンジ、俺さあ、お前の事、大好きだよ。