恋のボヤージュ


06.白紙の便箋



 もう三日も経つのに、俺はまだ出だしの一行さえ書ききれない。いつもならスラスラと、踊るようにペンが動いてくれるのに。

綺麗な字で書かれた二枚の便箋を読み返し「早く返事を書かなきゃ」と、気持ちだけが焦る。
 カヤからの手紙をまた封筒に入れ直し、漏れる溜息にまた溜息が出そうになってしまった。

 船は冬島の海域を抜けて春のように暖かくなった。この前のストリングシャワーの夜、白くなっていた息が嘘みたいだ。

 惜しみなく降り注ぐ星を思い出し、そして、それとセットで必ず思い出してしまうあの出来事に、もう何度もこうやって一人赤面する。ビックリする位ドキドキする。
 信じられなくて「本当かよ」と、記憶を丁寧になぞり、言われた台詞と、あの真剣な目と、握られた手の感触が全部一気にフラッシュバックして、また一層ドキドキした。何回こうやって一人で慌ててるんだろう。

 生まれて初めて、誰かに告白をされた。そしてその人は、同じ船の上にいる。

 ナミは航海日誌を書くとかで女部屋へ篭っていた。
そして今、パラソルとテーブル、折りたたみ式のイスを借りて、俺は甲板の片隅でペンを握っている。
 ルフィとチョッパーの背中が船壁沿い、横に並んでいる。釣りを開始して数時間経っているだろうに、二人の間にあるバケツは空みたいだ。

「チョッパー、お前がエサになったらでっけえの釣れるかもしんねえな」
「いいい!!?や、やめろルフィ!俺はエサじゃなくて医者だぞ!!」
ルフィの物騒な発言にチョッパーが身を震わせながら首を横に振っている。

 …あいつら、本気で魚釣る気ねえんだろうなあ…だって釣竿の先にぶら下げてるのが、ルフィの草履だもんな…。

「一文字も進んでねえな」

背後から声がしたかと思えば、その瞬間に紅茶のいい香りが鼻先を掠めた。そして数秒後には嗅ぎ慣れた煙草の匂いが、ゆっくりと混ざる。
振り向かなくたって、その人物が誰かだなんて、すぐに分かった。

「かかか勝手に見るな!」
 俺はカヤへ送る為の便箋を上半身で覆い隠した。別に、隠さなくたってこいつの言う通り、一文字も書いてないんだから意味ねえんだけどさ。

 サンジはテーブルの上にカップを置き、少し高い位置からポットの中の紅茶を注いだ。一滴も毀れる事無く、紅茶は真っ直ぐカップへと落ちていく。

「おーおー冷たいねえ、こっちを見てもくれねえのかよ」
煙草の煙が視界中に広がる。目一杯吹きかけられたのだと分かった。

「うえっほ!何すんだよ、目がいてえ」
「俺、今日機嫌わりいんだよ。誰かさんが一回も喋りかけてくんねえからさあ」
からかうような口調に反省の色がない事を知る。じろっと睨みつけてやったら「やっとこっち見た」と、無邪気な顔で微笑まれてしまった。

 心臓が勝手に動悸を倍くらいの速さで打ち始める。俺がもしお年寄りだったら、ショック死という理由でポックリいってるぞこれ。

「あからさまに避けてんだろお前。やめろよ、傷付くから」
サンジはしゃがみ、顎をテーブルの上にこつんと乗せた。むくれながら俺を見つめるもんだから、こいつ本当は年齢偽って生きてんじゃねえのかなと思ってしまう。

 サンジは俺が思っていたより随分と気分屋で、我がままで、煙草を吸う仕草に全く似合わないような子供っぽい表情ばかりする。
それはここ数日で初めて気付く一面だった。

「避けて、いるわけ、ない、ですがな」
「何だその喋り方」
むくれたかと思えば今度は楽しそうに笑う。
めまぐるしく変わるその態度に、俺はまるで追いつけない。
普通にしようと思うけど、普通ってどんなだっけと、考えてしまうのだ。考えている間にサンジはまた表情を変えた。

「お前が避けるからメチャクチャ落ち込んでんだぞ俺ぁ。どうにかしろよこれ」
いつの間にか自分の足元に置いていた灰皿にとんとんと灰を落としながら、サンジはそう言った。
ど、どうにかって、どうすりゃいいんだよ一体。

「…さ、避けてねえってば」
顔が勝手に熱くなる。
分かってる、サンジは俺をからかっているだけだ。分かってるんだから俺も軽く交わせばいいものを、何だか喉に石が詰まったみたいに言葉が出てこない。

 いつもの俺が、サンジの前だと影を潜めてしまう。どうにかしろって、それ俺の台詞なんだけど。

「…わり、困らせた」
サンジは灰皿を持ち立ち上がった。

 謝らせるつもりなんかなかったし、そう言わせてしまった自分が凄く後ろめたくて、慌ててサンジの方へ顔を上げた。
本気で傷つけてしまったかと思ったのだ。

「…邪魔した。紅茶冷めねえうちに飲んどけ長っ鼻」
見慣れた、大人びた表情だった。
そう、この顔が、俺の知ってるサンジの筈だったんだ。

「…あー、うん、いや、邪魔されてねえけどな。うん」
サンジがこの場を離れようとしたので、俺は内心ほっとした。やっと心臓を落ち着かせる事が出来る。
こっちの心情などお構いなしだもんな、こいつの言動ときたら。

 ペンを放し、カップの取っ手をつまんだ瞬間、俺の全身は石膏化したように動かなくなった。
何故って、だってお前、取っ手をつまんだ手にサンジの手が覆いかぶさってきたんだぞ。前触れもクソもない一大事に、今度こそショック死という言葉が現実味を帯びて脳内に浮かんだ。

「………っ………」
う、動けねえ。一切。なんだこれは。
こいつは人を石にする能力でも持っているのかいや持っているに違いないそうじゃなきゃもう説明がつかねえぞこの俺の固まりようは。

「……充電、させてくれ」
サンジの小さな声が頭上から聞こえる。
その声が少し震えていたように聞こえたので、俺は気付かれないようサンジの顔を盗み見た。
…んで、盗み見した事を心底後悔した。
体は固まって動かないのに、それに加えて心臓が、耳を当てなくても分かる程脈を打ち始めてしまったからだ。

 サンジは、茹でたタコみたいに顔を赤くさせていた。

 俺の手を包むサンジの手が、どんどん熱くなる。
…いやいやいやいやいや、ちょっと、待って、待てよ、なんだこれは。お、俺の手が溶ける。

 多分、結構長い時間そうしてたと思う。
長い時間っていうのは体感時間だから正確には分かんねえが、少なく見積もっても、10秒くらいか。いや10秒って長いぞ意外と。嘘だと思うなら数えてみろ今。マジで長いから。

「…よし終わり」
サンジはそう言うとパッと手を離し、慌てた様子で背中を向けた。
タコみたいな顔が、今どうなっているか、俺には見えなかった。

「今ので、今日避けられた分はチャラにしてやるよ。ありがたく思えクソっ鼻」
捨て台詞のように後姿のまま言い放ち、サンジは結局、一回も振り返る事のないままキッチンへ戻っていった。

 カップの中の紅茶に視線を落とし、俺は気付く。嗚呼この紅茶、俺に話しかける為の口実だったんだ。

 熱くて、飲めたもんじゃない。紅茶も、俺の顔の温度も。


 あの夜、サンジに「好きです」と告白された。
嘘みてえな星が降る中、俺は寒さでいつの間にか寝てしまっているんじゃねえかと、自分の頬を軽くつねったのだ。

 俺はサンジの好きな人がナミだと思っていたから、夢じゃない事を確認した後すぐに「こいつまた俺で練習してやがる」と思った。
でもそれにしちゃあ不自然な点がいっぱいあったんだ。
だってさ、練習で人の手握るか?そんでその手を震わすか?練習で、顔って、赤くなるもんか?

 状況が半分も飲み込めない俺に、サンジは短く「返事いらねえから」と言った。「分かってるから」とも。
俺は何が何だかよく分からないまま「ナミが好きなんじゃねえのかよ」とだけ聞いた。
だってほらサンジあの時、肯定してみせたじゃねえか。
 サンジは少し黙った後「お前の的外れな考えが予想通りだっただけだ」と言った。
少し強い口調で「俺が好きなのはお前だから」と、もう一度釘を刺すように、はっきり告げられた。

 もう、本当に何も言えなくなって、こんな事は生まれて初めてだったから。
目も動かないし、握られた手もどうしていいものやら、瞬きさえするのが恐かった。何で恐かったのかよく分からない。だけどできなくて、お陰で目がシパシパした事を覚えている。

 サンジは「何もいらねえから、頼む」と頭を下げた。
「今まで通りでいよう。…いてくれ。それだけでいいんだ」

 それに似た台詞を、何処かで聞いたなあと思った。
ああそうだ、俺が以前、ゾロとの事をお前に聞かれて言ったんだった。このままがいい、それだけでいい。ってさ。

 俺の言葉を待つ様子もなくサンジは甲板へ向かう為立ち上がる。
サンジの、遠ざかる靴音を聞きながら、俺は「あ」と気付いた。

 あいつ俺様の考えた台詞をそのまま使いやがった。
なんて奴だ。全く、恥ずかしくないのかよ。アドバイスしてくれた張本人に早速言ってのけるとは。全く…

「お前が好きです」

 サンジの声が頭の中で何回も鳴り響いた。本当に何回も。
 サンジが、俺を、好きだって、言った。言葉をなぞる度、息が出来なくなる程鼓動が速くなった。



 サンジ、俺さあ、どうしよう。お前が頭下げてまで頼んだってのに、全然、駄目そうで。本当ごめんな…どうしよう。



 あれからサンジと二人きりにならないよう俺は注意に注意を重ねた。
飯を食い終わるのもビリにならないよういつもの三倍速でかきこんだし、風呂も、便所も、サンジが利用しなさそうな時間を見計らい、全て上手い事かわしてきた。
一番心休まる場所は甲板だった。他の誰かがその場にいてくれれば、何とか平静を保つ事が出来たからだ。

 皿洗いを手伝わなくなったけど、サンジは何も言わなかった。
俺はそれに心底安堵したんだけど、本当はちゃんと分かってる。サンジから何か言えるわけねえだろう。って事を。

 俺は自分の臆病さをよく知ってる。
二人きりになって、どうしていいか分からなくなった時、サンジの気持ちもお構いなしで逃げ出すに決まってる。決まってるんだ。嫌な気持ちにさせるのが目に見えてる。

 紅茶を一気に飲み干して、俺は自分の事しか考えてねえなあと思った。勇敢の欠片もねえし、戦士なんて聞いて呆れるぜ。

 もう、だって、逃げ出してるじゃねえか。既にサンジを、嫌な気持ちにさせてるじゃねえか。
なのにサンジはさ、きっと勇気を振り絞ってここまで紅茶運びに来たんだろ。
なあ俺さあ、こんな旨い紅茶淹れてもらって、ありがとうも言わねえでさ…何してんだよ。

サンジがキッチンへ戻る姿を見てほっとしてる場合じゃ、ねえだろ。…馬鹿野郎。






 その晩は、俺の大好きな魚料理だった。

 焼いても生でも何でもいいんだが、中でも煮魚は俺が最も旨いと感じる魚の食べ方である。
いつもより多めに自分の皿に乗せて、忍び寄る魔のゴムの手から自分の皿を守る。
大好物を前に、食い終わるのがビリになるとかどうとかいう考えは頭からスコーンと抜けていた。

「おい鼻。骨つまらせて死ぬなよ。笑いもんだぞ」
サンジが全員分の飲み物を入れながら嬉しそうに笑う。
その顔を見て安心した。昼時にひどく落ち込ませてしまったかなと、懸念していたからだ。

「骨も食えるぞウソップ、ほら見てろ」
ルフィが事も無げに破壊的な音を立てながら魚の骨を噛み砕いていく。
見てろと言われても、何も参考にならなかった。

「お前なあ…腹から骨が突き出しても知らねえぞ」
「大丈夫だ、ほら見てろって」
また暫く破壊音がキッチン中に鳴り響くが、やっぱり見てても何の参考にもならない。

 サンジは未だ給仕に徹している。
メインディッシュである煮魚は、主に俺とルフィのせいで残り僅かだ。

 今までの自分の態度に罪悪感を感じまくっていた俺は、意を決して新しい皿に魚をよそった。
勇気を振り絞り、その皿をずいとサンジの前へ差し出す。
「コッ、コッ、コッコックが食いっぱぐれてたら、それこそ笑いもんだぜ!」
ニワトリかよ。自分の台詞につっこみを入れずにはいられない。ニワトリかよ。
 でもサンジはからかう事はしなかった。からかう代わりに、皿を受け取ってから心底嬉しそうに「だな」とだけ言って笑った。

 もしかしたら、俺が思っているよりずっと簡単なのかもしれない。サンジが唯一俺に頼んだあの願い事を、叶えてあげる事は。

 サンジ、ごめんな、俺臆病でさ。今日は皿洗い手伝うから。
「今まで通りでいよう」なんて、頭下げて頼むような事じゃねえって、お前の肩叩いて、絶対、笑い飛ばすから。
三日もかかっちまったな、許してくれよ。

「おおウソップ、いらねえなら俺貰うぞこれ」
ルフィが変な事を言い始めたので何かと思って振り返れば、俺の分の皿を自分の元へ引き寄せ、ガツガツと口へ運んで食べている。
そして皿の上はそれを認識している間に嘘みたいな速さでなくなっていった。

「いらないなんて誰が言った馬鹿野郎!!!」

ルフィの胸倉を掴んで怒鳴るが「俺はさっき聞いたぞ!貰うって!」と反論された。

「それ聞いてねえじゃねえか!!」
「ちょっと、うるさいアンタら」
ナミが横槍を入れるが俺の怒りは頂点に達したままだ。
俺の!煮魚が!

「返せよ俺の!!!」
「無理言うなよ、もう食っちまった」
ルフィに飯を横取りされるのはこれが初めてじゃないけど、今回は本当に腹が立った。
だって!俺の煮魚が!

「…っ…サンジの!作った煮魚!俺がどんだけ好きだと思ってんだよ!!!」

 俺がここまで腹を立てるのにはわけがあった。
 数ヶ月前に食ったサンジの煮魚が、奇跡のように美味しかったのだ。
元々料理がこれだけ旨いのに、そのうえ好物を作られた日にはもう、サンジを神として崇めてもいいというくらいの気持ちにはなる。
 俺は初めてサンジの煮魚を食べたあの日、これから先いくらこのコックに不当な扱いを受けたとしても、今日の煮魚を思い出して強く前を向いて生きていく事が出来るだろうと確信したのである。
それだけの力を持った煮魚だったんだ。サンジの煮魚は。

「おい、クソ眉毛。タコより赤いぞお前」
ゾロがサンジを見ながら首を傾げる。
俺はその言葉を聞き、ルフィの胸倉を掴んでいた手の力を緩めて、サンジの方へ顔を向けた。

 …確かにサンジは、タコも真っ青になる程、耳まで真っ赤になっていた。…こいつ一日に何回タコになる気だろう。

「…だ、大丈夫?どうしたの?汗凄いけど」
ナミが覗き込むように様子を伺う。が、サンジは目をハートにする事もなく目を見開いたまま固まっていた。
ナミの言うように、サンジの首筋を汗が滑った。

 チョッパーが身を乗り出しサンジの頬をペチペチと叩いた。
「サンジ?」と呼びかけるチョッパーの声に、やっと目が覚めたかのようにサンジは反応した。
「おっ!?おお!!なんともねえ!問題なしだ!」
サンジは自分の飲み物を一気に飲み干すと「早く食え野郎共!!」と、いつもの感じで一喝した。

 まだ皿の上が片付いていなかったチョッパーは、慌てて口の中へ料理を詰め込んだ。
「そんな急いで食ったら骨が危ねえだろ、よく噛んで食え青っ鼻!」
どうしろって言うんだよ、という顔をするチョッパーを見て、お前の気持ちは尤もだと同情していたら、サンジがずい、と、先ほど俺がよそった分の料理を差し出した。
「俺は作ってる間に食ったからいらねえ。てめえが食え」
「え、でも…」
「食えって言ってんのが聞こえねえのかオロすぞ!!!!!」
「ひい」

何かが取り憑いてしまったのではないかと疑う程、サンジの感情の起伏は凄まじかった。
その理由を解明できないまま、俺は兎に角言われた通りに料理を口に運ぶ。
既に完食していたクルーは、自分達に火の粉が降りかからぬようそそくさとキッチンを後にした。

 キッチンの扉を閉める間際、共に出て行こうとしていたゾロとチョッパーの会話が聞こえた。
「病気じゃねえか、あれ」
ゾロが聞くが、チョッパーは首を横に振ってみせる。
「いや、極度の緊張状態に陥った時の感じだったぞ、あれ」

 サンジのお陰で煮魚にありつけたのは大変ありがたい事だったが、お陰で食べ終わるのは俺がビリになってしまった。
この、腫れ物のようなサンジと、どのようにして同じ時間を共有すれば良いのでしょうか。
さっきの決心がもう挫けそうだ。助けて。

「…ご馳走様でした」
「……」
ルフィのように骨までは食えなかったが、自分の中でできる最高に綺麗な食べ方で皿の上を平らげた。
何か一つでも間違えれば俺は、目の前の男に、こ、殺されるかもしれない。

 サンジは無言のまま煙草に火をつける。思い切り吸っているのだろうか、フィルターは物凄い速さでその姿を灰に変えていた。

「さ、さて、皿洗おうかな!うん、皿をね、洗うよ俺は」
手が震えているから運んだ食器がガチャガチャと不自然な音を立てる。
止まれ震えよ、殺されるぞ!

 蛇口を捻り、スポンジに泡を立てながら考える。よし食器を急いで洗って、一刻も早くこの場から離れよう。笑ってサンジの肩を叩く日は今日ではない。絶対に今日ではない。

 背後で、サンジが席を立つ音が聞こえた。俺の喉は小さく「ごく」と音を立てる。
不吉な音楽が音量を上げて脳内で響き渡る。

 その時左肩に、何かがドサッと乗っかった。

「っひょああ!」
 掴んでいた食器をシンクの中に落とした。幸い水が張ってあったので割れる事はなかったが、そのせいで水が数滴、顔面辺りまで飛び散ってきた。

「つめて」
 サンジの声が、随分左耳の近くから聞こえるなあと思い、その瞬間に自分の肩の上に何が乗っかってきたのかを理解した。
…サンジが、後ろから俺の肩に頭を乗せている。

 いよいよ俺の命運も尽きたかと涙目になったが、サンジから殺気が感じられない。さっきまでの鬼気迫るオーラは、もう何処にもなかった。

 俺の心臓は未だにバクバクと脈を打っているが、特に何もしてこなさそうなサンジの様子に、俺は恐る恐る首を左に向けた。

「サ、サンジ、どど、どうした」
「…死ぬかと思った俺」
 おいおいそれは俺の台詞だぜ。とは言わないまま「な、な、なんで?」と、どもりつつも目一杯優しく尋ねてみた。

「…嬉しくて」
「ん、うん?ちょっとよく分からないな、詳しく話してくれるかいサンジ君」
サンジの髪が俺の肩の上でサラサラと揺れた。

「…お前が俺の料理、好きだっつった」
「…」

 呆気にとられる、っていうのはこういう事を言うんだな。
俺にはサンジの言ってる意味が全然分からなかったし、なんか本当に、もう一回言うけど全然分からなかった。

「えっと……?うん…言ったけど」
「どんだけ好きだと思ってんだよっつった」
「…いや、だから、言ったけど…」
要領の得ない俺の返答に痺れを切らしたのか、サンジは俯けていたその頭を持ち上げて、俺を睨んだ。
でも全然それが恐くなかったのは、笑ってしまう程その顔が赤かったからだ。本日三回目のタコである。

「…どうしよう、死ぬかも俺」
震える声でそう言って、また頭を俺の肩へ預ける。
「…クソ嬉しい、ウソップ」

 いや。
 いやいやいやいや。サンジの料理が旨いのなんて今に始まった事ではないし、それは前々から本人にも伝えていた筈だ。
何で涙目になるんだサンジ君。情緒不安定なのかねサンジ君。

「お前ってさ…」
続く言葉を慌てて飲み込んだ。てめえもなって、悪態つかれそうだし。あとこれ言ったらメチャクチャ怒られるだろうなあと思って。
…お前ってさ、すげえ泣き虫だよな。

 俺が何て言おうか分かってしまったのか「だって」とサンジは言う。
「避けてたくせによ…独占欲丸出しな言い方するんだもん。心臓止まった俺」
だもんって。だもんってお前。なんだそりゃ。

 俺のあんな一言で心臓が止まっているようじゃ、この先の航海やっていけねえぞサンジ。
なんて、笑いながらからかってやれればいいのかもしれないけど、俺もつられて心臓がおかしくなるから参る。尋常じゃない程体が固まる。
もう、どうせいっちゅうんだよ。皿洗いたいのに、両手がびくとも動かねえじゃねえか。

「好きだ」
耳元近くで響くサンジの声は信じられない位低くて、頭に直接響いて、俺の脳内にカンカンカンと警報を鳴らせた。

「ウソップ」
「は、はい」
「……あの、また、充電、してえんだけど」

昼間握られた手の感触がフラッシュバックする。

 …っていうかさあ!仲間に手ぇ握られるなんて!全然大した事じゃあねえだろ!何でいちいち固まるんだよここで俺は!
減るもんでもねえし、寧ろ力一杯握り返して「いて」って言わせるくらい出来るだろうよ!

 何言ってんだよ俺、と自分を笑う。
分かっているくせに。できねえよ、できねえよなそりゃ。
だってこいつ、俺が好きだって、言ってんだぞ?

 話しかけられたら、困る。微笑まれたらドキドキする。
その声は、その顔は、サンジが俺に注ぐその全部は、誰がどう言ったって、もう俺にとっては特別なものでしかない。
だってさあ…だって。何一つ、大した事じゃなくない。

 だってさあサンジ、誰かに好きだと言われたのは、俺は、生まれて初めてだ。

「…い、い、い、いいぞ、充電」

水を張ったシンクの中から手を引き抜き、食器置き場にかかっているタオルで乱暴に拭いた。
「ごく」と喉が鳴ったのを気付かれたくなくて、慌てて咳払いをする。
俺はゆっくり、サンジと向き合うように体を向けた。

 両方の掌をサンジに見せるように前へ出して「ほら」と言った。
「お、お、俺様が充電させてやるんだ。あ、ありがたく思えよ!」

サンジは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑った。
眉をふにゃりと下げて…それは今まで見た事ないような、小さい子供が母親に見せるような無防備な笑顔だった。

「ありがとう」
そう言って、サンジは俺の手を握る。…事はなく、俺の体を両腕で包んだ。
それはつまり、分かりやすく言うと、抱擁であった。

「サっ!?…な!?ほ!?」
サンジよ、なにゆえお前は充電と銘打って、俺を抱擁したのであろうか。
そう言いたかったのだが多分サンジには微塵も伝わらなかったと思う。
耳元で「うるせえな」と舌打ちされた。

「何もしてねえだろ」
「し、して、してるっ、と…思う、な、俺!」
「うるせえよ好きなんだよ」
「………」
全然質問の答えになっててねえし、そんな事言われたら心臓が爆発するだろって!
どんだけ勝手なんだよお前。文句の一つも言わせろよ。

 だけどそれでも、俺の口から何にも言葉が出てこないのは、俺を抱き締めるサンジの手が背中越しに震えているからで、本気で振り解けばきっと簡単に逃げ出せるような力しか入れてないからで、自分勝手な言葉の割にえらく慎重で…サンジの全部から、自惚れじゃなくて、俺を好きなんだって、伝わってくるからだった。



 便箋には一文字も書かれないまま、また一日が終わる。
一生分の脈を打つ心臓の音を聞きながら、俺はぼんやりと考えた。

 ああ、カヤになんて言い訳しようかなあ。