「よしそのまま。動くな!」
左手でフライパンを持ち、コンロを点火しようと思った矢先だった。
突然の命令に俺は一瞬言うとおりにしてしまう。…しかし、3秒後にはまた、何事もなかったかのように続きの動作を行った。
「ああだから!動くなって言ってんだろう」
ダイニングテーブル越しに、俺の後姿に向かってウソップは抗議した。
「…」
フライパンが充分に温まったので、オリーブオイルを垂らし全体に万遍なく伸ばす。そして敷き詰めるように、その上には下ごしらえした野菜を。調味料を降りかけた後、フライパンに蓋をした。
ここから数分後、メインの食材である魚を投入する予定である。
「……で、なんだって?」
工程がひと段落したので、俺は後ろを振り返った。
そこには、眉をひそめながら両手を動かすソイツがいた。テーブルに乗せたスケッチブックとにらめ合いながら、左手で消しゴムをかけ右手で鉛筆を素早く動かしている。
「ちょっと、もっかいフライパン持ってくれよ」
「…俺の美しさに今更気付いたのか。そんな真剣に描いてくれちゃって」
髪をサラリとかきあげ、女を口説く時のような表情で格好つけてみたが、ウソップは「だからフライパン!」としか言わなかった。
「なんなんだよ。俺描いてどうする気だ。高値で売るつもりか」
軽くあしらわれてしまった俺の口説き顔が哀れだったので、言うとおりにはしてやらなかった。
再びウソップには背を向け、フライパンに被せていた蓋を開けた。
野菜には程よく火が通っている。一旦火を止め、魚を中央に乗せた。火力を一気に最大にし料理酒を大胆にかける。火が自分の背丈と同じくらいまで伸び上がった。
片手でフライパンを前後に動かし全体に酒がいきわたるように調節してから、また蓋を閉めた。火力を今度は一気に弱火にまで落とす。
これでまた数分待てば完成だ。
俺の一連の動作を面白そうに眺めた後ウソップは笑いながら答えた。
「カヤがな、みんなはどうしてるかって書いてたからさ」
ウソップの文通している相手だったか、と俺は思い出した。
一度だけ写真で見せてもらった。写真には優しく笑った、肌の白い…何だか儚い印象を与える綺麗な女性が映っていた。
可愛かったので嬉々として「この方のスリーサイズを教えろ」とウソップにお願いしたら脇腹の辺りを殴られたのを覚えている。
「まだ手紙送りあってるのか。よく届くなこんな遠くまで」
文通などした事ないので、遠い場所から、相手が書いた字や絵が届くのが俺には不思議に感じられた。
「そうだなあ。受け取るのも届くのも、だいぶ時間かかるようになったな…」
しみじみとそう言うウソップは、普段よりも大人びて見えた。
カヤさんを思い出している時は、いつもそうだ、と思う。
彼女か?と尋ねた事があったがウソップは首を横に振った。でもその時の、慈しむような、どこか寂しそうな顔をしたウソップを見て「彼女を好きだったんだろうなあ」と分かった。
言えないまま別れたのか、それとも玉砕したのか…なんにせよ「いい顔するじゃねえか」と思った。
本当に、大切なんだろう。これからもずっと。
「なあ、もう一回フライパン持ってくれよ。料理してる時のお前をカヤに見せたいんだ」
改めてせがむウソップに俺は短く笑いながら「もう終わったから無理だ」と返した。
火を止めて完成した料理を皿に盛り付けた。ウソップは「えええ」と文句を続ける。
しかしその香りが鼻まで届くと機嫌を直し「おお旨そう」と目を輝かせた。
「お前よお、どうせなら正面から描いた俺をカヤさんに送れよ。後姿なんか描いてどうすんだ」
「日常の一瞬をリアルに切り取りたいんだよ。俺ぁ現実主義だからな」
鼻の下を「ヘヘン」と言いながらウソップはこすった。
「へえへえじゃあまた今度だな。オラ他の奴等呼んでこい。テーブルの上のもんも片付けろ。飯だ」
ウソップは「ラジャ!」と大きな声で返事をし、皆を呼ぶため甲板へ飛び出した。
俺は他の料理も人数分よそい、テーブルの上を万全の準備にした後「だから最近スケッチブックを持ちながら歩き回っていたんだな」と納得した。
ふと見ると、ウソップが腰掛けていたイスの上に、先ほどまで開いていたスケッチブックが閉じて置いてあるのに気付いた。
何の気なしにパラパラと捲ると、今描いていたページだろう、そこには俺の姿が描かれていた。
フライパンを持つ手から先がまだあやふやなままになっている。しかしそれ以外の部分は大体書き終えているようだった。
俺がキッチンに立ってから描いたとしたなら、だいぶ早く描き進めたんだなあと感心する。
「…マジで後姿じゃねえか…」
あんなに美しい方に見せるなら、もっとこう、ばっちりキメた顔を正面から描いてほしかった。
「まったく」とぼやきながら他のページも覗いてみると、本当だ確かに、何気ない一瞬の姿を切り取ったような、他のクルーの絵が連なっていた。
パラソルの下で紅茶を飲むナミさんの麗しい姿や、楽しそうに洗濯物を干すチョッパー。ルフィは、獲物が引っかからないのだろう、退屈そうに欠伸をしながら釣竿を海面に垂らしている。
上手いなと思いながら他のページを捲っていると、大きく×が描かれたページが現れた。
「なんだ?」と思いながら構わず捲ると、そこから先はずっと同じような状況が続いていた。
×の印の後ろ側には何かを途中まで描いていた形跡がある。目をこらすが、描きかけの段階なので何が描いてあるのかが分からない。
更にページを捲ると、また同じようにページいっぱいに描かれた×の後ろに…今度ははっきりと誰だか分かる。大口を開けて寝ているその人物が、体の途中で途切れていた。
「これも…あ、これもコイツか」
×印の奥には、いつも、ゾロがいた。
今日も無事三回の食事(と言う名の戦争)を乗り切り、俺は首の骨を鳴らしながら船尾へ出た。
今夜は月が綺麗に見えている。遠くで魚が跳ねる音がした。
胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けてから大きく吸い込んだ。夜空にもやのように覆いかぶさる煙が、一瞬だけ月を隠してから消えていった。
「……」
灰を真っ暗な海へ落とし、明日は何を作ろうかと考えていると、斜め後ろから「ガリガリ…」という音が聞こえてきた。
「…正面から描けって、言ってるだろうが」
いつの間に此処に来たんだろうか、ウソップは手すりに寄りかかりながらまた鉛筆を動かしていた。
「正面から描いたら変じゃねえか。こっちに気付いてないお前らを描きたいのに」
よほどこだわりたいらしい。俺ももう何も言わず海を見ながら煙草を吸った。
「料理してる時のお前は駄目だ。じっとしねえから描けねえ」
ウソップはスケッチブックと見つめあいながら笑った。俺はその台詞を聞くなり振り返り、腰に手を当てながら言った。
「…そりゃお前、あんな旨い料理が完成するまで俺がどれだけの労力を費やしてると思ってんだよ。クソ大変なんだよ。俺の努力、愛情、根気、知識を全て総動員して作ってんだから、生半可な運動量じゃねえぞ。それをお前は分かって言ってんのか?クソ感謝して誉め讃えろっつうんだ」
「煙草吸ってる時くらい大人しくしてろよ!進まねえ」
一蹴されてしまった。
「クソ鼻…お前、俺を描きたいってんなら金貰うぞ」
「あーもー、分かったからこっち向かないで煙草吸えって!何でじっとしてられないんだよサンジ」
更に強く怒られた。子供を叱るような言い方だったので、俺は若干腹を立てながらそっぽを向いた。
「そうそう、そのままな」
「かっこよく、しかし麗しさも損なわず描けよ」
「はいはい」
楽しそうに鼻歌を交えながらウソップは絵を描き進める。
自分が作り出したものが、消えずに手の中で積もっていくのは楽しいだろうなあ、とちょっと羨ましくなった。
「もう全員描けたのかよ」
ウソップには目を向けないまま、極力同じ姿勢を維持しながら尋ねた。
「おお。あとお前だけ」
ゾロは?と聞く前にウソップは言葉を続ける。
「そういやさあ、おもしれえの」
「…何が」
「前もこんな風に皆の事描いたんだけどさ。あの時は色も塗ってたんだよ。そしたらな、お前の髪がな、おもしれーんだ」
俺の美しく輝く金色の髪の毛を面白いとは、何を言ってるんだこのインスタント麺、と罵声を浴びせようと振り返った瞬間、ウソップはスケッチブックから顔を上げ、俺の髪の毛を見上げた。
「お前の髪な、太陽と同じ絵の具で描けんの」
言葉の意味を汲み取れず、不機嫌なまま「ああ?」と聞き返したが、ウソップはそれにひるむ事なく続けた。
「太陽を描こうと思ったらさあ、黄色じゃ描けねえんだよ。眩しく見えるのは色じゃねえからな。難しいんだよ、だから色んな色足して描くんだけどさ。」
絵を描かない俺にはさっぱり分からない感覚だった。太陽を描くって、あれだろ?ナルトの周りに花びら描いて終わりだろ?
「お前の髪の毛もな、黄色じゃなくて…太陽と同じように色乗せると上手くいくんだよ」
そう言うと、またウソップはスケッチブックへと目線を降ろした。話を聞き終えた後もやっぱりいまいち分からなかったので「つまり…俺様の存在が眩しいって事だな」と返してみたら、すぐ「全然違う」と返された。
「難しいって事」
女性には何度か「素敵な髪ね」と誉められた事があるが「難しい」と言われたのは初めてだった。
どういう意味で言われたのか分からなかったので、上手い返答が出来なかった。
そんな気持ちに気付いたのか、ウソップは右手を動かしながら付け加えた。
「まあ、綺麗って事だよ」
「…難しいと綺麗が同じ意味なのか、お前は」
「うん似てる」
全く理解できない。
でも誉めてくれた部類に入るのかなと思いなおし、俺は笑って「へっ、俺様の美しさを表現するのはクソ大変って事だな。せいぜい気張れよ鼻」と伝えた。
ウソップは「んー」と気のない返事をしながら相変わらずガリガリと手を進めている。
そういえば、と、俺はさっき聞けなかった質問を投げた。
「ゾロは?」
ウソップは質問された意味を数秒かけて考え「あれは、綺麗じゃねえだろ…」と変な顔をしながら答えた。
「ちげえよ。マリモが綺麗だったら俺なんかもう神の領域だろ。あれはゲテモノだ。そうじゃなくて」
掛け違ってしまった意味を正そうと、俺は足らなかった言葉を足した。
「マリモはもう描き終えたのかって聞いてんだ」
ウソップは、ここに来てから一度も止めなかった右手を初めて止めて、俺を驚いた様子で見た。
「…なんで?」
「お前のスケッチブックをさっき見たんだよ。随分とマリモに苦戦してるみてえじゃねえか」
俺がサラリと答えると、ウソップは口をわなわなと震わせてこちらを見た。
「…か、勝手に見るなよ!!」
急に大きな声を出されたので驚いた。
ウソップは意識を再び右手に戻そうと試みたようだが、上手くいかなかったらしい。
乱暴にスケッチブックを閉じると「邪魔したな、じゃあ」と、その場から逃げるように立ち上がった。
急に変えられた態度に俺も腹が立ったので、ウソップの腕を掴んで「待てよ」と行動を制した。
「なんだよ感じわりいな…てめえが置き忘れたんだろ」
「み、見ていいなんて言ってねえ!」
「見るなとも言われてねえよ」
ウソップは俯き「…確かに…」と呟いた。
「変な事言ってねえだろ。何で急に怒鳴るんだよクソ野郎が」
腕を離し、イライラしたまま続けるとウソップは「わりい」とだけ返した。
「…」
お互いに数秒黙ったままだったが、ウソップは先にその沈黙を破った。
「…途中の絵見られると、恥ずかしいんだよ…だから」
また俺にはよく分からない感覚だった。絵描きとはみな、そういうものなのだろうか。
「わかんねえよそんなの。鍵でもかけとけよそれに」
「…」
押し黙ってしまったようなので、俺は小さく溜息をついて二本目の煙草に火をつけた。
「勝手に見て悪かった。まあ、わかんねえけど、気にすんな」
「…あのさ」
俯いたままウソップは小さな声で言った。
「誰にも、言わないで、ほしいんだけど…」
「…何を」
「だから…スケッチブックの事、だよ」
つっかえながら、言いづらそうに言葉を続ける。何をそんなに気にしているのだろう。
芸術家ってやりづれえなあと、俺は空に向かって乱暴に煙を吐きながら心の中で呟いた。
「言われなくても…言う必要もねえしな」
「…そっか、それもそうだな」
ウソップはまたいつもの調子に戻り、顔を上げて笑った。頬が赤い気がしたが、俺の気のせいだろうか。
腑に落ちないまま、中へと戻っていくウソップの後姿を見た。
カヤさんとやらに会えない寂しさで、情緒不安定にでもなってんじゃねえか?と懸念したが、俺はこの考えが的外れもいいとこだったと、翌日知る事になる。
午後のティータイムではアップルティーとアップルパイを配った。
ナミさん用の紅茶で、最初に茶葉を使い、野郎共にはそれを使いまわして淹れた。(倹約家であると誉めてほしい)
ナミさんの為に切り取ったパイの上にはリンゴが3切れ、他の奴等には一切れになった。手が自然にそう動いた。贔屓などではない。
女性は大切に扱われるべき生き物なのだから仕方がないのである。
大体の奴等に配り終えたが、ゾロとウソップが甲板に見当たらない。見渡すとみかん畑の間から間抜けな緑色が見えた。
俺の手間を取らすんじゃねえとイライラしながら階段を登る。
寝ているであろうゾロの顔目掛けておぼんを投げてやろうかと腕を高く上げた後、眠るゾロの隣にもう一人、見当たらなかった人物がいるのを見つけた。
上げた腕を下ろし黙ってそれを見た。ウソップがまた、昨日と同じようにスケッチブックを広げながら、大口を開けて寝ているゾロの隣で鉛筆を握り締めている。
何をそんな、ゾロばかり描いては×をつけていたのかと気になったので様子を見る事にした。
あれか、美しさの欠片もないゴミのような造形を表すのは難しいという事か。
「…なんだあれ」
ウソップの様子を見ながら俺は首を傾げた。
ゾロとスケッチブックを交互に見ながら、手を動かしては消しゴムをかける。
俺の時はあんなに淀みなく動いていた右手が、今は見る影もない。
鉛筆がたどたどしく紙の上で動き、その三倍の速さで消しゴムをかける。
難しい顔をしながら、頭を悩ませながら、静かに紙と格闘しているようだった。
丸描いてその中に顔を描いて仕上げに緑に塗っておけばそれで完成じゃねえか、と、俺は疑問に思った。絵を描く奴からしたら、そんなにゾロは描き辛い容姿をしているのだろうか。
ゾロが殊更耳障りないびきをかいた。
俺は無性にそれを聞いてむかついたんだが(意味もなく蹴りを入れたくなってしまった)、隣にいるウソップは優しい顔で笑うだけだった。
…それは違和感を覚えるほど、優しい表情だった。
恐る恐る、ウソップは左手を伸ばす。
ゆっくりと、ゾロの芝生みたいな髪の毛へ、指先を届けようとする。
ゾロの毛先に触れたウソップの指先は、そのままゆっくりと、本当にゆっくりと…「愛でる」という表現はこういう時に使うんだ、と思うような動作で、その髪を撫でた。
「……」
俺はそのまま踵を返し、二人の紅茶とパイをおぼんに乗せたままキッチンへ戻った。
ダイニングテーブルにおぼんごと置き、煙草に火を点ける。
先ほど見た光景を思い出し、昨日のウソップの態度を照らし合わせてみたが…導き出した答えは「嘘だろ」と誰かに笑われてしまいそうなものだった。
俺自身も「バカな」と笑いたいのだが、上手くできなかった。冗談として流せるような、笑えるような気持ちは、あの光景を見てからでは、持てなかった。
正直、今まで数々の女性と出会い、口説き、別れの度に悲しい涙を流させた罪な男である俺よりも、あの眼差しは威力が高いような気がした。
多分、間違いじゃない。…多分じゃない。ウソップは。
「は~あ」
だるそうな溜息を吐きながらキッチンの扉を開けたのは張本人であるウソップだった。
俺は驚き、煙草の煙を気管の変な部分へ流し込んでしまった。
「お、驚かしたか。わり」
「げぇっほ!…おお…」
俺に見られていた事など知る由もないコイツは、陽気に「水もらうぜ~」と食器棚からコップを取り出した。
「…紅茶あるから、こっち飲め」
テーブルの上を指差しうながした。ウソップは「あ!おやつ!」と喜んで飛びついた。
「わりいな、探してくれたのか」
「…いや、まあ、うん」
紅茶を早々に飲み干し、ガツガツとアップルパイを平らげていく様子を見ながら「本当にさっきのウソップと同一人物か?」と疑った。
まじまじとウソップを見ていたら「なんだよ」と返されたので「溜息ついて、どうしたのかと思って」と慌てて返した。
「ああ…カヤに返事出すの、時間かかってるから。やっぱ全員分描こうと思ったら大変だな」
「ふうん」
主に「ゾロ」だろ?と聞き返すような事は出来なかった。
何となく、それを俺の口から言ったら、こいつは怒るんじゃなくて泣くんじゃないかな、と思ってしまった。
「でも、もう今回は手紙出しちゃおうかな。また次の時に残りの奴等描いて」
ゾロ以外は描き終えているくせに、ばれないよう「奴等」と複数いるように言ったウソップが、分かりやすくて…。思うけど、コイツ嘘下手だよなあ。
「ご馳走様!旨かった。たまには洗うか」
ウソップは席を立ち自分が空にした食器をシンクへ運んだ。
俺は「いいよ」と遮り「こっち、ゾロに持ってってやれよ」と、キッチンのちょうど真上に位置するみかん畑を顎で示しながら続けた。
…気を利かそうとか、俺見てたぞ、とか、そういう意味は全くなかった。
ただ「折角一緒にいたんだから」という意味は込めて言った………いや、言ってしまった。
ウソップは目を丸くして固まる。俺も自分の大失態に固まる。
どうしよう。
「ははは」
沈黙があまりに重かったので何となく笑ってみた。しかしウソップは固まったまま何も発しない。
俺の笑い声は換気扇から外へと逃げていってしまった。
「…」
数秒後、ウソップは俯いたまま後ずさった。
そのまま後ろを見ずに下がり続けるもんだから、テーブルに尻が当たり「いて」と言った。
「…」
なんと言えばこの空気を変えられるだろうか。
ええと、ええと…平静を装いながらも脳内で慌てふためいていたら、煙草の灰がいつのまにか自分の足元に落ちていた。「あ、灰が」と呟いて靴を見下ろしたが、灰を払うような動作ができなかった。
体が全く動かなかったのである。
「…見てたんだな」
ウソップが小さく、しかしはっきりとそれだけ言ったので「見てない」と咄嗟に返した。
しかしこの返答も大失態であった。
「何を」
聞き返され、俺は何も答えられなくなってしまった。
「……ご、ごめん」
どうしていいか分からず謝ったが、それが一番最悪の言葉だったらしい。
ウソップは顔を上げる事なく、キッチンから出ようとドアに手をかけた。
咄嗟に、何故だかは分からないが、ここで行かせたら取り返しが付かなくなる気がして、兎に角止めなきゃ駄目だと強く思った。
「待て」
昨夜と同じようにウソップの腕を掴んだ。…微かに震えているのが伝わった。
「離せよ」
「…なんか、離したら駄目だと、思うんだけど、俺は」
「離せよ!」
俺の手を振り解こうと、反対の手で乱暴に俺の腕を掴むが、かなしいかなウソップの力では少しも俺の腕は解けない。
「離せ!眉毛!クソ野郎!」
「クソとは何だてめぇ…」
力一杯ウソップの腕を握り締めたら「いだい!すみません!いたいです!」と、打って変わって謝られた。
「…落ち着けよ。離すから」
「…」
「逃げんなよ?離すからな?」
ゆっくりと腕の力を緩め、ウソップから手を離した。
どうやら逃げる気はなくなったらしい。ドアの取っ手に手をかけるのをやめていた。
「…よし、オーケーオーケー。そのままな。もう一杯茶淹れてやるから」
再び逃げないようウソップをイスに座らせ湯を沸かした。
先ほどの己の大失態を呪いながら、新しく茶葉を取り出す。クソ旨い茶を淹れてやろう。落ち着いて貰う為にも。
「…見てたんだろ」
もう一度聞かれたので、今度は正直に答えた。
「ああ、見たよ。寝てるマリモの隣でお前が絵描いてんのを」
「他にも見ただろ」
「…他ってなんだよ」
尋ね返すとウソップは「だって…見たから、お前、動揺してるんだろ」と鋭いところをついてきた。
誤魔化そうとするとボロが出るし、というか俺が動揺してるというのが何だか癪だったのでありのまま伝えた。
「あー見たよ。お前がマリモの芝生撫でてんのも」
振り向くと、ウソップは顔を真っ赤にして俺を見ていた。初めて見る、表情だった。
「…キモチワルイと、思ってんだろ」
ウソップは赤い顔を下に向け、「はは」と自嘲気味に笑った。
ちょうど湯が沸いたので、俺はウソップが空にしたカップに紅茶を注いだ。それを目の前に差し出すが、ウソップは顔を上げようとしない。
「飲めよ。さっきよりうめえから」
「…答えろよちゃんと。気遣ってねえで!」
俯いたままウソップが怒鳴る。俺は暫く考えた後、ウソップの向かい側のイスに腰掛け、「あのさ」と言った。
「俺さあ、ここに来る前も海上生活だったろ」
ウソップがゆっくりと頭を上げる。俺を睨みながら「それがなんだよ」と言った。
「いっぱいいたよ。周り」
「…何の話だ」
「お前は陸で生まれ育ったからあんまりねえのかな。…だからさ、男同士で、恋愛してるヤローが、ゴロゴロいたよって」
「…そ、そうなの?」
俺は頷く。取り繕う為の嘘ではなかった。本当に、両手の指が埋まるくらいには、遭遇した事があった。
詳しく言えば、バラティエのキッチンでではなくホール側で。
家族連れや恋人、また他にも友人であろう組み合わせの客に混じって、ちょくちょく男同士で来る客がいるのを知っていた。
肩を組みながら入店するほどオープンな者もいたしさり気なく後ろ手で手を繋いでいる者もいた。
なかにはパティにしつこく迫る屈強な野郎もいた。
パティはかわいそうな程冷たくあしらうのだが、男はめげない。めげないというよりそのやり取りがしたいが為に足繁くバラティエに通っていたんじゃないだろうか。
俺が気付いていないだけで本当はもっと、そういう奴等がいたのかもしれない。
別段、嫌悪感もないのが正直なところである。まあただ俺は女の方がいいけどなあ、と疑問に思っていた程度だ。
小さい頃から知っていた事もあって、嫌悪を感じる前に「普通」に捉えてしまっていた。
でもそれで良かったんだと今になって思う。
「おう。だから、きもちわるいとかねえから。気にすんなよ」
「…」
拍子抜けしたような、間抜けな顔になったウソップは「…そうなの?」ともう一度同じ事を言った。
「お、俺…自分でも、キモチワルイって、思ってたよ…」
「それはお前…可哀想だろ。いくら何でも。お前がさ」
笑うと、ウソップは俺のその台詞を合図に、ぼろぼろと泣き出した。
「なんだ…俺、誰かにばれたら…船降ろされるって思ってた…」
「そんなわけねえだろバカ」
「…普通じゃねえって…引かれて…笑われて…っ」
「…」
…どんだけ一人で悩んでたんだろう。嘘が下手なんて、何で思ったんだろう。
ずっと隠してきたんだな。こんな狭い空間で、たった一人で…誰にも気付かれないで。
自分自身にも嫌われた気持ちを、ずっと抱えて、それでも平気なふりして、笑ってきたんだな。すげえな。本当に、凄い。
「よ、良かった、サンジありがとう…」
テーブルにはウソップの涙が作った水玉模様がポツポツと増えていった。
何故だろう、心臓が、握りつぶされたように苦しくなった。
「…何もしてねえよ、俺は」
「…っ…」
声殺して泣くなよ、と言おうとしたが、やめた。
きっとこうやって何度も、影で一人泣いてきたのだろう。それを微塵も知らなかった俺が「泣くなよ」なんて言うのは、きっと違う。
何も言わないまま、俺は自分にも紅茶を淹れようと立ち上がった。
「ゾ、ゾロには言わないで!」
立ち上がる俺のシャツの袖を掴み、ウソップは懇願の表情を浮かべた。
「…茶、淹れようと思って、立っただけだから」
「あ、なんだ…ごめん…」
ウソップは「たはは」と笑いながら袖を掴む手を離した。また俯いてしまった。
…疑心暗鬼になっているその様子があまりに可哀想で、テーブル越しに身を乗り出してウソップの頭にポンと掌を置いた。
ウソップがゾロの頭を撫でていたのを思い出し、あんな風に優しく撫でられるなんて、どれ程こいつはゾロが好きなんだろうと思った。
あんな風に今、俺ができれば、少しは元気になるかな、とも。
「辛かったな。頑張ったな。すげえよお前。俺が女だったら惚れてるぜ」
言いながら頭を撫でると、ウソップはやっと笑った。とても久しぶりに笑った顔を見た気がする。それだけいつも、こいつは俺達の前で笑顔を絶やさなかったんだな、と気付かされた。くそ、いい男じゃねえか。
「お前が女だったら何かやだな」
「どう考えても絶世の美女だろうが。クソっ鼻」
乱暴に頭をガシガシと撫で回すと今度は本当に、楽しそうに笑ってくれた。
「怒鳴って、ごめん」
「いいよ。俺も黙って見て悪かった」
ぬるくなった紅茶を飲み、ウソップは「うまい」と言った。
料理をして感謝をされた事は勿論何度もあるが、そういえば「うまい」と言ってくれた回数は、圧倒的にウソップが多かったと思い出す。
改めてこいつが「いい奴なんだ」と気付いた。
…俺が女だったら…というより、こいつが女だったら、惚れてたかもな、と頭のどこかで考える俺がいた。
「すげえ元気出た!ありがとな、サンジ」
「だから何もしてねえって」
ウソップの頭から手をどかし、俺は再び湯を沸かす準備をした。
あまりに健気なウソップを見ていて何だか胸が苦しくなってきたので、慌てて。
「それ、持ってってやれば?マリモに」
改めて、おぼんの上に乗ったものを指差したがウソップは首を横に振る。
「カヤへの手紙の、続き書いてくる」
いつものように明るい顔でそう言ったウソップは、キッチンを出ようと席を立った。
「紅茶ご馳走様。うまかった。」
「おう」
扉を開け外に出ようとするウソップを、今度は本当に、呼び止める理由なんて一つもない筈なのに、俺はまたその腕を掴んだ。
「?なんだ」
明るい表情のままそう言われ「自分でも分からない」と言うわけにもいかず、俺は咄嗟に言葉を考える。
「…また泣きたくなったら、俺のところに来い」
言ってから、女性に言うような台詞だと気付いた。更に慌てて「なんてな!」と付け足す。
ウソップはきょとんとした顔で俺を見た後、今度は声を出して笑った。
「あっはっは!キザ~!」
自分でも何を言ってるんだろう、頭がおかしくなったんじゃないかと思い、赤くなった顔に気付かれないようウソップの背中を軽く蹴った。
「おら行け!俺がいい男だって手紙に書いてこい!便箋30枚くらい使ってな!!」
ツッコまれたくて言ったのに、ウソップは頷いた。
「分かったよ」と言ったその笑顔は、なんていうか…なんていうか。
ウソップが出ていった後、ヤカンが音を立てたので、そういえば湯を沸かしていたんだと思い出す。煙草に火を点けて紅茶を注いだ。
「…レディーにも言った事ねえわ…」
先ほどの自分の台詞を思い出し、キッチンで一人、赤面してしまった。
翌日、ウソップは他の誰よりも早く起きキッチンに参上した。
「おはよう!」
元気に挨拶され、何事かと俺は首を傾げる。
「…飯ならまだだぞ」
「ちげえよ!手紙書けたからさ、今日出すんだ」
「あー、そう…」
ウソップのテンションの高さのわけを知り、俺は欠伸をしながら止めていた手を動かした。ボウルの中のサラダの材料をトングで混ぜ合わせる。
昨日の事もあってか、ややウソップの顔が見づらい。
「よっしゃ、手紙出してこよ」
鼻歌を歌いながら郵便鳥出張センターのダイヤルを回す。その様子を横目で見ながら、俺は昨日のウソップの涙を思い出していた。
泣くほど想われてるなんて、クソ羨ましい話だよなあ、あの緑…。
そして数秒後、今自分が考えていた思考を慌てて消す。
羨ましいとは何だ。意味がわからん。
「よし受付もできたし…甲板出とくな俺」
嬉しそうに扉の取っ手に手をかける。今にも甲板に向かって飛び出しそうな勢いだ。
「…テンション高すぎねえか。手紙が書けただけなのに」
二回目の欠伸をしながらウソップに尋ねたが、その返答は全く予想していないものだった。
「そりゃ、避難できる場所ができたからな!!」
「…あ?」
「泣きたくなったら行ける場所があるんだもん、頼るぜ~!」
その言葉とその笑顔のセットに、俺はボウルをかき混ぜていた手を止める。
甲板へ飛び出したウソップの姿を窓越しに見て「…んー?」と、俺は自分自身の胸に尋ねた。
今日は天気がいい。太陽が水面をキラキラと照らしている。
そしてウソップの黒髪が、その光に反射して、やたら眩しくて…んー?
「…あれ?…」
何故だ。何故鼓動が速くなるんだ俺の心臓よ。
太陽の下で楽しそうに海を見つめるウソップを窓越しに見ながら、ウソップが言っていた太陽の色の話を思い出した。
今、俺の目に映るお前は…うん、あれだ。…難しいわ。