『臣くんこんにちは。この前は久し振りに会えてとても嬉しかったです。本番中に何度も目が合うのでドキドキしてしまいました(笑)何度か合図を送ったけど、気付いてもらえたかな?また次の時も差し入れと一緒にお手紙を書きますね。臣くん忙しいから、きっとお返事はなかなか書けないだろうなって分かっている(つもり!(笑))ので…ちょっと寂しいけど、ちゃんと我慢するね(笑)
お手紙のお返事じゃなくても、ラインや電話での連絡もいつでも待ってます!そっちの方が嬉しいかも…。
気軽に連絡してね。また次に会えるのを楽しみにしています。いつもお疲れ様。大好きです。
from ゆゎ
℡ ◯◯◯-◯◯◯◯-◯◯◯◯
LIME @◯◯◯◯◯』
臣クン宛に、この人からのファンレターが送られてくるようになってから数週間。手紙の最後には必ずその人の名前と電話番号、LIMEのIDが添えられている。
もう覚えてしまった、継ぎ接ぎが特徴的なウサギのキャラクター。そのウサギが印字された紙袋の中に手作りのお菓子。それから水玉模様の可愛い封筒と便箋。右斜めに吊り上がったハイヒールみたいな形の文字。臣クンは頭をかきながら、困った顔で「うーん…」と漏らした。
「熱烈じゃん。臣、どのお客さんか特定できてんの?」
万チャンの問いに、臣クンが答える。
「…いや、それが分からないんだ。異邦人の時からちょくちょく見に来てくれてるみたいなんだが…」
「マドレーヌ…いっぱい入ってるっすね」
「待て兵頭、手をつけるな。…内容が少しエスカレートしてきてるな。このまま放っておいてもいいもんか…」
秋組のみんなで、その人からの差し入れと手紙を見る。ファンレターや手紙、手作りの差し入れは他にも来るけど、こういう内容の手紙はあんまり見かけない。相当熱烈な、これはファンレターじゃなくてラブレターだ。
「…臣クンのことがホントに大好きなんスね」
そうこぼすと、臣クンが隣に座る俺の顔を伺いながら眉をひそめた。
「目が合うとか、俺は覚えがないよ」
「うん。…でも多分この人の中ではそれがホントなんだ。きっと嬉しかったんだよ」
「……そうなのかな。正直、どうしていいのか分からない。…困るよ」
臣クンは言葉通り本当に困った顔をしている。嫌悪とか不快とかじゃなくて、ただどうして良いか分からなくて狼狽えている感じだ。
手紙の差出人は、臣クンのこんな反応を見たらどう思うのだろう。逆上したり憤慨したりするのかな。それとも、ひたすら悲しくなるんだろうか。
結局マドレーヌは、誰も手をつけないまま捨てられた。十座サンはゴミ箱の中に落ちたマドレーヌを最後まで名残惜しそうに目で追いかけていたけど、左京にぃに「万が一ってことがあるだろ」と諭され、仕方なく諦めたようだった。
暗いゴミ箱の底に沈んだマドレーヌのことを考えると、自分の心まで暗くなる。臣クンを想って作って、きっと食べてもらえることを想像しながらラッピングした。その気持ちが俺には分かる気がするから、凄く身近に感じられてしまうから、自分でもビックリするくらい胸が痛んだ。
手紙の最後に書かれた「大好きです」が、瞼を閉じるとくっきり浮かぶ。
…ゆわサン。マドレーヌは捨てられちゃったけど、手紙はさ、臣クンちゃんと全部読んでたよ。顔も知らない手紙の主へ、俺はそっと心の中でそう言った。
それから数日後。
その日は久し振りに臣クンと俺の二人で組んでストリートアクトをすることになり、一緒に街へ繰り出した。
臣クンとやるのは多分数ヶ月ぶりだ。どんな内容にしようかと街を歩きながら意見を出し合う時間も楽しくて、心が躍る。
「俺っちがオバケって設定は?臣クンが俺っち見えないのをいい事に、メッチャちょっかい出すみたいな!」
「はは、面白そうだな。どんなちょっかい出すんだ?」
「後ろから肩チョンチョンってしたり」
「うん」
「背中ツーってやったり」
「あはは、かわいい」
「で、最後は俺っちが臣クンの首に手をかけて「気に入った…連れて行く」って囁いてジ・エンドッス!」
「…途端に怖いな…」
そんな風に話しながらこれからやるストリートアクトの内容をあらかた決めて、俺たちは人目につきやすい場所に到着した。今日は天鵞絨商店街の少し開けた場所、その一角だ。
二人で一緒に深呼吸して、役に入る。芝居を始めるとすぐに何人かの人が立ち止まった。俺たちのことを知っている人もチラホラいたみたいで、少し遠くから「伏見くんと七尾くんだ」「うそやだマジで」という会話も聞こえた。
オバケ役に身を投じて臣クンの背後に立つ。後ろからちょっかいを出して、時たま前に回り込んで変顔をしてみせたりする。お客サン達はクスクス笑って、それに混じって小さな黄色い悲鳴も聞こえた。
俺たちが一緒にいるところを見るのが大好きな人たちがいるって、俺は何となくだけど知っている。お客サンはいろんな見方で、いろんな種類の気持ちで俺たちを好きだと思ってくれてる。その一つ一つに寄り添いすぎないように、だけど全部を容認しながら振る舞う。それはだいぶ昔のミーティングで左京にぃから教えてもらったことだった。
「…なんだか肩が重いな…」
オバケの俺に気付かない臣クンが少し首を倒して自分の肩を揉む。俺は薄気味悪く笑って、臣クンの首に手をかけた。
「…」
臣クンが身震いする。臣クンの太い首を両手で掴んで、冷たい声でささやいた。
「…気に入った。お前を連れて行く」
お客サン達は一瞬シンとして、それから俺たちが頭を下げ「ありがとうございました」と声を揃えて言ったところで、慌てたように拍手をした。
最前列で観てくれていた人が「怖かった〜!」とビックリしたように言って、その隣にいた人が「コメディーと思ってたのに!」と息を吐きながら笑った。上手くオバケの役を演じられてたかな。俺は嬉しくなって、頭を上げてから「ひひ」と臣クンを見上げ小さく笑った。笑い返してくれる臣クンにもっと嬉しくなる。俺の心はスキップしそうになった。
その時だったんだ。針みたいな視線が自分に刺さっていることに気付いたのは。
一瞬息ができなくなって、体が固まった。驚いた。その鋭さと冷たさは、今俺が演じたオバケなんかより何倍も、何十倍もすごかった。
息が止まったまま、時間にしたらたった数秒だ。俺は視線を動かす。針の切っ先を向けられている方角へ顔を向ける。
…本当にオバケかと思ったんだ。オバケ役を演じていたから本物がやって来ちゃったのかって、その時は本気で考えていた。
「………」
視線の先に、じっと俺を見つめる一人の女の人がいた。…もうこれは、直感って言う以外に説明ができない。その人が誰なのか、俺はその一瞬ですぐに分かったのだ。
ゆわサンだ。絶対。間違いない。人混みの間から俺を、俺たちじゃなくて俺のことだけをじっと見つめている。瞬きもしないその目に捕まって、俺まで瞬きができなくなった。きっとこの時間だって一瞬だった筈だ。だけど、見つめ合ったその数秒は、俺にとって何分、何十分にも感じられた。
「……」
どうして俺は、ゆわサンだってすぐに分かったのか。視線が外れてからその理由にやっと気付いた。封筒と同じ水玉模様のシュシュ、それから継ぎ接ぎのウサギがプリントされた肩掛け鞄。どっちも考えて思い出すより先にフラッシュバックした。ゆわサンのトレードマークだ。きっと他でもない臣クンに気付いてもらう為に。自分のことを見つけてもらう為にだ。
ストリートアクトはそのメンツも勿論、やるかやらないかさえ突発的に決まることが多い。「今日◯◯でストリートアクトします」って前もって劇団ブログに書くこともあるけどそんなの稀だ、事前告知ゼロで始めることが殆どだ。
だから、分かってしまう。臣クンのストリートアクトを観る為に、臣クンに会う為にきっと毎日同じシュシュと鞄を身につけて、ゆわサンはこの場所に来る。
見つけてほしいんだ。気付いてほしいんだ。その為ならどんな労力だってきっと、些細なことに違いない。
やっと願いが叶ったその瞬間に、俺がいる。その瞬間に臣クンの誰より近くにいるのも、体に触れるのも、笑顔を交わし合うのも全部俺。自分じゃない。毎日積み上げた想いのその上に、自分じゃない誰かが当然のように笑ってて、平然とそこにいる。
「…太一?」
俺の顔を覗き込んできた臣クンに名前を呼ばれた。俺はハッとして、誤魔化すように慌てて笑った。
「…へへ。なんかオバケ役が新鮮で、ちょっとトリップしちゃったッス」
俺がそう言うと臣クンは安心したように笑って「はは。憑依されちまったか?」と言った。
それから二人で一緒にフライヤーを配り始める。その時にはもうゆわサンの姿はどこにもなくて、俺はさっき刺された視線の針を体から抜き取れないまま、何人ものお客サン達にフライヤーを配り続けた。
『臣くんこんにちは。この前はストリートアクトお疲れ様。臣くんの演技とっても良かったよ。思わず肩を揉んであげたくなっちゃった!(笑)私で良かったらいつでもマッサージするので気軽に連絡してね。なんちゃって(笑)
日々の疲れが取れるように、今回は入浴剤とアロマを一緒に贈るね。使ってくれたら嬉しいです。変な子に懐かれたりまとわりつかれたり、きっとあるんだろうなぁ。心配です。
何かと気苦労が絶えないとは思うけれど、あんまり無理はしないでね。いつもお疲れ様。大好きです。
from ゆゎ
℡ ◯◯◯-◯◯◯◯-◯◯◯◯
LIME @◯◯◯◯◯』
「……あー…」
手紙の文面を読んだ万チャンが、頭をかきながらそんな声を漏らす。水玉の便箋と継ぎ接ぎのウサギが届く度にその中身を秋組全員でチェックするのが、いつの間にか当たり前になってしまった。
「…つか、なに?この「肩を揉んであげたくなっちゃった」って」
万チャンが尋ねると、臣クンは「さあ…」と、本当に見当もつかないのか困惑した様子で答えた。
「…この前の、ストリートアクトッス」
俺が代わりに答える。臣クンは数秒後に「ああ」と閃いてみせた。…忘れちゃってたのかな。いや、違う。臣クンの心にはきっとゆわサンの手紙の内容が全然、入っていかないんだ。
俺が言えば思い出せるってことは、あの時のストリートアクトの記憶そのものを忘れてる訳じゃない。記憶はあるのに、ゆわサンの言ってることをそれと結び付けられない。ホントのホントに分かんないんだ。悪意も意図もなくて、ただ純粋に、この人の考えてることが臣クンはさっぱり分からない。
「俺っちと臣クンが一緒にストリートアクトして…その時はオバケに取り憑かれる臣クンっていう内容でやったんス。俺が臣クンのまわりウロチョロして、ちょっかい出して、纏わりついて」
「…じゃあなにか?ここに書いてある「変な子に懐かれたりまとわりつかれたり」ってのは、要は七尾のこと言ってるってことか?」
左京にぃがいつもより低い声で言った。俺は無言で頷く。十座サンが顔の周りにいっぱいはてなマークを浮かべて「は?」とこぼして、あーちゃんがポケットに手を突っ込んだまま、どこか冷めた目で手紙の文面を眺める。
秋組みんなの反応が…どうしてだろう、俺はその時辛かった。
みんなして見なくたっていいじゃん。だってゆわサンは臣クンに宛てて、臣クンただ一人に向けてこの手紙を書いたんじゃん。こんな、よってたかって、公開処刑みたいなことしなくたって、いいじゃん。
「…太一のことなのか…?」
信じられないといった顔で、臣クンが小さくこぼした。いつもは優しくて甘いその目元に、今は濃い影が差している。
「…変な子?太一が?…なんでそんなこと言うんだ、意味が分からない」
みるみる顔が歪んでいく臣クンに気付いて、万チャンが少し慌てながら「いや、つうかさ」と会話を本筋へ戻した。
「お前らのどっちか見てねえの?ストリートアクトだったら結構距離近かったんじゃね?」
臣クンは眉間にシワを寄せたまま首を横に振った。万チャンと左京にぃが今度は俺に視線を寄せる。俺は迷って、だけど臣クンと同じように首を横に振った。
「…特定できてんならこっちから動けんだけどな。分かんねえなら、対処のしようもねえか」
万チャンの言葉にすかさず臣クンが「でも」と異議を唱えた。
「放っておいたらエスカレートするかもしれない。太一のことをこんな風に言うなんて有り得ないだろ、おかしいだろ?俺たち喧嘩売られてるんじゃないのか?」
「ったく…すぐテメェは頭に血ぃのぼらせやがる…」
左京にぃがため息混じりにそう言ったけど、臣クンは言いながら段々腹が立ってきてしまったのか「だってこんなのどうかしてるでしょう」と、少し声を荒げて続けた。
…苦しい。苦しくて、こんなの嫌だ。臣クンの服の袖を軽く引っ張って、自分の中に渦巻く感情をどうにもできないまま、俺は絞り出すように声を出した。
「…喧嘩売られてるとか、言わないで」
「…太一?」
「どうかしてるとか言わないで、臣クン」
「…」
ねえ、臣クンが好きなんだよ。この人はホントにホントに臣クンが好きなんだよ。
俺のこと嫌だって思った筈だ。当たり前だそんなの、だってあんなにべたべた体に触ったんだもん。あんなに臣クンの笑顔を独り占めしてたんだもん。分かるよ、俺だって大好きな臣クンが俺以外の人にそうしてたら嫌で嫌でたまらない。なんでこっち向いてくれないのって、隣にいるその人なんなのって、思うよ。絶対絶対思うんだよ。
「…ごめん。ちょっと言葉が荒くなった」
「…ううん」
結局、今回も具体的な解決案は出てこなかった。再び封筒にしまわれた便箋も、そしてアロマと入浴剤も袋から取り出されることはこれから先一度だってない。臣クンに使われないまま、想いは届かないまま、ゴミになる。
「…ねえ臣クン。アロマとか入浴剤とかはさ、食べ物じゃないしさ、その…使っても良かったんじゃないッスか?」
その夜、電気を消した部屋の天井を見上げながら、ベッドの中でぼそりと臣クンに問いかけた。
「…うん、いや…そうかな。そうかもしれないけど」
「なんか変なもの入ってそうで怖い?」
ロフトベッドの柵の向こうから臣クンが、言葉を選びながらゆっくりと答えた。
「…いや…と言うより、太一のことを何であんな言葉で書いたのかって…その…嫌だなって、思って。…だから使う気になれなかった」
「…そっか」
臣クンがそう感じてくれるのは嬉しいし、ありがたいと思う。だけどそう思う自分の気持ちと同じだけ、じゃあゆわサンはどれだけ悲しいだろうって、どうしても考えてしまう。
「…太一は…」
「うん?」
「嫌じゃないのか?自分のことをあんな風に書かれて」
「…」
よく、分からない。どうなんだろう。これが例えば自分宛の手紙だったとして、その内容の中に「みっともない演技しないで」とか「他の劇団員に迷惑」とか、そんなことが書かれていたらきっと傷付くだろう。悲しくて辛くて、夜眠れなくなるかもしれない。
だけど俺は、ゆわサンの手紙には嫌悪感を感じなかった。嫌だなって気持ちより「ごめんね」の気持ちが、止めどなく湧いてくる。
「…俺っちのオバケ役、全然まだまだだったのかもしれない」
「うん?」
「演技が下手過ぎて、観てるの耐えられなかったのかも」
そう言うと、柵の向こうから手が伸びてきて頭を優しく撫でられた。
「…本当におまえは。何でそうやって全部自分に課せるんだ」
臣クンの優しい声が胸に滲みて、滲みていく度に痛い。痛いと感じてしまう自分が嫌で、だから俺は臣クンの言葉に「へへ」と小さく笑い返すことしかできなかった。
ある日のことだ。俺は談話室のソファーでお客サンからの公演アンケートの束を読んでいた。
疲れが溜まっていたのか気付いたらそのまま寝てしまっていたらしい。よく覚えてないけど、どうやらその後に寝こけてしまった俺を臣クンが抱っこして、ベッドまで運んでくれてたみたいだった。
それを知ったのは数日後、カズくんがインステで俺を抱える臣クンの写真をアップしているのを見た時だ。寝ている俺をお姫様抱っこしている臣クンが、カメラ目線で困ったように笑っている写真だ。「#力持ちおみみ」「#仲良し105」「#おつかれたいっちゃん」そんなタグが写真と一緒に添えられていた。
それは誰にとっても日常茶飯事で、事件でも何でもないし日々の中に転がってる見慣れた一コマに過ぎない。だけどそれを見た瞬間、俺は冷や汗をかいた。
ゆわサン。ゆわサンがこれを見たらどう思うだろう。
もちろん俺をベッドまで運んでくれた臣クンにもカズくんにも悪気はない。俺だってゆわサンの存在を知る前だったら、この投稿を嬉しいとさえ感じていただろう。自分のアカウントから「カズくんいつの間に!」とか「恥ずかしいッス〜」とか「臣クンありがとう」とか、そんな返信をするくらいのことはしていたかもしれない。
投稿された写真に沢山ついた「ええな!」の数にも内心慌てた。きっとゆわサンは、全部見ている。見ながらどんなことを思っただろう、泣きたくなってしまったんじゃないか。いや、泣いてるかもしれない。写真の中の寝ている俺を呪いながら、今、この瞬間にも、泣いているかもしれないんだ。
そんな気持ちを抱えながら、その日は一日中一人でハラハラしていた。誰にも言わない。言えるわけない。言ったところで「太一が気にすることじゃないだろ」って返されるだけだ。それどころか逆に気遣われてしまうかもしれない。「怖いか?」って、俺が心配されてしまうかもしれないのだ。それで誰かがゆわサンに対して牽制とか忠告とか、そんな行動を取ってしまうのが嫌だった。
「そろそろ電気消そうか」
二人でベッドに上がって、臣クンが電気の紐に手を伸ばす。
「うん」
俺は枕元の充電コードをスマホに挿して頷いた。
「おやすみ太一」
「うん、おやすみ臣クン」
暗い部屋の中、眠気は一向に訪れなかった。臣クンの穏やかな寝息が聞こえてきたので俺はこっそりスマホを操作し始める。
カズくんのインステを見返す。例の投稿に寄せられた「ええな!」はまた増えていて、ファンの人からのコメントもいくつか送られていた。
「秋組仲良しですね!」「一成くんの激写シリーズ大好き〜」「他のみんなの仲良し写真も待ってます」どれもホントだったら嬉しいコメントだ。嬉しい筈なのに。
その時ふと、自分のアカウントに通知が来ていることに気付いた。通知内容を確認する。知らないアカウントからメッセージが届いているみたいだ。
メッセージを開いて、その内容に心臓が一瞬、ひび割れた氷のように亀裂を走らせた。俺が予感していたことが、どうしよう。現実になってしまった。
『あの、あなたがどういうつもりかは知らないんですけど、あまり臣くんに負担をかけるのはやめてもらえませんか?彼も毎日大変だし疲れていると思うので。一緒に生活してれば分かりますよね。そういうの分からないタイプですか?だとしたらもうちょっと自分から理解する努力をしてほしいです。臣くんは優しいので自分からは迷惑とかは言わないと思いますが。見ていてちょっと目に余るので。それでは。』
アカウント名は違うけれど、きっとゆわサンだと思った。俺への苛立ちを隠しもしないその文面を読んで、この人の行き場のない悔しさを強く感じた。持っていく場所がないんだ、だけど自分の中に留めておくのはもう苦しくて、だからこうやって誰かに投げる。
…俺は、知ってる。悔しいとか悲しいとか苦しいとか、そういう感情はどんどん膨らんで形を変えて、簡単に自分自身を乗っ取ってしまうことを。…知ってるよ、だって俺もそうだったんだ。俺も、そうだったんだよ。
幸チャンの作った衣装を裂いたことをまた思い出した。俺は、頭がおかしかった。絶対忘れない。俺の中には悪魔がいて、こびり付くように住み着いていて、いつだって俺を乗っ取ろうと隙を窺っている。そのことを俺は忘れちゃいけない。
メッセージの返信を、文面に悩みながら俺はした。一人のお客さん相手に個別で返信をするなんてきっと正しくないんだろう。わかってる、だけど俺はそれでも送信ボタンをタップした。
反論する訳ではなく、気持ちが分かると伝えることも避けて。どうしたらこの人の悔しさが少しでも和らぐだろう。それだけを考えて、俺は返信メッセージを送った。
『メッセージありがとうございます。これからは気をつけたいと思います。伝えてくれてありがとうございました。』
悩んだ挙句打ち込んだ文章はずいぶん短くなってしまった。だって余計な言葉を付け足してこれ以上嫌な気持ちにさせたくない。俺が何を言ったって、きっと腹が立つだろう。自分が欲しくて仕方ないものを平然と手に入れてる。立ちたいその場所に何食わぬ顔で立っている。その誰かの背中を見つめるしかない時の気持ちを、どうしようもない気持ちを、だって俺は、知ってるから。
数分後、返信がすぐに返ってきた。俺は緊張しながらそのメッセージも開く。
『思うだけじゃなくて実行に移してほしいのですが。具体的な話が見えてきません。ありがとうではなくまずは謝罪からではないですか?』
どうしよう、どうしたら良いんだろう。俺なんかの言葉ではこの人が今抱えている感情を和らげることはできないのかもしれない。慌てながら、俺はだけどまた言葉をじっくり選んで返事を返した。
『すみませんでした。これからはもう少し相手の気持ちを考えられるようになりたいと思います。』
送信後、さっきよりもっと早く返信が返ってくる。
『らちがあかないですね(笑)こちらの言っていることを正しく理解されてないように思いますが。この前のストリートアクトからもあなたの理解力の低さなどは感じましたが。』
『ごめんなさい。しっかり考えて、理解していきたいと思います。』
『臣くんがかわいそうです。あなたといたら疲れてしまうんじゃないですか?距離をとってあげてほしいです。』
『すみません。そういう部分もあるかもしれないです。考えてみます。』
『甘えてますよね?臣くん優しいから甘えたくなる気持ちは分かりますが。見ていて恥ずかしいので、改善してください。』
『すみませんでした。そうかもしれないです。改善しようと思います。』
『続くようならあなたには退団してほしいとも思いますが。退団の予定とかないんですか?』
「…」
頭を下げることもごめんなさいと繰り返すことも、いくらだってする。それでゆわサンの気が済むなら。だけど嘘は吐きたくなかった。その場しのぎの嘘を吐かれたと知ったら、ゆわサンはきっと傷付くだろう。傷を付けたくない。
だってゆわサンはきっともう、これ以上ないくらい、ボロボロだ。
『退団はしないです。これからも退団の予定はないです。』
その言葉の後、数分間ゆわサンからの返信はなかった。液晶画面の中の沈黙に俺は息を呑む。それから更に五分くらい後だろうか、ようやくゆわサンからの返信が来た。
『話が通じないようですね(笑)もういいです。』
それきりだった。いくら待ってももうゆわサンからのメッセージは来なくて、俺も何度か途中まで文章を打ったけど「もういい」の字面を見て、送信ボタンをタップすることをやめた。
間違ったかもしれない。もっといい言葉があったかもしれない。心臓をハラハラさせながら、俺は真っ暗な視界をただ見つめ、グルグルといつまでも同じことを考えていた。
結局、夜が明けるまで考えても何にも思いつかなくて、朝の六時頃やっと訪れた睡魔に俺は負け、一時間後には起きなきゃいけないのに重たい瞼を下ろしてしまった。
「太一さん、夜更かししただろ」
朝ご飯の時、向かいに座っていたあーちゃんにそう言われた。なんで分かるのかな。俺は笑いながら「え〜?」と首を傾げる。
「目の下、クマ。肌のコンディションも悪い」
サラダを頬張りながら、あーちゃんは少しの厳しさを含ませて言った。…すごいなあーちゃん、肌状態から推理して事件を解決する探偵になれるかもしれない。名付けて肌探偵莇。
臣クンはもう朝食を食べ終えて、今は部屋に戻って出掛ける支度をしている。今日は朝から用事があるみたいだ。
「あーちゃん、スクランブルエッグ食べた?今日のやつ超美味しいよ」
「何時まで起きてたの太一さん」
「…」
ジロリと睨まれ、小さな声で「二時くらいかな…」と答える。話題を逸らす作戦は見事に空振ってしまった。
「…ったく…」
溜息混じりにあーちゃんがサラダを食べ終えたところで、臣クンが談話室にやって来た。支度が終わったんだろう、臣クンは厚めの上着を羽織り小脇にはヘルメットを抱えて「太一おはよう」と優しく笑った。
「起きれたんだな。さっきちょっと辛そうな顔で寝てたけど、大丈夫か?」
「おはよう。へへ、だいじょぶッスよ〜!」
「臣さん、太一さんが夜更かししないようにちゃんと言ってやって」
あーちゃんが俺たちの会話に入る。臣クンはあーちゃんにも優しく笑って「うん」と頷いた。
「太一、こら」
「ごめんなさいッス」
「はは、よし」
「いや「よし」じゃなくて…はー…」
俺たちの短すぎるやりとりにあーちゃんがまたため息を吐く。そこまでひっくるめて全部臣クンの予想通りだったんだろう。片肘をついて呆れ顔をするあーちゃんの頭を、臣クンは乱雑に撫でた。
「それじゃ、俺は行ってくるよ。食器、悪いけど洗っておいてくれるか」
「うん。臣クン今日はどこ行くんスか?」
俺が尋ねると臣クンは嬉しそうに「リョウ達とさ」と答えた。
「久しぶりに走ってくるよ。昔世話になってた店のさ、マスターが還暦迎えたらしくて。ヴォルフの奴ら何人かでお祝いしに行こうかって」
「ヴォルフ!激アツッスね!」
「あはは、うん。激アツだ」
それから臣クンは俺の頭も撫でて談話室を後にした。残された俺とあーちゃんは、またゆっくりと朝ご飯を食べ始める。
「…太一さんさ」
あーちゃんが、ポツリと俺の名前を呼んだ。そのタイミング、切り出し方で、ああきっと臣クンがいなくなるのを待っていたんだろうなと分かった。…だから少し、憂鬱になる。
「あの手紙の人のこと、気になってんじゃないの」
ほら、やっぱり。一体どこからこぼれ落ちているのか、俺の頭の内をあーちゃんは簡単に当ててしまう。
「…へへ。うん?」
「…あんま深入りしない方がいいぜ」
「うん分かってる。…大丈夫だよ」
「説得力全然ねえよ、太一さん」
「やだな〜、信じてよあーちゃん!」
「…万里さんに前、言われたから」
あーちゃんは何かを思い返すように、少し遠くを見つめながら言った。
「一人で煮詰めるの、あんたの癖なんだろ」
「…あはは。えー…?」
俯いてしまったから、今向かいの席であーちゃんがどんな顔をしているのか分からない。そのまま何も答えないでいると、あーちゃんが食器を重ねて席を立つ音が響いた。
「忠告はした。ごちそうさま」
あーちゃんがシンクへ食器を下げる姿をそっと見ながら、俺はテーブルの下で両手の親指を向かい合わせて、グルグルと回した。
…どうしてかな。どこから漏れてしまうんだろう。やだな、多分昔より俺は嘘が下手くそになった。
下手くそな自分が嫌で、沈んだ気持ちのまま残りの朝ご飯を平らげる。食べるのがいつもより十分も長くかかった。…やだな。
一人で部屋にいても気分が晴れないから、外へ出かけることにした。久しぶりにスケボーを持って、近くの公園で練習をする。スケボーもちょっと下手になってて落ち込んだ。勘を取り戻すのに二時間かかって、最初の休憩を入れる頃には体に汗が滲んでいた。自販機で缶のコーラを買って、数口ぶんを喉に流し込む。
「…天気悪…」
厚い雲が張った空を見上げた。どんより重たい色が自分の心を映しているみたいで、余計に気が滅入る。もう二時間くらいしたら帰ろうかな。商店街寄って、なんかお菓子でも買って、居合わせた誰かとテレビでも観ながら一緒につまんで。
一回息を吐いて、もう一度ボードに片足を乗せたその時だった。公園の入り口に誰かが突っ立ってこちらを見ていることに気付いた。
「…」
偶然なのか、それとも俺を探していたのかは分からない。喉がゴクリと鳴って、汗が一気に氷のように冷たくなった。
ゆわサンが、そこに立っていた。
「……」
体が、動かない。ゆわサンの目が俺の全身を、まるで金縛りのように縛る。小さく息を吸ったら喉が「ヒュ」と風邪の時のような音を出した。ゆわサンは何も言わないまま、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「……七尾太一さん、ですよね」
ゆわさんの声を聞いたのはそれが初めてだった。想像より高くて、凄く細い。少しつついただけで折れてしまいそうな、それは小さくて頼りない声だった。
「…え、あ…そ、そうです」
心臓が、キンキンに冷えていた。息を吸う度に薄い氷の膜が割れて「ピキ」という音が響くような気がした。
「…スケートボードされてるんですか」
「…は、はい」
「…へえ…」
ゆわサンの目は虚ろに、俺の足元のボードを見つめている。見つめられるとその先が動かなくなる。だから俺はもう、ここから動けない。
「見ましたよ、この前の三好くんのインステの写真」
「…」
「先日されてたストリートアクトも。…お疲れ様でした」
「…」
「臣くんと仲良しなんですね。同室ですもんね。良かったですね」
「…」
どんな相槌も、間違っている。ゆわサンは今一つ一つを並び立てて、並んだ沢山のものを俺に見せる為に話している。俺は並んでいくその様子を黙って見るしか、きっとしてはいけない。
「…疲れませんかね。臣くん。毎日きっと忙しいでしょう?忙しいのにあなたのお世話まで焼いて、くたびれちゃいますよね」
ゆわサンは笑いながら長い前髪を一度かきあげて、それから俺の目をじっと見つめた。
「…見ていて辛いので、改善してもらえませんか」
ゆわサンの望みは、俺が臣クンの側から消えること。その望みを叶えられるのはこの世界で俺だけだ。…だから、胸が苦しい。鉛を飲んだみたいに苦しい。だって俺はその望みを聞けない。叶えられない。
ゆわサンの気持ちがこんなに分かるのに、まるで目の前にいるのは鏡の向こうの自分なんじゃないかと思うのに、この人と俺はこんなにも、似ているのに。どうにもしてあげられない。
少し前の自分だったら、もしかしたらここで本当に渡していたかもしれない。この場所を俺より必要な誰かがいるんならって、こんな俺には相応しくないしなって。
俺は冴えないから。大好きなものを汚してしまえる奴だから。…俺は、汚いから。ガタガタの足元はそうやって、いつだって俺に諦める理由を寄越した。資格なんか、権利なんか、お前なんかに本当はないだろって、もう一人の自分の声がいつも頭の中に、聞こえてた。
だけどできない。…もうできないんだ。ゆわサン、俺ね、臣クンの側にいられるこの毎日を、もう誰にも明け渡すことができない。
臣クンに助けてもらった。助けてもらったその土台の上に立っている。もう積み上げちゃったんだ。戻れないんだ。何一つ、手放せないんだよ。
「…ごめんなさい」
口からこぼれた一言が、俺の全てだった。叶えられない。譲るなんてできない。誰にも渡せない。本当にごめんなさい。
「…いや、ごめんなさいじゃなくて」
ゆわサンは半笑いでそう言った。ああ、俺はそれも知っている。悲しい時、叶わない時に笑いがこぼれてしまうことを、こんなにも知っている。
「ごめんなさい、できないッス。ごめんなさい」
「いや…あは。意味が分からないです」
「俺には、できないッス。…ごめんなさい」
「いや、いやいや、あの、臣くんも言ってましたから。疲れちゃうって」
それはきっとゆわサンの口からついて出た嘘だった。苦しい時に嘘を吐いてしまう気持ちも知ってる。吐いてしまった後、泣きたくなってしまうことも。嘘は、吐けば吐くほど自分の中に溜まっていく。どこにも流れていってはくれない。体の中が汚れていくんた。内側が、黒ずんでいくんだ。俺はそれを、何度も何度も見てきたよ。
「…」
本当の気持ちを伝えることしかできない。ゆわサンがこれ以上嘘を積み上げてしまわないように俺ができることは、俺が、一つも嘘を吐かないことだけだ。
「…臣クンが、大切なんだ」
「………はぁ?」
聞いて。受け取らなくていいから。
「臣クンがいなきゃダメなんス。もう誰にもこの場所をあげられない。…この場所を他の誰かが欲しいって思ってるかもしれなくても、俺は、ここを譲れない」
「……」
「誰にも…ゆわサンにも、あげられない。本当にごめんなさい」
ゴミ箱に捨てられた手作りマドレーヌ、釣り上がった文字で書かれた「大好きです」の文字。気づかれないままの水玉模様のシュシュ、継ぎ接ぎだらけのウサギのキャラクター。それらは、俺にとってのウルトラヨーヨーと同じだ。徹夜漬けで勉強しても52点だった答案用紙と同じだ。エキストラしか回ってこなくても受け続けた子役オーディションと同じだ。苦しくて辛くて、いつも俯きながら誰かの足元をじっと呪うように見つめていた、あの頃の俺そのものだ。
泣きそうになって、唇を思い切り噛み締めた。泣いたらダメだ。そんなの、ゆわサンはきっと虫酸が走るだろう。
「……なんなの、マジで…」
顔を上げると、ゆわサンは瞬きもせず、目を見開いて俺を見ていた。信じられないものでも見ているみたいにして、小首を傾げながら俺だけを見ていた。
「違うだろうが…だから…そうじゃないでしょ、臣くんが嫌がってるんだよ、分かれよ」
声は相変わらず今にも折れそうなくらい弱々しいのに、見開かれたままの目があまりに冷たくてゾッとする。ゆわサンは言いながら少しずつ、俺の方へにじり寄ってきた。
「おま…お前の気持ちを…聞いてるんじゃないんだよ、臣くんが…臣くんが!嫌だって言ってんの!」
「臣クンがいないとこで…臣クンに直接言われた訳じゃない言葉をもらっても俺…受け取れない」
「なんなんだよ!なに、なに…?は?何言ってんの!?」
ゆわサンの震える口元が、泳いでしまう視線が、痛い。痛くてたまらない。まち針を刺された針山みたいに、俺の心はもう小さな穴だらけになった。
もう嘘を吐かないで。俺相手に、俺なんかに、吐かなくていいよ。
「…ゆわサン、お願い」
「呼ばないで?あ、あんたに、あんたに呼んでもらう為に、いつも…いつも書いてたんじゃないから!やめて!?」
「…」
心臓があんまり痛くて、だから顔に出てしまった。食い縛る俺を見て、ゆわサンはますます激昂してしまう。手を震わせながら「やめてってば!」という声が公園中に響いた。
「なに…?なんなの…同情してんの?やめてよその顔で見ないで!!」
「ゆわサン、違う、俺は」
ゆわサン、違うよ、俺たちは。
…一緒なんだ。
俺がそれを声にする前に、ゆわサンは震える手で鞄の中からあるものを取り出した。ピンク色の柄の、その先が小さく光る。それはカッターだった。俺も握った、あの時、震える手で握った。裁ちばさみを握りしめたあの時の自分がフラッシュバックする。だめだ、やめて、お願いやめて。
ゆわサンが自分の片方の袖を捲って手首を晒すから、俺は反射的に飛びかかりそれを阻止した。一体何本だろう。数えられないくらいの線が、ゆわサンの手首に走っていた。
「だめっ!!」
カッターを持ったゆわサンの手を掴んで必死で止める。ゆわサンの力の方が俺より弱くて、だからカッターの刃はすんでのところで留まっていた。でもゆわサンはやめようとしない。自分の手首目掛けてその切っ先を、めり込ませようとし続けている。
「だめだよ、だめ、やめて、ゆわサンっ、ゆわサン!」
「離して、やだ、やだやだやだやだっ、離して、離してよおおぉ」
「やめて、切らないで、切らないでゆわサン、お願いやめて!」
「やだあああぁ切る、切る、切るうぅっ」
その時だった。バイクのエンジン音が鳴り響いて、公園の入り口前で急に止まる。ゆわサンと俺がそちらに振り向いたと同時に、フルフェイスのメットを被ったままの誰かがこちらに向かって全力疾走してきた。
「太一!!」
突然現れたのは臣クンだった。臣クンはゆわサンの手を乱暴に掴んで、すぐにカッターを取り上げ投げ捨てた。
「…てめぇ…」
違う、まって、まって臣クン、違うんだ。心の中で必死に叫ぶのに、俺は気が動転していて咄嗟に声を出せなかった。ゆわサンも同じだ、事態を飲み込めないまま、ただメットを被った臣クンを瞬きもせず見上げている。
「太一に何しようとしてた!!あぁ!?」
「…ぅ、や…ちが、ちがうの…」
ゆわサンの、糸みたいに細い声が臣クンの怒声に断ち切られる。
「うるせえ!!殺されてぇのか!?」
臣クンは俺の体を引き寄せて自分の後ろに押しやると、メットを外してそれを地面に叩きつけた。俺もゆわサンもその瞬間に怖くて肩が跳ねた。メットが、土の地面の上でグラグラと揺れている。
「太一に触んじゃねえ!!」
「や、やだ、ちがう、ちがうぅ…」
「黙れ…っ…二度と、太一の前に現れるな…」
臣クンの握り拳が震えていた。怒りで、臣クンが震えている。怖くて、どうしていいか分からなくて、声が出ない。
「…ちがうの、わたし…おみく、おみくん…お、怒らないで…やだぁ…」
「……」
臣クンはゆらりと一歩、ゆわサンに歩み寄って胸倉あたりを雑に掴んだ。黒いグローブに掴まれたゆわサンが、苦しそうに顔を歪める。
「…虫唾が走んだよ、呼ぶな」
言わないで、そんなこと。やめて臣クンお願い。なんでだ。さっきから何でひとつも、声になってくれないんだ。
「消えろ今すぐ。…次はねえからな」
「おみく…や、やだぁ…」
「失せろって言ってんだ!!」
臣クンは叫んで、それからゆわサンの体を乱暴に突き放した。落としたメットを拾って俺の腕を強引に引く。華奢な体がよろめいてゆわサンが地べたに尻もちをつく様を、臣クンに腕を引かれながら俺は見た。そのまま座り込んで動かなくなるゆわサンの後ろ姿を、俺はずっと、声が出ないまま。
臣クンが俺を強引にバイクの後ろに乗せて、自分のメットを俺の頭に被らせる。臣クンの目は赤かった。いつもの優しい飴玉みたいな色じゃない。俺は息を呑んだ。何も言わないまま、ゆわサンには目もくれずに臣クンはバイクに跨ってエンジンをかける。俺のボードとゆわサンが公園に取り残されたまま、バイクは走った。置き去りにして、走り抜けた。
寮の駐車場に着き、臣クンがバイクを停める。
「…」
ハンドルを握ったまま、臣クンは無言だった。俺はかける言葉を見つけられず、そそくさと降りてメットを外した。
「…手紙の女か」
「……」
臣クンが俯きながらボソリと言った。俺は黙ってゆっくり頷く。
「……」
バイクから降りて、臣クンが俺の両頬に手を添える。痛みに耐えるような、苦痛に喘ぐような顔をして俺を見つめた後、力を込めて臣クンは俺を抱きしめた。
「…ごめんな」
「……」
「怖かったな。俺のせいだ。ごめん太一、ごめん」
「……っ…」
臣クンに抱きしめられながら、俺の両眼から涙が、ジワジワと溢れる。違う、違うんだよ。怖かったんじゃない。臣クンのせいじゃない。なんでよ、お願い、声になってよ。
「…ごめんな、ごめん…」
「…ぅぇ……」
ねえ臣クン。俺はホントにホントに、臣クンのことが好きなんだ。臣クンの好きなところを百個言えって言われたら千個言えるくらい、どれだけ言葉にしても言い尽くせないくらい、ホントに、大好きなんだ。
ゆわサンもきっとそうだよ。臣クンのことが好きで仕方ないんだ。臣クンを好きな俺が、臣クンを好きなゆわサンの気持ちを分からない訳ない。
苦しいよ、痛いよ、嫌だよ、分かるよ、ねえ俺には分かるよ、ゆわサンは泣いている。一人ぼっちできっと、今、泣き崩れている。
「…う、うぇ…っ…」
「太一、太一ごめん、ごめんな…」
背中を撫でられながら俺は泣いた。臣クンの腕の中で、しゃがみ込むゆわサンの後ろ姿を思い出しながら、ずっと泣いた。
その夜、秋組でミーティングを開いた。臣クンがみんなにも話そうと言ったからだ。俺は気が重かったけれど、カッターを見られたのが決定打になったんだろう。やめとこうよ、変に心配かけちゃうよと首を横に振っても、もうそんなこと言ってられる状況じゃないだろと返されてしまった。
「…そうか」
臣クンがさっきの出来事を話し終えた後、腕を組んでそう相槌したのは左京にぃだった。沈黙が長い。事態は俺が思うより何倍も深刻なものになってしまった。
「……」
あーちゃんが黙ってチラリと俺を見る。今朝忠告したのにって思っているのかもしれない。無言が余計苦しかった。
「また、太一を狙って姿を現すかもしれない。取り返しのつかない事になったら俺は」
「…まあ、そうだな。たしかに」
臣クンの言葉に万チャンが頷く。
「とにかくしばらくは、一人で行動しない方がいいんじゃねえか、太一」
十座サンが万チャンの奥隣から顔を覗かせ、俺にそう言った。
「…そうだよな、俺もそう思う。太一、出かける時は俺とか、俺がいない時は誰かと一緒に行動してほしい」
臣クンが俺の肩を宥めるように撫でて言った。心配してくれている。俺はみんなに、心配してもらっている。
だけど苦しかった。苦しいのが消えない。今俺がこうしてみんなに守ってもらっている間、じゃあゆわサンの心は誰が、守るんだろう。
「…大丈夫だよ」
明るい声で、笑い飛ばすみたいに。心の中の台本にそう書き込んでセリフを吐くのに、この、下手くそ。口の端は引きつったようにしか持ち上がらない。
「もう大丈夫だからさ、へへ。…もう、この話やめないッスか」
俺が笑うと、左京にぃが「お前、ことの重大さを…」と口を挟んだ。だけど更にそれを遮ったのは臣クンだった。
「太一、笑うな」
「…」
「何かあってからじゃ遅いんだ、こんなの…犯罪だろ」
「…」
臣クンの目が、また少しだけ赤くなる。ゆわサンへの怒りが募っていくのを隣で感じる。…やめて、怒んないで。怒んないでよ臣クン。
「…はは。犯罪って、臣クン」
「笑うな。…頭がおかしいだろあんなの、だってあんな…」
「…おかしくない」
やめて。
「おかしいんだ。いい加減あんな奴を庇うな。…クソ、いっそ警察に突き出せば良かった」
「…ちがう…」
やめてお願い。
「…違わない。太一お前はっ、切られようとしてたんだぞ!」
「違うゆわサンは!!自分の手首を切ろうとしてたんだ!!」
堪えきれなくなって大声を上げた瞬間、秋組みんなのビックリしたような視線が自分に注がれたのが分かった。臣クンも驚いて目を丸くしている。
「…み、みんなには…分かんないよ…」
自分からこぼれていく言葉に、勝手に、涙が出てしまう。こんなことを泣きながら言うのは惨めだ。だけど言わないまま笑うのは苦しくて堪らないから、俺は両手を握りしめた。
「ひ、ひとりぼっちで…そうするしか出来なかった人の気持ちは…」
「…」
「みんなには、わかんない…っ…」
「……」
泣きじゃくる自分の声が、こんな風にしか言えない自分の口が、俺は嫌いだ。大嫌いだ。
「…し、失礼するッス」
頭を下げて、俺はその場から立ち去った。談話室を出て扉を閉めて、それから105号室へバタバタと駆け出す。
わかんないよ、みんなには。…違う、そんなことが言いたかったんじゃない。でもだったら何をどう言えばよかったんだろう。俺は今、どうして涙を止められないんだろう。
ゆわサンの一人ぼっちの後ろ姿と鏡合わせになった、自分の後ろ姿が頭の中に浮かぶ。自分のベッドに登って頭から布団をかぶって、俺は声を殺して泣いた。ゆわサンがあのまま公園で一人、手首を切って倒れていたらどうしよう。冷たくなっていたらどうしよう。怖いよ、嫌だよ、お願いだ切らないで。
いつまでもそうして枕に顔を埋めていたら、扉をノックする音が聞こえた。…臣クンだろうか。
「太一さん?」
「…」
扉の向こう側から聞こえたのはあーちゃんの声だった。俺は少し驚いて、返事をしないまま扉の外に視線を送った。
「…話を聞いてて思った、一個人の感想なんだけど」
あーちゃんはそれから「今聞く元気ある?」と俺に尋ねた。俺は頷けなくて、だから無言を貫いた。
「…」
「ないならまた今度でもいいけど」
「…」
あーちゃんが扉の向こうで俺の返事を待っている。だけど急かされることはなかった。俺は少し荒れた息をゆっくり直して、それから目元を乱暴に枕に擦り付けて涙を拭った。
「……聞くッス」
上体だけ起こして扉の方を見る。扉越しで良かった。泣き腫らした顔を見られるのは情けなくて、嫌だったから。
「さっきさ、太一さん言ったじゃん。みんなには分かんないって」
「…うん」
「まあ確かに、俺はよく分かんねえかも。臣さんの言ってたことがもっともなんじゃねって思ったし」
「……うん」
あーちゃんが言おうとしていることを予想して、目線が下へ落っこちる。だから太一さんの言ったことは変だよ撤回しなよ。そんな言葉を伝えに来たんだろうか。
「…でも、だからさ、太一さんにだけ分かることがあるんなら、太一さんはそれを大事にしとけば?」
「…」
予想していた言葉と似ても似つかない内容に、俺は驚いて顔を上げた。
「…大事なことなんだろ。多分。…なんとなく聞いててそう思っただけ」
「…うん…」
こじ開けようとしない。あーちゃんは俺たちの間にある扉を無理やり開いて、中を暴こうとはしない。その優しさに救われた。ありがとうと言いたかったのに、俺の喉からこぼれた声は凄く掠れていて、向こう側にいるあーちゃんに結局届かないままだ。
「…臣さんの気持ちも、多分臣さんにしか分かんないんじゃね」
「…うん、そうだね…そうだ」
「全部おんなじだけ大事なんじゃないの。分かる分かんないは別で」
「…あーちゃん、すごいね」
「ん?」
「なんでいろんなことが全部ちゃんと見えるの?」
純粋に不思議だった。まるで少し上から俺たちを映す定点カメラみたいだ。あーちゃんは物事を冷静に捉える。でもそれだけじゃない。淡々とした中に、ぬくもりがちゃんとある。
俺の質問にあーちゃんは「そう?」と言って少しだけ笑った。
「ちゃんと見えてるかどうかは知らねえけど。でも見てんのは結構好きかも」
「…なんかやらしいね」
「は!?」
「あはは」
扉越しでも分かる、顔真っ赤にして目を見開いて、今きっとこっちを思い切り睨んでる。想像したらちょっと笑えて、笑えたことに少しほっとした。
その日の夜はもう、他に誰とも会うことがなかった。晩御飯ができたことを知らせに来る人も誰も居ない。多分あーちゃんがみんなに上手いこと言ってくれたんだろう。消灯時間の少し前くらいになったら臣クンが部屋に戻ってくるかもしれないと思っていたけど、それもなかった。LIMEでの連絡も一切ないまま、時計の針が日付を跨ぐ。臣クンが何も言わないまま一晩部屋を空けるのは、多分それが、初めてだった。
翌朝、目を覚ましたらもう朝の10時を過ぎていた。慌てて起き上がり臣クンのベッドを確認するけど、やっぱりそこには臣クンの姿はなかった。自分が何時に眠ったのか上手く思い出せない。臣クンはあの後部屋に戻ってきたんだろうか。
夜の記憶を遡りながら扉を開けると、視界一面に洗濯物の衣類やシーツが風に揺れている光景が広がった。そうか、昨日は天気が良くなかったから今日まとめて干しているんだ。
柔軟材のいい匂いの中を、空を見上げながら進んだ。今日の寮内の予定はどんなだったっけ。確か夕方までは何にもなかったよな。
上を見ながら歩いていたのがいけなかった。足元に置かれていた洗濯物カゴに俺は全然気付かなくて、あ、転ぶと思った時にはもう体が倒れて、派手な音と共に地面に打ち付けられていた。
「…いって…」
転んだ時ぶつけたんだろう、右ひざに割と派手なかすり傷ができてしまった。砂利と血が混じったその場所がズキズキと痛む。談話室行ったら最初に救急箱借りなくちゃ。やだな、誰とも出くわさないといいけど。その場にしゃがみ込んで傷口の砂利を払っていたら、干された洗濯物の向こう側から誰かが駆け寄ってきた。
「悪い!カゴをこんな所に置いちまってっ…」
真っ白なシーツの向こうから現れたのは臣クンだった。臣クンは俺を見下ろし、一瞬だけ声を失ったように見えたけどすぐに我に帰って俺の向かいにしゃがんだ。
「…悪い。カゴをそこに置いてたの俺なんだ」
「…う、ううん、ごめん俺も、上見ながら歩いてたから」
「待っててくれ。救急箱持ってくるから」
臣クンはそう言うと急いで立ち上がり、談話室へ向かおうとした。
「あの、平気!俺っち自分で…」
「いいから!」
そうして臣クンは談話室へ駆け出して行ってしまった。追いかけることもできなくて、仕方なく俺はその場から立ち上がる。…う、足首が予想外に結構痛い。転んだ時変な方向に曲げちゃったんだ。俺はため息をつきながら近くのベンチに座った。なんだかいいとこなしだ。
程なくして臣クンが救急箱と一緒に戻ってきた。ベンチに座る俺の隣に臣クンも座って、心配そうに俺の膝を覗き込む。
「消毒するよ。膝、立てられるか?」
「…消毒、しなきゃだめ?」
「…ああ。俺は、した方が良いと思うが…」
消毒とか注射とか、これから痛いのがやってくるぞって類のやつが俺はちょっと苦手だ。来てしまえば案外痛くないのに、その瞬間までが怖くて嫌なのだ。痛みを予告されるのは、どうしても慣れない。
両目を固く瞑って、しかもその上から手のひらで頑丈に蓋をして心の準備をする。
「…いいよ」
「…ああ、うん。じゃあ…」
「よ、予告なしで突然やってね…!」
「…」
俺がそう言うと臣クンは小さく「はは」と笑った。視界を厳重に塞いでいるから臣クンの笑った顔が見えない。…ああ、今見たかったな。見たかったよ臣クン。俺っちバカだ。
「よし。3、2、1」
「だから!予告しないでってば!」
「…って言ったら行くからな」
「古典的な意地悪やめて!」
手も瞼も全部外して臣クンを睨むと臣クンがもう一度あははと笑って、そして俺を見つめて笑いながら消毒をサッと膝に吹きかけた。痛みの頂点は一瞬だった。あとはズキズキと、微かに痛むだけだ。
「よし消毒終わり」
「ひょ、ひょえ…手練ッス…」
「あはは」
その後はちょっと大げさなガーゼとテープで手当てしてもらった。この手当ての跡を見られたら余計心配されるような気がしなくもないけど、臣クンが満足そうな顔をしていたので、俺は黙っておくことにした。
「太一は怖がりだな」
臣クンが救急箱の蓋に付いた鍵をかけながらそう言うので、俺は「そんなことはないッス、全く」と返した。
「予告されたら臣クンだって怖いでしょ?」
「…うん。いや、どうかな…」
「来る寸前までが一番怖いんス。緊張するでしょ?」
「…うーん、俺は…」
臣クンは困ったように笑って、それから静かに目を閉じた。
「…突然なのも、怖いよ」
「…」
「心臓が止まるよ。…突然も、俺は怖い」
「…そか…」
ああきっとまた、下手なことを言った。そう思った。どうしてやることなすこと全部、俺はこんなに下手なんだろう。
「…太一」
臣クンが膝の間で両手の指を緩く絡めながら、俺の名前を呼ぶ。昨日の話が始まるのだと分かった。だから俺も臣クンと同じように、自分の足元に視線を落とす。
「俺には、分からないことがいっぱいあるって、分かってるよ」
「…」
「…だけど、俺は…」
臣クンはそう言って、もっと下に俯いてしまった。心臓が今にも張り裂けそうだ。臣クンの肩が、だって、震えてるから。
「…お前に何かあったら…怖くて、仕方ない…」
片手で目元を隠して、臣クンが小さな声でそう言った。
臣クン、俺はバカだ。分からないことだらけなのは俺の方だ。俺だって分からない。今隣で肩を震わせている臣クンの恐怖が、その大きさが、俺なんかに分かるわけがない。
公園であの瞬間を目にした時、臣クンはどれだけ怖かっただろう。ごめんなさい。臣クンごめんなさい。隣にいてくれる臣クンの気持ちを、俺、大事にしなかった。心配されながらそっぽを向いていた。突然失うことの本当の恐怖を臣クンは知っているのに。そして俺はそれを知っていたのに。バカだ、バカでごめんね。何度も何度もこうやって臣クンを傷つけて、繰り返して、本当にごめんね。
臣クンの大きな肩に額を寄せて、縋りつくように抱きしめた。
「…好きだよ臣クン」
「…うん…」
「…怖い思いさせて…ホントにごめんね」
「…」
頭を撫でたら、そのまま臣クンはこちらに緩く体重を預けてくれた。何も言わずに頷く臣クンが、どうしようもないくらい愛しい。…好きだよ臣クン。他には何にもいらないくらい、大好きだ。
空が晴れてて良かった。洗濯物がいっぱい干してあって良かった。死角だらけの中庭、俺はこっそり臣クンのつむじにキスをした。
それからどのくらい経ったか。ゆわサンからの手紙やプレゼントはあの日を境にぱったりと来なくなった。最初のうちは左京にぃと万チャンの二人がゆわサンのことで何か話しているようなこともあったけど、その回数も徐々に減った。
臣クンはゆわサンからの手紙に少し怯えていた。もしまた突然届いて、文面に太一のことが書いてあったらどうしよう、たまにそんな夢を見るんだと、夜、こぼしていた。
「…だいじょぶだよ臣クン」
「…根拠は?」
「え、根拠…根拠は、その、ないッスけど…でも大丈夫!臣クンのことは俺っちが全力で守るッス!」
「…なあ、逆じゃないか?俺は太一の身に何かあったらって考えるのが怖いんだよ」
「臣クンに全力で守られることで臣クンを恐怖から守る、の、略ッス!」
「はは、そっか。…うん、そうだな」
緩く笑う臣クンが、それでもちょっと不安そうに視線を伏せる。…ああ、こうやってちゃんと見ていたらよく分かる。臣クンは沢山サインを出してくれていた。怖いよって、嫌だよって、俺にちゃんと、伝えてくれていた。
臣クンの中に、臣クンにしか分からない大事なものがある。それは俺だって同じ。そしてきっとゆわサンだって、同じなんだ。
鏡は、自分を写すためのものの筈なのにな。誰かの背中を勝手に写して、俺たちは似てるねって分かったようなことを言って、俺は本当に浅はかだ。恥ずかしいな。
「俺には分からないものがいっぱいあるって分かってる」って言える臣クンの方がきっと、よっぽど分かってた。いろんなことをちゃんと分かってて、大事にしてるんだ。
もう、鏡を割ろう。正しい使い方なんて分からない。俺は、分からないままでいい。
それからまた数日後のある日。監督先生からこまごまとしたおつかいを頼まれていた俺は、買い物袋を引っさげて寮へ歩いて帰っているところだった。
「もすこしだけ~このまぶたぁにのってて~」
鼻歌を歌いながら、ゆっくりと歩く。ふと、何の気なしに左を向いた。特に理由はなかった。俺の視界に映ったのはあの日ゆわサンとの一件があった公園だ。思い出して、苦い気持ちになる。
今ゆわサンはどうしているのだろう。差し入れも手紙も一切来なくなって、公演にもストリートアクトにも、姿を見せに来ることはもうない。
「…あれ」
公園内のベンチ、その背もたれに何かが立てかけてある。ぱっと見てそれが何か分かった俺はベンチに向かって駆け出した。それはあの日俺が置き去りにしたスケートボードだった。
「…そっか、忘れてた…」
誰がここに立てかけてくれたんだろう。もしかしたらゆわサンかな、いや、それとも全然違う誰かかな。あの日からもう数週間くらい経つのに、誰にも盗まれないでちゃんとここにあって、良かったな。
「…」
ボードをまた立てかけて、俺はベンチに腰を下ろした。ポケットからスマホを取り出し、真っ黒な画面を数秒じっと見つめる。
目を瞑った。ゆわサンの手紙の最後にいつも書かれていた三行を脳裏に思い浮かべる。ぼんやりとした便箋の映像がだんだん、霧が晴れていくように瞼の裏に浮かび上がっていった。
「…」
ダイヤルプッシュ画面を開く。親指が一つずつ、数字をタップしていく。きっと誰も覚えてはいない。だけど俺だけは覚えていた。だって何度も見た。何度ゴミ箱に捨てられても、臣クンに届くようにと書かれた11桁の数字を、俺は。
11桁目をタップし終える。数回瞬きして、息を止めて、やっぱりやめるか?どうする?と、自分の頭の中で自分と相談をする。俺は悩んで、悩んで悩んでその挙句、最後に発信ボタンをタップした。耳に当ててコール音を聴いている間、ずっと時限爆弾のように心臓がドクドクを音量を上げていった。
ゆわサンの安否を確認したい。どうしてもそれがずっと、自分の中から消えなかったのだ。こんなの間違っているかもしれない。誰かに知れたら怒られるに違いない。…特に秋組のみんなには、絶対知られちゃいけない。そう思いながら、それでも俺は電話を切ることをしなかった。
七回目くらいのコール音が終わった後、無音になる。俺は息を呑む。
『……はい』
「……」
ゆわサンだ。つついたら折れそうなくらいか細い、それは間違いなくゆわサンの声だった。
「……」
良かった、生きてる。良かったゆわサン。心配だったよ。怖かったよ。
『…誰…?』
俺だと名乗ったら、ゆわサンはまた感情が高ぶって、もしかしたら電話の向こうで手首を切ってしまうんじゃないか。そう考えると何も言えなかった。何か話すより、一言も発しないまま電話を切った方がいいかもしれない。だけど俺がそう思ったのと同じタイミングで、電話の向こうから戸惑いがちな声が続いた。
『…七尾さん…?』
「……なんで…」
分かったんだろう。ゆわサンは電話の向こうで鼻を啜った。啜る音が何度も繰り返されるから、もしかしたら泣いているのかもしれない。
『…お、臣くんは…元気ですか…』
「…うん、元気だよ」
俺がそう返すとゆわサンの呼吸に嗚咽が混じった。
『め、迷惑たくさんかけて…す、すみませんでした…』
「…うん」
『ごめ、ごめんなさい…』
俺も、ごめんなさい。断りもなく鏡に写して、本当に…ごめんなさい。
しばらくは何も言葉にならず、ゆわサンは泣きじゃくってずっと電話の向こうでしゃくりあげていた。もう一度ゆわサンが言葉を発したのはそれから数分後のことだった。
『…異邦人の公演を、初めて見た時』
「…うん」
『ヴォルフが…臣くんが「こんな世界、救う価値もない」って、言ってくれて』
「…うん」
『私…こんなだから…き、気持ち悪いからっ…どこ行ってもだめで、苦しくて…いつも生きてるのが辛くて…っ…』
「…うん」
『だから臣くんが…あ、あの時…っ…ああ言ってくれたから…私は…それで、救われて…』
「…うん」
『あ、ありがとうって…ありがとうだけ、伝えたかったの…それだけだったの…あ、ありがとうって…』
ゆわサンはまた言いながら息を乱していった。泣きじゃくって、鼻を啜って、ヒューヒュー言わせながら息を吸って、苦しそうに言葉を紡ぎ続けた。
『ご…うぇ…ひっ…ごめんなさ…』
ゆわサンが一番ほしかった言葉を、一番必要としてた時にゆわサンに贈ったのが臣クンだったんだ。それが台本の中のセリフだったとしても。舞台の上と客席という距離があったとしても。それでもゆわサンは救われたんだ。それは、何一つ間違ってなんかない。嘘なんかじゃない。誰も、蔑ろにしていい筈がない。
『…七尾さん…』
「…うん?」
『あの…ボード…ベンチに、立てかけておいたんだけど…あの…』
やっぱり、ゆわサンだったんだ。そっか。…あの後どんな気持ちで、俺のボードに触れたんだろう。
「…うん、あったッスよ。ありがとう」
『…よ、良かった…』
「…」
『…あの…』
「ん?」
『こんな私に…電話、してくれて…ありがとう…』
胸が痛くて、上手く返事ができなかった。代わりに何度も首を横に振ったけど、電話の向こうのゆわサンには見えないのにさ。バカだな。
「…突然ごめんね」
『う、ううん…ありがとう…』
「えっと、じゃあ…」
電話を切ろうとしたところで、最後にゆわサンからもう一度だけ『七尾さん』と呼ばれた。離しかけたスマホをもう一度耳に充てる。
『…あの…臣くん、食べてた…?』
「…ん?」
『マドレーヌ…一口だけでも…食べてくれてたかな…?』
「…」
ゆわサンがこれ以上傷を負わないように俺ができることは、俺が、一つも嘘を吐かないことだけだ。
「…うん。食べてたよ」
ゆわサンは最後、嬉しそうに『良かった』と言った。
電話が切れる。遠くで鳴るサイレンみたいに、通話終了を告げる機械的な音が耳の奥に響いた。
嘘は、俺が死ぬまで引き連れてくから。俺だけの大事なものの中に、その一番奥底にしまおう。