「チャコペンで引いた線は消えやすいから強く擦らないでくださーい!線を引くのに三日かかってるんで慎重に切ってくださーい!おいそこ!豊田!鈴木!聞いてんの!?」
勝気な学級委員が前に出てみんなの指示を仰ぐ。
体育祭の横断幕を作るに当たって、布を切って貼って縫って繋ぐということになった。これの最終形態は、なんかイカしたモザイクみたいになるらしい。
クラス全員で持ってやっと広げられるくらいの大きさの横断幕だから、いま自分がどこの部分を担当しているかなんて全然分からない。
とりあえず段取りを組んでくれた女子面子の言う通りに手を動かすしかない。
綺麗に引かれたチャコペンの線に沿って、とにかく丁寧に、その通りにはさみを入れていく作業が今から始まる。完成させるまでに与えられた時間は、あと一週間。1日ずつしっかりと予定が組まれていて、この工程も遅れることは許されないみたいだ。
「特に男子!そこらへんの!雑に切ったらマジで許さないから!」
学級委員が一部の男子を指差して怒鳴る。指を刺された男子たちは「うぃーす」と適当な相槌をしてゆるゆる笑っていた。
手元の線をじっと見る。赤と青の線には意味の違いがあって、青線は多少外側にズレても可、線の内側にさえ刃を入れなればオッケーという線で、赤はとにかく線の上を綺麗に正確になぞらなければいけない線、ということらしい。
俺はまず青い線にはさみを通していくことにした。
バスバスと刃が布を裂いていく。瞬きを忘れるくらい集中してはさみを動かした。
「お、七尾うまい」
斜め向かいの女子が驚いたように呟くので「へへ」と短く笑った。
裁ちばさみを握ったのは、秋組旗揚げ公演の、あの時以来だなと思い出す。俺はあの時の手の感触を、まだしっかりと覚えている。
幸チャンが作った衣装は本当に細部まで手が込んでいた。ベンジャミン以外の衣装はみんな皮もので、とにかく固くて厚くて、刃を通すのが本当に大変だったんだ。
一人分の衣装を切り終える度に右手の親指の付け根が痛くて、関節がギシギシ鳴って、その後はしばらく右手を動かすだけで痛かったな。
幸チャンが徹夜して、魂を込めて、本気で作った衣装を、俺が台無しにした。ただの布切れに変えて、ゴミにして、ダメにした。
許されないことだと思う。許されちゃいけないって、思う。許されちゃいけないことを、俺は自分の為だけにやってのけたのだ。誰かを守るためでも、なにかと戦うためでもなくて。本当にただ、自分の為だけに。
幸チャン俺ね、俺の「ごめんなさい」なんてきっと、幸チャン聞きたくないよなって思って、だから言わないでいるんだ。でも毎日、今もね、思い出す度に心の中で唱えてる。
本当にごめんなさい。あんな酷いことして、ごめんなさい。幸チャンが作った衣装を、全部注ぎ込んで作った衣装を、ボロボロにして、ズタズタにして、本当に本当にごめんなさいって、思ってる。
幸チャンの衣装かっこよかった。丁寧で、細かくて、お客さん絶対こんなとこまで見ないよってところまで、ちゃんと作り込まれてた。
生地もシルエットも縫い目も、どこをとっても本格的でさ、それを作り出せる幸チャンのこと、本当にすごいと思ったんだ。
…それであの時、ソーイングセットを渡してくれて、俺を許してくれて。
ねえ幸チャン、俺はあの時、許してもらうことは許されないことよりもずっと胸が苦しいなって、思ったんだ。
手が震える。
青いチャコペンの外側で、ずいぶんと切った跡がガタガタになっている。さっきまで水の上を滑るように裁断できていたのに。
こんなんじゃだめだ。俺は頭を左右に振ってから、もう一度はさみをしっかりと握り直した。
カンパニーのみんなことが、幸チャンのことが、あの時よりもずっと好きだ。心から大好きだ。
好きになる度に自分のした事が俺は信じられなくなって、心臓がドキドキハラハラする。
過去に戻れたら。あの時の自分に会いにいけたら。
俺は俺の胸ぐらを掴んで何度も頭を揺さぶるだろう。目を覚ませって、頭おかしいよって、今すぐやめろよって。
俺は今、お前のことが許せなくて仕方ない。どうしようもないんだ。思い出す度に許せなくて、涙が出そうになる。
カンパニーにスパイとして入った当初、俺、ほんとはみんなのことこれっぽっちも好きじゃなかった。あの時は自分以外の人のこと、みんな敵だと思ってた。誰かを蹴落とさなきゃ主役にはなれなくて、誰かを押し退けなきゃスポットライトは浴びれないって思ってたんだ。
妨害を進んでしたいと思ったことは一度もないけど、それでも自分の夢と天秤にかけて実行に移せてしまえるくらいには、みんなのことどうでも良かった。
でもみんなは、みんなの為に頑張ってた。みんなで一緒に公演を成功させようって思ってた。
幸チャンもそうだったよね。幸チャンが何日も徹夜して、全身全霊で衣装を作ってたこと知ってるよ。幸チャンは役を演じるみんなの為に、舞台が最高のものになるようにって思いながら衣装を作ってたんだ。
俺がそれをちゃんと理解したのも、みんなのことを大好きだなって思うようになったのも、全部全部、俺が台無しにしてからだった。
今、みんなのことが好きになる程、大切になる程、俺は昔の自分のことが信じられなくて、頭がおかしくなりそうになる。
これからもずっと消えない。俺がやってのけた過ちはこの先もずっとずっと。みんなが笑ってくれる度に、幸チャンが俺を「馬鹿犬」っていつも通り呼んでくれる度に、それは鮮明になる。
幸チャン、俺絶対に忘れないから。何があっても忘れないからね。幸チャンを大好きな気持ちと同じ大きさの「ごめんなさい」を、これからもずっと抱えていくから。
手が、震える。
もう青い線はなくて、自分の目の前にあるのは正確に刃を入れなきゃいけない赤の線だけだ。
周りに悟られたくなくてなんでもないふりをしてみるけど、俺の右手は1ミリも前に進まなかった。
「あ、あの、俺っちトイレ行ってくるッス」
いつも通りの声で言えた、良かった。
クラスメイトの何人かが「いてら」と手をヒラヒラさせながら短く返す。俺は右手首を左手で抑えながら教室を出た。
廊下に出た途端気が抜けて、一度深く息を吐いた。自分の手を見る。さっきは右手だけだったのに左手にまで震えが移ってしまった。
目の前がぼやける。心臓がドクドクとやたら大きな音を立てて心を急かす。
嗚呼この手が、幸チャンが作った衣装を切り裂いたんだ。なんて汚い手だろう。なんて醜いんだろう。
あの時、切り刻んだ衣装の残骸に囲まれながら、俺は何を思っていたんだっけ。うまく思い出せないなあ。
ただとにかく親指の付け根が痛くて、それで。
ねえ幸チャン、ごめんね、本当にごめんね。ごめんなさい。俺、最低で本当にごめんなさい。
もう戻らない。取り返せない。なかったことにできないんだ。こんなに好きなのに、幸チャンが大好きなのに。俺は俺のしたことが、こんなに許せないと思うのに。
心臓がハラハラする。その度に涙が勝手に押し出されて嫌だ。誰かに見られる前に早くトイレの個室に行かなくちゃ。
震える手も、一度だけ出てしまったしゃくりあげる声も、どれもこれも本当に格好悪くて。
「ダッセ」
吐き捨てた俺の言葉が、誰もいない廊下に響いた。