花屋なんて生まれて初めて入った。
だって当たり前だ、花とか草ってのは俺にとって「他になんもなかったら仕方なく食うもの」だったし、しかもそんなに旨くねえし、腹ァ膨れねえし、とにかく、間違っても金を払って手に入れるもんなんかじゃなかったからだ。
急な雨に降られて、公衆電話のボックスに逃げ込んだあの時。知らない娘がボックスん中に入ってきたかと思ったら俺の顔見て死んだ犬に似てるとか言って突然泣くからハ?と思って、でもまァあれだろ、ほっとくより笑わしてあげた方がとりあえずいいだろと思って、喉の奥から花を一本引っ張り出した。
小さな店の中、あの花と同じやつを見つけて、花の種類とかもちろん全然わかんねーしなァって思って、それを指差しながら店の人に花束作ってくれって言った。そしたら店の人が予算はどれくらいか聞いてきたから財布ん中見せたら、他の花も混ぜながらその人はサッと作ってくれた。
それらしい包装紙に巻かれて、なんかそれらしい花束が出来上がる。こんなもんは自分と無縁のモンだと思ってた。持ったら結構重くて、なんか良い匂いして、これを渡すんだと考えたらちょっと緊張した。
心臓が鳴る音がする。マキマさんにも言われた。だって俺には心があるからな。
来るかな、来ないかな、やっぱ来るかも、いや結局来ないかも。
右足と左足を交互に踏み出しながら、俺の頭ん中もそれに合わせて右と左に揺れる。誰かを好きになるってなんか、アレだな。…ユラユラ揺れてて、苦しくて、水中にいるみたいだ。
二道。あの娘にコーヒーを飲ましてもらった店。今から俺はそこへ行く。浜辺で動けなくなりながら言った言葉は、あの娘にちゃんと聞こえていただろうか。
「……んァ~…?」
気付いたら店の中が薄暗くなっていた。どうやら俺はいつの間にか眠ってたらしい。
店内を見渡す。カウンターの向こうにマスターのおっさんがいない。マジで?普通寝てる客をほったらかして店を空けるか?神経イッてんのかな。まァ別にいっか。
俺以外に誰もいない店の中は、まるで絵の具を厚塗りしたような不自然な静けさがあった。グラスの中に少しだけ残ってた水を飲む。寝てる間もずっと抱えてた花束は、自分の体温でじんわりぬるくなっていた。
「……何時だァ?今…」
時計を探す。壁を四方確認するがどこにも、何にもない。
…あれ、なんか、こんな感じだったっけ?もっと花瓶が置いてあったり、壁紙に模様あったり、テーブルの上に小物置いてあったりしてなかったっけ?
「……」
…まァいっか別に。花瓶も模様も小物も、なくたって俺ァなんも困んねぇしな。
椅子に体重の全部預けて、一回だけ息を吐く。腹減ってきたな、なんか。マスター帰ってきたらなんか注文しようかな。オムライス、いやグラタン…やっぱチャーハンかな。
空っぽの胃袋を手のひらで適当にさすっていた時だ、入り口のドアが突然開いた。
心臓が、ギャッ!みたいな変な音立てて、その瞬間自分の息が止まった。扉の隙間から黒い髪の毛が見えるから、花束を抱えてる両腕がいよいよ石みたいんなった。
「…デンジ君」
「レっ…レゼ!」
待ってた娘が来た。俺が待ってた女の娘が、今、来た。
レゼは扉を閉めるとちょっとだけ俯いて片耳に髪の毛をかけた。俺はまばたきするのも忘れてその全部をガン見する。
レゼ。レゼが、そこにいる。立ってる。
細い糸が限界まで張ってて、あとちょっとでも引っ張ったら切れちまいそうな感覚がした。心臓が死ぬほどうるさい。気付いたら花束を抱き潰しそうんなってて、いや潰しちゃダメだろって慌てた。
「…ごめんね。待った?」
レゼが俯いた顔をゆっくり上げて俺を見る。ブンブン首を横に振って「いや?俺も今来たけどッ!」と答える。
「……」
赤い顔してレゼが笑う。うわ超かわいい。超糞かわいいその顔。好きだ。
レゼが俺の向かいん椅子に座った。テーブルを挟んで目が合う。さっきから腕だけじゃなくて全身が石みたいだ。はァ~?なんだこれ。心臓うるさくてなんも考えらんねえな。
「あ、あァ~…?」
喉の奥から勝手に変な声が出て、それをレゼが「アハハ!」と笑うから俺も一緒んなって「ハハハァ!?」と笑った。
「…花束」
「あっ?あ、あァ~これ」
石んなった両腕を力任せに動かしてテーブルの向こうのレゼに差し出す。距離の感覚を間違えて顔の目の前に出しちゃって、レゼがそれにちょっとビックリして目を大きくした。
「私に買ってくれたの?」
「そぉ!」
レゼより何倍も大きい声で返すと、彼女はそれを両手で受け取ってまた超糞かわいい顔して笑った。
「綺麗。デンジ君ありがとう」
「べつにィ…?」
声が上ずる。だめだ無理だなんでだ全然普通に喋れねえ。
花束の色がぼんやり白くて、だけどレゼの髪とチョーカーがくっきり黒くて、その白と黒が正反対でなんだかやけに綺麗に思えた。…買って良かった。レゼ、花束持ってんのなんか似合うし。糞かわいいし。かわいい女の娘が花を持ってんのはかわいい。
「デンジ君」
「なに?」
レゼは辺りを見渡してから「今日はサメの人、近くにいないの?」と俺に尋ねた。
「あ~ビームな。そぉ、今日は俺だけ」
そう答えると、レゼは「そっか」と言って、椅子から立ち上がった。
「じゃあそっち行ってもいい?」
「へァっ、あ、あ~…別に?いいよ?」
椅子一つ分奥に詰めたら、レゼはすぐさま隣に座った。細い肩が自分の肩と触れる。良い匂いが花束なのかレゼのなのかよく分かんなくて、ちょっと混乱した。
「…ふ。あはは!」
「あ?」
「デンジ君ガチガチ。もっと楽にしてくださーい」
「……」
レゼの笑った顔、こんなだっけ。あれ?なんか、こんなかわいかったっけ。っつうか二人で話す時どんなこと話してたっけ。今まで過ごした時間を忘れたワケじゃないのに、過ごした時間の中で自分がどんなことを言ってきたかはてんで忘れた。
チョーカーから覗くトリガーを外せば、この娘は悪魔んなる。何度も爆破させられたし何度も殺されかけたし、全部メチャクチャ痛かった。
だけど思い出すのはコーヒー奢ってもらったこと、夜の学校を探検したこと、プールに裸で入ったこと、祭りに出掛けたこと、そんなんばっかだ。
裸…裸エロかった。すげえビックリした。下も丸見えだったし乳首も生まれて初めて見ちゃった。記憶をなぞってたら余計に体が固くなる。まいったなコレどーすりゃいいんだ。
「デンジ君」
「へっ?」
「…あの時はごめんね?」
「……」
あの時。え、あの時ってどの時?
「ベロ、痛かったよね?」
レゼが口を開けて、自分のベロをちょっと出してコレコレと指を刺す。
その瞬間に心臓が、爆発するかと思った。レゼのベロと口ん中が一緒に見えて、あの時のキスが、あの時の感触が強烈にフラッシュバックして、俺は何度も唾を飲み込んだ。
マキマさんが言ってた。エロいことは相手のことを理解すればするほど気持ち良くなるって。
…なぁレゼ。俺さァ、あの時よりレゼのこと、ちょっとは理解した気がするんだよ。戦った時さ、レゼの体を抱き締めて、そんでさァその時、ほっそい体だなって、俺よりちっちゃいんだなって、俺よりちっちゃいこの娘は俺よりずっと多い数、悪魔んなって、戦ってきて、こんなに強くなったんかなァって思ってさ。ひとりぼっちで強くなったレゼは、ホントに強ぇよ。
…そんなこと考えてる場合じゃねーのにさ。レゼの体抱きしめたことある奴他にもいるんかなって、だったらヤだなって、俺だけがいーなって、思ったんだ。
レゼはどぉ?あのキスの時より俺んこと、理解してくれてる?
「……あのさ」
「うん?なに?デンジ君」
花束を抱えてるレゼの手に触れて、指をそっと撫でた。知りたいと思った。俺、レゼのこと、もっともっと知りたい。
「手。…触っていい?」
「……」
レゼは首を傾げて「手?」と聞いた。俺は頷く。レゼはちょっと笑って「いいよ」と言った。
「デンジ君、変なの。やっぱり面白いね」
「あー、うん。まァ…そうっすね」
レゼの右手を握る。撫でる。形を知る。温度を確かめる。指が細くて白い。温度は、思ったより冷たかった。もっと知りたくて自分の口元へレゼの手を運んだ。
「……噛んでいい?」
俺の言葉にレゼが一瞬ビックリした顔して、それから「指を?」と聞いた。
「うん」
「…噛みちぎるってこと?」
「いや、ただ噛みたいだけ」
「……」
レゼの顔が赤くなる。そんで、迷いながら無言のまんま、レゼは小さく頷いてくれた。
人差し指を噛んだ。最初は爪の先、それから第二関節まで進んで上と下の歯で、しっかり噛んだ。
「……」
噛みながらレゼを見たら困ってるみたいな表情をしてて、その後、目を逸らされた。指先が口ん中で微かに動く。魚みたいに跳ねる。どうしようドキドキする。死にそうなくらいドキドキする。
レゼが好き。好きだ。喉の奥で言葉が渋滞してて苦しい。好き。好きだよ、好き。
口ん中でレゼの指を舐めたら、レゼが「だめ」と言った。噛むのはいいのに舐めんのはダメなんか。なんで。
「……デンジ君、もう離して」
「…レゼ、顔あか」
「……」
花束で顔を隠すのがかわいくてたまんなくなって、どうしても見たくて花束を押しのけた。花の向こうにレゼが見える。泣きそうな顔で俺を見ている。
その赤い顔が訓練とかでもいい。嘘でもいいよ。もうなんだっていい。
好きだよ、見してよ、全部ちゃんと見たいよ。俺の全部はもうずっと前から、これから先だってずっと、いくらだって見ていいから。
「…デンジ君」
「…ん?」
「……痛かったよ」
「あ、ごめん」
「…ねえ、デンジ君」
「ん?」
「キスしよう?」
ボンッて音がした。間違いなかった。俺は今レゼに、心臓を爆破されたのだ。
頷くのも煩わしくて、返事をしないままキスした。あの時とは全然違う感覚だ。レゼの匂いがする。レゼの唇の味がする。レゼの感触が自分の身体中に広がる。
何度も離してはくっつけて、レゼの唇に唇で触れた。空いてる自分の手はどうしていいか分かんねェから、レゼの腰の辺りをとりあえず掴んだ。細い腰を下から上へ撫でたらレゼの足がギュッて内股んなって、なんかそれが、意味わかんねェくらいかわいくて興奮した。
どうしよ、ベロ入れてぇ。もっと唾とかが絡まっちゃうみたいなすげえヤツ、してぇ。でも急にそーゆーことしたら、レゼ、俺んこと嫌いになる?嫌われたらヤだな、困るな。
そう思ってたらレゼの方から口開けて俺を誘ってくれた。素直にその奥へ入る。冷たかった手とは違って口ん中はメチャクチャあったかかった。
「…ん、ん…っ」
息と息の間、レゼのちっちゃい声が漏れる。その声を聞くたび心臓が鳴って、穴という穴から湯気が出てくんじゃねえかと思うほど自分の体温が熱くなっていった。
レゼ好き。好き。好き。なァあの時、俺の喉カッ切ったじゃん。今もしそれやったら、今度は血じゃなくてレゼへの好きって言葉がそっから漏れちゃうかもしんない。
苦しい。喉の奥がさっきからずっとぎゅうぎゅう詰めんなってる。苦しくて、好きで、気持ち良くて、なんか泣きそうだ。…変なのォ。
「……あのさ、レゼ」
お互い半開きのまんまで口を離したら、唾の糸が吊り橋みたいに俺たちを繋いでた。…こんなキス初めてだ。口ん中に残るのはゲロの味でも血の味でもない。レゼの息と唾の味だ。こんなキスを好きな娘とするなんて、俺の人生の中では起こり得ないことだと思ってた。
「…ぁ、なに…?」
「あのさ、俺さ…」
なァ、この後どこ行く?すぐ電車乗る?マスター戻ってきたら飯食ってから行く?金、全部おろしてきたしさ、飯は俺が奢るよ。
…違う。そんなことを伝えたいんじゃねェや。あのさ、レゼ。俺さ、レゼのことがさァ。
「……デンジ君。デンジ君って!」
ゆっくり目を開けると、俺のすぐそばにマスターが立ってて俺の肩をユサユサ揺らしてた。どうやら俺はいつの間にか眠っていたらしい。
「……レゼ来た?」
「来ないよ。今日は朝からお客さんは君だけだよ」
マスターが溜息と一緒に、テーブルの上の空んなったグラスに水を注ぐ。なんだそっかァ、全部夢かァ…。うわあぁ~~夢かよ…夢っすか……。
「……どうも」
注がれた水を飲む。花束は俺の腕の中、じんわりとぬるい。レゼが来る前にしおれちまったらどうしよう。
「まだ待つつもり?」
「待つよ。待つ。…もしかしたらもう近くまで来てるかもしんねェし」
「…そう…」
だってあと少ししたらあの扉が開いて、隙間から黒髪が覗いて、あの娘が「デンジ君」って、俺の名前を呼ぶかもしれない。
レゼの夢見ちゃったって、そしたら俺言うからさ。夢ん中でちょっとエッチなことしちゃったって。レゼ超糞かわいかったって。
どんなことしたのって聞かれたらちゃんと全部答える。ちょっと恥ずかしいけど白状する。そしたら笑って。スケベとか変態とかなんでも言っていいから。
…なァ、レゼ。
そんでさ、喉ん奥でつっかえてるモンもらってよ。全部全部、もらってって。