演劇の神様





 どんな場所にも神様はおる。誰かがその存在に気付くか気付かへんかは定かやない。それでも、絶対に、ちゃんとおる。
 ほんで舞台の上にだって俺はおると思うのや。ん?そないなことあるわけないよって?ほんなら、ちゃんと説明せえへんとな。人に説明すんのあんま得意やないけど、まあ、うん。きばってみるよ。
 
 まずは、俺の話からさして。

 俺の名前は大和悠夏(やまとゆうか)。なんや女の子みたいな名前やけど、んー…男やし。まああんま気にせいで。今まで散々いじくられてきたから、このくだりちょっと飽きてるんや。
 名前の話はもうええやろ?えーと、んでな、俺は昔っから大工仕事が好きや。
 きっかけは小学生の時、図工の時間に初めて「電動糸鋸」というアイテムが登場した時のこと。気持ちのええ音を鳴らして木版を切断していく様が楽しくて、センセが板を切断していくのをとにかくひたすら、じぃっと見つめた。うまいこと板を回して、思い描いた通りの線で切れていくのがえらいおもろかった。
 その時センセが課題として選びはったのは木版のパズル。木の板に書いた一枚の絵を好きなように切って、世界に一つだけのパズルを作れって。
 絵を描くことより数倍楽しくて、俺は今までちょっぴり退屈に感じていた図工の授業を、途端に大好きになったのや。
 ひたすら切るのも楽しかってんけど、繋げて組み立てる作業も驚くくらいおもろかった。
 小学五年生の三学期に出された図工の課題は木製の椅子。世界に一つだけの自分だけの椅子を作れと言われて(図工のセンセは「世界に一つだけの」というフレーズがやたら好きやったように思う。きっと決め台詞やったんやろな)、俺はどんな椅子を作ろうかと真剣に考えた。
 他のみんなは背もたれのない、足が四つの普通の椅子を作っとったけど、俺はそれやと満足できんで、背もたれ付きのユラユラ揺れるロックチェアーを作ることに決めた。
 今思い返すとなんぼなんでも無謀やろと笑ろてまうけど、まあ、情熱が成せる技やったんやろうな。なんとか必死こいたら期限内に完成させられた。
 みんなびっくりしとったけど、一番驚いたはったのはセンセやった。目ぇ丸くして「すごいやん」と、思わず漏れた本音みたいに、俺の椅子を見ながら言うたのや。
「お前さん才能あるよ。もしこれから先もずーっと好きなままでおれたら、そん時はずーっとやり続けえや」
授業終わった後センセが、俺一人だけ捕まえて言うた。
「ずーっと続けとったらな、いつかお前さんの両手に神さんが宿るで」
「神さん?なんの?」
「工作の神さんや。神さんはな、ぎょーさん種類おって、ほんで、どんな場所にもやって来てくれはるんや。ええか、ほんまやぞ」

 センセのあの時の言葉を、俺は今でもしっかり覚えとる。
 俺の両手に神さんが宿っとるかどうかは分からへんけど、あいさにそんなことを思い返しながら飽きもせずトンテンカンテンし続けるんは、なんちゅうか楽しくて、ほんでもってクスリと笑えて、そんなに悪いもんでもない。
 いつかほんまにこの両手に、神さんがやって来るかもしれへん。冗談半分に笑って、そやけど残りの半分のそのまた半分くらいで信じてみたりしながら、俺は今日も木を切って釘を打って、楽しく大工仕事をする。






 腰にぶら下げた工具を揺らして、肩には木製のパネルを数枚担いで俺は通路を疾走しとった。大道具を製作する部屋はこの廊下の一番奥。重たい材料を抱えて全力疾走するにはなかなかに長い距離や。
 照明も音響も、本番までの準備期間ほぼ滞りなく作業を進めとった。そやけど俺が所属しとる大道具制作班の進捗だけが、他よりかなり遅れを取っとった。
 なんでかって、こんな時に限って大道具班の間で嘔吐と下痢を伴う夏風邪が流行ってしもたから。公演本番までの締め切りに追われながら、缶詰めんなって作業をする仲間が大半やったから、それも良くなかったんやろう。免疫力がほぼゼロの状態やった俺たち大道具班、そのうちの一人がまんまと引いてしもて、そっからはもう、笑ろてまうくらい簡単に、仲間の間でどんどん広まった。
 感染の山場もやっと越えやんかと胸を撫で下ろした時にはもう、進捗は予定の二週間以上遅れとった。
 その遅れを取り戻すため、残れる面子は夜が明けるまで部屋に残って必死で作業を進めることになった。なんや文化祭前夜みたいで楽しいよなと笑い合う余裕があったんも、数日前までのことや。
 開きっぱなしの扉を潜ると、何人かが「ありがとう」と言って俺を迎える。しゃがみながらペンキを塗る奴、木材を電動糸鋸で切り抜く奴、複数枚の木板に釘を打つ奴。
 皆、それはもう必死や。だって本番まで既に一週間を切っとるのに、ラストの場面で使う街並みの背景が完成してへん。俺は担いどった木製パネルを床におろして、釘打ちの作業に加勢した。
「こっち四箇所打ってけばええの?」
向かい側で釘を打っていた奴が、数本の釘を口に咥えたまま「うん」と答えた。
「そっち四箇所、こっち五箇所」
「ほい」
こっちが四箇所、そっちが五箇所。そいつさんの言葉を頭の中で復唱しながら俺は釘を数本手に取る。
 トンカチと釘がぶつかる音が一定のリズムで響く。ペンキの匂いが鼻を通り抜ける。糸鋸が木を切断していく音が鳴る。床にはいくつものレッドブルとモンスターエナジーが並んで、時折誰かの「手ぇいって」という呟きが聞こえる。
 トンテンカンテン、少し間を置いて、またトンテンカンテン。俺は欠伸を一つ噛み殺して、その代わりにモンスターエナジーを二口飲んだ。
「あれ?ねえ大和、晴翔さんの椅子もうできてんの?中盤のシーンで使うやつ」
仲間の一人が、ふと思い出したように俺に問う。数回頷きながら俺はそれに答えた。
「あー、あれな。もう殆どできててな。あと裏っ側んとこの釘打ちだけ」
俺がそう答えるとそいつさんは「ふーん」と言って、それから「じゃあこれの後でいっか」と付け加えた。

 ちなみに晴翔さんゆうのは、俺たちがいつもお世話になっとる「GOD座」って劇団の看板役者や。GOD座はえらい有名な劇団で、もしかするとこの天鵞絨町で一番知れた名前かもしれへん。もちろん、劇場もデッカデカい。大道具を搬入する時、いつも建物の面構えに少しだけ圧倒されるほどや。
 ここに身を置くようになって半年ほど、それより前のことはよう知らへんのやけど、俺が知る限り晴翔さんは今回の公演も含めて、いつも主演を務めたはった。
 えらい数の役者が在籍しとるし、その中でトップの座を掴み取るのはきっと容易なことではないのやろう。
 素直に、すごいと思う。かっこええとも思う。一番前に立って背中を見せ続けるなんて俺にはきっと出来ひん。…そやけど俺は正直、晴翔さんのことがあんま好きやあらへん。

 以前、とある公演のゲネプロに立ち会った時のことや。芝居が一通り終わって緞帳が降り、片付けのため俺たち裏方が舞台の上で慌ただしく作業を進める、そん中での出来事やった。
 晴翔さんが、舞台を行き交う俺たちを一切気にする様子もなく準主演を勤めとった役者に大声で怒鳴りはった。
「何してるんだよ!?あんな温い芝居で本番迎えるつもりか!?」
舞台のど真ん中、突然の説教。それもこんなぎょーさん外野がいる中で。俺は思わず手が止まった。
「呼吸まで揃えろって!何度も言ったよな!?及第点じゃなくて満点取る気でやれよ!!」
怒鳴られとる方の人は、目を赤くしながら「はい!」と何度も返事をした。そいつさんの握り拳が震えたはるのを、俺はじっと見つめとった。
「本番までに何とかしろ!死ぬ気でやれ!できてない今の自分を恥じろ!!」
「…はい!!」
なにも、そこまで。そう思った。
 その日見た通し稽古を思い出す。温い演技なんてそんなの、俺はちっとも感じひんかった。準主演の人の演技は舞台の上で堂々としてたし、ミスなんてなかったし、素直に良い舞台やと思った。
 それよりも、そんな威圧的な言い方して、大勢の前で説教垂れて、ほんで相手が本番調子悪なったらどないするのよ、と考えてしもた。自分に厳しいのはええけど、他人にもそこまで厳しくする必要ほんまにある?って。
 前から思っとったけど、なんや晴翔さんってプライド高くてツンツンしたはるし、感じ悪い人やなぁ。…好かんわ。

「大和?おーい、聞いてる?」
大きな木版の向こう側にいる仲間が俺を呼ぶ。俺は我に返り、慌てて返事をした。
「ああ、堪忍。なに?」
「90度右に回すよ、そっち持って」
「ほい」
木版の一辺を持ってゆっくりと回転させる。90度回した後、首を左右に倒し骨を鳴らしてから「よっしゃぁ〜」と自分に喝を入れた。向かい側の奴が「ちっとも喝入んない掛け声だな」と言うて笑うから、俺も笑い返した。
 …まあ別に、どうでもええんやけど。晴翔さんはGOD座のトップを務める役者で、俺は裏方大道具の、晴翔さんからしてみればその他大勢の内の一人や。関わることなんてこれからも特にないやろうしな。
 トンテンカンテン。音はまだまだ続く。
 もうすぐ日付を跨ぎそうな時刻のことやった。






 それから数日後。
 ゲネプロの前々日、ようやっとラストで使う背景が全て完成した。夜の街並みを再現した大パノラマ、一番の見せ場や。みんなで必死こいて作った甲斐もあって粗もなく、ちゃんと納得いくもんが出来上がった。
 大道具班のうちらはもちろん、俺たちの進捗を気にかけていた照明班や音響班も一緒に完成を喜んでくれはった。
 今日は公演前初の通し稽古。ゲネプロや。
 大型トラックで運んだ背景や小道具を劇場内、必要な場所に設置する。役者さんらが衣装やメイクの最終確認をしたはる頃、うちらはこの力仕事を必死で進める。
「間に合って良かったなぁ」
小道具を両方に一つずつ担ぎながら隣を歩く仲間にそう言うと、クマと無精髭がいつもの三割増しなそいつさんも気ぃ抜けた顔で笑った。
「ほんとほんと。インフル菌持ってきたアイツの奢りで今度呑み行こ」
 一通りのセッティングが終わって、いよいよこれからゲネプロが始まる。時間も予定通りや。この瞬間はやっぱり、俺たち裏方もいつもドキドキしてまうな。
 舞台裏から役者たちが現れる。
 今回のお話は、孤独に苦悩するトップシンガーの物語。恋や愛を歌うのに、主人公はそういった感情を一切知らない。そしてそんな自分に段々と苛まれていく。友達も恋人も一人だっていない。そうして世界で一番の孤独はここにあると知った時、鏡の向こうから突如自分が現れる。そんな幻覚を見るまでに自分の心は壊れてしまったのだと男は笑った。二人は闇に堕ちるように共に歌った。歌うことしか知らなかった。重なり合う声、織り成す旋律、それはあまりに美しい孤独の歌だった。都会の夜はこんなに眩しく輝く。けれど星は一つも輝かない。
 ……っていう内容や。んーと、邪魔くさいからもうパンフレットの文章全部コピペしてきてしもうた。
 まあ要は、そのシンガー役が晴翔さんや。
 やたらキラキラした派手な衣装を着た彼が、静かに舞台中央へ進む。14:15。定刻通りにゲネプロは始まった。

「孤独を教えてくれる誰かさえ、僕にはいない」
物語の中盤、主人公が打ちひしがれて悲痛の声を上げる場面。椅子に腰掛け、空を仰ぐ。
 その時やった。全く予期してへんことが起こった。晴翔さんの座った椅子、その足の一本が嫌な音を立てて曲がり、椅子全体が大きく傾いたのや。
 晴翔さんは椅子から滑り落ちて、腰を強く打ち付けてしもた。
「っ!!」
 俺はその瞬間、血の気が一気に引いた。…あの椅子を作ったのは、だって、俺や。
 舞台袖に待機しとるメンバーや、客席側から見とる関係者全員が一瞬息を止める。張り詰めた空気が、劇場中を静けさで覆う。
 …そうや、思い出した。結局裏っ側んとこの釘を打ってないまま搬入してしもたんや。数日前仲間と交わしたやり取りを思い出して青ざめる。なんでや、アホ、どうして。なんで最後に確認せえへんかった。
 前列客席から観ていたレニさんが慌てて席を立とうとして、だけどそれを晴翔さんが、素早く起き上がって横に首を振り、止めた。
「…僕もきっと、どこか壊れてる」
足の折れた椅子に寄り添って、晴翔さんは芝居を続けた。
「……」
全部、アドリブや。台本を知らない俺たちにだって分かる。晴翔さんは今だだっ広い舞台の上、たった一人で、白紙の台本を演じたはる。
 壊れた椅子に縋る晴翔さんは本当に、世界に一人ぼっちみたいに思えて…どうしてやろう、無性に綺麗やと思った。目を奪われるって、ああもしかしたらこういうことなんかなって思いながら、俺はずっと晴翔さんを見つめた。

 鏡の中の自分と最後の曲を歌い終え、夜景が一際煌めいて、物語が終わる。神木坂さんが舞台の麓へ駆け寄り「晴翔」と声をかけた。
「大丈夫なのか?怪我は…」
神木坂さんの不安を跳ね退けるように、晴翔さんは「もちろん、ありません」と答えた。
「何も心配ないです。ほら終幕したよ、早く!全員やることやって!」
晴翔さんの言葉を合図にそれぞれが片付け作業に入る。そやけど俺は仲間と一緒にそうすることがどうしても出来んで、今せなあかんことはきっとそれやあらへんと思って、舞台袖から一歩、また一歩と進み、晴翔さんへ近づいた。
「……なに?」
晴翔さんがこちらを見てそう言った。俺は一度唾を飲み込んで、それから頭を下げた。
「…ほんまに、すんませんでした」
頭の上から晴翔さんの「はぁ?」という声が降ってくる。やっぱりつっけんどんな感じがするこの人んこと、苦手やけど、そやけど、それとこれとはまったくもって別の話や。
「…俺が、あの椅子を作りました」
「……」
再び「申し訳ありませんでした」と謝り、もっと深く頭を下げる。すると晴翔さんは溜息を吐いてから数秒の沈黙の後、小さく笑ろた。
「…なめてんの?」
「……え…」
声の冷ややかさに驚いて、思わず顔を上げる。ほんで、晴翔さんと目が合った瞬間全身が固まった。
「やる気ないなら今すぐここ辞めてくれる!?お前みたいな奴にいられても迷惑だから!」
舞台のど真ん中。こんなにぎょーさん外野がいる中で。前に見た光景と重なる。あん時は側から見とっただけの自分が、今度は皆の目に晒されて、怒鳴り散らかされとる。
「聞いてんの!?返事くらいしろ!!」
「へ、あ、はっ、はい」
「学生のお遊びじゃないんだよ!プロの仕事しろよ!」
「…はい」
「このっ…ヘラヘラしたツラしくさって…お前みたいな、適当な奴が…っ……演劇に関わるな!!」
「……」
晴翔さんの、腹から出した声が劇場中に響く。周りの全員が静まり返って、俺たち二人をじっと見たはった。
 鼓膜の奥でキーンという音を聴きながら、俺は返すべき言葉を探した。そやけど静寂を打ち破ったのは俺やなかった。大道具班の仲間の一人である××が、俺と晴翔さんの間に静かに立ったのや。
「謝ってんじゃないすか。…なんなんすか、あなた」
俺をチラリと見てから、そいつは晴翔さんに「言い過ぎなんじゃないすか」と続けた。
「こんな、大勢の前でさ…いい気しないすよ、聞かされるこっちだって」
「…は?なに、僕が悪いって言いたいわけ?」
「だから、言い過ぎでしょって。こいつ元からこういう顔なんすよ」
××はフォローになっとるんかなっとらんのかようわからへんことを言うて、最後に「じゃ」と付け足しその場をしめた。え、今のなんやの。どういう顔しとるの俺。
 手を引かれ、その場から去る。俺は撤収と片付けの作業におずおずと加わって、結局その後は晴翔さんのことを振り返れへんまま解散になってしもた。

 解散後、裏方組各班で簡単なミーティング(ゆう名の労い会)をした後、俺は製作部屋に一人残って例の椅子を直すことにした。手伝うと何人かが言うてくれたけど、俺は首を横に振った。どうしても助けてほしい時はちゃんと言うから、これは俺の責任やし俺にやらしてって。内心、今日はちょっと一人になりたいみたいな気持ちもあったのや。
 足の折れた椅子の前であぐらをかく。じっと見つめる。
 直すゆうても実際、もうこんなん一から作り直しや。歪んでしもたところは手直しでどうにかなるもんやないし、直せたとしたって、修正の跡を完全には隠せへん。
 今回の公演で使われる小道具大道具の設計図、それらをまとめたファイルを部屋の端っこのシルバーラックから抜き取る。目当てのページを開いて床に置き、作業にかかるであろう時間をおおよそ計算をする。
「…うん」
本番までの日数を数え、それまでに間に合うのか作業工程を逆算した。…ギリギリや。えっらいギリギリやけど、多分、間に合う。
 俺は目をかっ開いて一人黙々と手を動かした。終電は諦めて始発で帰ろう。ほんで家帰って飯食って仮眠取って風呂入ったら、またここ来て作業する。絶対手ぇ抜かへん。これよりもっとええやつ、絶対作る。
「……」
 さっきの場面を思い出す。
 あんたさんに怒鳴られて目ぇ真っ赤にさせとった人と、あんたさんの目が、まるでおんなじやった。ほんまに赤い目ぇして、本気で怒鳴ったはった。
 あんたさんのこと、厳しい思う。言い方もキツいわって正直思う。そやけどあんたさんはきっと、それの十倍くらい自分に厳しくしとる。自分自身にもキッツい言葉、ぎょーさんかけてきたんや。
 迷惑かけてしもた。それは紛れもない事実や。そやからお詫びと、遊びの気持ちでやってへんですってことを、言葉やなくて作ることで伝えたいと思った。
 その日は作業に没頭して、朝の五時まで手を動かし続けた。

 翌日、仮眠とって風呂入ってからまた一人製作部屋に籠って作業を進めた。途中、仲間から電話がかかってきて進み具合はどないか尋ねられたりもした。
「うん?うん、大丈夫やと思う。頑張っとるよ。前よりもっといい椅子作ろ思って」
『そっか。手伝えることあったらなんでも言ってよ。モンエナ持って行くからさ』
「うん、おおきに。あとこないだの、むっちゃ一言余計やったよ」
『え?うそ、どこが』
「俺どんな顔しとるの。どんなフォローの仕方やの」
『あ〜。あはは。ウケる』
全然悪びれる様子のない電話の向こうの声に俺もつられて笑ろた。ほんま、仲間に恵まれとるな。今度落ち着いたら俺の奢りで呑みにでも誘ったろか。
 夕方頃、一度手を止めて近くの飯屋でご飯食お思って製作部屋を出た。こっから近くて安い店は、牛丼屋とカレー屋とそれからうどん屋と…うーんどこ行こかな。あ、そや、ついでにモンスターエナジーも薬局寄って買うとこ。
 いつも使こてるドラッグストアに入ると、店の中でとある人物に出くわした。どこおっても一目ですぐ分かる、ピンク色の髪。
 それは晴翔さんやった。
「……」
なんとなく声をかけるんは躊躇われて、俺は晴翔さんに気付かれへんよう一つ隣の通路に慌てて移動した。
 なんや悪趣味やなって自分でも思ったんやけど、俺は商品棚の上から背伸びして晴翔さんの様子を伺った。晴翔さんは俺に気付く様子のないまま、2、3個の商品を手にしてレジへ向かう。彼が商品棚から取ったんは、腰に巻くサポーターと湿布、それから腰痛に効く錠剤やった。
「……」
 数秒後、またあん時みたいに俺は青ざめた。だって他に考えられへん。きっと間違いあらへん思った。…ゲネプロの時。晴翔さんあん時、むっちゃ強く腰を打ち付けたはったもん。
 晴翔さんが会計を済ませて店を後にしようとする。俺は慌てて追いかけ、なんて声かけるか考えるんも後回しにしてその手を掴んだ。
「晴翔さん!」
手首を掴まれた晴翔さんが、驚いた様子でこちらを振り返る。俺やと分かるなり嫌悪感丸出しの表情なって、ほんでから「なんだよ」と言うた。
「あ、あの…いま、晴翔さん買うたはったヤツ」
それ全部、ゲネプロん時のせいでですよね。
 俺がそう続けようとする前に、晴翔さんの丸っこい目が大きく見開かれた。
「……言うな」
「へ」
「絶対に、誰にも言うな」
晴翔さんから発せられる空気に息を呑む。まるで銃口向けられとるみたいな、そんな緊迫感があった。
「あ…えと」
「誰にも言うなって言ってるんだよ!聞こえないのか!?」
「はっ、はい、あ、いや聞こえとる、すんません聞こえとります」
「…じゃあもうお前と話すことないから。離してくれる」
晴翔さんが言いながら俺の片手に目をやる。俺は慌ててその細っこい手首を離した。
「…痛いん?」
「は?」
「痛むんですよね?ほんまにすんません、俺のせいで…」
「……」
あのいつものえっらい毒舌で、いっそ責めてくれはったらええのに。そやけど晴翔さんは何も言わへんかった。ほんで、俺の胸は余計に苦しくなる。この人に要らん迷惑かけて、辛い思いさして、なのになんもできひん。
「いつまでも湿気たツラするのやめてくれる?謝られたって困るんだけど」
「…はい、すんません」
「はー…だからさ…」
「あの…病院とかは?もう行かはった?」
 尋ねると晴翔さんは少し目を逸らして「全部終わってから行く」と答えた。
 …なんやの、それ。そんなんで後から取り返しつかへんようなったらどないすんの。
「…なんで?行かな」
「うるさいな、お前に口出しされることじゃないんだよ」
「ヒビ入っとるかもしれへんやん。公演始まってからもっと悪化したらどないすんの」
「だからうるさい!僕の問題なんだよ、お前に関係ないだろ!」
「関係あるやん、俺のせいやんか!」
晴翔さんが声を張り上げるから、俺もつられて語気が強くなってまう。あかんと思って口元を抑えたけど、晴翔さんは今の俺の台詞にえらい腹が立ったんやろう。眉毛吊り上げてこれでもかとこちらを睨みはった。
「…ヒビが入ってようとなかろうと、出るんだよ僕は。降りれるわけないだろ」
「……」
「絶対に降りない。誰かに譲る気もない。分かったらどいてくれる?」
「…どかへんし」
「はあ!?」
なんやのこの人。なんでこんな意地ばっか張って、一人ぼっちで全部背負い込みはるの。誰かに頼ったらええやん。そんなことばっかしとったら、絶対いつかガタ来るやん。
「…あんた今、保険証持っとる?」
「は?なに…」
「持っとるのか持っとらんのか聞いとんの。どっちよ」
「…持ってるけど…」
「ほんなら行こ」
 俺はもう一度晴翔さんの手首を掴んで、少し強引に引っ張った。
 なんの説明もせえへん俺に晴翔さんは「だからなんだよ!」と騒いだ。離すまいと手の力をもっと込めたら「離せ」だの「聞けよ」だの「ふざけるな」だのなんや色々言うたきはるから、俺はもう全部シカトした。
「うっさい、あんた話通じひんやん。話したって無駄やし」
「話が通じないのはお前だろ!?」
「どんだけ声量あんの、うっさいわもう」
俺は歩みを止めず目的地までズンズン進んだ。晴翔さんは俺の手を振り解こうと必死んなっとったけど、俺が離す気ないと悟ったんか、途中から大人しゅうなった。

 程なくして、ようやくある場所に辿り着く。
 建物の壁面に大きく掲げられた「◯◯接骨院」という文字に気づくと、晴翔さんは俺の隣でうんざりしたように溜息を吐いた。
「…だから…お前なぁ…」
「とにかく一回診てもらいよし。診てもろたら良くなるかもしれへんやん」
「だから!いいって言ってるだろ!!」
「なんやの、もしかして病院怖いん?」
「怖くないわ!!」
入り口前で騒ぐのも迷惑やから、取り敢えずつべこべ煩いこの人を連れて中へ入る。すると受付の人が「こんにちは」と穏やかに笑って会釈した。
「ほら、保険証出し」
「…お前ほんと…人の話聞けないのか…?」
晴翔さんがぶつくさ言うのと同時に受付の人が「また手首やっちゃったんですか?」と、俺を見ながら心配そうに言わはった。
「あ、ちゃいます、今日はこっちの人の付き添いで」
俺が答えると受付の人は「ああ、そうだったんですね」と言うて、カウンター下からバインダーを一つ取り出した。
「えーと、初診の方ですよね?保険証、見せていただいて良いですか?」
「……」
「ほら、晴翔さん保険証」
「……」
晴翔さんは俺を睨みながら財布の中の保険証を取り出し、不満そうな顔で受付へ差し出した。
「ありがとうございます。では、お呼び出しまでの間にこちらの問診票、記入お願いできますか?」
晴翔さんは黙ってそれを受け取ると、俺に一言「ふざけるなよ」と文句を垂れてから奥のソファへ腰掛けた。
「………」
晴翔さんがバインダーに付いとったボールペンを握り、カツカツ音を立てながら問診票を埋めていく。俺はその様子をぼんやり見下ろしながら一息ついた。ちょっと無理やりやったかもしれへんけど、まあひとまず良かった。何とかこの人ここまで連れてこれて。
「…ここ、自分がいつも診てもらっとるとこ」
「…ふうん」
「センセ、優しいんや。そやから怖くないよ」
「だから…怖いなんて一言も言ってないだろ…」
晴翔さんは俺への態度とは裏腹に、割と真面目に問診票を書かはる。症状の詳細を書く欄、数秒悩んでは一行書いて、また悩んでから、更にもう一行書き足す。そんなよーけ書くことあるんやったら尚更、なんでもっと早く病院行かへんのよこの人。
「晴翔さん、熱とかあっても絶対測らへんタイプやろ」
「は?なんだよそれ」
「気合と根性でどうにかするタイプやろ、あんたさん」
「…うるさいな、お前に関係ないだろ」
この人、今までにもこういうことよーけあったんやろうな。でもきっとその度に、誰にも言わへんで、自分だけでなんとかしてきたんやろう。
 …それって、一体どんな気分なんやろう。しんどいんやろうか。
 気付いたら晴翔さんから目が離せなくなっとって、問診票を書き終わって立ち上がるこの人に「邪魔だけど」と言われてしもた。
 晴翔さんは受付へ問診票を提出すると座っとった元の場所へ再び腰掛け、足を組んで俺を見上げた。
「…出身、西の方なの」
「へ?」
「だから、生まれは関西の方なのかって聞いてるんだよ」
自分のことについて何か聞かれるなんて思ってへんかったから、答えるのがワンテンポ遅れてしもた。慌てて「うん」と頷くと、自分から聞かはったくせに、晴翔さんは全然興味なさそうに「ふうん」とだけ返した。
「一昨年まで京都おったんやけど、専門卒業してからこっち来てん。…えぇと晴翔さんは…こっちの人ですよね?」
「僕も生まれは関西。田舎なのが嫌ですぐ出てきたけど」
「えっ!ほんまに?」
「なんだよ、そんな驚くことじゃないだろ」
いやいや、意外や。てっきり生まれも育ちもこっちの人なんやろうなって思っとった。
「はー…。全然、訛りとか出たはらんですね。矯正しはったの?」
「僕の顔に合わないでしょ。だからこっちに出てきてすぐ直した」
「はぁ…あー…?なるほど…」
顔に合う合わんはよう分からへんから適当な相槌で間を埋める。…そんなこと、あらへんと思うけどな。まあそれを言うたところで「お前に関係ないだろ」って返されるだけなんやろうけど。
「山田さん。山田弦太さーん」
看護士が診察室の扉を少し開けて患者の名前を呼ぶ。何故かそれを合図に晴翔さんが立ち上がるから、俺は首を傾げた。
「や、なんで?今、山田さんって…」
「……じゃかぁしい黙っとれボケ」
舌打ちと共に吐き捨てて、晴翔さんが診察室へ向かう。俺はわけが分からんで、しばらくその場に突っ立ったままやった。
「……えっ」
数秒遅れでハッと気づく。嘘やん、もしかして今の、晴翔さんの本名?ヤマダゲンタって?
「……」
閉じられた診察室の扉を見つめる。へぇ、そうやったんか…ヤマダゲンタ。随分男らしい響きやなぁ。飛鳥晴翔って芸名やったんや。ほうか、知らへんかったなぁ。
 関西生まれのヤマダゲンタ。今日初めて知った晴翔さんの色々はどれもこれも意外で、俺は驚きを隠せへんかった。ああ俺は、あんたさんのこと何も、名前すら知らへんかったんやなあ。

 数十分後、晴翔さんが診察室から出てきはった。腰の具合はどうやったんか、センセにどんなこと言われたんか気になって俺は駆け寄る。
「えと…どうやった?」
「……入ってない」
「え?」
「だからっ、ヒビ入ってなかったって言ってるんだよ」
晴翔さんはほんでから「ふん」とそっぽを向いて腕を組んだ。
「…ほんま?」
「は?嘘言ってどうするんだよ、馬鹿じゃないの」
急に刺々しい物言いになるから、俺は思わず面食らう。なんかしら嫌味言うてへんとあかん病気なんかもしれへん、こん人。
「筋性腰痛?って言われて。施術してもらったらだいぶ良くなった。無理はしないようにって言われたけど」
「……ほーか…」
晴翔さんの言葉に俺は安堵する。安心して、嬉しくて、ほんなら肩の力が抜けて、長いため息と共に「良かった〜…」と呟くと、なんでか晴翔さんは口をひん曲げてちょっと嫌な笑い方をしはった。
「良かったね。これで罪悪感も責任も感じなくて済むもんな」
「は?」
なんや、すかたん言う人やな。俺は首を傾げた。
「いや、元気な体でお芝居できるってことやろ、良かったやんか。晴翔さん頑張ったはるし、それが台無しならんで俺も嬉しい」
「……」
俺の言葉に目を丸くして、ほんでから、なんでかよう分からへんけど晴翔さんはこっちをえっらい睨んで「あっそ!」と言うた。え、なんやの。
 会計を済まして一緒に整骨院を出る。ちらりと見ると、隣にいる晴翔さんは地面を睨みながら口をとんがらせて、なにか言いたそうな変な顔をしとった。
「…どないしたん?」
顔を覗きこんで聞いてみる。晴翔さんは勢いよくそっぽを向いて、やたら小さな声で呟いた。
「…まあ、自分一人じゃ来なかったかもしれないし。骨に異常ないって分かったし。…それは良かったかも」
「うん、ほんま良かった。俺も嬉しい」
「う、うるさい!ヘラヘラしながら笑うな!」
本音をそんまま言うただけやのに、え、なんやの。
「じゃ、これで満足したでしょ。いい加減もう僕に構うなよ」
晴翔さんがその場から立ち去ろうとする。
 うんざり顔、あからさまな溜息、刺々しい言い方。やっぱり晴翔さんはとっつき難くて気ぃ強くて、話し易さのカケラもあらへん。そやけどなんでやろ、今までは好かんって思っとったのに、今は、嫌いか言われたら…そうでもないかもしれへん。
「…晴翔さん」
「……なんだよ」
こん人の為に俺ができること、なんもないって思っとったけど、ちゃうやん。たった一つだけあったやん。
「俺、世界で一つだけの、晴翔さんの為の椅子作ります」
「……」
「迷惑かけてほんますんませんでした。全力で頑張ります。本番まで、待っとってください」
 丁寧に頭を下げた。ほんまに、それしか俺には出来ひんから。そやけどそれだけは、魂込めれる。100%の力で最後までやりきれるから。
 頭を上げると、晴翔さんは腕組みしながら俺をじっと見とった。
「あっそ。…まあ頑張れば」
相変わらずいけずな言い方やけど、ええ。もうあんま気にならへんし。この人たぶん素直に言葉にできひん人なんやろうな。勝手な解釈やけど、そう思ったらなんや微笑ましくなった。
「うん、頑張るさかい」
「だからヘラヘラしながら笑うな」
最後にお馴染みのセリフを言われ、ほんでから俺は晴翔さんの背中をしばらく見送った。
「…よっしゃ、やるか!」
 足早に駆けて安いチェーン店の飯屋に入る。夕飯を食って俺はまた製作部屋に一人戻った。
 可愛げのカケラもあらへん晴翔さんの言葉の数々を思い返しながらたまにちっさく笑ろて、トンテンカンテン釘を打つ。その日もまた始発の時間まで俺は作業に没頭した。






 翌日。本番まで残すところ二日。椅子の形はもう大体出来上がって、あとはヤスリがけと塗装作業のみゆうところまで来た。
 途中、班の仲間が数人で訪れ、俺を労いに来てくれた。差し入れにモンエナとマクドのポテトも持ってきてくれて、俺は感謝しながらそれを受け取った。
「どう?終わりそう?手伝う?」
仲間の一人がそう言うてくれたけど、俺は首を横に振る。
「おおきに。でもだいじょぶ」
ガシガシとヤスリをかけ続ける俺に、その仲間は笑ろた。
「メチャクチャ頑張るじゃん。まあでもあんな風に言われたらそりゃ、ぜってー見返すみたいな気持ちにもなるわな」
仲間の言葉に俺は「んー…」と数秒考え、自分の素直な気持ちを伝えた。
「なんかな、あの人多分むっちゃストイックなんよね」
「ん?晴翔さんが?」
「うん。そやから、ストイックにはストイックで返さなあかんなぁと思って。反省とかなんぼしてもな、あんま受け取ってくれへんのよあの人」
「ふーん?キツくて我が強くてってイメージしかないけどな、俺は」
「うん、それはムチャクチャ合うてる」
頷くとそいつは笑って「まあ無理し過ぎないようにね」と言いながら俺の肩を優しく叩いた。
 仲間ら数人が部屋を出て行き、俺はまた一人になる。なんとか今日ヤスリがけ終わらして、塗装までいかなあかん。また終電には乗れへんやろう。

 ほんでから、時計の短針が4周くらい回った時のこと。差し入れに貰ろたモンエナとポテトも空んなって、そろそろご飯でも食いに行こうかと思い始めた時や、部屋の扉が開いた。
 また仲間の誰かが労いに来てくれたんかな思って顔をあげたら、そこには予想もしてへん人が立っとった。
「…晴翔さん」
晴翔さんは小さな買い物袋一つぶら下げて、腕組みしながら俺を見下ろしとる。
「え、どないしたの…?」
「お前が口だけじゃないか見にきてやったんだよ。また中途半端なもの作られても困るしね」
晴翔さんはほんでから俺の近くまでやって来て、無言で買い物袋を差し出した。
「…え、なに?」
「要らないから。お前にやる」
「……」
袋を受け取って中身を見てみる。コンビニの店のマークが印字された袋の中には、おにぎりとお茶と、それから豚平焼きが入っとった。
「…俺に、買うてくれたの?」
「は?勘違いするな。小銭減らしたくてついでに買っただけ」
「……」
晴翔さんのこの時の言動に思わず吹き出してしもた。そやかてこんなの、かいらしやんか。なんやのこの人。
「…ぶふっ…。あ、いや、おおきに」
「あ!?おんどれ、なに笑っとんじゃ!!」
「や、笑ろてない。ほら、こういう顔やし」
「じゃかぁしい!なめとんか!!」
ヤスリがけを一旦中断して、俺は袋の中からおにぎりと豚平焼きを取り出す。豚平焼きの容器を持つとぬくくて、ああわざわざレンチンも店員さんにお願いしてきてくれはったんやなぁ思った。
「うまそ。早速やけどいただきます」
晴翔さんはまだ何か文句を言いたそうな顔しとったけど、俺が食べ始めると「ふん」と言ってそっぽを向いた。
「俺、コンビニの粉もん結構好きやし」
「…へえ。だから?」
「そやから嬉しい。おおきに」
「……」
ほんまこの人、ごめんとかありがとうとか全然素直に受け取れへんのやな。への字に口曲げて、なんや子供みたい。
「…この前、衣装の人に聞いたんだけど」
晴翔さんが前触れもなく、そないなことを言い始める。
「うん?」
「大道具班の間で風邪が流行ったんでしょ?それで進捗が遅れて大変だったって」
「あー…うん、まあ…」
俺の歯切れ悪い相槌にイライラしたんか、晴翔さんは少し強めに「言えよ」と言わはった。
「あの時僕にそれを言えば良かっただろ。なんで黙ってたんだよ」
「いやそんなの、晴翔さんに言われたないよ」
「は!?」
「あんたさんも言おうとせえへんかったやん。おあいこやし」
「…っそれとこれとは、話が…」
豚平焼きを食い終わって、次におにぎりの包装を剥く。剥きながら、もしかして西生まれって話したから粉もん選んでくれはったんかなぁ思った。…なんや、かいらしなあ。
「なあ、そういえば晴翔さんの名前。ゲンタって」
俺がそう言うと途端に晴翔さんの機嫌が悪うなった。あんまり触れてほしくないんやろか。そやけど俺、こん人が出すピリピリしたこの空気、もうあんま怖ないかもしれへん。
「……あぁ?」
「どういう字なん?みなもとの源?それとも元気の元?」
晴翔さんはお決まりの「お前に関係ないだろ」を言うてから、しばらく間を置いて「弦楽器のげんだよ」と答えた。
「え、むっちゃかっこええ名前やんか。うわー羨ましい」
「はあ?どこがだよ、全然羨ましい要素ないだろ」
「え〜どないして?ええやん。自分の名前とかえことしてほしいわ」
俺の言葉に晴翔さんは片眉をほんの少し上げて、それから「なんでだよ」と尋ねた。
「俺の下の名前な、あー…悠夏なんやけど。悠久とか悠長のゆうに、季節の夏って書いて。なんや女の子みたいやろ」
「…へえ」
「そやから、ゲンタって響きええなぁ思って。羨ましいわ」
「……」
晴翔さんは押し黙って、一回俺から目ぇ逸らして、ほんでまた俺のことチラッと見て「初めて言われた」とだけ呟いた。この人も俺みたいに、いやもしかしたら俺以上に自分の名前にコンプレックスがあるんかもしれへん。
「……上は?」
「ん?」
「だから、苗字はなにって聞いてるんだよ」
「ああ、大和。大きいに平和のわで大和や」
「…ふうん」
晴翔さんはそれっきり、もう何も言わへんかった。今もしかして俺のこと「お前」やなくて苗字で呼ぼうとして、呼べへんかったんやろか。…え、なんやの。かいらし。
「…なあ、弦ちゃんって呼んだらあかん?」
「は!?」
俺の申し出に目ぇ見開いて、晴翔さんは叫ぶようにその一文字を漏らした。
「晴翔さんやなくて、弦ちゃんって呼んだらあかん?そっちのがしっくり来るんやけど」
「い、いいわけないだろ!お前馬鹿か!?」
「ええやん。心ん中だけで呼ぶから」
「こっ…心の中って…お前っ…」
「他に人がおる時は呼ばへんから。な?」
「……」
晴翔さんはしばらく口をぱくぱく動かして、そやけど俺の意志が変わらへんことを理解したんか、諦めて溜息をついた。
「……勝手にすれば」
「え、うそ。嬉しい」
「…っダメだって言ったところで、人の話聞かないだろお前!」
「ふ…あー、そうやね」
「だからいちいちヘラヘラするな!」
睨んで怒鳴って、ほんで「帰るから!」と言うて、晴翔さんは部屋を出て行こうとしはる。ドスドス音が鳴りそうな足取りも、照れて怒ったはるだけなんかもしれへん思ったら、なんやかいらしく見えてくるから不思議や。
「弦ちゃん。差し入れおおきに」
「じゃかぁしい!!はよ作業せえや!!」
扉が乱暴に閉められて、俺はまた部屋に一人きりになる。
「…えー、なんやのあの人…」
呟いた一人ごとが、おにぎりと一緒に口の中へ消えていく。赤い顔して怒鳴るあんたさんのことを思い出して、なんでか口元が緩んだ。
 弦ちゃん、ほんまおおきに。全力出して頑張るさかい、本番まで待っとってな。
 日付が変わりそうな時刻、俺は空っぽの豚平焼きの容器におにぎりの包装を閉まって作業を再開した。






 翌々日。日付はいよいよ公演初日。その日の深夜二時にようやく椅子は完成した。もう俺は疲れ果てとって、なけなしの力を振り絞ってスマホのアラームをセットしてから、気ぃ失うようにしてその場で眠った。
 朝の七時になんとか起きて、椅子を梱包材で包む。空っぽの胃袋と一日分伸びた髭を携え、俺は劇場にその椅子を搬入した。
 正直寝不足と疲労で身体中ボロボロやったけど、ほんでもこの達成感の前にはそないなもん、些細なことに感じた。
 ええもん作れたと思う。ほんまに全力出せた。どないかなあ、弦ちゃんは認めてくらはるやろか。なんやちょっとドキドキするな。
 劇場に関係者、出演者、裏方組が集まって最終準備を進める。公演が始まるのは数時間後。全員が必死んなって作り上げたものを披露する瞬間が、いよいよやって来はる。成功を祈って、緊張と高揚に胸を震わせながら、みんな着々と準備を進めていく。
「大和、おはよ」
××が、最初に使う背景を運びながらすれ違いざま俺に声をかけた。
「うん、おはよう」
「間に合って良かったじゃん。お疲れ」
「おおきに」
笑ろて答えると、そいつさんは「あ」と言うて俺の顔をまじまじと見た。
「もしかして家帰ってない?髭と寝癖やば」
「うん。…え、そんなやばい?」
「うん、あはは。ウケる」
「いやどないして。ウケ狙ってへんよ」
ゆるりとツッコんで、物が置かれた後のバミリを俺は剥がす。
 舞台上はどんどん完成していった。予定より十五分前倒しで、いよいよ全ての作業が終わった。

 開幕十分前、劇場はほぼ満席やった。舞台袖からその光景を覗いて、俺は改めて役者さんらに畏敬の念を抱いた。
 撮り直しも巻き戻しもあらへん、全部の瞬間が一発本番の言い訳できひん世界で、これでもかって魂込めて役を演じはる。一体そこから見えるんは、どないな景色なんやろう。その光景を俺は知らへん。きっとこれからも一生知ることはないんやろう。
 舞台裏通路のドアが開き、衣装班メイク班数人と役者たちがぞろぞろと袖に現れる。
 弦ちゃんもその輪の中におって、精神研いだはるんやろうか。えらい静かで鋭い目をしたはった。
 弦ちゃんが舞台中央を見つめる。間も無く開幕時間になることを会場アナウンスが伝える。
「…みんな、持ってるもの全部出すよ」
弦ちゃんの周りにおる人らが、気合の入った返事をする。弦ちゃんは頷いて、ほんでから不敵に笑ろうた。
「ファビュラスな、唯一無二の舞台にするよ!」
弦ちゃんの一声に、その場におった全員が「おう!!」と呼応する。
 ブザーが鳴る。弦ちゃん…いや飛鳥晴翔が、舞台の中央に凛として立つ。緞帳がゆっくりと上がって、スポットライトが彼を照らした。
「……」
 眩しい人やと思った。強くて鋭くて、ああ、かっこええなって、この瞬間の為にきばり続ける人なんやって、魂全部ここに宿らせる為に生きたはるんやって。舞台袖から、俺はひたすらそう思った。






 物語は飛鳥晴翔の歌声から始まる。壮大な弦楽器の音色に合わさるようにして、強くて綺麗なその歌声が劇場中に響く。
 前の方の座席、ハンカチを口元に当てて震えながら聴いたはるお客さんを俺は何人も見た。俺も胸が震えるような思いやった。飛鳥晴翔の歌声が鼓膜を貫いて、骨にまで響く感覚がした。
 歌が終わり、シンガーは孤独を嘆く。えらい長い独白のセリフを飛鳥晴翔という役者が魂込めてなぞる。俺は孤独をよう知らへんけど、ほんでもそのカケラが確かに見えるような気がした。飛鳥晴翔の演じる役が舞台の上で命を灯す。今あそこに立ったはるのが、もう俺には物語の中のシンガーにしか見えへんかった。
 シンガーは両親の葬儀のため故郷へ帰る。そやけど故郷の人は誰も彼を歓迎せえへんった。謂れのない噂、成功者への僻み、嫉み。彼は悲しみさえ誰とも分かち合えへんまま、煙になった両親を見上げる。
 自分の家に帰っても「おかえり」と言うてくれる人はいーひん。この日から鏡の中の自分が動き出す幻覚を見てまうようんなって、彼はそないな自分に怯えた。
 鏡の向こう側の自分は自分に幾度も問いかけてくる。それが怖くて、耳を塞ぎながら、一つも聞こえへんようにと彼は歌を歌った。
 彼が歌うと左右対象の彼も歌った。歌声はまるで元が一つやったかのように重なる。そして哀しくて途方もない、美しい歌を紡いだ。
 物語中盤、舞台は暗転。俺たち裏方が急いで背景や小道具を置き換える。俺の作った椅子が、いよいよ舞台の上に置かれた。
 照明が点いて、彼を照らす。彼は舞台の真ん中、たった一脚の椅子に背を預けて天を仰ぎはった。
「………」
俺は舞台袖で息を呑んだ。弦ちゃんが、座ったはる。俺の作った椅子に。
 なあ弦ちゃん、俺の魂そこに宿らせたよ。…聞こえる?見える?
『孤独を教えてくれる誰かさえ、僕にはいない』
哀しみを嘆いて、身体を後ろ向きにさしてから彼は椅子の背もたれに突っ伏した。座りながら、まるで椅子を抱きしめるようにして彼は顔を埋めた。
 それはほんまにたった一瞬の、小さな小さなアドリブやった。そやけど俺の目は釘付けになって、その一瞬に心ごと掴まれて、気づいたらなんでかよう分からへんのやけど、視界の先の景色が揺らいでしもた。
 近くにいた××が俺の背中を優しく叩きはるから、俺は慌ててペンキ汚れでばばちい服の袖で目元を拭う。あかん、感極まってる場合やあらへん。まだ終わってへんし。
 物語はもうすぐ終わりを迎える。シンガーは高層ビルの屋上で歌を歌った。夜景は美しく瞬くのに夜空に星は一つもあらへん。火花が飛び散るかと思うほど激しい歌声が最後の小節を奏でて、それから暗転、何もない暗闇の中、頭の中にこだまするような声が聞こえる。鏡の向こう側の自分の声や。たった一言、終わりを告げる言葉を唱えて、そして静かに、命の糸が切れるみたいにして幕が降りる。

 数秒後、まばらな拍手の音が次第に大きくなり、最後は大喝采になった。幕の向こうでそれは沢山の花吹雪みたいに、出演者とスタッフ、そして飛鳥晴翔の元に降り注いだ。
 出演者が舞台袖へ捌ける。弦ちゃんはその人の輪の中心におって、肩で息しながら流れる汗もそんままにして、みんなの背中を強く叩きはった。
「みんな!良かったよ!!この音聞こえる!?」
弦ちゃんが太陽みたいに笑う。周りの全員が頷いて、笑ろて、肩を組み合うて、喜びを分かち合うとる。
「…なんて顔してんのさ」
弦ちゃんがこちらをチラリと見て不敵に笑ろた。俺はなんも答えられへんで、目の前にいるこの人があんまりかっこええから、半分放心しとった。
「カーテンコール行くよ!最後までファビュラスに!」
弦ちゃんが先頭に立って、出演者たちがもう一度舞台へ上がる。幕が上がると、客席から拍手に交じって「晴翔くん!」という声がいくつも聞こえた。
「ありがとう!」
深いお辞儀をして、弦ちゃんらはもう一度喝采を浴びる。幕が降りきった後も拍手が聞こえなくなるまで、みんな頭を下げ続けたはった。
「………」
 どうしてか、俺はその時図工のセンセの言葉が頭を過ぎっとった。

『神さんはな、ぎょーさん種類おって、ほんで、どんな場所にもやって来てくれはるんや』

 …なあセンセ、おるよ。今、俺の目の前におる。
 心臓の真ん中に、演劇の神さん住んどる人がな、俺の目の前にいたはるよ。
 眩しくて、綺麗で、あんまりにもかっこええから、視界にまた涙の膜が張って、弦ちゃんの姿が揺れてしもた。








■ ■ ■








 あの公演から二ヶ月。ついこないだ十月になったばかりや思っとったのに、気づけば今月ももう半ばや。
 弦ちゃんとはあれきり、また、あんま話さへんようになってしもた。ずっとトップに居続けとる弦ちゃんは、遠くからやけど見とると時々しんどそうで、無理してへんかな、本当は苦しいけど途中でやめられへんしってなってんちゃうかな、そやから必死でしがみついてんちゃうかなって、ハラハラしてまうこともある。
 そやけどやっぱり弦ちゃんは一度も弱音を吐かへんし、弱ってる素振りだって誰にも見せへん。いっつも気ぃ張って、一番前にしっかり立って、その場所に居続けようとしはる。
 十月の終わり、もうすぐとあるイベントがやってくる。GOD座も毎年参加しとる、天鵞絨商店街で催されるハロウィンのイベントや。

「は〜、束の間の休息だ〜死ぬ気で羽伸ばすわ〜」
大道具班の数人で集まった飲み会、隣の席の××が気持ち良さそうに生ビールを煽ってそないなことを言う。
「ふ、死ぬ気で羽伸ばすってなんやの」
「いやホント本気で伸ばすよ俺は。ハロウィンコンテストまでに彼女作るんだもん」
「うそ、初耳よそんなん」
「うん初めて言った。大和も誰かと回ったら?一緒に彼女と仮装してさ〜絶対楽しいじゃん」
確かにハロウィンコンテストは楽しい。商店街中賑やかんなるし、露店もようけ出るし、本気の仮装しとる人もぎょーさんおる。あちこちで劇団同士のエチュードバトルが見られるのもおもろいし、大道具班や照明班は特に作業があらへんから、それらをお客さんとして純粋に楽しめる数少ないイベントや。
 最後にはお客さんからお菓子を一番多く集めたペア(つまりコンテストの優勝者ゆうことや)が、特設ステージで芝居をすることにもなっとって、それを目標にしとる劇団も多いらしい。
「そやけど、衣装班とメイク班の手伝いとかあるんとちゃうの?いつも助けてもらったはるし、こん機会に力ならんと」
「あ〜、そこから始まる恋ってわけね。一理ある」
そんなつもりで言うてへんけど、まあ楽しそうな××を見とったら、わざわざ訂正する必要もないかと思い直して俺は緩く頷いた。
「大和もこの機会に始まっちゃうかもな。へへ、ダブルデートとかなったりして。楽しみ」
「なんや自分さっきから、中学生みたいなこと言わはるね」
「あははウケる。そうよ、心はいつまでも15歳よ俺」
生ビールを空にする××の隣で俺は焼酎をちびちび飲み進める。
 うーんそうかあ…恋愛なあ。今はあんまり興味あらへんかも。






 飲み会から数日後。早速、衣装班のメンバーからヘルプ要請の連絡が入った。コンテストまで残り数日、どうやら細かな装飾品の取り付け作業が、少し押しとるらしい。
 俺は暇やったから二つ返事でOKした。もちろん彼女作るて豪語しとった××も。なにか期待しとるんかもしれへん。

「…それでね、このフードの淵に、このフワフワをこういう感じでつけていってほしくて…」
衣装班の人にやり方をおせてもらいながらウンウン頷く。裁縫とか刺繍とか細かいことはできひんけど、こういう、工作の延長みたいなことなら自分でも少しは力になれるかもしれへんから良かった。
 製作部屋は衣装班の人らと、それから助っ人で来とる人らで賑やかや。
「んーと、こんな感じでええ?」
「うん、ばっちりだよ」
「ほんま?良かった。おせ方上手なお陰やね」
「……へへ」
自分の向かい、トンガリ帽子に花のコサージュ縫い付けとる衣装班の女の子が、小さく笑ろた。
「あの…手伝ってくれてありがとう。大道具の人たちにはいつも助けてもらってるね」
「そんなことないよ、めっそうな。いつも助けてもらっとるのはうちらやし」
この前ん時も、インフル流行ったせいでほんまあかんかった時、衣装班の人らにもよーけ助けてもろた。思い返しながら、俺はひたすら狼男の衣装、そのフードの淵に灰色のフワフワを付けていく。
「…あの、大和くん…」
「うん?なに?」
向かいの女の子は一度手を止めて、俺に声をかけはった。
「コンテストの日、誰かと回る予定…あったりする…?」
「ん?あらへんけど」
あ、そやけど友達に誘われるかもしれへん。そう付けたそう思って顔をあげたら、女の子が安心したように息を吐いて、ほんでから「そしたら」と言うた。
「あの、もし良かったら…一緒に回りませんか」
衣装班と大道具班の何人かで一緒に回ろゆうことかな。俺は頷いて「ええよ」と返した。
「え、ほんと!?あの…えへへ、嬉しい」
「ほんなら俺あっちの、ボーダー着とる男おるやろ、あいつさん誘っとくさかい。みんなで行こ」
斜め後ろで作業しとる××を指しながらそう言うと、なんや女の子は急に複雑な顔をしはった。
「…あ、うん…」
困った顔しながら笑いはるから、俺はその一瞬で「もしや」と思った。
「…あ、かんにん。…もしかして××んこと苦手やった…?」
俺がちっさい声で尋ねると、女の子は慌てて首を横に振った。
「ううん!違うよ!…あの、そしたら私も衣装班の仲良しな友達、誘っておくね」
なんやほうか、俺の勘違いやった。良かったわ。
「うん、おおきに。××も喜ぶと思うわ」
「…うん、えへへ」
また女の子はコサージュ縫い付ける作業を再開しはった。俺もフワフワ付ける作業にまた戻って、付けながら、あいつさんほんまにむっちゃ喜ぶんちゃうかな思った。

 数日後、ハロウィンイベントの一週間前に衣装は無事完成した。班ごちゃ混ぜのみんなで製作部屋を後にして、ご飯行こうとか飲み行こうとか、お互いを誘い合うたはる。
「ねえ大和、飯食いに行こ」
××からいつものように誘われ、俺は腹を撫でながら頷いた。
「うん、もうペコペコや。どこ行く?牛丼行く?」
「いやファミレスにしよ。◯◯さんと●●さんも一緒だし」
「え、いつの間に誘いはったの」
驚いて尋ねると、××はニヤリと笑ろた。
「当日一緒に回るんだしさ、親睦深めとかないと。…でさ、大和俺の隣座ってよ。俺緊張しぃだからうまく話せるか分かんない」
「なんやの、頼もしいんか頼もしくないんか、どっちよ」
「どっちもなの、お願い」
友達の素直な言葉に思わず笑ろてしもた。こいつさんのこういうかいらしとこ、知ってもらえるとええんやけどな。
「ほんならみんなで一緒行こか」
 ほんでから俺ら二人と衣装班の女の子二人でファミレスへ向かう途中、ハロウィンコンテストのこととか演者さんらのこととかが話題に挙がった。
「今年は狼男がジェイさんで魔法使いが晴翔さんでしょ?私ね、晴翔さんの採寸初めてさせてもらったんだけど、ホントに細いの」
女の子が両手で幅を作って「ウェストこれくらいだったよ」と言わはる。もう一人の女の子は頷いて、友達は「マジか〜」と驚いとった。
「げ…晴翔さん、魔法使いの衣装似合いそうやね」
「うん。今年はね、ワインレッドのサテン生地がベースでね、晴翔さんが着たらすごく映えると思うんだ」
女の子が嬉しそうに笑う。衣装を着とる弦ちゃんを想像して、俺も嬉しゅうなった。
「げ…晴翔さん、去年は狼男やったんやっけ。念願の魔法使いやね」
「そうだよ!衣装班もみんな超気合い入ってたもん、ファビュラスな衣装作るぞー!って」
 GOD座には昔から変わらへんルールがある。その時の劇団トップが魔法使い役を、それを支える準トップが狼男役をやるゆうルールや。
 去年のことは知らへんけど、俺より長くここにおる人から聞いた話によると、どうやら去年弦ちゃんは魔法使いやなくて狼男やったらしい。ほんで、特設ステージに上がったんはGOD座やなくて、なんて言うたはったかな…あかん、忘れてしもたけど、とにかく別の劇団やったんやって。
 弦ちゃんはきっと、そっから血の滲むような努力しはって、今の地位を掴み取ったんやろう。多分ひとりぼっちで、誰にも弱さ見せへんまま。
 苦しいことぎょーさんあったやろう思う。神木坂さんにキッツイこと言われたことも、もしかしたらあったかもしれへん。
 ほんでもひとり、きばり続ける弦ちゃんの姿を思ったら、なんや切なくなった。
「…優勝してほしいなぁ。げ、晴翔さん」
「うん。衣装班のうちらも本気で頑張ったし、大和くん達みんなにも手伝ってもらったし、晴翔さんとジェイさんには特設ステージ行ってほしい!」
女の子が両手をグッと握って、胸の前で拳を二つ作る。
 なあ弦ちゃん、弦ちゃんのこと応援しとる人、きっと弦ちゃんが思っとる以上にぎょーさんおるからね。前向いたまんまでええから、忘れんとってね。
「ねえ、大和なんでさっきから「げはるとさん」って呼ぶの?あだ名にしては独特過ぎない?」
数歩ぶん前を歩いとる友達がそんなことを聞いてくるもんやから、俺は慌てて誤魔化せる方法を探した。
「いや、えーと、あー…さっきから無性に喉がかゆかってん。ゲホッ、ゲホッ」
「…えー?」
全然あかん、変な顔されてしもた。失敗や。
「あ〜…いま何時かな。むっちゃお腹空いてしもた」
話題を変えたくて、時間を確認するためスマホを探す。そやけどスマホがいつものポッケに入っとらへん。俺は空っぽのポッケに片手を突っ込みながら、そういえばと思い出した。
 そうやった、作業中は屈むしなんや邪魔んなるな思って棚の方に置いたんやった。ほんで、そのままにしてしもたんや。
「…あかん…製作部屋にスマホ忘れてきた…」
「あらら」
友達が「取りに行くなら待ってようか?」と言わはる。女の子二人もそれに頷いてくれとったけど、俺は「ええよ、先にお店行っとって」と伝えて踵を返した。






 製作部屋のある建物まで戻り、入り口前の機械に関係者専用カードのIDを入力する。ドアのロックが解除されたんを確認してから中へ入って、ほんでから数階上の製作部屋へ行くため、通路奥にある階段へ向かう。
 公演が控えてへん今の時期、こんな時間まで残っとる人もいーひんやろな思っとったけど、一階の少人数用稽古場の電気が点いとるから、俺はあれ?と思った。なんや、消し忘れやろか。
 ちっさな扉ガラスから中の様子を伺う。すると部屋の中、一人で練習しとる人がいはった。後ろ姿だけですぐに分かる。…弦ちゃんや。
「……」
弦ちゃんは魔法使いの杖を持って、練習着で一人、練習をしとった。ハロウィンイベントに向けて個人練習をしとるんやろう。ドア越し、魔法使いのものやろうセリフが微かに聞こえる。
 …なあ弦ちゃん、無理してへん?つらない?ちょっとでも疲れてしもた時、気軽に「疲れた」って言える誰か、ちゃんとおる?
 弦ちゃんに聞きたいことが頭の中になんぼか湧いて、そやけど、どれも聞けへんなぁ思った。
 だって全部、答えは決まっとる。「無理してない」「つらくない」「いなくていい」。弦ちゃんが言うやろう言葉が、すぐに想像できた。
 その時や。弦ちゃんが体を反転さしてこっち振り返るから、扉越しに俺は気付かれてしもた。
 途端に不機嫌な顔なって、弦ちゃんはこちらへ近づいてきはった。まさか鍵を閉められてまうんかな思ったけど、違ごた。弦ちゃんは内側から扉を開けて、俺に「勝手に覗かないでくれる」と言うてみせた。
「なに?なんか用?」
「……あ、いや、あの、製作部屋にスマホ忘れて、ほんで取りに来てん」
答えると弦ちゃんは「あっそ」言うて、首にかけとるタオルででぼちんの汗を拭った。
「…弦ちゃん、一人で練習したはるの?」
「は?それ以外どう見えるんだよ」
あ、いつにも増してピリピリしとる。弦ちゃんの出すつんけんした空気に、俺は少したじろいでしもた。
「早く取りに行けば?覗かれてるとやりにくいんだけど」
「……」
弦ちゃん、少し痩せた。女の子が言うとった言葉を思い出して弦ちゃんのお腹回りを俺はチラリと見る。もしかしたら両手で一周できてまうんちゃうかなぁ。余計なお世話やってわかってんけど、ちゃんと食べたはるんかなぁなんて考えてまう。
 こんなほっそい体で、一人きばりはる。…ねえ、なんで?なにがそんなに弦ちゃんを奮い立たせるん?
「……弦ちゃん」
「なんだよ」
そやけど「心配」はきっと、あんたさん受け取ってくれへんから。「シケたツラ」ゆうんもどうやら好かんらしいから。そやから俺はゆるゆる笑ろて、こう言うしかあらへんのよ。
「むっちゃ応援しとるよ。頑張ってな」
「………」
弦ちゃんは丸っこい目を数回パチパチさして、ほんでから俺を睨んだ。
「……ふん」
両腕を胸の前に組んでそっぽ向く。ピンクの髪がそん時フワッて揺れて、あ、触ってみたいなって、なんでか俺はぼんやり思った。
「………ありがと」
「へっ?」
弦ちゃんが口をポソポソ動かしてなんか言うとる。えらいちっさい声やったから聞き取れんで、俺は弦ちゃんの顔に耳近づけて「なに?」と聞いた。
「っ近いんだよ馬鹿!」
「なんやの、聞こえへんし。いつもあんなデッカい声のくせして」
「うるさい、何も言ってない!もう行けよ!」
弦ちゃんは急に赤い顔してからに、俺の体をグイグイ押して締め出そうとした。またよう分からへんタイミングで怒るなぁこの人。なんやの。
「…なあ、弦ちゃん」
「なんだよ、だから何も言ってないってば」
弦ちゃんはこの劇団のトップで、先頭に立ったはって、それに引き換え俺は裏方の、ぎょーさんおる中のただの一人や。そやからたぶん隣には立てへん。これからもきっと、あんたさんと同じ景色を見て肩を組み合うような関係にはなれへん。
 そやけど、ほんでもな、知っててほしいんよ。疲れた時背中預けられる背もたれが、いつでもあるって、弦ちゃんにはいつでもあるよって。
「苦しい時は言うてね。愚痴でもええよ。俺、いつでも聞くさかい」
「……」
弦ちゃんは少し黙って、ほんでから俺の胸辺りを拳で軽く叩いた。
「ふん。僕を誰だと思ってる?」
不敵に笑ろて鼻を鳴らす。弦ちゃんのこの強さを作ったんは誰って、ああ他の誰でもない。…弦ちゃんやね。
「誰かに頼らなくても、なんだってできるんだよ僕は」
無理しとるわけでも意地張っとるわけでもなくて、ありのまんまの事実を告げるみたいに、弦ちゃんは自信満々でそう言うた。
「…うん。そうやね」
「なめないでくれる?」
「弦ちゃん、かっこええなぁ」
「ふん。そんなの今更なんだよ。何年ここで役者やってると思ってる」
「うん。かっこええ」
「ふん」
「弦ちゃん、ほんまかっこええ」
「っ…しつこい!何回同じこと言うんだよお前!」
そやかてほんまにそう思うんやもん。かっこええんやもん。なんべん言うたって足りひんよ。弦ちゃんみたいな人今まで会うたことない。どんな強い風が吹いても絶対倒れたりせえへん、まるで凛と咲いとる一輪のお花みたい。
「…そろそろほんまに練習の邪魔やね。ほんなら俺、もう行くし」
ずいぶん長いこと立ち話に付き合わせてしもたなと気付いてそう言うと、弦ちゃんはまたさっきみたいなちっさい声で「大和」って、初めて俺のことを呼んでくれはった。
「…へへ、なに?今度はちゃんと聞こえた」
「は?うるさいんだよ、いちいち笑うな」
「はいはい、かんにんな。…ほんで、なに?」
続くはずやった言葉を催促する。弦ちゃんはほっぺた少し赤うして、それから言うた。
「お前も、まあ、僕には敵わないけど…かっこいいんじゃない。多少は」
…え、信じられへん。弦ちゃんが、唯我独尊で天邪鬼の塊みたいなあの弦ちゃんが、人のことを褒めとる。
「あの時、お前が作り直した椅子。…悪くなかったんじゃない」
え、嬉しい。どないしょう嬉しい。弦ちゃんからそんなん言うてくれるなんて、思ってもおらんかった。
「……ほんま?」
「僕が言うんだから間違い無いでしょ。…だからまあ、自信持てば」
ほんでから弦ちゃんは、きっとほんまはそれを言いたかったんやろう。目を伏せて、たっぷり間を置いてから最後に言うた。
「だからさ…あの時「適当な奴」って言ったの、訂正する。……ごめん」
「………」
あの時。ゲネプロん時、あんたさんに怒鳴られた場面が蘇る。
 なあ弦ちゃん、ずっと覚えとってくれたの。自分の言うたこと忘れんで、ほんでずっと気にしとってくれたの。謝らなって、俺にずっと思っててくれはったの。
 …なんやの、そんなん。弦ちゃんアホや。
「……えぇぇ…」
「?なに」
「…あかん……かいらし……」
俺のひとりごとの後「はあ!?」という弦ちゃんのデッカい声が廊下中に響き渡る。鼓膜がビリビリして、そやけど俺はそんなん気にしとる余裕があらへんかった。
「お前っ…そのいちいち思ったこと口にするクセなんなんだよ!?」
「ええぇ〜もう…弦ちゃんのせいやんか…今のあかんし…」
「あかんくないわ!!あかんのはおんどれじゃ!!」
弦ちゃんはこれ以上ないくらい大声張り上げて、ほんでからいよいよ俺を全力で押し出した。
「早く忘れ物取りに行けよ!帰れ!!」
言葉だけ聞いたらいけずやけど、顔が真っ赤やから全然そう感じへん。なんやの、ほんまかいらし。素直になれへん猫みたい。
 無性に頭撫でくり回したい気分なって、そやけどたぶんそんなんしたら火に油やろうから、俺はグッと我慢した。
「ふふ。じゃあね弦ちゃん」
「うるさい早く行け!」
手を振って、俺はまた廊下を進む。背後で扉が勢いよく閉まる音がして、その乱暴さにもちょっと笑ろてしもた。
「…ほんまかいらし」
 もっと仲良うなりたいな。弦ちゃんのこと、俺もっと知りたいよ。そう言うたらどんな顔する?また怒鳴って「じゃかあしい」とか言う?…あかんなぁ、想像しただけでかいらしわ。
 製作部屋、棚の上のスマホを見つけホーム画面を見ると××から『遅いよ』『緊張で漏れそう』『早く帰ってきて』と立て続けにメッセージが来とった。あかん、早よ戻らんと。
 『今から行くよ。それとトイレ行っとき』と返信して、俺は急いでみんなの元へ戻った。






「大和見てあれ。カボチャ型のたい焼きだって」
「うん?ああほんまや」
「あっちタコ焼き売ってる。中身ロシアンルーレットだって。おもしろそ」
「…ねえ、俺やなくて〇〇さんと●●さんにおせてあげたらええんちゃう?さっきから男女別行動みたいになっとるよ」

 あれから一週間。今日はいよいよハロウィンコンテスト当日。天鵞絨商店街はそこら中カボチャとコウモリの飾りで溢れ返っとって、まるでどっかのテーマパークみたいやった。
 仮装しとる人もぎょーさんおる。少し前を歩く衣装班の女の子二人も、シマシマ柄の猫(チェシャ猫ゆうんやって)の仮装を色違いでしとった。
「え、だって…可愛すぎて直視できないじゃん…」
「なんやの、彼女作るて豪語しとったの誰よ」
「誰だっけ」
「アホ、あんたさんや」
「アハハ、ウケる」
笑いながら「ウケへんよ」と返すと、前を歩いとる女の子二人が俺たちを「見て見て」と呼ばはった。
「メチャクチャかわいいよ。ほら、お菓子、猫とコウモリと魔法使いの飴!」
女の子二人がそう言うて立ち止まったのは飴ちゃんやチョコ、グミやマシュマロを並べとるお菓子のショッピングワゴンやった。
「ほんまや、ガラスで出来とるみたい」
「え、どうしよう欲しい…どれか一個買おうかな…」
女の子の一人が並んどるお菓子をじっくり見ながら呟く。俺も隣でおんなしように、上半身を少し屈めてお菓子を観察した。
「かいらしなあ。俺もどれか買うてみようかな」
「へへ、大和くんお菓子好き?」
「うん好き。こーゆーのも好きやし、羊羹とか葛餅とかの和菓子も好き」
「そうなんだあ。ふふ、なんか似合うね」
そうや、弦ちゃん今日魔法使いのカッコしとるんやし、これ買うておいて、後で渡せたら渡してあげよかな。俺は魔法使いの形した飴ちゃんを一つ取って、他にも弦ちゃんが喜んでくれそうなモンを探した。
「…あの、良かったらお揃いのやつとか…買いませんか」
隣の女の子がそう言うので、俺はウンウン頷いた。
「そーしよ。これちょうど四種類あるさかい、みんなで一個ずつ買おか」
「えっ……あ、うん…」
女の子の笑顔が一瞬すぼむ。あかん、まずいこと言ってしもたやろか。
「…あ、えーと…違うやつがええ?」
「ううん!これにしよう。…へへ、私はじゃあオレンジにしようかな」
あかんなぁ、今表情が曇った理由が全然分からへん。女の子って複雑なんやなぁ。
 ほんで、みんなで一個ずつ色違いのお菓子と、俺は他に魔法使いの飴ちゃん、あとは猫とコウモリのチョコを買うた。
 四人でお揃いのお菓子の封を開けて、口に入れる。女の子たちが楽しそうに自分らの買うたモンくっつけて写真撮っとるのを見ながら俺は、弦ちゃん今頃どのへんおるんかなぁとぼんやり考えた。
 その時や。ちょうど駅前広場の方からやろか、なんや聞き馴染みのある声が聞こえた。
「いちびっとんのか!!いてまうどコラァ!!」
「え、え?なに?」
××が飴ちゃんを齧りながら人混みの向こう側を覗こうと背伸びする。女の子ら二人も突然の怒声に驚いて、声がする方へ視線を寄せた。
「とっとと返さんかい!!」
「………弦ちゃん」
間違いあらへん、弦ちゃんや。もう一度響く怒鳴り声に、俺は吸い寄せられるみたいにして駆け出す。背後で女の子が「大和くん!?」と俺を呼んだけど、振り返ることもせんで声のする方へ俺は走った。
 人だかりを掻き分けて進む。思った通り、駅前広場には魔法使いのカッコした弦ちゃんが立ってはって、なんやよう分からへんけど、知らん男の子から大量のお菓子を奪っとった。
「いっぱしの劇団のくせに、芝居無しで勝つ気かい!!恥を知れ!!」
え、弦ちゃんむっちゃ怒っとるやん。なんやの、どないしたん。
 経緯を知りたくて、隣におった知らん人に「なにがあったんですか?」と聞いたら、親切なその人は一から十まで教えてくれはった。
「MANKAIカンパニーのお菓子をあそこの小さい子が盗もうとして…それでGOD座の、ほら、今メチャクチャ怒ってる人いるでしょ?あの人が取り返してあげたみたいです」
「…ほーか…。あ、すんません。おおきに」
隣の人に軽く頭を下げてから、もう一度弦ちゃんの方を見る。弦ちゃんの迫力に気圧されたんか、動物の耳のカチューシャ付けとる男の子はすぐさまその場から逃げ出してしもた。
 取り返したお菓子を元の持ち主である二人に渡す弦ちゃんを見ながら、俺はあることを思い出した。…そうや。去年特設ステージに登った劇団の名前。MANKAIカンパニーやんか。
「……」
ほうか。…弦ちゃんやっぱかっこええよ。正々堂々勝負したかったんやもんね。真っ向からぶつかって、今年こそ自分らが優勝するんやもん。最高の芝居して、勝たなな。…かっこええよ、弦ちゃん。
 後ろから背中をつつかれて振り返る。××と女の子二人が慌てた様子で俺の横に並んだ。
「もー大和…急にどっか行かないでよ…どしたの?」
「あそこ。弦ちゃんおる」
「げんちゃん?」
××が俺の指差す方を見て「あ、晴翔さん」と言うた。
「えっ、MANKAIカンパニーさんだ…!今からエチュードバトルするんだ…!」
女の子も遅れて気付いて、ほんでから両手を重ねてお祈りのポーズをした。
「晴翔さんジェイさん頑張れ…」
俺もおんなしように心ん中で祈った。弦ちゃん頑張れ。
 見とるよ。弦ちゃんは世界一かっこええって知っとる。絶対大丈夫やから、頑張れ。頑張れ。頑張れ。 

 弦ちゃんとジェイさんのエチュードが終わり、拍手が起こる。
「やっぱり晴翔のお芝居が一番好き!ペアの人も素敵だった」
「晴翔〜!かっこいい〜!」
近くにおった人らのそんな声が聞こえて、俺は拍手しながらじぃんとしてもて、なんも言葉にならへんかった。弦ちゃんは今日も演劇の神さんと一緒に、ほんま魔法使いみたいに、みんなの心を動かしはる。
「…いいよな、やっぱ。晴翔さんの芝居」
××が隣で呟くから、俺も黙って頷いた。
 俺が祈るまでもあらへん。弦ちゃんとジェイさんは今日一番お菓子をもろて、ほんで、沢山の拍手の音ん中、笑顔で優勝した。






 優勝した二人はその後、特設ステージでお芝居を披露することになった。
 俺らも全員特設ステージの客席に移動する。他の裏方組連中とも合流できて、みんなで近くに座り、二人のお芝居を見ることにした。
 弦ちゃんとジェイさんは、今日一日ずっときばっとったさかいきっと疲れとるだろうに、そんなもん一切感じさせへん最高のお芝居を披露した。数百人はおるやろうお客さんらが二人に向けて一斉に拍手する。
 衣装班の女の子二人はちょっと泣いとった。綺麗、最高、頑張って良かった、二人の為に衣装作れて良かった言うて、俯きながら目元にハンカチを当てとった。
 最後、お芝居を終えた後の二人に進行役がマイクを当てる。優勝おめでとうございます、去年の雪辱を果たせましたね、そんなことを言うてから、二人それぞれに今の気持ちを尋ねる。
「本当に嬉しいです!皆さんからもらったお菓子もこの後大切に食べます!」
ジェイさんが元気に言うてお菓子の入った大袋を掲げると、前の方のお客さんらが黄色い歓声を上げはった。ジェイさんはそのお客さんらに向かって「ガオー」と狼男役ならではのファンサービスで応えた。
「ジェイさんの狼男役、ワイルドでかっこよくて、それでいてコミカルでとっても素敵でした!ありがうございます!では、今回魔法使い役で挑まれた飛鳥晴翔さん、今のお気持ちをお聞かせください」
今度は弦ちゃんの顔の前にマイクが当てられる。弦ちゃんはにっこり笑ろて、ほんでから「最高の一日でした」と答えた。
「今年は、すごく心に残るコンテストになりました」
「ほう、なるほど…と言うのは、何故でしょうか?詳しく伺っても?」
進行役の人が更に弦ちゃんに質問をする。もう一度マイクを当てられた弦ちゃんは、一言ずつゆっくり紡ぐようにして、それに答えた。
「…途中、衣装が破れてしまうアクシデントがあって。だけど、それを直してくれた人達がいました。…すごく、感謝しています」
弦ちゃんはそこまで言うと顔をグッと上に向けて客席全体を真っ直ぐ見つめた。
「MANKAIカンパニー。…さっきはありがと」
客席のどっかから少し声が上がって、みんながそっちの方に目を向ける。視線の先には黄緑色の髪した子と黒髪の男の子、さっき弦ちゃんらとエチュードバトルをしとった二人がおった。二人はステージの上に立つ弦ちゃんと目を合わして、不敵に、けど嬉しそうに笑ろた。
 ライバルやけど、その間には勝ちと負けが必ずあるけど、ほんでもそれに掻き消されたりなんかせえへん絆がある。ありがとうを伝え合えるあったかいモンが、確かに流れとる。
 …弦ちゃん。俺、間違っとった。弦ちゃんは全然一人なんかやあらへん。応援しとる人らが、支え合う仲間が、一緒に戦うライバルが、こんなにぎょーさんおるんやね。弦ちゃんを強くするんは、そんな全ての人の存在なんやね。そやから弦ちゃんはこんなにかっこええ。こんなに眩しい。
 …演劇の神さんが弦ちゃんを見つけた理由が今ならよう分かる。あんたさんのところにやってきた神さんはさぞ幸せやろう。これ以上ないくらい、だって、あんたさんは演劇を愛しとる。
 デッカい大波みたいな拍手に囲まれ、舞台の上の二人は深くお辞儀した。弦ちゃんがトンガリ帽子のテッペンをこっちに向けて、綺麗な花のコサージュが少し揺れた。

 二人がステージから捌けて、進行役の人が「引き続きハロウィンイベントをお楽しみください」とアナウンスする。お客さんらが次々と席を立つのに、俺はしばらくの間体が動かへんかった。
「大和、もっかい商店街見て回る?俺さっきのタコ焼き気になっててさー」
先に席を立った××が俺の肩を数回叩いたけど、俺は数秒の沈黙の後首を横に振った。
「…俺、行きたいとこある」
「へ?」
××にそれだけ告げて、俺は席を立つ。「なに?どこ?」と聞かれたけど、俺は「かんにんな!」とだけ言うて椅子の間の通路を小走りで抜けた。緊張しぃの××のことや、女の子ら二人と一緒におったらまた「漏れそう」とか言うかもしれへん。ほんまごめん。文句なら今度たっぷり聞くさかい、今は見逃してや。
 …舞台裏、おるかな。なあ弦ちゃん、言いたいよ。大勢の内のその一人としての拍手じゃ足りひん。お疲れ様って、かっこえかったよって、嬉しいよって、全部全部見とったよって、弦ちゃんに直接言いたいんよ。

 人混みをかき分けながらやないと進めへんからえらい時間がかかってしもた。肩で息をしながらやっとの思いで、俺は舞台の裏手に辿り着く。
 簡易テントの解体や備品の片付けをするスタッフさんらを見渡しながら弦ちゃんの姿を探した。もしかしたらもうこの辺りにはおらへんかな。着替える為に更衣室とか行ってしもたかも。
 そう思いながら辺りをキョロキョロ見とった時。視界の少し先の方にあのトンガリ帽子を見つけた。弦ちゃんはまだ衣装姿のまんま、奥のベンチに一人座ってはった。
「弦ちゃんっ」
一度呼んで、駆け寄る。弦ちゃんはすぐさま顔を上げて、こちらに気付くと「大和」と俺の名を一度だけ呼んだ。
「……なに」
こっち側は出店も出とらんし、商店街より暗くて弦ちゃんの顔がよう見えへん。声だけ聞くとちょっと不機嫌そうや。疲れたはるんかな。
「あ、えと…ジェイさんは?」
「お菓子、車に運んでくるって。僕の分も一緒に持って行った」
「あ、そうか…」
トンガリ帽子を目深に被った弦ちゃんは、目元に影を落としたまんまチラリとこちらを見上げた。
「…僕に何か用?」
そう言われ、俺は慌てて鞄からある物を取り出した。
「あ、あのな、弦ちゃんにこれ渡そ思って」
お菓子専門のショッピングワゴンでさっき買うた、魔法使いの形の飴ちゃん、それから猫とコウモリのチョコを弦ちゃんに差し出す。弦ちゃんは何も言わず受け取ってから、まじまじとそれらを見つめた。
「……今食べていい?」
「うん、もちろんええよ」
弦ちゃんは飴ちゃんの包装を取って、ゆっくり口に運んだ。さっきからずっと俯きがちで、やっぱり顔はよう見えへん。
「…おいしい」
「ほんま?良かった」
「…うん」
「ふふ、共食いやね」
「……」
え、スベッた。ちょっとくらい笑ろてくれるかな思ったんに。
「……これが」
「ん?」
「これが最後のチャンスだって、言われてたんだ」
弦ちゃんは口ん中の飴ちゃんを時たまカロカロ転がしながら、ゆっくり静かな声で語った。
「今回もし優勝できなかったら、研修生落ちすることも考えてるって」
「えっ、誰が?」
「レニさんが」
「……」
俺は言葉を失くした。…なんでよ。なんで弦ちゃんが研修生に落ちなあかんの。
 ずっとGOD座のトップにおって、みんなに背中見せてくれたやんか。弱音も吐かんとかっこええ後ろ姿見せ続けてくれたやんか。
 優勝することがそない大事か。勝つことでしか示せへんのか。勝ったって、例え負けたって、弦ちゃんが積み重ねてきた努力は、その価値はなんも変わらへんのとちゃうんか。
 …おかしいやんそんなの。悲しいよ。
「…研修生に落ちたら、どうしようって…」
「…うん」
「……怖いって、思って、少しだけ…」
「…うん」
弦ちゃんがもっともっと俯く。顔が全然見えへん。
 俺は真正面に移動してしゃがんだ。弦ちゃんのことを下から覗く。やっぱりトンガリ帽子の先しか見えへんで、それがもどかしくて、そやから弦ちゃんの膝の上に置いてあった手をゆるく握った。
「…怖いとか、思いたくない…そんなこと思う自分が、い、嫌だ」
「……」
ああ、厳しい世界におる。ずっとそういう世界でこの人は生きてきたんや。プレッシャーや緊張が嫌でもついて回る場所、努力や年数だけで測れない何か。
 理不尽で、冷たくて、それでもそこに立ちたくてきばり続ける。報われなかった時の言い訳さえ、許してもらえへんような世界なんや。
 そんな場所にずっとおったら誰だって「怖い」と思うことすら怖くなってまうやろう。その感情を認めた途端、立ってられなくなってまうから。
「…っ……」
俺の手の中で弦ちゃんの手が震える。ちっこくてか弱い生き物みたいに、ずっと震えとる。
「…やっ…大和…」
「…うん?なに?」
トンガリ帽子がゆっくり上を向く。弦ちゃんの顔が薄暗い中、そやけどぼんやり、やっと見れた。
「…おっ、応援してくれて、ありがとう……っ…」
「………」
ああ、弦ちゃん。伝えたいことぎょーさんあった筈なのになんでかな。…今、全部吹っ飛んでしもたよ。
「……うぐぇっ…ぐっ…ひぐっ……」
弦ちゃんの肩が不器用に揺れる。壊れた機械みたいに息継ぎの音が鳴る。
 なあ、今ね、俺むっちゃ嬉しい。弦ちゃんの柔いとこに触れとる気がして、ドキドキするんよ。
「…ふ。弦ちゃん」
「っ…ぅぉえっ……ぐっ…っ…な、なに……」
「泣くの、むっちゃ下手やね」
笑いながらそう言うたら、涙と鼻水でグチャグチャの顔して睨んでくるから、もういよいよ我慢できんで、あんまりかいらしくて、俺は立ち上がってからあんたさんを抱き締めた。

 ねえ弦ちゃん、好き。大好き。
 散らかっとってええよ、グチャグチャのまんまでもええよ、弱音とか本音が漏れそうで怖い時は俺のところに持ってきてよ。
 一人で泣かんで。一人できばらんで。俺、絶対そばにおるから、ちゃんと見とるから、怖い時はちゃんと言うてよ。全部受け止めるさかい。絶対。
 ねえ、大好き。…俺の心臓の音聴こえる?







■ ■ ■







 えーと、ほんで。
 それから約一年半後、弦ちゃんの心は違う誰かに釘付けんなる。要は俺の初恋は実らへんゆうことなんやけど…あー。まああんま今はほじくらんで。まだ傷が癒えてへんで、結構ズタズタなんや。いつかちゃんと説明するさかい、それまで待っとってよ。
 え?なに?冒頭で説明すんのあんま得意やない言うてたやろって?…まあ、うん、その通りなんやけど。いや、ほんでもまあどうにかなるよ多分。ここまでなんとか説明できたし。な?

 そやから今度は、俺の失恋話からさして。