04.
あの一件以来サンジは俺と距離を置くようになった。
怒っているとかじゃない、俺に不用意に近付いて、また訳も分からず泣かせてしまってはいけないと、きっと考えているのだろう。
言葉も行動も、些細な何かで相手を傷付ける。しかも自分にはその理由が分からないのだ。
俺ってなんて可哀想な奴なんだと思っていたけど、もしかしたらサンジの方がしんどい状況なのかもしれない。
傷付けられるより傷をつけてしまう方が気が重いと俺は思う。それはきっと、サンジだって同じ。
「おはようサンジ!思い出したか!?それと飯ぃ!」
ルフィが元気よく挨拶と質問と要求を続けて発した。食卓に並んだ全員が「またか」と思う。
ルフィは毎朝こうしてサンジに確認を取っているのだ。
「…朝っぱらから声がでけぇ」
サンジがげんなりした様子でパンが入ったバスケットをテーブルに置いた。
焼きたてのパンの良い香りがこれでもかと胃袋を刺激する。
「耳にタコが出来そうだぜクソゴム」
サンジは舌打ち混じりにそう言いながらルフィを睨んだ。
「タコ食いてぇ!でもパンも美味そうだぁいただきます!!」
嫌味の通じなさは天下一品である。
サンジはそれ以上言及する事はなく、慣れた手つきでコーヒーを注いだ。
サンジがルフィの問いに「おお」と返事をする朝が、いつかやって来るんだろうか。
そんな朝は一生来ないような気がして、自分の描いた未来予想図に凹んだ。
思い出してもらう日を待ち望むより、忘れらている事を忘れてしまう方が、よっぽど楽かもしれないなと思った。
午後、済ませなきゃならない用もなかったのでルフィを誘って釣りでもしようかと思っていたところ、ナミに呼ばれた。
みかん畑の水やりと収穫を手伝えとの事だった。
「なんで俺…」
「いいから早く来なさいよ」
まあいいか、獲れるものが魚からみかんに変わっただけの事だ。
俺は「へいへい」と軽く返事をしながらナミの元へ向かった。
「まだ青いのは採らないでよ」
「分かってるよ」
枝切りバサミをシャキシャキと宙で動かしながら選定していく。
柑橘系の香りに包まれ、思わず胸いっぱいに息を吸い込んだ。海の上でこんな瞬間を味わえるなんてなかなかない、いいもんだ。
「辛い?」
こちらに振り向かないままでナミが言った。
「…?いや、倉庫の荷物大移動とかに比べりゃ全然…」
「そうじゃなくて。…あのバカなコックさんがなかなか思い出さないじゃない?」
「…」
「辛い?」
何も答えずにいたら、今度こそナミは俺の方へ顔を向けた。
その顔は、心配そうな表情をしている。
「…辛そうに、見えるか?」
不安になった。
嗚呼俺、上手くやれていないんだ。周りに心配させちまう程態度に出ているんだ。
ナミはそんな俺の気持ちを汲み取ったのか笑って「辛そうって言うか…私だったら腹が立つから」と付け加えた。
ナミは自分の横に置いた籠の中にみかんを一つ一つ丁寧に積んでいく。
その後ろ姿をぼんやり見つめながら、気を遣わせてごめん、と心の中で謝った。
きっとそれを尋ねたくて、その為だけに俺を呼んだのだ。ナミの優しさが純粋に心に沁みた。いかん、鼻の奥がツーンとする。
「なんともねえよ」と努めて明るく返そうとした瞬間、畑の下から「ナミっさ~ん」というフニャフニャした呼び声が聞こえた。
俺は咄嗟に苗木の間で身を縮める。
二人でいる所を見られて、もしもあいつがまた突っかかってきたら…面白おかしく相手をする元気がない。
「なに?サンジくん」
ナミが立ち上がりサンジを見下ろして言った。
「んん、収穫中かい?ああマドモアゼル!この俺の胸に実った恋の果実も収穫して下さい!」
「なに?サンジくん」
ナミの冷徹さは今日も冴え渡っていた。
しかしサンジも相変わらず、全くめげる様子はない。続くサンジの「クールなその瞳も素敵だぁ~!」という台詞を聞いて、その打たれ強さを少し分けてほしいと思った。
「ねえナミさん、次の上陸までどれ位かかるかな?」
サンジがナミに上陸予定を尋ねる時は大概、食糧が絡んでいる。もしかしたらもうすぐ底を尽きるのかもしれない。
「そうね、一週間はかかると思うけど…」
ナミの答えに、サンジが「うーん…そっか…」と呟くのが聞こえた。その声から予想するに、多分ギリギリの量なのだろう。
「保ちそうにない?」
ナミが尋ね返すとサンジは「いやいや」とすかさず答えた。
「えっと、いや、食材はあるにはあるんだ。…うん」
何だか煮え切らないサンジの返答に俺は首を傾げた。
残りの食糧の備蓄に問題がないなら、何故サンジはナミに尋ねたんだろう。
「ありがとう。夕飯の支度をしてくるよ」
サンジのその台詞の後、ドアを開閉する音が響いた。どうやらキッチンへ戻って行ってしまったみたいだ。
「なにかしら。変なの…」
「な。なんだろうな」
縮こめていた体を元に戻しナミに相槌を打つ。
ナミは俺の方を振り返ると小さなため息の後「アンタ一つも収穫してないのね」と言った。
…忘れてた。
その後も、ナミに心配をかけさせていた事が結構ショックで引きずってしまっていた。
勿論それを態度に出したらまた心配をされてループしてしまうので、心の中に留めるよう努めたけど。
何か、打ち込めるものが必要だ。
絵を描きゃいいんだ、と思ったが、そういやスケッチブックはあと数ページしか残っていないんだった。クソウ、何でこういう時に限って…。
絵を描く以外に船上で打ち込めるものっていったら、武器の開発だろうな、やっぱ。
そういや弾のストックも切れそうだったし、うんそうだ。補充もついでにやっておこう。
たっぷり時間をかけて、アイディアを捻り出して、手を動かして。
そうすりゃ当分はサンジとの事で落ち込まなくて済むぞ。ついでに今後の戦闘の備えにもなるし。一石二鳥だ。
名案を思いついた俺は武器開発に使えそうな材料を漁りに倉庫へ向かった。
嗚呼何でもっと早く思いついておかなかったんだと、自分を軽く小突きながら。
昼間でも薄暗い倉庫だ、辺りがよく見えるようにドアを開けたまま中へ進む。
背後から差し込む外光を頼りに色々なものを物色した。
倉庫には残りの食糧やナミのお宝の一部など、勝手に触ると鬼のように怒られるものもあるので注意が必要だ。
じっくりと辺りを見回しながら、パッと見ればガラクタのようだけどアイディア次第で武器の材料に生まれ変われるようなものを探した。
例えば、この空き瓶とか。
コルクの部分は油と糸とを組み合わせて火をつければ、暗い所で活躍出来そうな灯りの元になるかもしれない。パチンコの弾として改良したら、もしかしたら凄く良い火炎弾にだってなり得るかも。
「全く俺様って奴は冴えてやがる…」と自画自賛しながらコルクをポケットに回収していく。
瓶も何かに使えないかなぁ。
熱を加えて形を変えてみるとか…いやそれとも叩き割って破片にしてみた方が…。
空き瓶が数本並んだ棚の真ん前で、腕を組みながら考え込む。
随分と脳内会議に集中していたもんだから、俺は足音にも背後の気配にも全く気づけなかった。
「何してやがる」
背中からかけられたサンジの声に、俺は思わず「ぎゃっ」と悲鳴をあげた。
振り向くと、何故この距離で気付けなかったんだと思うほど近くに、サンジが立っていた。
「盗み食いしようってか。ルフィによりゃ常習犯みてぇだしな?テメエもよ」
サンジが首を少し傾けながら言った。
完全にそうだと決めつけているサンジは、かなりマジの表情をしている。
きちんと誤解を解かないとメチャクチャ痛い目に遭いそうだ。
「ちちち違う!俺は、武器に使えそうなモノを探してたんだ!」
「あぁ?下手な嘘ついてんじゃねえぞ、そんなモンここには…」
そうかそうだ、俺がちょくちょく開発や発明をしている事だってコイツは知らないも同然なんだ。
さっきの言葉で納得してもらえるとばかり思っていた俺は、慌ててポケットの中から複数のコルクを取り出した。
「ほら!こういうの!こういうのを拝借しに来たんだよ!」
「………」
サンジは俺の掌に乗せられたコルクを数秒見つめ、訝しげな表情で「…何に使うんだこんなもん…」と言った。
「い、色々だよ。武器になったりするんだよこういうのが」
「コルクが?」
「コルクが!」
要領を得ないサンジに強い口調で言い張ると、途端に興味を失ったように「あっそ」とだけ返された。
些細な、こんな一瞬で、俺はまた傷つく。
そんな冷めた態度取らないでくれよって、縋りそうになるのを堪えた。
「…じゃあ、用が済んだので、俺はこれで」
コルクをポケットにしまい直して、サンジと目を合わせないまま倉庫を後にした。
本当は、用は十分の一も済んでないし(戦利品がコルク数個だけなんてそんな馬鹿みたいな話があってたまるか)、何か一言くらいサンジに言い返してやりたかったが、じゃあ何と言ってやれば俺の心は晴れるのか、自分でも分からない。
熱くなるな。いちいち傷つくな。自分に言い聞かせて硬く目を閉じた。
「おい長っ鼻」
開いたままの倉庫のドアを通り越した瞬間に、サンジが俺を呼び止めた。
振り向くと薄暗いその空間の中で、サンジは外光に背を向けたまま俯いていた。
「俺にとっちゃ初対面でしかねえお前は、どうやら本当に昔からの仲間だったらしい事は分かった。ルフィの野郎も毎朝同じ事聞いてきやがってしつけえし、ナミさんにも何回か「早く思い出せ」って言われてる。チョッパーはマジなトーンで「いつ記憶が戻るのか調べたい、内診させてほしい」って言ってくるし、ムカつく事にクソマリモには「アホコックのアホさは伊達じゃねえな」って笑われた。お前に分かるか?この屈辱が」
サンジはそこまで一気に捲し立てると、一呼吸置いてから煙草の火を点けた。暗い部屋の中、煙がやんわりと浮かびほどけていった。
「俺以外は全員お前を知ってる。疎外感を感じるったらねえよ。挙句に口を揃えて「早く思い出せ」って言ってきやがる。忘れてるっていう自覚がそもそもねえ、この俺にだ」
サンジが煙をゆっくりと吐いてから、こちらを振り返った。
「俺の今の心情が分かるか?」
「…」
「答えは、今世紀最大に胸糞が悪い」
物騒な台詞とともにサンジがこちらへ視線を向ける。…凶悪な顔で俺を睨んでいらっしゃる。
まさかとは思うけど、その苛立ちを解消する為に俺にサンドバッグになれ、なんて事は、さすがに、ない、よな…多分。
…冷や汗がたらりと背中を伝った。
「お、俺は、なんも…言ってねえんです、けども…?」
「そう、腑に落ちねえのはテメエだクソっ鼻」
サンジが腕を伸ばし、煙草の切っ先を真っ直ぐ俺に向けた。
「他の奴らが思い出せ思い出せ言ってくるのに、忘れられてるテメエ自身が全くそれを要求してこねえ。最初のうちは本当に、お前が今回の事を特に気にしてねえからだと思ってた。でも、だったら何でテメエはあの時泣いたんだ」
「………」
「何も聞くなと言ったな。だから聞かねえ。その代わり俺は一つ仮説を立てた。クソみてえに馬鹿げた仮説だが、今のところこの仮説をキッパリ否定できる要因がねえ」
「…仮説、って…」
「今からテメエに話すから、確固たる証拠をもってキッパリ否定しろ。いいな」
おかしな前置きを並べてから、サンジはその「仮説」とやらについて、語り始めた。
「俺が今朝パンを大量にテーブルに並べてたのは覚えてるな」
「…?おお」
「パンを大量に作ったって事は、小麦粉が大量になくなるって事だ。ここまでは分かるな」
「…?それが一体…」
「分かんのか分かんねえのか返事しろ!」
「分かる、分かります、分かりまくります!」
「よし。使いかけの小麦粉が底をついたから、ストックがまだあった筈だと思って俺は昼飯の前にここに来た。ストックはきちんとあった。だがその袋に妙なメモが貼ってある。身に覚えがねえが、そのメモに書かれてる字は確かに俺の字だった」
「…」
「俺が書いた筈なのに全く覚えてねえ。一体なんだこの気味の悪さは。どうにも思い出せそうにねえから、俺は諦めて他にストックがなかったか倉庫の中をくまなく探した。そしたら他にも身に覚えのねえ俺の走り書きが、次から次へと出てきやがる」
薄暗い部屋の中で淡々と語るその様は、まるで怪談話のようだ。俺は思わずゴクと喉を鳴らした。
続きを聞くのが怖い。でも、とても気になる。
「卵、薄力粉、砂糖、はちみつ、フルーツの瓶詰めも…大層なケーキが作れそうな材料だよな。それにとっておきの日に使おうと思ってたベーコンやハムにまで。全部俺の字で、全く同じ事が書いてある」
「…なんて書いてあったんだよ」
サンジは俺の問いに答える代わりに、煙草の煙をゆっくり吐き出してからある物を俺に差し出した。
俺は両手でそれを受け取る。まだ栓の抜かれていない新品のワインボトルだった。
「シャトー・ラフィット・ロートシルト。5大シャトーの中でも最高峰のワインだ」
「シャトーラット…?」
「それ一本で15万ベリーする」
値段を聞いて、途端に手の中のワインボトルが重みを増した気がした。万が一落としたりしないよう俺はしっかりとボトルを握り直した。
「そのワインはな、おいそれと出してやる事が出来ねえ代物だ。どの店でも置いてる訳じゃねえし、例え置いてあってもそう易々と買えるような値段でもねえ」
「ふーん…で…これが、何だよ?」
「裏にメモが貼ってあんだろ。俺の字で」
サンジに言われ、俺はくるりとワインボトルを半回転させた。そこにはセロテープで雑に止められた、走り書きのようなメモが貼り付けてあった。
…そして俺は、言葉を失う。
「とびっきりの大切な夜に、愛しのナミさんと乾杯する為に買ったってんなら分かる。でも俺はその日付に何の感慨もねえし、その名前を書いた記憶も微塵もねえ」
「………」
「おかしいよな?笑えるぜ、この倉庫の中の食材半分くらいに同じメモが貼ってある。念の入れようが半端じゃねえ。よっぽど大事なことなんだろうな、身に覚えがねえけどよ」
「………」
視界の真ん中でサンジの書いたメモが揺れる。
目頭が熱くなっていくので、唇を思い切り噛み締めて堪えた。
ワインボトルの裏側には「4/1、ウソップ用」と、乱暴に、でもはっきりと書かれていた。
「手の込んだ料理とクソでかいケーキを振る舞う気だったんだろうな。で、その後にそのワインを開けて、お前と乾杯するつもりだったんだ、俺は」
サンジがまた、ゆっくりと煙を吐く。
「四月一日は、お前の誕生日か?」
サンジの問いに、俺は暫くしてから頷いた。すぐに反応できなかったのは、目頭にたまった涙を引っ込めるのに悪戦苦闘していたからだ。
「…こっからが、俺の仮説だけど」
前置きをしてから、サンジは言う。
「俺とお前は…特別な関係だったのか?」
なあ。
お前がこんなに、思い出の欠片を残していってしまうから、こいつ、勘づいちゃったじゃねえか。どうすんだよ。
生憎俺は今にも泣きそうだから、誤魔化せそうにねえぞ。
なあサンジ。今すぐ会いたいよ。
滲む視界の先にいるのが、どうしてお前じゃないんだろう。
05.
ワインボトルを握り締めたまま何も答えない俺に、サンジは焦れてしまったようだ。「答えろ長っ鼻」と、催促の言葉を放った。
「………」
声が、上手く出せない。喉にひっかかって苦しい。
無理やりにでも何か話そうとすれば、今懸命に引っ込めている最中の涙が、いとも簡単に溢れて落ちていってしまいそうだった。
「…泣いてんのかよ…」
溜息と共に目の前の男は言った。頭を掻きながら、ウンザリしたような顔で。
ウンザリするのはもっともだけど、もうちょっと隠せよな。ほんっとあからさまな奴だお前は。
「泣いてねーわ」
俯いたまま俺は言い返す。
泣くってのはだって、涙が目頭から溢れて頬を伝う事を言うんだ。俺の涙は流れてなどいない。ちゃんと目頭に留まっている。
適当な事言うな、なめるな馬鹿。
「声震えてるぞ」
「震えてない」
「震えてるって」
「震えてないっ!」
認める。声は、震えている。でもお前には絶対屈しない。屈してたまるか、なめるな馬鹿!
サンジは靴の裏で煙草の火を消すと「ちっ」とわざとらしく大きな音で舌打ちをした。いや苛立ってんのも分かるけどよ、だから、さっきからあからさまなんだって…。
俺もいっそのこと舌打ちしてやろうかと思っていたら、サンジが「返せよ」とワインに目配せしながら言った。
持っていたって仕方ないし、こんな代物は出来れば自分の手の中に置いておきたくないのが本音だ。
言われた通り差し出したら、突然、強い力で腕を掴まれた。
「いっ…」
たい、と言うより先に、サンジが俺の体を思い切り引き寄せて顔を近付けた。
俺は思わず、息を飲む。
「胸糞が悪いって言ったろ。とっとと質問に答えろよ」
青筋を立てるサンジをこんなに至近距離で見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。
おっかなすぎて思わず唾を飲み込んでしまった。
…どうして、何も知らないお前に、イラつかれて舌打ちなんかされなきゃならないんだろう。
俺には悲しむ時間も、サンジが残したメモを見て感傷に浸る時間もないって言うのか。
お前が胸糞悪いのと同じように…俺だってなあ、お前にムカついてるんだよ。
「…付き合ってたんだ、俺たちは!」
目一杯の怒りを込めてサンジを睨み返す。
俺の台詞にやはりサンジは驚いたようで、そのせいか掴む腕の力が少しだけ緩むのを感じた。
「ついこの間、両思いになって!付き合う事になったんだよ!どうしてだか全然分かんねえけど、お前が俺の事好きになってくれて…俺もお前の事好きになって!そんで恋人になったんだ!」
サンジが目を見開く。その目は昔と変わらず俺の大好きな色をしているけれど、お前はその目に、今までとは全く違う映し方で俺を見ているんだろう。
「…お得意の嘘か?」
信じがたい気持ちは、よぉく分かる。
俺も逆の立場だったら、こんな風に聞き返して…こんな風にサンジを傷つけていたかもしれない。
「…嘘は一つも言ってねえ」
「…俺とお前が…付き合ってただあ?…正気かよ…」
「信じるも信じないも好きにしろ、もう答えたからいいだろ、腕離せよ」
「…何でお前と…?クソ理解不能だぜ…」
「離せよいいかげん!」
「あ、わり」
サンジはやっと俺の腕を解放し、何かを考え込むように顎に手を当てた。
もう、本当にさあ。正気かとか理解不能だとか…よくもそんな酷い言葉を並べ立てられるもんだよ。
俺は心の中で何遍も唱えた。こいつはサンジの姿をした別人。別人。別人…。
そう思い込まなきゃ、悲しみにやられてしまう。これはきっと自己防衛本能ってやつだ。
だって俺を掬い上げてくれる人は、今はもう何処にもいないんだから。自分で自分の心を守らなくちゃ。
「…って事はお前、俺の事好きなのか…へー…」
「…」
違ぇよ、俺が好きなのはお前じゃねえんだよ。俺はサンジをギロリと睨んだ。
俺が好きなのは、俺と同じ思い出をちゃんと持ってる、あのサンジなんだから。
「……俺の事カッコいいとか、キスしたいとか思っちゃってる訳?」
煙を吐き出しながらやや見下ろしがちに言ったこの男の、その台詞に、何でだか分からないが本気で腸が煮えくり返った。
「…~っ…!!!思ってねえよ!!!自惚れんなバーーーカ!!!」
シャトー何とかという名前のワインボトルを乱暴に床に置き(勿論割れないよう絶妙の力加減で)、「じゃ」とだけ残して踵を返した。
サンジは俺を呼び止めも追いかけもしなかった。
ダシダシと力強く床を踏みつけながら、俺は沸騰し続ける怒りと戦う。
自分で言うのもなんだが、俺は気が長い方だ。怒りの沸点も決して低くはない。だからこんなにはっきりと怒りの感情が表に出ることなんて、久しくなかったんじゃないだろうか。
まさか、サンジに、いやサンジと同じ外見をしたあの男に、ここまで腹が立つなんて。
悲しみだったり怒りだったり…嗚呼あの野郎は本当に、俺に負の感情ばっかり与えやがる。
どうしてこんなに腹が立ったのか。
考えたら答えが分かって、分かったら余計にムカついた。
サンジを好きな俺と一緒に、俺を好きなサンジの事まで馬鹿にされたようで、許せなかったんだ。
許せるはずない。当然だ。…殴ってやればよかった。
その後は怒りを沈められるようにと思って、なけなしの戦利品であるコルクを彫刻刀でチマチマ掘る事に没頭した。
ウソップ工場は背面が丸ごと奴のテリトリーだから避けて船尾で一人、胡座を掻きながら。
イルカやクジラ、ウミガメといった海の生き物を、手のひらに収まるコルクから少しずつ形作っていく。
我ながら「これは可愛いぞ」と思った。ナミに見せたら「商標化して儲けてみたら?」なんて言いそうだ。
そうこうしてたらやっと怒りも収まってきて、なんなら鼻歌でも歌い始めようかと思った時、アイツが晩飯の完成を告げる怒号(ナミには媚びた声)を船内中に轟かせた。
ああ、折角もう一個、今度は俺様の凛々しい顔を彫ろうかと思ったところだったのに。
腰を上げようとしたけど思いの外重くて断念した。一度立ち上がることを諦めてしまった体は、その後はもう動き出そうとしない。
この憂鬱は空腹を満たせば消えてくれるだろうか。
…いやきっと、消えないだろうな。分かっているからこそ俺は、腹が減ってるのにここから離れようとしないんだ。
ずんと沈んだ気持ちをどうにも出来ずに、何の感慨もなく海面を見つめた。
あの時サンジに、変なヒレのトビウオを見せたりしなければ。悔やんだって仕方のない事を思い返して奥歯を噛み締めた。
面白い話も、まあ別にたいして面白くない話も、泣き言も、嘘も、弱音だって…俺はお前の隣で話したいんだよ。お前に聞いてほしいんだよ。
泣くのさえ億劫になるようなこの憂鬱を、お前が聞いてくれたら。
ゆっくり夕陽を飲み込んでいく水平線を見つめて「ばかやろう」と呟いた。
その瞬間後頭部にゴツンと何かが当たり、鈍い衝撃が走った。
「いって!」
振り向くと、俺の後ろに落ちていたのは銀色のおたまだ。そして更に後方には随分と機嫌が悪そうな料理人の姿がある。
「…食卓に来ねえ理由があるなら言ってみろ、どうほざいても俺は納得しねえと思うが」
煙草の煙をゆっくりと吐き出しながらサンジがそう言った。
「…」
青筋を立てるこいつにも、もう俺はビビらなくなってきた。この数日で随分と見慣れた表情だ。
返事をしないまま考える。何て言ってやったらこいつは腹が立つだろう。今日、倉庫の前で味わった怒りを、今ここでどう言えばこいつに返してやれるだろう。
考えていたら、サンジが先に口を開いた。
「…オメーの好物は魚らしいな」
「…それが何だよ」
恐らく誰かに聞いたんだろう。でもその情報が何かを打破してくれるとは、到底思えない。
「刺身、開き、それから煮付け…ついでに主役は海鮮鍋だ」
「…?」
「今夜のメニューだ」
…嗚呼、ここで素っ気ない態度が取れれば良いものを。悲しいかな、俺の腹はここぞとばかりに豪快な音を立てるのだ。
サンジは勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
「嘘が得意らしいが、体はクソ正直だな?」
持ち上がるその口角に滅茶苦茶腹が立って、自分の腹を殴ってやろうかとさえ思った。いや痛いから、しねえけど!
「食卓に来ねえ理由はねえな、おら立て」
腕の根元を掴まれ、強引に体を引き上げられた。畜生、全部お前のペースで事を進めやがって。
「自分で立てる!触んな!」
腕を思い切り払い退けると「おお怖っ」と、サンジはおどけてみせた。ことごとく腹の立つ奴だ…っつーか普通に性格悪くねえか?俺お前にすげえ腹立ってんの分かってる?
怒りで言葉を失っていたらサンジは慌てて「いや悪い、悪かった」と付け加えた。
「うるせえどけ!俺は食う!ていうかちょうど行こうと思ってたところにお前が来ただけだから!お前が勝ち誇る要素なんて何一つねえから!献立につられて行く訳じゃねえしお前のしたり顔は見てて本当に感じ悪いから!」
捲し立ててラウンジに向かおうとすると、背後でサンジが「本当に悪かったよ」と、真剣な声で言うものだから。
…思わず、振り返ってしまった。
「昼間、ごめんな」
「…な、なんの事だかさっぱりだな」
「まさか俺が男に惚れてて、しかも付き合ってたなんてよ、あんまりにも信じ難くて…咄嗟にあんな言い方しちまった。ごめん」
「………」
真面目な顔をして、サンジははっきりと俺に謝罪をした。誤魔化そうとも視線を逸らそうともしないで。
「信じるよ。俺がお前に惚れてたって事」
…一体、どうして。
倉庫の時とは随分態度が違うこいつに面食らう。散々疑っていたくせに。嫌悪感丸出しだったくせに。この態度の変わりようは何だ。
「…どういう風の吹き回しだよ」
「ん?」
「正気かよって、理解不能だって、ついさっき言ってやがったくせに…何、急にしおらしくなってんだよ。何か企んでんのか」
「随分疑り深いな…まぁいいけど」
そしてサンジは、そこで一旦煙草をゆっくりと吸い込んで、少し上を見上げながら煙を吐き出した。
「言ったよな、俺ぁ胸糞が悪くて仕方なかったってよ」
またその話を聞かなければいけないのかと思っていたら、サンジは見上げていた目線を俺の方に戻し、真っ直ぐと見つめてきた。
「知らねえ男が突然同じ船の上にいると思ったら、他の奴らは全員そいつの肩持ちやがって。なんなんだお前らクソムカつくぜ、三枚にオロすぞナミさん以外…と、正直思ってたんだけど」
「…物騒なんだよお前の発言はいつも…」
「俺がムカついてる以上に、お前も俺にクソ腹立ってんじゃねえかと思い直してよ」
「…は?」
「お前からしてみりゃ、惚れてる相手に丸ごと忘れられて、その相手に泣かされて…そのうえ無理やり、付き合ってた事実を言いたくもねえのに言わされてさ。挙げ句の果てにゃ「正気かよ」なんて返されたんだもんな。そりゃ腹も立つし許せねえだろうよ。…少なくとも俺は許せねえな。そんなクソみてえな恋人は」
サンジの髪が海風に揺れた。金色の髪の毛は夕日に染まって、毛先が火が灯ったように赤くなる。それがいちいち綺麗で…なんだか悔しい。
「…で、考えてたら、あまりにもお前が可哀想だなと思って。詫びの気持ちも込めて今晩の飯を用意した訳だ」
サンジの眼差しに迷いが全くないので、何故か俺の方が恐縮してしまう。
けれどここではいそうですかと納得できるほど俺は大人でもねえし、バカでもねえぞ。
「…んな、好物出されたくらいで、俺様の気が済むと思ってんのか」
「そうだな。ごめん」
…なんだよ。
なんだよなんだよ、急になんなんだよ!そんな、突然素直にされたら、収まらない俺のこの怒りを何処にぶつけりゃいいのか、分かんなくなるじゃねえか!
返す言葉を探しながら自分の足元をキッと睨んでいたら(睨んでないとサンジの真剣な表情はやっぱりカッコいいなとか、馬鹿みたいな事に改めて気づいてしまいそうになるので)、サンジがわざわざ屈み込んで俺の顔を覗いてきた。
「機嫌直せよ」
夕焼けをバックに深い影を落とすその優しい顔は、相も変わらずやっぱり…カッコいいのだ。一瞬でもそう思ってしまった事が悔しくて、勢いよく首を振った。
こいつは天然たらし野郎で、隙を見せればすぐ心の中に土足で上がってくる厄介な男なのだ!1秒たりとも気を抜くな!分かったか海の戦士ウソップ!
「お前の言い分はわかったけど!俺はまだ怒ってるからな!こんなんで許されたと思うなよ!いいか!」
ビシと人差し指で指して宣言するが、目の前の男は「へえへえ」と肩をすくめるだけだ。
「たくさん食えよ長っ鼻」
そう言って笑うサンジの表情は、記憶がなくなる前のサンジによく似ていた。思わず笑い返しそうになってしまって、もう一度慌ててかぶりを振った。
「言われなくても食うわ!」
力強く言い返してもサンジは怒らない。相変わらず笑って「そっか」と短くこぼしただけだった。
ラウンジに続く扉を開ける寸前、サンジが俺の頭にポンと手を置いて「お前、いい奴だな」と言った。
どういう意味を込めて、どんな意図があってその言葉を言ったのか、はっきり言って俺には分からない。
ただ、置かれた手のひらの暖かさに視界が滲んでしまって困った。
本当に困ったんだ。