再起動のスイッチを押してよ



 またお前に会えるなんて思ってもいなかった。
 冬組の皆と舞台の上で芝居をするお前の姿を、私はこの先も恐らく、生涯忘れはしないだろう。なあガイ、私があの時どんなことを感じていたのか、お前にはきっと分かりはしない。だってお前ときたら、笑ってしまうよ。本当にポンコツなのだから。

 お前の出生について知ったのは、私がまだ子供だった頃のことだ。
 秘密裏に動く影の部隊に所属していたお前と、王宮内の通路でたまたま出会い、おかしなことを言ってのけるお前に私は子供心をくすぐられた。
 お前はあの時、自分のことをアンドロイドだと名乗った。インストールされていない動作はできないと、無表情のまま無機質に言った。私はそんなことを真顔で言う大人と出会ったことなどない。忘れはしないよガイ。お前との出会いはとても鮮烈だったのだ。
 スイッチはどこにあるのかと尋ねた私に、お前は「ここだ」と容易く答えた。忠告さえしておけばイタズラはされないと、あの時お前は考えたのかもしれないな。だから少しも渋ることなくスイッチの場所を私に教えたのだろう。…ばかだなガイ、子供がそんなに楽しそうなことを我慢できる訳ないのに。
 お前が教えてくれたスイッチを押した時、お前はまるで機械のように本当に停止した。指先一つ動かさない、呼吸さえ止めるお前に、私はあの時思ったのだ。こんなに本気で、子供のイタズラに付き合ってくれる人は稀有だ。なんと面白い人だ。そして優しい人だ。もっと一緒に遊びたいと、私はそう思ったんだよ。

 一緒に遊ぼうと誘うとお前はいつもそれを断った。無表情のまま「危険な任務がある」と、私に説明をした。「死んでしまうのか?」と尋ねたら、なんと答えたか覚えているか?お前はあの時「壊れるだけだ」と答えたんだ。私はまだアンドロイドの設定を貫いてくれているのだと思い、内心、どこまで生真面目な奴だと驚き、少し笑った。私が「もういいよ」と言うまで、この人はきっとそれを貫くのだろうと。…変わった大人もいるものだと、あの時思ったよ。私の中でお前はどんどん、他の大人たちとは違う存在になっていったのだ。
 私の従者になることを提案してみたところ、その希望は案外すんなりと通った。お前が王宮に対し危険な思想などを持ち合わせている可能性はないと、周りも分かっていたのだろう。お前の出生の記録はその時に大体聞かされた。本当の名前と生まれた国、それからここに就くまでの大まかな経歴も。はるばる日本からやってきたお前に、私は強く関心を抱いた。
 そして私は楽しみだった。お前はいつになったらボロを出すだろう。気を抜いてアンドロイドの設定を忘れる瞬間を私はずっと心待ちにしていた。お前がぽろりと「疲れた」とか「眠い」とか「お腹が空いた」なんて零すところを想像し、その時はすかさず「アンドロイドなのに?」と意地悪く聞いてやろうと、ずっと企てていた。その時お前はどんな顔をして笑うのだろう。「しまった」と言って笑うお前の姿を想像して、私はワクワクした。早くお前の笑った顔を見たいと、本当に思っていた。

 しかしお前がボロを出すことはなかった。どんな時も無表情を崩さず、決して笑うこともない。同意や感想を求めた時も「そうか」「わからない」としか答えないお前に、私はいよいよ痺れを切らした。
 もういいと言った。もうアンドロイドごっこは終わりにしてほしいと。お前は完璧で油断も隙もなかった、アンドロイドごっこはお前の勝ちだ、それはもう充分に分かったからと。けれどお前は無機質に繰り返すだけだ。
「俺はアンドロイドだ」
その時に私は、少しだけ息を呑んだ。ああこの人は、遊びの延長で機械のフリをしている訳ではない。…本気でアンドロイドだと、自分のことを人間ではないと思い込んでいるのだ。一人の人間の、狂気にも似た思い込みを間近で見て、私は一瞬たじろいだ。ごめんなガイ。何も知らなかった私はあの時「怖い」と、漠然と思ってしまったのだ。

 お前の生い立ちの全てを私は知っているわけではない。けれどきっと、育った母国を離れザフラ出身の母親と共にこの国へやってきたお前は、さぞ心細かったことだろうと思う。知らない土地、わからない言語の中で、子供のお前がどれだけ怖く寂しい思いをしていたか。孤独と戦うのは本当に恐ろしいことだ。
 一度だけ、お前の母親と義父の顔を見たことがある。王太子の従者という肩書きを手に入れたお前のことが気になったのだろう。倅は悪さなどしていないかと、へりくだりながらその様子を伺ってきた。アレは昔から機械のように愛想がなくてつまらない奴なのでと、笑いながら説明をしてくるお前の義父に、私はどうしようもなく嫌悪感を感じた。お前の孤独や恐怖を、きっとこの二人は気付いてやらなかったに違いない。本当の一人ぼっちを、お前に味わわせてきたに違いない。
 憎いと思った。ガイをアンドロイドに仕立て上げたのは誰なのか、私はこの時はっきりと分かった。

 お前がいつか心を取り戻す瞬間を、私は傍らで待っていようと決意した。共に飯を食べ、風呂につかり、おやすみと言って夜に目を瞑りおはようと言って朝を迎える。晴れた日には近くの丘を馬で駆けたり街へ行って買い物に付き合わせたりした。春には花の香りを共に嗅ぎ、夏には海へ向かい潮風を感じ、秋には落日の寂しさを見つめ、冬には雪を踏みしめ足跡を作った。
 私はお前に何度も問うた。どうだ、楽しいか、と。お前がくすりとでも笑う瞬間を期待して、願うように問い続けた。
「わからない」
その五文字を聞く度に哀しくなって、眉一つ動かさないお前の心がとても遠くて、私は少しだけ泣きたくなりながら「お前はポンコツだからな」と笑った。そう言って笑うしかなかったのだ。私は寂しかった。…寂しかったんだよ、ガイ。
 
 ある日、お前が異国のお守りを捨てようとしていたことがあった。恐らくそれはお前が生まれた国、日本から持ってきたものだろうと私は瞬時に思った。きっと大切なものに違いない。それをお前が忘れてしまっているだけに違いないと思い、私は、捨てるくらいなら欲しいと咄嗟にお前にねだった。お前は予想通り微塵の名残惜しさもにじませず、私にそれを寄越した。
 …このお守りを、お前が捨てる前に拾い上げることができたのは本当に幸運なことだったと思う。だってこれは、お前が人間に戻る為の希望の光そのものだったから。
 お守りの中に、異国の文字で一行、何か書かれている紙が入っていたのを見つけた。その一文の先頭の文字は見覚えがある。それはお前の本当の名前「涯」という漢字だった。
 幼い私にはその後続く文章が読めず、だから日本語に詳しい家来の一人を呼び、なんと書かれているのか尋ねた。

《「涯がたくさん笑えますように」と》
家来はそう答え、私はそれを聞き唇を噛み締めたのだ。

 その後、家来にこの紙は何なのかと聞かれたが適当に誤魔化し、私は王宮内の書物庫に向かった。日本の漢字が載っている辞典を引っ張り出して「涯」の字をそこから探した。辞典にはこう記されていた。

「1.水際。岸。 2.遠い果て。限り。 3.終わりに至るまでの間。」

 私はお前の名前の、その意味を知った。
 ああガイ、お前の名前はとても素敵だな。大切なものを探すために旅をする、お前はまるで旅人のようだと私は思う。遠い場所からやってきたお前は、今、人間に戻るための長い旅路の途中にいる。ガイ、できるなら私は、お前が旅を終えるその瞬間を隣で見つめられたらいいのにと、願ってやまないよ。
 お前は私を、友達だと思ってくれるだろうか。遠く離れた場所にいる私たちはそれでも、友達になれるだろうか。
 紙切れはそっとお守りの中に戻しておいた。決してなくさないように、私が大切に持っていようと思う。
 これを書いた人は、日本で別れたお前の父親なのではないかと私は思う。ガイのことを愛し、そして幸せを心から願っている。それを思うと私の心に明かりが灯ったような気がした。ああ、お前を愛した人が確かに、日本という国にいる。
 紙と一緒にマイクロチップを忍ばせた。この国のデータベースにアクセスし、お前の戸籍情報を見る事ができるチップだ。いつかお前が全てを思い出す時、断片的な記憶を糸のように繋げる為の手がかりにしてほしい。
 お前はいつかきっと、色々なことを思い出すだろう。悲しい思い出も、苦しい思い出も、そしてそれと共に確かにあった幸せな思い出もだ。
 ガイ、大丈夫だよ。お前は必ず人間に戻る。どうかお前がお前の心を、一つも欠けることなく取り戻せますように。そうしてたくさん、笑えますように。

 それから時が経ち、留学とは名ばかりの私の逃亡劇は終わる。これから待ち受けているもののことを思うと心が曇る。きっと、兄弟同士で傷を付け合い、争い、辛い思いをする羽目になるのだろう。私がそれをどんなに望んでいなくても、きっと変えられないことばかりなのだろう。
 私の頭の上に、もうすぐ冠が乗る。煌びやかで重たく、国の希望と血族の妬みを背負った王冠だ。私はそれを黙って受け取ろう。お前と劇団の皆にさよならと心の中で唱えながら。密かに憧れていた自由との別れを決意しながら。
 …ああ、残念だな、ガイ。お前が「楽しい」と言いながら笑う姿を見たかったんだけどな。…本当に、本当に、見たかったんだけどなぁ。
 さよなら友よ。どうか元気で。

 そうして固めた決意を、揺らがないよう体の奥底に押し込めた時だった。戴冠式の途中で劇場内に響いたアナウンスが、私が何より聞き馴染みのある劇団の名前を告げた。
 私は一瞬、自分の目を疑った。舞台の上には冬組の皆と共に芝居をする、仮面をつけたお前がいた。オペラ座の怪人を演じるお前からは、今まで感じたことのない熱さにも似た温度を感じた。
 ああガイ、お前は心を取り戻せたのか。お前だけの大切な心を。





▼▼▼▼▼





《雪白から譲ってもらったものだ。二人で飲んだらどうかと》
バルコニーで待っていた私の前にガイはそう言って現れ、赤ワインのボトルとグラスを二つテーブルの上に置いた。
《アズマが?そうか、後でお礼を言わなければならないな》
アズマが選んでくれた酒ならきっと格別に美味しいだろう。私の向かいの椅子に腰掛け、グラスにゆっくりとワインを注ぐガイの手つきを見ながら、夜風の心地よさに体を預けた。

 戴冠式から一週間ほど経った。王位継承の権利を剥奪され自由の身となった私は日本に舞い戻り、またこの劇団の一員として日々を送っている。ここには私の帰りを心から願ってくれた春組の皆がいる。笑顔で迎えてくれた夏組と秋組の皆がいる。ガイを受け入れ、ガイの心に火が灯るのを大事に見守ってくれた冬組の皆も。そして今、手を伸ばせば届く距離にお前がいる。
 私は幸せで堪らなかった。この場所が大切で大好きだと、戻ってきてから何度も思っている。

《みんなで飲む酒は楽しいと、冬組の皆が教えてくれた》
ガイはグラスに注がれたワインの赤い色をじっと見つめながら呟いた。
《…うん、そうか》
《だから次はシトロニアも誘って良いかと聞いたのだ。そうしたら雪白が「二人きりで飲むのもきっと楽しい」と言って、これを》
《そうか》
ガイがグラスを持つ。私も導かれるようにしてグラスを手に取った。
《乾杯》
声は綺麗に重なり、私はそれがやけに嬉しくて少しだけ笑った。するとガイは不思議そうに《なんだ?》とテーブルの向こうで首を傾げてみせた。
《なんでもないよ、飲もう》
アズマのくれた酒はとても美味しかった。今度お礼に、私のお気に入りの酒のつまみをザフラから取り寄せよう。
《…話したいことが沢山あるんだが》
ガイがグラスに目を落としたまま言葉を紡ぎ始めた。
《いざお前と二人きりになると…どこから話せばいいのか…》
所在もなく居心地悪そうに泳ぐガイの目に、私はとにかく驚いて言葉を失った。だってそんな様子を、十何年と共にいたのにこうして見られたのはこれが初めてだったからだ。
《なんだ、俺の顔に何かついているか?》
《…ああ、沢山ついてる》
そう答えると今度は少し慌てながら自分の顔を触ってみせる。ああそんな姿さえ今まで一度だって見たことはなかった。
《嘘だ。何もついてはいないよ》
《…何故そんな嘘を吐く、シトロニア》
まじめな顔をして尋ねてくるお前がなんだかおかしくて、私はもう一度笑った。…あながち嘘ではないよ、ガイ。今までは感情の一つさえ乗せなかったお前の顔が、今はなんて豊かに沢山の色を纏っていることだろう。
《冬組で飲んだ時はどんな楽しいことがあったんだ?》
私がワイングラスを傾けながら尋ねると、ガイは一つずつ思い出すようにしてその日の出来事を語った。
 突然自分への質問コーナーが始まったこと。趣味について聞かれた時はうまく答えられなかったが、特技については「電源を落とすこと」と答えたこと。ガイの話に耳を傾けながら、私はその場面を想像し笑った。
《ふふ、再起動のことか?》
《そうだ。お前が幼い頃からあまりに繰り返しやるものだから、すっかり俺の体にそれが染み付いてしまった》
《あはは、そうか。私が長年かけてインストールさせた、立派な特技の一つだな》
《笑い事ではない》
そう言いながら、次の瞬間にはお前は優しく微笑む。…ああ、こんなことを言ったら不思議に思うだろうか。今この瞬間が嬉しくて堪らなくて、どうしてかな。私は泣いてしまいそうだよ。
《御影にも何度も繰り返し押された。幼い頃のお前とまるで同じように》
《ふふ、私も久しぶりに押したくなってきた》
グラスの中が空になったので二杯目を注ごうとボトルに手をかける。するとガイがそれを制止し《俺が》と言った。
《もう仕えることはないんだよ、ガイ》
ガイは首を横に振り《したいんだ、させてくれ》と答えた。
《…そうか、ありがとう。では頼む》
私のグラスに二杯目を注ぐガイの手を見つめる。この手には確かに温度がある。血が通っている。脈を打っている。
《…シトロニア》
《なんだ?》
《…その、ありがとう》
ガイが注ぎ終わったボトルを再びテーブルの上に置いてそう言った。
《お前が俺にしてくれた全てを忘れない。お前から貰った全てを、俺は生涯忘れない》
《…》
《心をなくしていた俺のことをずっと大事にしてくれてありがとう》

 ガイの言葉に一瞬、体中が囚われて動けなくなった。まるで私がスイッチを押されてしまったかのようだ。
《…戴冠式でお前を見た時私がどんなことを思ったか、お前は知らないだろう?》
私がそう言うと、ガイは素直に頷いて《教えてくれ》と言った。私は少し俯きながら答えを告げる。
《少しだけ、悔しかったんだ。お前が人間に戻った姿を、だって本当は誰より先に一番に見たかったから》
誰にも言わずにいた、まるで子供の我侭のような感情をそっと吐き出す。お前にこの感情が理解できるだろうか。…いや、きっとできないだろうな。だってお前ときたら本当にポンコツだから。
《でも、その何倍も嬉しかったよ。今も嬉しくてたまらない。お前の笑った顔が見たかったんだ。ずっとずっと見たかったんだ》
心を取り戻したお前に、私の言葉はどんな風に届いているだろうか。
《…私こそありがとう、ガイ。私の大好きなお前の笑顔を、これからもたくさん見せてくれ》
そして夜風が不意に私とお前の髪を揺らした。風はグラスの中、ワインの表面を優しく撫でるように通り過ぎていく。

《………スイッチを押してくれ》
お前のか細い声がテーブルの向こうから聞こえた。私は驚いてお前の顔を覗く。お前は真っ赤になって随分と困った顔をしていた。
《……どうして良いのか分からない。早く俺を停止させてくれ》
赤い顔のまま、お前は私にお願いをする。私は数秒呆気にとられ、それから堪えきれずに笑った。
《あはは、なんだガイ。恥ずかしいのか?》
《分からない。いいから早く押せ》
訴える必死な顔さえ今まで見たこともない。私は嬉しくなって、だからガイの願いをわざと聞いてやらないことにした。
《さっきから初めて見る顔ばかりだ。ふふ、アズマの言った通り二人で飲む酒は楽しいな、ガイ》
《俺の発言を無視するなシトロニア。早くスイッチを押せ》
《なんだ、いつもはイタズラに押すなと言うくせに》
笑いながら言い、私はワインを口に運んだ。

 ガイ、お前の大切なものを手に入れる為の長い旅は終わった。私は嬉しくて堪らない。お前の心はずっと、色褪せないままお前を待っていたんだな。
 またいつか一緒に馬で駆けよう。花の香りを共にかごう。美しい景色に心を震わせ、泣いたり笑ったりしよう。そして劇団の皆と一緒に、賑やかで楽しい毎日を折り重ねていこう。大切なものはきっと、溢れかえるほど増えていく。

 なあガイ、これから始まる新たな旅の名前は、なんとしようか。