はいけい、ななおたいち様




 お芝居をやっていて嬉しい瞬間は沢山ある。
 一つは、板の上に立っている時沢山の人が自分を見てくれているということ。広がる目の前の光景に気づく度、いつだって全身の血液にビリビリ電流が流れるような、他の何にも代え難い感覚があった。
 もう一つは、大好きなみんなと一つの物語を演じられるということ。おんなじ世界を生きて、作って、そうして役者である俺たちにおんなじ思い出が積もっていくこと。
 それからもう一つ。観てくれた誰かから言葉を貰えること。観劇アンケートやファンレター、劇団のサイト宛に届いたメールの中に時折、俺の名前も書いてある。「これからも頑張ってください」「応援しています」「太一くんのお芝居が大好きです」
 誰かが俺を見ていてくれてる。俺に宛てて言葉を贈ってくれる。綴られる文章を瞬きもしないで、半ば信じられない気持ちでいつだって読んだ。本当に受け取っていいのかな、俺の心の中にしまっちゃってもいいのかなって。
 嬉しい。だって本当に嬉しいんだ。あなたがくれた言葉を俺の宝物にしても平気?…本当に、貰っても大丈夫?決して聞くことのできない問いかけを俺は自分の内側にぶら下げたまんま、恐る恐るその言葉たちに手を伸ばした。

 稽古でドジった時、ミーティングで言いたいこと言えずじまいだった時、セリフを噛んじゃって悔しくて眠れなかった夜。そんな時に心の箱の中にしまった大切な言葉たちを、俺はそっと取り出して読み返す。情けないけど、たまに一人で泣いてしまうことがあった。嬉しいと同じだけ押し寄せる自分への嫌悪が、涙に混じって視界を揺らした。
 今日頑張れなかったことは、明日頑張れるようになろう。足りない何かは、ちゃんと補えるまで努力しよう。最初からうまくできる器用さなんて自分にはない。練習して、繰り返して、一段ずつ階段を登るしかないんだ。
 こんな俺のことを見ててくれて、応援してくれてありがとう。大好きって思ってくれて、本当にありがとう。まだまだ理想の俺には遠くて、辿り着くのも時間がかかりそうで…足が遅くて、要領が悪くて、ごめんね。
 俺ね、明日からまた頑張るよ。この言葉たちを持っていても恥ずかしくない俺でいたいから。どんな言葉も両手で受け取って、胸に抱いて、誇れる自分になりたいから。
 頑張るから、待っててね。…いや、全然、強制とかじゃないんスけど。あの、えっと…もし良かったら。もうちょっとだけ見ててくれたら、嬉しいなぁなんて。

 その日は、二駅先の自然公園の中でストリートアクトをした。たまにバザーとかお祭りとかも催されるような大きな公園だ。開けた視界と青い空が気持ち良くて、だからお芝居の内容もとびきり明るくて分かりやすいヒーローアクションものに決まった。
 ヒーロー役は俺がすることになったんだけど、配役の決め方は実は超適当で「髪の色的に太一じゃない?ヒーローのセンターって言ったらやっぱ赤でしょ」っていう意見が出たから。
 配役が決まった時、内心ちょっとドキドキした。てっきり自分のことだからイエローとかグリーンのポジション、もしくはボス敵の手下みたいな役をやるんだろうと思ってたのだ。
 ヒーローの赤は、センターの色。ストリートアクトにだって0番はある。見えないスポットライトが自分に当てられた気がして、背筋が伸びた。
 天鵞絨街でする時とはお客サンの年齢層がだいぶ違う。散歩してたおじいちゃんおばあちゃんとか、遊んでた子どもたちとか抱っこ紐で赤ちゃんを抱いてるお母さんとか、いろんな人が足を止めて俺たちのお芝居を観てくれた。
 一生懸命レッドを演じた。真っ直ぐパンチを繰り出して、思い切り足を上げてキックする。15分そこそこのお芝居でも終わった頃には肩で息をしてた。拍手の音に包まれて、俺は一緒に演じたみんなと深くお辞儀をする。

「MANKAIカンパニーを宜しくお願いしまッス!今度◯◯の公演するッス!」
演技を終えて、汗を拭いながらカズくんが作ってくれたフライヤーをお客サン達に配る。前方で観てくれた人たちの中にお母さんと男の子がいて、俺は二人にもフライヤーを一枚ずつ渡した。男の子に渡す時は片膝をついて、目線を合わせてフライヤーを差し出した。
「MANKAIカンパニー秋組、七尾太一ッス!最後まで観てくれてありがとうございました!」
俺がそう言うと、お母さんは少し気恥ずかしそうに頭を下げて、男の子はまじまじと俺を見つめた。
「…?へへ」
首を傾げて笑うと「すごかった」と、男の子が言った。
「え、ほんと?」
「かっこよかった。すごい」
「え!嬉しいッス、ほんとに?」
「うん」
「やった~!」
小さくガッツポーズして、男の子と握手を交わす。男の子がくれたその感想は、その日一番嬉しい言葉だった。

 正直、俺のことをお客さんが「かっこいい」と言うことは少ない。「面白い」とか「かわいい」とか「楽しい」とか、そういう方が断然多くて、もちろんそのどれもが嬉しいから全力で笑顔を返すけど、お客さんの「かっこいい」を攫うのはそれこそ万チャンとか十座サンとか臣クンとか左京サンとかあーちゃんとか…まあ…うん。つまりいつも、俺以外の秋組みんなだ。
「いーなー!俺っちもかっこ良いって言われて~!」
頭の後ろで腕を組みながら、笑い飛ばすようにして言った。羨ましいの気持ちの後ろにヒッソリついてくる嫉妬や劣等感は、俺が笑えば表に姿を見せることはないと俺は知っていた。
 殺陣や戦闘シーンの稽古はハードだ。どうやっても体のしなやかさは万チャンと十座サンに敵わなくて、小慣れた気怠さをあーちゃんのように纏うこともできなくて、威圧感と存在感では臣クンに太刀打ちできなくて、視線と沈黙の鋭さは左京にぃの足元にも及ばない。
 一人で夜中に練習した夜なんていくつもあった。追いつかない。追いつきたい。俺より先をみんなが走ってるんなら、みんなより速いスピードで走り続ける他にない。苦しくて、息が切れそうだった。今より良くなりたくて、必死になった。

 …今日みたいな、丸ごと百パーセントの素直な「かっこいい」って感想を自分が受け取らせてもらえたのは、一体いつぶりだっただろう。疲れなんて吹っ飛ぶ。本当に本当に本当に嬉しい。
 もっと頑張ろ。蹴りの時の軸足の位置がイマイチだった。体幹系は臣クンが得意だから、帰ったらアドバイスもらって、たくさん復習しとこ。

 それから数週間くらい経った頃。
 さっきまで秋組のみんなで殺陣シーンの強化の稽古をしたから汗だくで、だからいつもより熱めのお湯を浴びて、サッパリしたところだった。不意に監督先生から「太一くん」と呼び止められたのだ。
「ん?なんスか?」
「あのね、太一くん宛にお手紙届いてたよ」
監督先生はそう言って嬉しそうに笑った。
「へっ」
「手書きのお手紙って嬉しいね」
監督先生が渡してくれたのは封筒が黄色い色の、一通の手紙だった。宛先の住所はこの寮、そして宛名は、俺の名前。
 俺は内心ドキドキしながら、その封をゆっくり開く。
 中に入っていた数枚の便箋には、鉛筆で書かれた平仮名が多めの、きっと小学校低学年くらいの子が書いただろう文字が並んでいた。

「はいけい、ななおたいち様
この間、たいちくんがヒーローをしていた時、とてもかっこう良いと思いました。なぜかと言うと、こうげきがかっこう良かったからです。ぼくは、◯◯戦隊シリーズが大好きです。太一くんは◯◯レッドににていると思いました。なぜかと言うと、◯◯レッドも太一くんも強くて、やさしいと思ったからです。◯◯レッドをしっていますか。◯◯レッドは赤と黒の色のバンダナをしています。ぼくは太一くんのかみの毛が似ていると思いました。かっこう良かったです。なぜあんなに強いパンチができるのですか。キックも強かったです。お母さんにきいたら、きっとたくさん練習したからだと言っていました。ぼくも強くなりたいから、たくさん練習しようと思いました。◯◯レッドは強いけどやさしいです。太一くんはしゃがんで、ぼくにえがおでプリントをくれたので、太一くんも強くてやさしいと思いました。これからもおうえんしています。がんばって下さい。ぼくも◯◯レッドとか太一くんみたいに、強くてやさしい人になるためにがんばろうと思います。」
 
「…」
あの時、公園でストリートアクトを観てくれた男の子だ。数週間前の記憶が蘇る。
 便箋の最後の一枚、その下の方に、きっとこれはお母さんの字だ、綺麗なボールペン字が数行添えられていた。

「息子がどうしても手紙を書きたいと言うので、フライヤーに記載されていたこちらの住所に送らせていただきます。素敵なお芝居を見せてくださりありがとうございました。七尾太一様のお芝居にとても感動したようで、あれ以来◯◯戦隊をテレビで観る度に「太一くん」と名前を出しています。息子は、理想のヒーローになれるよう日夜特訓に励んでおります。」

 …強くて優しい、そんな理想のヒーロー像として、この俺が誰かの目に映ったのか。…そんな嬉しいことが、信じられないくらい嬉しいことが、本当にあるのか。
「……」
便箋を持つ手に力がこもった。だってどっかに力を入れないと、今にも視界が揺れちゃいそうで。
「…お、俺…」
監督先生が「ん?」と笑いながら聞き返す。声も、気を抜いたら震えてしまいそうで、だからとびきり張り上げた。
「…俺っち!もっかい稽古してくるッス!!」
監督先生は「えぇ、お風呂入ったのに!?」と驚いていたけど、俺はもう稽古場まで全力で駆け出していた。
 嬉しい、メチャクチャ嬉しい、どうしようこのままじゃ嬉しすぎて箱の中に上手にしまえない。稽古場まで猛ダッシュする俺を廊下ですれ違う何人かが不思議そうな顔で見ていたけど、駆ける足は止まらなかった。

 息を切らしながら稽古場の重たいドアを開く。端に畳んであるパイプ椅子を一脚だけ広げて、その上に男の子とお母さんからの手紙をそっと置いた。
 稽古場に一人きりで立つ。お世辞にも鏡に映る俺の姿は「強くて優しいヒーロー」とは言い難い。だけどもらった言葉が、今、俺の真ん前にある。俺宛ての言葉が、確かにそこにある。
 心にきつくハチマキを巻いた。男の子がくれた言葉を目を瞑りながらなぞって、俺は拳を真っ直ぐ突き出した。
「…せいっ!やあっ!せいっ!やあっ!」
心も体もじっとしてられなかった。だってこのままじゃ嬉しくて大きすぎて、上手に箱の中に入らないよ。きみが送ってくれた言葉をそのままの形で、そのままの大きさで、だって、俺は絶対に受け取りたいから。素振りをしながら涙がにじむなんて初めてだった。

 頑張るから、見ててね。強くて優しいヒーローに近づけるように、きみがいつかまた俺のことを見つけてくれた時、その時も同じように「かっこいい」って思ってくれるように、いっぱい頑張るね。絶対絶対頑張る。頑張るよ、だから俺のこと、見ててね。
 シャツの襟口はすぐビショビショになった。首を伝う水滴が汗なのか涙なのか、もうよく分からない。この後もっかいお風呂に入らなきゃ。左京にぃにはなんて言って説明しようかな。一日に何度も風呂に入るんじゃねえって、叱られちゃうかな。



 後日、ちょっと気になって◯◯戦隊のことを調べてみた。公式ホームページにはかっこいいポーズをした立ち姿の画像と一緒に、ヒーローの紹介文が添えられていた。
「善良な市民の平和を守る◯◯レッド。赤と黒のバンダナがトレードマーク。元々はどこにでもいる普通の青年だったが、ある日悪の組織××に家族をさらわれてしまったことからヒーローになることを心に決める。「百回転んだら、百回立てばいい!」が決めゼリフ。そんな己のポリシーを胸にどこまでも突き進む。」

 次の週から、日曜日の朝9時半俺が必ずテレビにかじりつくようになったのは…うん、へへ。
 言わずもがなだ。