Stand the gray middle finger.

after that







伸ばし放題だった髪を切った。
人生で多分一番髪を短くした。後ろを刈り上げてだいぶ軽くなった自分の髪型を鏡越しに見た時、何だか少し気恥ずかしさを覚えた。担当してくれた美容師にスタイリングの仕方を簡単に教わり、涼しくなった後頭部をさすりながら俺は適当な相槌を打つ。
何かを変えようと思う時、分かりやすい見た目の変化があるというのは良い。それからは鏡を見る度少し気合が入る気がした。自分は結構単純なんだと思う。

今までの生活を変えるのは大変だった。まず、朝起きられないのだ。
スマホのスヌーズ機能だけでは駄目で、本当に恥ずかしい話だが最初のうちはばあちゃんに朝電話をしてもらったりもした。目覚まし時計を買って、わざと部屋の外に置いてベッドから出なければいけない状況を作ったり、無理やり朝起きられるよう色んな方法を試した。
正直、最初の数ヶ月で何回か諦めそうにもなった。自分を変えるのは簡単なことじゃない。体に染み付いた怠惰と堕落はすぐには抜けない。
取らなければいけない単位の数にも、すぐには講義内容を理解できない自分にも心が挫けそうになった。気軽に声をかけたり頼ったりできる誰かもいない。一人きりで頑張ることは俺が思っている以上に辛くてしんどかった。ここで投げ出したら、逃げてしまったら、どれほど楽だろう。

悪魔は何度も囁いた。だけどその度、ひろのことを思い出す。別れを切り出されたあの時の言葉と一緒に、付き合っていた頃の思い出も頭の中を駆け巡った。
心配をしてくれた。会いたいと思ってくれた。その気持ちを踏みにじるようなことは絶対にしたくなかった。
いつかまた、いや…そんな日が来るかは分からないけど、どこかで会える時が本当に来るなら、もう俺は「会う資格がない」とか、そんなことは思いたくないから。元気にしてた?って聞かれて、元気にしてたよって答えられる自分でいたいから。

何度も傾いてその度に踏みとどまる日々は、次第に安定していった。
朝も自力で起きられるようになって、大学へ行くことが億劫ではなくなり、何かを勉強する時の頭の使い方、その感覚を段々と思い出した。講義がよく被るという理由で顔と名前を知って、それから少しずつ喋るようになって、仲良くなれた人達も何人かできた。
身の回りの環境が徐々に変わって、頑張ることが少しずつ重荷ではなくなっていく。それに気付かされる度、今までの自分がどれほど沢山の物事を放棄していたのかを痛感した。見放されていた訳ではない。俺が自ら手放していた。
気付くのが遅いと思う。馬鹿だと思う。だけど、きっと手遅れじゃない。

卒業の目処がついたのはそれから三年後、俺が24になった年だ。
仲良くなった連中何人かと進路の話をした。大学院へ進む奴もいれば第一志望の会社で採用が決まった奴もいる。未来を見つめる皆の目は少しの不安と希望が混じっていた。
この先どうしたいのか、どうなりたいのかはまだ漠然としていたが、なんとなく手に職をつけたいと俺は考えていた。俺がそう言うと連中は頷いて「確かに稲田は会社員って感じじゃないかも」と言って笑った。

たまに、右手首の刺青をぼんやりと眺めてしまうことがある。
始めのうちはやりきれない気持ちになったりもしたが、この頃はそうでもなくなった。あの時の自分を忘れない為の、良い薬のようにも思えるのだ。
あの時彼らは俺に教えてくれた。大事にしない、されないというのはどういうことなのかを。
ありがとうと思うことはできないが、恨むこともない。当時の俺がされて当然のことを、彼らは当然のようにしただけなのだと、それだけのことなのだと今なら分かる。もうあの頃の自分に戻らない為に、繰り返さない為に、これからもきっと何度か思い出すのだろう。誰かをもう傷付けたくない。だから自分のことも、極力傷付けたくない。
消した方が良い過去など本当はないのかもしれない。無駄なことだってきっと一つも。全ての日々を積み重ねたその一番上に、今の俺がいる。

12月の終わり、冬季休業期間中に峯田や柴崎さん、他にも何人かに自分からラインを送った。
数年ぶりのやり取りは最初こそぎこちなかったが、何度か会話を送り合ううちすぐにそれもなくなった。久々に会おうということになって、峯田と柴崎さんとはそれぞれサシで飲んだ。
峯田は専門学校を卒業した後、古着屋でバイトをしながらリメイク服のオンラインショップを経営していると教えてくれた。柴崎さんは彼女と半同棲していて、向こうの親に同棲したいことを言い出せないでいるらしい。あっちの両親の好感度が上がる為には何をすれば良いのか、真剣に悩んでいるようだ。
みんな、あれから年齢を重ねて自分の道を歩いている。進んでいる。変わっていることもあるし、変わらないままのことも沢山ある。月日は平等に過ぎる。それをどう過ごすかは、当たり前だけど自分次第なのだ。
また会えて良かったと言うと、峯田も柴崎さんも「こっちのセリフ」と言って笑った。笑った顔が見れて良かった。

三月、俺は二浪して大学を卒業した。
俺が何度も来なくて良いと言ったので(どうしても照れくさかったのだ)親父もばあちゃんも直接会場には顔を出さなかった。その日に撮った写真の何枚かを親父とばあちゃんに送るとそれぞれから電話がかかってきて「おめでとう」「頑張った」「よくやった」と何度も繰り返し言われた。
頑張ったことを、頑張ったねと言ってくれる人がいる。幸せなことだと思った。一人ぼっちじゃない。一人ぼっちだったことなど、本当は一度だってなかったんだ。

就職先は程なくして決まった。
大学最後の年、夏頃から親父には何度か相談していたから決まるまでの流れは早かった。
俺は春から自動車整備工場で働く。親父の職場仲間の息子さんが働いているらしく、人手が足りないから良ければ、ということだった。まあ端的に言えば親父のツテだ。
もちろん整備士資格は持っていない。けれど幸いなことに無資格からでも就職できるらしく、まずは整備士見習いとして働きながら資格取得を目指すことになった。
親父には、もっとやりたい仕事や興味のあることがあるんじゃないかと少し不安そうな顔で聞かれた。焦ってはいないか、本当に良いのかと。俺は頷いて「やってみたい」と伝えた。漠然とだけど、何かを作ったり直したりする仕事に就けたらと思っていたからだ。
それも付け加えて言うと、親父は笑って「俺も似たようなこと思って今の仕事に就いたよ」と言った。

卒業後の三月。
俺は合宿でマニュアルの免許を取りに行くことになった。金は、卒業祝いと言って親父が出してくれた。親父には世話になりっぱなしで情けない。すぐに返せなくてごめんと頭を下げると「馬鹿、卒業祝いだっつってんだろ」と、垂らした頭を小突かれた。
実技と筆記を終え、四月半ばに俺は無事免許を取った。真新しい免許証をしばらく眺め、煙草を吸いながら財布の中にしまう。
来週から仕事が始まる。最初の給料が入ったらまずは親父を寿司屋にでも連れて行こうかと思っている。二人で一緒に、普段は飲まないような酒を飲むのも良い。
ばあちゃんはどういうのがいいかな。花とか贈ったら喜んでくれるかな。今度親父に聞いてみよう。



煙草を吸い終わって息を一つ吐く。スマホを取り出して、俺はラインを立ち上げた。
ずっと、なんて送ろうか考えてた。送るならいつだろうなって思ってた。
…今だと思うんだ。今なら、送れると思うからさ。
昔からずっと変わらない。水の中を泳ぐペンギンのアイコンをタップして、そこからトーク画面を開く。
かっこ悪いな、文字を打つ指に変に力入っちゃってさ。すげー緊張してるわ。…ひろ。

『久しぶり、元気?
連絡くれてありがと、返信遅くなってごめんね。
留学おつかれさま。
今度会えたらその時いっぱい話聞かして。』



俺も話したいことあるよ。
まずは笑って言えたらいいな。ありがとうって。











Stand the gray middle finger.

end.



break (Extra edition)


break.01





「へあ!?」

 スマホの通知を見て変な声が出た。だって思いもよらない人物からラインが来ていたから。
 俺はスマホを片手に握り締め、脱衣所でドライヤーをかけていることみちゃんの元までダッシュで向かった。
「ちょ、ちょーちょちょちょ!ことちゃん!大事件!」
ことみちゃんが驚いた様子で俺の方を見る。
 ドライヤーを一旦止め「どうしたの?」と首を傾げることみちゃんに、俺は興奮を抑えられないまま答えた。
「イナディーから!!ライン来たんだけど!!」
ことみちゃんは数秒間考え込むような顔をして、それから「あ」と閃いてみせた。
「イナディーってあの人だ、かんちゃんの昔のバイト先の」
「そう!それそれそれ!」
「なんてライン来たの?」
「はっ!まだ読んでなかったわ興奮し過ぎて!」
ことみちゃんの穏やかな声にやや冷静さを取り戻し、俺は握りしめていたスマホの画面をもう一度見つめた。
 昔とおんなじ、ガイコツがタバコ吸ってるイナディーのアイコン。最後にラインを送ったのは何年前だったかすぐに思い出せないくらいだ。まるで押入れから引っ張り出してきた埃だらけの段ボール箱みたいに、俺は恐る恐る、その蓋を開く。

『柴崎さん久しぶり』
『元気すか』

 イナディーの短くてシンプルで敬語が半分以上くだけた喋り方を、そのラインを見た瞬間ブワッと、頭の後ろで突風が吹いたみたいに俺は思い出した。
 唐突以外の何者でもないそのラインにもちろん驚きも戸惑いも隠せない。そう、隠せないんだけど、俺は自分でもビックリするくらい嬉しいって、今感じてる。
 だって、もうイナディーとは縁が切れちゃったんだろうなって、きっとメッセージを送っても返信がないどころか既読すら付かないんだろうなって思ってたから。
 まさか、本当にマジで、まさか、イナディーからメッセージが来るなんて。
 ちょ、ちょま、マジで何?壺買ってとか入信してとかそういう感じのアレ?いやでもイナディー宗教とかに興味持たなそうだし、お金に困ってるんだとしたら「金貸して」って率直に言ってきそうだし…。
 裏を読もうとする自分の思考回路にハッとして、俺はかぶりを振った。
 壺とか金とかそういう発想をしてしまう自分が恥ずかしい。心が乏しくて落ち込む。ひん曲がってるわ~ほんと…。やだわ~。
 自己嫌悪しながら、何度もイナディーからのラインを見返す。
 イナディーがどんなつもりでこれを送ってきたのかは分からない。けど、受け取って嬉しいと思った自分の気持ちをまずは伝えれば良いんだよな俺は、と思い直した。
 何度も打っては消し、キーパッドの上で親指を動かす。やっと完成した一文になんと15分もかかってしまった。
 送った内容は、こうだ。
『イナディー!?超ビックリしたわ~!元気だぜウェ~~イ!イナディーも元気!?』
送って数十秒後、既読がつく。
 ああ今イナディーも同じようにスマホの画面の中、俺とのトーク画面を見ている。それを思うとなんだか口元が震えた。
『元気』
『大学やっと卒業できそーす』
『二浪しちゃった笑』
一行のメッセージが立て続けに3個。昔と一緒だ、イナディーはチャットみたいな感じでメッセージを打つんだ。変わってないなぁ、懐かしいなぁ。
 そっか、二浪。なんか途中で大学行かない時期とかあったんかな?でもちゃんと卒業出来そうなんだ良かった。
 俺が『おめ!』と送るとすぐに『どーも』と返ってきて、どうしてかそのメッセージがイナディーの声で脳内再生余裕で、余裕な自分に笑ってしまった。
 「どーも」ってぶっきらぼうな声で、よく言ってたよなぁ~イナディ~!あぁ~懐かしいなぁ~!!
 照れ笑いしてる動物のスタンプを送ったら、それからまた数秒後にイナディーからメッセージが送られてきた。

『今の、おめって』
『すげー柴崎さんの声で聞こえた笑』

「……っっはぁ~…!!」
 昔からこうだ。
 イナディーのこういうセリフに不意打ちで、いつも胸の真ん中をドスっと刺された感覚になるんだ。
 素っ気なくて愛想なくて短気でぶっきらぼうで人相悪くて意地も悪くて、だけど俺はイナディーのことが前からずっと好きだった。
 本当に思ったことだけを言ってくれる。裏をかいたりしないでいてくれる。イナディーの言動にはいつだって嘘がないんだ。
 怒られたことも褒められたことも謝られたことも、全部同じずつくらいある。全部同じずつくらいなのがイナディーのすごいところで、俺はそういうところがいつもメチャクチャ好きで、憧れだった。
 人の顔色伺ったり思ってもないこと言っちゃったり、逆に、言いたいことや言わなきゃいけないこと言えなかったり。そういうことばっかり繰り返してた自分にとって、イナディーの存在はいつも鮮烈だったんだ。

 今、イナディーどんな風になってるのかな。会いたいなぁ。
 俺ねぇ実はねぇなんと彼女できたんすよ、できたんすわ。メッチャ可愛いんすわウルトラ好きなんすわ。再来月は二年記念日なんすわ。
 言ったらどんな反応するのかな。イナディーは喜んでくれる気が、するんだよなぁ。

 少し考えて、俺はまたラインを送った。
『いつかまた会いたいぜい!酒でも飲もうぜい!』
ちょっとドキドキしながら返信を待つ。
 そして数秒後に送られてきたイナディーの言葉に、俺は今度こそ間違いなく心から嬉しくなって、もうなんならちょっと踊ってしまった。

『いま冬季休暇期間中』
『毎日ひま笑』
『俺も会いたいす』

「……」
もうさ、なんでかサッパリ分かんないんだけど、俺は踊りながら涙目になってしまって、視界の向こうの液晶画面が揺れちゃって、もうホント、ダメだった。
「こ…ことちゃぁぁ~ん!」
脱衣所の方から「なーにー?」という優しい声が聞こえる。
 今夜は彼女に、イナディーとの思い出話をたくさん聞いてもらおう。俺があの頃より少しだけ自分のことを好きになれたのは、それからことみちゃんに「好きだ」って伝えられる俺になれたのは、多分、きっとさ、この人のおかげなんだ。



 それから一週間後の、夕方18時。
 高校の頃は毎日のように使っていた駅、その前で俺はイナディーを待っていた。
 き、緊張する。なんだこれメチャクチャ緊張するぞ。ことみちゃんと初めてのデートの日の待ち合わせと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上の緊張だ、まずい。
 だってイナディーと会うなんて何年振りよ?俺がバイト辞めてからは一回も会ってないよな?辞めたのが確か高3の2月くらいだったから…え?かれこれもう6年ぶり?ひ、ひえぇ~~大丈夫か俺、ちゃんと話せるのか…。
 月日の長さを、こんな時ダイレクトに感じる。
 六年。いろんなことがあった。
 高校卒業して工業の専門に進んで、その間にまた違うバイト始めて、ことみちゃんに出会って、好きになって、紆余曲折あって、初めて誰かと付き合うことになって…。
 俺が過ごしたその時期と同じ長さの六年が、イナディーの傍らにもある。
 イナディーはどんな六年を過ごしたんだろう。想像もつかないな、ドキドキするなぁ。24歳のイナディーは、どんなイナディーなんだろうなぁ。

「柴崎さん」

 名前を呼ばれ、心臓が飛び跳ねる。
 声のした方へ視線を動かすと、そこには俺が知るイナディーより六個分歳をとった彼がいた。
 18:03。3分遅れで到着したイナディーが「ごめんお待たせ」と言った。俺は、返事をすることができずただイナディーの姿を目に焼き付けていた。
 あの頃よりずいぶん短くなった髪、うっすら生えてる鼻の下の髭、俺より10センチくらい低い背丈、昔と変わらないちょっと気怠そうな喋り方。
 そのどれもがまごうことなきイナディーで、あんまりにもイナディーだから、俺は瞬きすることも忘れてその姿をじっと見続けた。
「…なんか緊張して、家出んの遅くなっちゃった」
そう言って小さく笑うイナディーが、なんていうかもう本当に、イナディーそのものだったから。
 …俺は熱くなる自分の目元を慌てて叱りつけ、視界が滲むのを必死で堪えた。
「ぬぁっ、ぬぁ~に言っちゃってんだよイナディー!」
笑い飛ばしてイナディーの背中をバンバン叩く。イナディーは叩かれる度に「いて、いて」とこぼしたが、だけど緩く笑ってくれていた。
「…柴崎さん久しぶり」
ひとしきり背中を叩いた俺がその手を止めると、数秒の無言の後にイナディーが言った。
「髪切ったんすね」
「うぇ~い!イナディーもな!」
「そっちのが似合ってんじゃない」
「やめろよやめろよ~!超照れるじゃんか!」
六年経ってもやっぱりその時思ってることをそのまま言うところは変わってないらしい。
 本気で照れてしまって、それがバレないように大声で笑ったけど、俺の誤魔化しもイナディーにはあんまり通用しなかったみたいだ。だって多分全部バレている。
「…良かった、安心した」
「へ!?」
「変わってないから。緊張解けてきた」
 …なんだろうな。…なんなんだろうな!!もうなんかさ、ずるいよな!!分かる!?イナディーってずるいんすわ!!イナディーにかかれば六年の歳月なんて屁でもないんすわ!!時を超えて心の中を気軽にポンポン叩いてくるんすわ!!
 普段は無愛想なくせに。声かけにくい人相してるくせに。怖そうな顔してるくせにさ、なのにさ。
 だけどイナディーがこうやって不意打ちで漏らす言葉って、たまにびっくりするくらいまん丸なんだもん。全然トゲトゲしてないんだもん。
 こっちが予想してるイメージとのギャップがすごくて、そのギャップを感じる度にめちゃくちゃドキッとする。俺はもし自分が女の子だったら、簡単にオとされてるだろうなって思うのだ。
 ね、分かった?イナディーってずるいんすわ!するっと内側に入ってくるって言うかさ!こっちが結構な強度の防御線張っててもさ!お構いなしなんすわ!は~怖っ!!
「いやぁ~イナディーも変わってない!ヤバイくらい変わってないわ!」
「…うそ。マジで」
「マジマジ!も~あの頃のまんま!メッチャイナディーって感じ!」
俺がそう言うとイナディーは少し俯いて笑った。俯いたままこぼした「そっか」は小さくて、だから嬉しいと思ったのかそれとも複雑だったのか、よく分からなかった。
 失言だったかと内心慌てると、イナディーが顔を持ち上げて「店行こ」と言った。
「う、うん。りょ!」
やだな、なんか良くないこと言っちゃったかな。
 だけどその後のイナディーはいたって普通で、俺は心の中に留めた「なんかやなこと言った?」を言葉にして伝えられないまま、イナディーと同じ歩幅で店までの道を歩いた。

 焼き鳥が旨くて安いことが売りの居酒屋チェーン店に入り、二人並んでカウンターに座る。
 ボックス席も空いてはいたけど、店員が先に「カウンター席でもよろしいですか?」と言ったので特に断る理由もなく案内されたその席に座った。内心、向かい合わせより横並びの方がいいなと思っていたのでラッキーだ。(だって緊張するじゃん、向かい合わせの方がさ)
 席につくなりイナディーが「煙草吸ってもいいすか」と聞くので、どうぞどうぞと答える。イナディーは「どーも」と言って、上着のポケットから取り出した煙草の箱から一本抜き取り、慣れた手つきで火をつけた。
「柴崎さんは吸ってないんすか」
「うん。あでも全然気にしないで!ガンガン吸っちゃって!」
「うん、どーも」
煙草を持つイナディーの手をなんとなく見つめる。
 イナディーの喫煙姿は様になっていた。似合うなあ。漠然と思いながら、俺は目の前に立て掛けてあるメニュー表を開く。
「何食べよっか!この串盛り合わせのやつ頼む?あ、鍋もいっすね~!イナディー食べたいやつある?」
「うん。…柴崎さんは?好きなやつ頼んでいーすよ」
「俺はなんでも!イナディーは?」
イナディーが笑って煙草の煙を吐く。なんか変なこと言ったかと動揺して「え、えっと」と狼狽えると、イナディーがメニュー表の中から一つを指差して「じゃーこれとね…」と言った。
「あとビール」
「あ、じゃーそれ!あと俺も酒…えっと、じゃ梅酒にしよっかな!」
「うん。…柴崎さん酒飲めんの」
「は!?飲めるわ!ガンガン飲めるわ!」
「なんか弱そう」
「弱くないわ!そこそこ強いわ!」
「あはは。無理して合わせてんのかなと思って」
「無理してないわ!」
「あはは」
イナディーが笑いながらカウンターの向こうの店員さんを呼ぶ。決めたメニューの他にも数品追加して頼むので、勝手に決めてくれたことに内心ホッとした。
「空きっ腹で飲むと酔っちゃうんじゃないすか。ちゃんと食べてよ」
「酔わんわ!弱くないって言ってんじゃん!」
「そー?弱そう」
「だから!」
なんでだか酒が弱いというレッテルをしつこく推してくるイナディーに抗議すると、やっぱりまたおかしそうに笑う。っは~、ナメてるな俺のことを!まったく!そんな言うほど弱くないっちゅうに!
「最後に会った時のイメージで止まってる、なんか」
「えぇ~、マ?俺もそれなりに成長してるけど?心外よ?」
「はは。うん、そーすね」
 数年ぶりに会うイナディーは、なんていうか、基本的なところは変わってないんだけど、あの頃より少し柔らかくなったような気がする。
 自分ばっかりアガッているようで少し恥ずかしい。だけどそんな自分のこともきっとお見通しなんだろうな。照れるけど安心もするのは何でだろう。
「イナディーはさ、なんか、大人んなったよね」
「え、そー?」
「煙草も吸っちゃってさ!様になってるっすわ!」
「あの時から吸ってたよ俺」
「は!?不良やん!」
「あはは」
ポツポツと話していたら最初の一杯が来て、イナディーはテーブルに置かれたままの俺の梅酒のグラスにビールジョッキを小さく当てて「乾杯」と言った。
「え」
「ん?最初の一杯だし」
「…や、ま!もっかい!もっかい乾杯しよ」
「ん?うん」
俺は慌ててグラスを持ち、ちゃんと音が立つようイナディーのジョッキに当て直した。
「え~、久しぶりの再会を記念して!あ~…乾杯!」
「うん、乾杯」
もっかいちゃんと乾杯がしたくてグラスを持ったのに、言うこと全然決めてなかったから目があっちこっち泳いだ。でもイナディーが笑ってくれたから万事オッケーである。俺も笑えた。
 まだ緊張がゼロになった訳ではないけど、最初に駅で待ち合わせをしてた時よりは幾分か解けてきたな。良かった。

「柴崎さんは…いま何してんすか?」
イナディーの質問に俺は少し早口で答える。
「俺?俺はね、専門卒業してからそのまま就職して!工場で働いてんだよね一応工業系の資格持ってるからさ!」
「へー、すご」
「いや全然!?すごくねっすわ、誰でも取れる資格だし!」
「…すごいよ」
少しトーンを変えて、イナディーがそう言う。灰皿に灰を落としながらイナディーはゆっくり言葉を続けた。
「…すごいすよ。えらい」
「……」
煙草を持つ自分の手を見つめながら、今イナディーは何を思ってるんだろう。なんだかちょっと寂しい顔をして笑うから、俺はなんと返して良いのか分からなくなった。
「あ、あー…イナディーは?今何してんの?」
俺が尋ねると、イナディーはやっとこちらに視線をあげて「俺も工場」と答えた。
「へっ!イナディーも!工場!?」
「うん、車の整備の。今はまだ見習いなんすけど」
「マー!?そうなん、全然知らなかった!や、そりゃ知らなくて当たり前なんだけどさ!そっか車の整備士か~!」
「…先輩がね」
イナディーの言葉にウンウンと頷く。
 俺の梅酒はまだ半分以上残っていたけど、イナディーのビールはその時もう5分の1くらいしか残っていなかった。
「手の先真っ黒でさ、いつも。仕事速くて正確で、すぐ直しちゃうんすよ、どんな案件でも」
「ほえ~!うんうん」
「…かっこいいなと思って。俺も早く資格取って、今より使えるようになりたいす」
緩く笑って、それから残りのビールを一気に飲み干す。
 イナディーの表情や台詞や仕草に、俺はなんていうか、目を離せなくなっていた。
 …ああ、24歳のイナディーがいる。今俺の目の前に、あの時より大人になったイナディーがいる。
 時折、ちょっとだけ寂しい顔をする。自分以外の誰かに憧れたり、上を見上げたり、毎日を頑張っていたりする。そんなイナディーの全部が俺の心臓をギュッと握った。
 …なんだろう、どうしてだろう。この湧き上がってくる気持ちは、一体なんなんだろう。

「実家すか?」
イナディーが、ふと思い出したようにそう聞いた。俺は慌てて変な思考を追い払う。
「あ、え、うん!?」
「今住んでるとこ。こっから遠いの?帰りだいじょぶすか」
「あ、いや~!一応部屋借りてて、一人暮らし?みたいな?あはは。こっから近いよ!だいじょぶ!」
「そっか、じゃー良かった。ベロベロんなっても平気すね」
「だから!ならんて!」
「はは」
イナディーのビールが空になったところで料理が数品到着する。イナディーはやって来た店員に二杯目のビールを頼み、空いたジョッキを渡した。
「いやはや、今日は遅くなるかもって言ってあるからモーマンタイっすわ」
鉄板の上によそわれた焼き飯をスプーンで掬いながらイナディーが「一人暮らしなんじゃないの?」と聞く。
 俺は、いよいよこれを伝える時が来たのだと思い心の中で拳を握った。
「や、イナディー。…ちょっと俺今から爆弾発言するよ。心の準備いい?」
「は?うん」
「だいじょぶ?言うよ?」
「はは、なに?早く言ってよ」
イナディーの催促に俺はコクリと深く頷き、そして梅酒を一口煽った。
 イナディーは、どんな反応をするだろう。いつもの冷めた感じで「へー」って言うだけかな。それとも、驚くだろうか。
「…俺ね、彼女と半同棲してるんすわ」
「……」
イナディーは3、4回瞬きをして、それから数秒遅れで「マジで?」とこぼした。俺は二度頷く。「マジよ」と返すと、イナディーはまた数回瞬きをして、顎をさすった。
「…え、俺いま超驚いてんすけど」
イナディーの素直な言葉に俺は嬉しくなって「だべ~!」と笑いながらその肩を叩いた。
 ひっひ、嬉しい。そうだよな、あの頃は毎日のように「彼女が欲しい」って溢してた。
 イナディーが俺の知らない所で古手川ちゃんと付き合ってて、いつの間にか俺の何歩も先を歩いていると知った時バカみたいに騒いで、うるせえって言われたりした。

 そう、俺はうるさくてしつこくて全くモテなかった。もしかしたら一生彼女なんてできないかもってメソメソ泣き言を漏らして、その度にイナディーが鬱陶しそうな顔で「しつけえ」と言った。
 そう、そうなんだよイナディー。俺、彼女いるんだよ。人生初の彼女だよ。かわいいんだよ。両思いなんていう奇跡のオマケ付き。驚きっしょ?

「うわ…ええ?…そっか…」
「はっはっは!驚いたかねイナディーくん!」
ふんぞり返って笑うと、イナディーも頷きながら笑った。
 そう、笑ってくれたんだ。嬉しそうに。
 だから俺は笑えなくなって、どうしてかまた胸がギュッとなった。
「はー…ビビった。柴崎さんやったじゃないすか」
「…ん、うん。うん!そうなのよ!やったのよ俺!」
「おめでとうございます、ほんとに」
「いやぁ!ははは!ありがとう!どうもどうも!」
「わー…マジか…」
「いやね、もうね!なんかね!あはは、ホントはちゃんと一緒に部屋見つけたいねって話出てんだけどさ!まだ向こうの親御さんに、そのこと言いに行けてなくて!もうね、ほら、俺こんなだから!許してもらえんのかなって!」
捲し立てるようにしてそこまで言うと、頬杖をつきながらイナディーは俺の顔を見つめ、それから目を細めて笑った。
 …へ、へぁ。そんな顔で笑うんすかイナディーさん。今変な声でちゃった。
「たいじょぶでしょ、あんたは」
「い?…え、あは…いや、いやいや?」
「だいじょぶだよ。近々あいさつ行きなよ」
「……」
二杯目のビールを受け取って、豪快にジョッキを傾ける。
 気持ち良さそうに上下する喉仏を俺は見ていた。なんだかちょっと、泣きたくなりながら。

 イナディーが、優しい。
 言葉が短くてちょっと目つき悪いところはそのままで、そのままなのに、優しいんだ。イナディーが大丈夫と言ってくれるなら俺もなんだかそんな気がしてきてしまった。きっと、大丈夫。
 今度マジでことみちゃんに「ご挨拶行きたい」って話してみよう。ことみちゃんがあんまりご両親と上手く話せないから不安だって言うなら、俺がその不安も全部貰っちゃえばいい。どうせ元からガチガチで、俺、上手くなんかできないんだから。ことみちゃんの不安くらい、全部平らげちゃる。…うん。そうだよ。そうだわ!

「…写真とかないの」
イナディーが新しい煙草に火をつけながら言った。俺は「ある!」と即答して、スマホのカメラロールを高速スクロールした。
 この前の、ことみちゃんの誕生日ん時のやつ。ケーキと一緒に写ってるその一枚がマジで可愛いのだ。
「これとか」
ことみちゃんの写真を見せるとイナディーはちょっと驚きながら「え、かわいい」と言った。
「だべ!?」
「名前なんて言うんすか」
「ことみちゃん!」
「へー。かわいい」
腕を組みながら感心したように頷くから、なんかもしかしてイナディーマジなんじゃね?と不安になってきて、俺は咄嗟にスマホを自分の胸元に引き寄せた。え、だって、マジなに、ちょ、渡さねーよ!?
「あ、ごめん。かわいい言いすぎた」
「イナディーマジやめろよ!?俺の多分最初で最後の子なんだから!」
「いや、手ぇ出したりしないすよ。思ったから言っただけホントに」
「イケメンの「思ったから言っただけ」ほど怖いもんはないのよ!勘弁してよ!!」
声を荒げてそう言うと、イナディーはダラ~っと煙を吐き出した後「イケメンじゃねーし」と何故か白けた目をしてこちらを睨んだ。
「イケてねーから独り身なんすよ、やめてよ」
「イケてるわ!だって、なんだ…俺はなぁっ、高校ん時からずっと思ってたんだからな!イナディーはイケメンだって!」
「へー」
「へーではなくて!」
「はいはいどーも」
「はいは一回!」
イナディーはいよいよ笑って、頬杖をつきながら「あんたなんなの」と言った。
「…ごめん照れちゃった。ありがと、嬉しい」
 え、マジなに?だからその緩急の付け方がイケメンなんだって言うとりますやん。真性だこの男。怖っ。

「いいなー、彼女」
「…イナディーだって、なんだよ…本気になりゃちょちょいのちょいじゃんよ…」
「…どーすかね」
小さい溜息と一緒に短くなった煙草の火を消す。それからイナディーは焼き鳥を一本手に取って、それを口に運ばないまま「あのさ」と、少し言いづらそうに、迷いながら言葉を発した。
「…会ったんすよね?柴崎さん」
「…へ?」
なにを指してる言葉なのか分からなくて俺は動揺する。でもイナディーもちょっと戸惑ってるみたいで、顎をさすりながら「んーと…」ともったいぶった。
「……ひ、あー…古手川さんに」
「……」
イナディーが、笑ってるのか困ってるのか分からない顔で、言いにくそうにその名前を口にする。

 …するから、俺は分かってしまった。
 ああそっか、イナディー。まだ、古手川ちゃんのこと。

「あー!そうそう!林さんも一緒に三人で!ちょうど帰国してた時だったみたいで~!」
イナディーの代わりに目一杯明るく、いつもの調子で伝えた。
 ああ、俺からこの話振ってあげれば良かった。バカじゃん、イナディーから言うのきっと勇気いるじゃん、俺のバカ。
「……元気にしてた?」
「……」
元気にしてたよ。笑ってたよ。髪の毛切ってた。綺麗になってたよ。
 …なんだよ、なんでだよ、イナディーに明るく全部伝えたげたいのに。上手く言葉になんなくて、やだなぁ本当に。下手くその極みか俺は。
「…うん」
やっとの思いで捻り出した二文字に、イナディーは安心したように笑って「そっか良かった」とだけ言った。
 お節介だって分かってる。迷惑だってことも百も承知だ。それでも、俺は今のイナディーの言葉を古手川ちゃんに聞かせたいと思ってしまった。

 古手川ちゃん。ねえ、イナディーがさ、良かったって、笑ってるよ。古手川ちゃん元気で良かったって。
 寂しい顔して、いま、笑ってるよ。

「……イナディーのこと、心配してたよ」
あの日の会話を思い出す。脚色はしない。茶化したりもしない。ちゃんとそのまんま、イナディーに伝えてあげたいと思ったから。
「連絡つかなくて、今何してるのかなって。…会えたらいいなって…言ってたよ」
「……」
イナディーは持ってた串をやっと口に運んで、でも味なんかきっと全然そっちのけで、どこかを見つめながら、ぼんやりそれを頬張った。
「……うん」
「……」
ねえ、何で別れたの?お互いすごく好きそうだったじゃん。あんなにお似合いだったじゃん。
 羨ましかったよ。俺、羨ましかった。カレカノっていう存在に憧れがあったのは勿論だけど、でもそれだけじゃなくて、本当に二人のことが、両思いで幸せそうで、心から「いいな」って、思ってたんだ。
「ひ…古手川さん、あー…髪切ってた?」
「……」
なんだよ、いいよもう。俺しか今聞いてないんだから。「ひろ」って、あの時呼んでたのとおんなじようにさ、呼びやすい呼び方で呼べばいいじゃんイナディー。
「…切ってた。かわいかった」
「……そっか」
「……」
涙が出そうだった。だから残りの梅酒を全部ガブ飲みして誤魔化した。

 イナディー。俺は思ってたよりイナディーの悲しい気持ちに、耐性がないみたいだ。
 俺のことからかっててほしいし、いい塩梅であしらっててほしいし、そんで、ちょっと意地悪な顔でいいから笑っててほしい。
 …そんな寂しそうな、特別な顔。こんな何気ない飲みの場なんかで、簡単にさ、見せちゃったりしていいんかよ?…いかんだろ、いかん。だってきっととっておきだ。とっておきは、一番大好きな人に見せるべきだ。

「古手川さんに彼女のこと話した?」
イナディーがちょっとニヤニヤしながら俺を見る。そっか、しんみりターンはこれで終わり。うん。イナディーがそうしたいなら、俺もそれに従うよ。
「フフ、もちろんよ。古手川ちゃん見事に口あんぐりだったからね!」
「ふ、想像できるわその顔」
「ポカーンよ。ホントに漫画みたいなポカーン顔!あんまり驚かれるからさすがに俺もまいったよね」
「あはは。ひろ驚いた時って後ろに「ガーン」って文字見えるもんね」
イナディーは言い終わった後「やべ」と言って慌てて口を塞いだ。
「まちがえた。古手川さん」
しっかり言い直すイナディーのことを、俺は、そんなん違うよって強く思った。
 まちがえたってイナディー本人がそう思うんなら、それを正そうとなんて本当はしなくて良いはずなのに。それでも嫌だと思った。
 まちがえてない。なんもまちがえてないよ。ねえイナディー、イナディーの中で古手川ちゃんはずっとさ、これからもずっと「ひろ」なんだよ。

「……まちがえてないっすよ」
たった数滴をこそぎ落とすみたいに飲んで、俺はグラスを強めにテーブルに置く。本当に言いたいことを伝える時、その「本当」の大きさと比例して心は勇気を使う。そう、勇気が要るけど、でも言わなきゃいけないことはやっぱり言うべきなんだ。
 それを俺に教えてくれたのは、いま俺の隣にいる、この人だから。
「なんもまちがえてない」
俺の言葉に、イナディーが数回瞬きをする。それから数秒の時間を使って「うん」と、彼は小さく頷いた。
「…そっか。そーすね」
「うん。そうだよ」
「……あざす」
イナディーの中に渦巻く沢山のことを、俺は何も知らない。古手川ちゃんと別れてからイナディーがどんな思いで毎日を過ごしていたかなんて、これっぽっちも分からない。
 だけどイナディーの中に古手川ちゃんが今もいる。六年経った今も、その名前をどう呼んだらいいか決めあぐねるくらい特別な場所に、古手川ちゃんが確かにいる。

 伝えたいと思うのは俺の傲慢なんだろう。自己満足以外の何者でもないんだろう。
 ねえだけどさ、古手川ちゃん。この人さ、六年ずっと古手川ちゃんを大事な場所にしまってるよ。たぶん知らないでしょ?会えばきっと思ったことを伝えられるこの人は、だけどずっと会わないまんま、どうしていいか分からないまんま、それでもずっとしまってるんだ。
 バカだ、もう、イナディー。会いに行っちゃえよ。顔見たらきっと言えることが沢山あるのに。なんでそんなさあ…普段はもっと上手くやるくせに。ヘタクソ。

「……まあ、いつか、会って話せたらいーなとは」
イナディーが次の一本に火を付けて、歯切れ悪そうに言う。次の言葉を選んでいる時たぶん決まってフィルターを強く吸うんだろう。イナディーに吸われた煙草は、だからグングン短くなった。
「…思ってるけど……どーすかね。向こうが会いたくないかもしんねーし」
「会いたいって、だから…言ってたんだってば」
「んー…まあ、言うだけならなんとでも言えるし」
カウンターの向こうをぼんやり眺めてイナディーがそんな、そんな素っ気なくて他人行儀なことを言う。本当は、本気ではそんなこと思ってないくせに。
「古手川ちゃんは、思ったことしか言わないじゃん」
「…んー…」
わかるよ、わかる。アホな俺でもさすがに分かるよ。イナディーは今ビビってる。ビビってるから自分の発言に保険をかけたり言い訳の余地を作ったりしてるんだ。
 でも俺、だめだ。ビビってるイナディーにもあんまり耐性がないみたいだ。
 不遜で、不敵でいてほしい。完全無欠のかっこいい人でいてほしい。だって勝手にヒーローなんだ。俺の中ではずっと、イナディーは余裕の表情で口笛吹きながら悪を斬ってくような、そういう人なんだ。
「……さーせん。今やな言い方しちゃった」
「……」
ズルして勝っちゃった後、ごめんねズルしちゃったって正直に手の内を明かされてしまった、そんな気持ちになった。いつだってこっちの気持ちはお構いなしで、本当にこの男は。感情が上に下に激しく動く。息が詰まった。言葉が出なくなった。
「…自分カッコ悪いからさ。バレたくないだけかも。…ダセー、ウケる」
全然ウケない。ちっとも面白くない。バカタレ、ビビリ、チキン、イナディーのバーカバーカ。
「……ビビって言葉間違えた。ひろ言わないよね、口だけみたいなこと」
それで、イナディーが大きく白い煙を吐くから、なんか俺ももう我慢できなくなっちゃって、便乗して吐いちゃえみたいな気になって、ちょっと涙が垂れてしまった。イナディーはすぐに気付いてギョッとしてたけど、でも、黙って灰皿に灰を落とすだけで、泣いてる俺を茶化すようなことはしなかった。

 イナディーの前で泣いたのは、実はこれが初めてじゃない。高校生の時、一緒に働いてたあの頃にもイナディーの前でこうして泣きっ面を晒したことが一度だけあった。
 あれは確か自己嫌悪でグッチャグチャになってた時だ。それで、吃音症の古手川ちゃんが頑張って接客業してる姿が、何だか俺は当時つらくて、クソダサい自分と比べてしまってしんどくて、耐えられなくて、だから馬鹿にして笑った。ひどいことを言って傷つけた。しかもそこには明確な「悪意」があった。悪意があって、傷つけと思いながら傷つけた。…最悪だ。史上最悪の最低人間だ。

 古手川ちゃんはサ行が苦手だった。そして俺の苗字は「し」で始まる。だから古手川ちゃんは俺を呼ぶ時いつも「し、し、し、柴崎さん」と呼んだ。
 それが、嫌だった。あの時それがすごくすごく嫌だった。頑張ってるところをアピールされてる気がした。頑張れてない自分への当てつけに感じた。格好悪い背中に無理やり日差しを当てられている気がして、苦しくて、逃げ出したかった。
 だから耐えきれなくて、俺を呼ぶ古手川ちゃんに「わ、わ、わ、わかりました~」と、古手川ちゃんの言い方を真似て返事をした。…思い返して、今、死にたい。最低のドクズだ。よくあんなひどいことが出来たもんだな、何の取り柄もない、逃げてばっかの最低野郎のくせに。
 古手川ちゃんは、怒らなかった。泣くこともなかった。ただちょっと傷ついた顔をして、それから「は、は、はい」と言っただけだった。
 あの時、そんな俺に本気でキレてくれたのがイナディーだ。それから、そんな俺に最後の最後「わかるよ」って言ってくれたのも。
 わかるよって言われて、ベショベショに泣いた。劣等感だらけの自分のことを、イナディーにだけは隠し通せなかったんだ。バレてしまった時、恥ずかしくて死にたくなって、だけど同時に、心の中のどこかが急に、楽にもなった。
 キレながら「胸糞悪」って言われて、だけど後日「ごめんね」とも言われた。全部言うんだ、イナディーは。その時思った本当の気持ちを。そんな人イナディーの他に俺は出会ったことがない。
 イナディーがいなかったら、今も俺はもしかしたら最低人間的行為を繰り返していたのかもしれない。変われない自分に吐きたくなりながら、誰かを傷つけて、それであの頃よりずっと死にたくなってたかもしれない。

「…お、俺はっ…イナディーがっ…」
声が震えるから格好悪い。笑っちゃうくらい格好悪い。イナディーが自分にウケるより100倍くらいウケる。
 だけどそれでも俺は言う。昔、俺を乱暴に、だけど真っ直ぐ正してくれたこの人を見習って、言わなきゃと思ったことを言うのだ。
「カッコ悪くても、カッコ悪くなくても、そんなんはっ…どっちでもいいです」
「……」
助けてもらった恩があります。イナディーのお陰で俺は人生初の彼女と幸せにやってます。ここぞって時頑張る最初の一歩の踏み出し方を、勇気の使い方を、教えてもらった恩があります。
 だから、頑張って伝えます。届け。いや届かなくてもいいけど。いややっぱヤダ。届け。届け。

「会いたいならっ…会っちゃえよっ。…っ好きなら!」

「………」
言った。言えた。いや、言ってしまったの方が正しいかもしれない。言い終わった後の沈黙に押し潰されて、俺は今ペシャンコになりそうである。た、耐えられない。どうしよう言っちゃったごめん誰か五秒だけ時間巻き戻してください。
「……うん」
俺の体がマジのペシャンコ状態になる寸前、イナディーがそっと、本当に小さく、頷いた。
「…柴崎さん、あざす」
「…っ…へぐぁ…」
イナディーは俺の泣き顔を見て「はは」って笑って、だけどその後俺をじっと見つめて、痛みに耐えてるような顔をした。…こういう顔を、ああ、悲痛な表情っていうのかもしれない。
「…まだ好きとかウケない?」
「ウケ、ウケない、ぜんぜん…っ」
「…そっか」
「い、言っとくけど、百人聞いても百人みんなウケないって言うから。全然、ウケないから!」
「俺ウケますよ、たまに自分で」
「それはお前の、お前のなぁっ…笑いのツボがおかしいだけだわ!」
「あはは」
「ウケない!!」
「あはは、声でか」
イナディーが限界まで短くなった煙草を灰皿にグリグリ押し付けて、それで、それから、何かを手放すように、何かを諦めるようにして「まだ好きだわー」と、笑った。
「…いつか会えるよーに、頑張るす」
「……うん」
「わー、初めて声に出して言ったかも。やば、酔ってんのかな」
数年分溜め込んだ不器用を笑って、やっぱりまた不器用にこの男は自分のことを茶化してみせた。なんだよバカ、茶化されるの死ぬほど嫌いって言って青筋立ててたくせに。いつも本気ですごんでたくせに。自分のことは平気で茶化すんかいバーカバーカ、イナディーのヘッポコ。
「あ、誰にも言わないでよアンタ」
「い、言わないし。俺をなんだと思ってんだ、誰に言うと、思ってんだお前はっ」
「えー、彼女に言わない?今日帰った後」
「……」
あ、言うかもしれない。今そう忠告されなかったら言ってたかもしれない。
「…は?言わないですけど?」
嘘を吐いたら「顔書いてあんだけど」と笑われた。イナディーのケラケラした笑い声につられて、俺も眼鏡の奥の水滴を拭って、ちょっと笑った。

「…消してーなー…クソだった時の期間全部」
新しい煙草を箱から取り出して、フィルターをテーブルにつけてトントンしながらイナディーが呟く。あーそのトントンするやつ見たことある。煙草吸う人たまにやるけど、どういう意味があるんだろ?
「…なんでクソ?」
テーブルの上に並んだ食べ残しの料理をちまちま小皿に運んで、タラタラと口に運んだ。この小皿を空にしたら、俺も二杯目頼もっかな。
 俺の問いにイナディーは「んー」と言って、それから「いろいろ」とだけ答えた。ふむなるほど全然分からん。
 古手川ちゃんと別れた後、グダグダのガタガタになっちゃったんだろうか。どんな種類のクソなのかは分からないけど、俺はやっぱりその情報も、古手川ちゃんに聞かせたらどうなるんかな、薄くしてちゃんと、入念に、水のようにしてからその後にそっと、聞かせてあげたいなと、ぼんやり思った。

「あっ」
ふと、唐突に思い出した。そういえば俺、おそらくイナディーが言う、その「クソだった時の期間」のイナディーに会ったことがある。
「いれずみ」
その場面の、自分が一番衝撃を受けたことが考える前に声に出てしまった。イナディーはまたギョッとした顔をして「は?」と、片眉をメチャクチャ歪ませて言った。
「…なんで知ってんの」
「は、や~…あの、あれ?今声に出てた?」
「なんで知ってんの」
とぼけてみせたけど全然ダメだ。イナディーの声が急にマジのトーンになるから俺の体には途端に妙な力が入った。やば、あ、これやばい。言っちゃいけないやつだった多分。
「…ごめん、あの…いや~…ちょっと前にね?えっと、見ちゃった的な…?うぇ、うぇーい」
か細い糸の上を恐る恐る綱渡りしているような、そんな気分だった。ちょっとでも踏み外したら、間違いなく怪我をする。いやどんな怪我をするのかなんてわかんないんだけど。
「ちょっと前っていつ?どこで?」
「んな~…なはは…えーと、あの~…店っすね…」
「店ってなに」
「あ~…あの…」
あーだめだ。だめだなーこれ多分。やっちゃったなー!俺やっちゃったわことちゃん!どうしよ!
「怒んないから言ってみ」
「……」
超見てくる。イナディーの目ってマジで困るんだ、避けれないから。分かっててやってんのかなぁこの男は。わかっててやってんなら最悪だしわかってないんだったら最恐だな~…は~…。
「…あの、えーとTSUTAYAで、多分三、四年前」
「……」
「ことちゃんと来ててね?そん時俺は。それで…あの、見ました」
「……」
「…なんか友達と一緒に来てたっぽいからイナディーに声はかけらんなかったけど…商品取る時かな、たぶん…チラッと見えちゃって」
「……」
「あの、なんかすいません、ホントに」
「……」
イナディーはゆっくり煙を吐いて、大して伸びてない灰を何度もトントン灰皿に落として、それから「マジか…」と呟いた。
「あー…そっか…あん時か…」
「…すいません」
「いや別に、柴崎さん謝んなくていーけど」
「…うぇい…」
死ぬほど重たい沈黙が俺たち二人を覆う。に、逃げてぇ~、苦しい~。マジ逃げ出してぇ~。
「…まあ、そん時すよ。クソだったの」
「は、は~なるほど?なるほど…」
「…あー…マジか…柴崎さんいたのか……きつ」
イナディーはメチャクチャ凹んでる様子だった。吸いきった煙草を灰皿に押し付けたと思ったら店員を呼んで、追加でジョッキを二杯頼む。飲まなきゃ無理って思ったんだろうか。
「…でも良かった、あんたが声かけてこなかったのは」
「ん、うん?そ、そう?」
「うん、もしかけられてたら逃げてたわ俺」
なにかから逃げるイナディーなんて想像もつかない。ましてや、俺なんかから?…まいったな、俺が思ってる何倍もイナディーにとっては暗黒時代なんだ。黒歴史ってやつなんだろう。
 見ちゃってごめん。見ちゃったってことを言っちゃって、ホントにごめんなさい。

「…まーいっか。しょーがないよね過ぎちゃったことは」
「…うん…?うん、あ、あ~…そうですな…」
ろくな相槌が打てなくて自分に凹む。でもイナディーは新しいタバコに火をつけて「いーや、うん」と、自分を納得させる為のひとりごとを呟いた。
「…古手川さんに言わないでね」
「言わないし。…あのなぁ、言わないわ!言うか!」
「うん。…はは、カッコ悪いなー…マジで」
「悪くないわ!なんも!」
「…あー…」
火をつけたばっかりのタバコを灰皿に立てかけて、イナディーが目元を抑える。…え、え、もしかして泣いてる?あのイナディーが?え、えぇ?
「……」
 今俺ができることを考えて、俺は全力でそれを遂行した。
 見ない。絶対見ない。俺は見ないぞイナディー。前向いてるぞ、カウンターの向こうの料理人さんの手の動きだけをガン見してるぞ。料理人さん今、焼き鳥をひっくり返したぞ。大丈夫。横目でチラッと見ることも絶対しないから、安心しろ。
「…だめだ酔ってる」
「……」
俺は引き続き焼き鳥が焼けていく工程だけを異常なまでにガン見していた。イナディーがもう一回タバコを手に取るまで、軽い笑い声が聞こえるまで、それをし続ける。
「…言えないことが増えるのって、やっすね」
うん。そうだね。分かる。超分かる。
「はー…しんど」
しんどいよな、分かる。俺も消したい過去とか墓場まで持っていきたい後悔がいっぱいある。ことちゃんに出会う前の俺を絶対、俺はことちゃんに知られたくない。だから、分かる。

 みんな一緒だ、イナディー。一緒だよ。だから大丈夫なんだ。なにが大丈夫ってなんも大丈夫じゃないんだけどさ。でも大丈夫なんだ。
 …大丈夫だ。俺が保証する。

「……柴崎さん、なんかおもしろい話して」
目元から手をゆっくりどかして、イナディーはタバコをまた咥えた。
 無茶振りだ。無茶振りの王道だ。だけど無茶を振られる俺よりイナディーの方が今きっと食らってるから、俺は怒らないでやった。
「…っはー!はっは!芸人を困らすやつな!それな!」
「あーごめん、つまんなくてもいいすよ」
「はっ!?ナメてるな俺を!超おもしろい話できるわ!してやるわ!!」
「だいじょぶ?自分でハードル上げてない?」
「上げてねえわ!どんなハードルだって飛び越えちゃるわ華麗に!」
「ほんと?コケて怪我しない?あんた」
「コケないし怪我もせんわ!俺を誰だと思ってんだイナディーお前は!」
背中を豪快にバシッと叩いて、高笑いする。どうしよう困ったおもしろい話なんてなんっにも思いつかない。雛壇で軽快なトークを繰り広げる芸人を本当に心の底から尊敬した。
 ダメだ、すべらない話とアメトーークもっとちゃんと観よう、これから。
「…もー…」
イナディーは俺に叩かれた部分をさすって「いてーし」と笑った。それで、笑うついでに目を瞑った。
「……そんな優しくされたら、泣いちゃうよ俺」



 イナディーと俺のサシ飲みは、三時間くらいで幕を閉じた。最後にイナディーが追加で一杯頼むから俺もつられてビールを頼んで、結構速いピッチで飲んだ。
 席を立ち上がる時に転びかけたのは、椅子の足が引っかかったからである。酔ったわけじゃない、断じて。俺は少しも酔ってなどいない。
 でもイナディーはニヤニヤしながら「だから言ったじゃん」と何回も言ってきた。俺の「違う」をことごとく全部かわして「歩ける?」「帰れる?」「水いる?」と聞いてくる。でも心配そうな顔をしてないのだ、少しも。ずっとニヤニヤしてるのだ。なんちゅう性格してんだ、意地の悪い男である。
 だけど別れる時見た最後の顔が、そういう顔で良かった。あの悲痛な顔じゃなくて良かった。椅子の足に蹴つまずいた自分のことを、俺はちょっとだけ「グッジョブ」って思うのだ。

「帰れる?タクシー呼ぶ?」
「だから!いらんて!」
最後までそのネタを意地でも通しきるから、強めのチョップをしてやった。「いて」と言いながら、彼は笑った。
「…今日会えて良かった。ありがとね、柴崎さん」
「はっ、こっちのセリフだわ次は三倍の量飲んでやるからな見とけよお前、俺は酒豪だ」
「はいはい」
「はいは一回!」
「ウケる」
「ウケない!」
「あはは」
 …どうかな、どうだった?総評してつまんないより楽しいの方が勝った?本気で笑えた瞬間、何個かあった?あったら嬉しいよイナディー。俺は本当に、そう思う。
「じゃー、このへんで」
「おうよ。またなイナディー!」
「…うん。また」
 猫背で歩く後ろ姿をじっと見つめる。小さくなっていくイナディーの背中を、俺は黙ってひたすら見つめる。

「優しくされたら泣いちゃうよ」

 イナディーが呟いた言葉を、頭の中でそっとなぞった。
 俺は別に優しくない。違うよイナディー。恩があるから返したくて本当は、本当にさ、それだけなんだ。それがなきゃ数年振りの知人とのサシ飲みなんて、そんな、考えただけで緊張する憂鬱な予定に、この俺が参加するわけないんだ。
 なあ、古手川ちゃん。イナディーの背中がまん丸だよ。
 …さすってやってよ。見てらんないんだ、頼むよ。