Stand the gray middle finger.

Chapter.03





どうしてこんなに、人間というのは慣れてしまう生き物なんだろう。
数ヶ月経って、俺は客引きの仕事にもすっかり慣れてしまっていた。月に5、6回(しかも一回たったの三時間ほどだ)入るだけで5万は貰える。割りのいい仕事だと心底思う。
金が欲しくて始めただけの仕事はいつのまにか馴染んで、向いていないと思っていた頃の感覚を思い出せなくなっていた。女に声をかける時の抵抗感など、今はもう欠片も感じない。話しかけるこの口は勝手に、嘘のように滑らかに回った。

「ねえ、おねえさんメチャクチャかわいーすね」
これから帰るところなのか、女は少し疲れた顔でこちらを一瞥する。
「ウチで休んでけば?おねえさんだったら安くできると思うけど」
「すみません急いでるから」
「そっかぁごめんね、おねえさんすげえタイプだったからさ、どうしても話してみたくて呼び止めちゃった」
「…」
「また急いでない時に会えたらさ、そん時は俺ともーちょっとだけ喋ってよ」
立ち去ろうとする女を引き止めず、そのまま笑って手を振る。こうやって言っておくと、次に声をかけた時に入店する可能性が少しだけ上がる。メゾさんにこの前教えてもらったやり方だった。
女は少し困惑した表情で、しかしそのまま背を向けて歩き出した。多分だけど、次に会えた時あの女は入店するんじゃないかと思う。

少し経って、勝手に途中で煙草休憩を挟んでいる時だった。初めて女の方から声をかけてきた。
「こんばんは」
しゃがみこんで煙草を吸っていた俺は声がする方を見上げる。そこには綺麗な黒髪の女が立っていた。
「…」
目を細めて女をじっと見る。どこかで見たことがあるような気がして、それから数秒後に思い出した。その女は俺が初めてここに立った日に入店してくれた客だった。
「あ、思い出した」
立ち上がって、煙草の火を地面に押し付けて消す。黒髪の女の人は「本当?」と言って微笑んだ。
「覚えてるよ、やっぱ髪綺麗だね」
「ありがとう、あの時も言ってくれたよね。凄く嬉しかった」
「ほんと?でも俺以外にも言われ慣れてんじゃないの」
女は首を横に振って「髪のこと言う人なんていないよ」と笑った。やっぱり笑った顔がかわいいと思う。自分のタイプは分かりやすいなと俺は内心呆れた。
「…キミに、会えないかなって思って、ここ通ったんだ」
女の人は少し俯いて、小さな声でそう言った。伏せられた目の、睫毛の長さを俺は見る。この人、いくつくらいかな。俺より少し年上かな。
「…なにそれ」
言いながら女の人に歩み寄る。綺麗な髪の毛の先を少し触って、それから親指の腹で撫でた。
「超嬉しい。ほんと?」
俺がそう言うと、女の人は困ったような、でも熱がこもった目で俺を見つめた。俺と同じようにこの人も、もしかしたら俺が好みのタイプだったのかもしれない。
「…キミは、接客しないんですか?」
「はは、俺?あー…見ての通り愛想ねーから」
「そう…もっと話せたら良いんだけどな。でも、ここにいたら私、お仕事の邪魔になっちゃうもんね」
女の人は「ごめんなさい」と付け足して、それから申し訳なさそうに言葉を続けた。
「キミとお酒飲めたら、いいなって思ったんだけど。難しいよね。えっと…今日はもう行くね」
女の人はそう言って、名残惜しそうに俺に手を振った。

その日、仕事が終わってからいつものようにクレさんの運転する車に乗って、みんなが集まる部屋へ帰った。その帰りの車中、クレさんに何の気なしに今日あったことを話す。
「…で、俺の接客だったら、みたいなこと言われて」
「うーわマジで?そんなん普通ないよ。いいじゃん、やればいいじゃん接客」
クレさんはケロッとした調子で提案した。
「…接客は…さすがに…。俺、愛想ねーし」
「かなしいかな、愛想なくても顔がいいからなーキミは。余裕だと思うよ、ぶっちゃけキャッチより稼げると思うけどね」
クレさんが赤信号を見上げながら言う。日付を跨いだ夜の街は、その時間帯にそぐわない程騒々しく明かりを散らしていた。
「…どんくらい稼げんのかな」
窓の外を見ながら呟くと、クレさんはハンドル片手に煙草に火をつけながら答えた。
「ん~歩合制ですからねー。どんくらい稼ぎたいの?」
「…10万くらい」
「あはは10万?え、1日でって意味?」
「…いや、月で」
「月で?冗談でしょ30はいけんじゃないっすか?ホスケさんなら」
「そんな金あっても…」
「金はねー、いくらあっても困んないよ。煙草以外にもなんか欲しいもんないの?」
聞かれて、考える。欲しいものなんてあるだろうか。今の俺に。
「…あ」
「んー?」
「CD」
「CD?」
「うん、高校生ん時高くて買えなかったやつあった。何枚か」
「あはは、じゃー高校生の頃の願いを叶えてやればいいじゃん、今のホスケが」

クレさんの言葉を聞き流しながら、俺は昔のことを思い返していた。

あの頃は時給800円かそこらで働いて、なけなしの給料を欲しかったCDや行きたかったライブにあてていた。やっと買えたCDのケースを開く瞬間や、ライブ会場でSEが消える瞬間、そういう瞬間にいつも、他の何かには代えられない高揚感を感じてた。
煙草だって、年齢確認があるから高校生の自分じゃなかなか買えなくて、だから親父の置き忘れた煙草の残りを時々隠れるように吸うしかなくて、いつだって火をつける時、フィルターギリギリまで余すことなく吸おうと心に決めてから、台所のガスコンロの火をつけてた。
高校の頃仲良くしてた峯田って奴と、よくライブやフェスに行った。峯田も俺もタッパがねえからいつも決まって前の方に移動して、後ろから誰かの肘や足がぶつかっても気にせずステージの上を見上げ続けた。峯田の他にも仲の良い奴を誘って、一緒に汗をかいて、泣き上戸なそいつのことを峯田と一緒になって笑ったりした。
長く続けてたレンタル屋のバイトは、今思えば人に恵まれてたと思う。同じ時間帯に働いてた人たちのことや店長のことも、そういえば俺は好きだった。
愛想のなさと短気のせいで、店長には随分迷惑をかけたと思う。でもいつも笑ってくれて、時折ゾッとするような怖い発言をされたこともあったけど、最後にはいつだって許してくれた。
同じ時間帯で働いていた柴崎さんと林さんは元気にしているだろうか。林さんにもたくさんお世話になった。マニュアル通りの接客がままならなかった俺に、林さんはいつだって絶句して、頭を抱えて、だけどそれ以外の得意な業務に俺が就いた時はすごいと褒めてくれて、いつもありがとう助かるよと声をかけてくれた。
柴崎さんは最初の頃は仕事に不真面目で印象良くなかったけど、いつの頃からかちょっとずつ仕事を頑張るようになって、影でメモ見返したりしてて、気付いたら電話対応やイレギュラー対応も完璧にこなせるようになってた。俺のことを「イナディー」と変なあだ名で呼んできて、ほんとにふざけてばっかだったけど、あの人が高校卒業を機にバイトを辞めると決めた時は内心ちょっと寂しくて、俺は不機嫌になったのだ。

…ひろには、そのバイト先で出会った。
初日勤務の時に俺についてくれたのがひろで、基本業務はそういえば全てひろに教わったんだと思い出す。
最初は、ひろが吃音の持ち主だと知らなくて嫌な突っかかり方をした。言葉の頭の文字が引っかかってしまうひろに、俺はあの日確か「もうちょっと普通にしてもらっていーすか」と言ってのけたのだ。
ひろは、そんな無神経な俺の言葉に「ごめんなさい」と謝って、それから次の日も、きっと嫌だったろうにまた俺についてくれたのだ。昨日はすみませんでしたと詫びると、ひろは笑った。初めて俺に、その時笑った顔を見せてくれた。
ひろはいつも仕事に一生懸命で真面目だった。もっと上手く話せるようになりたいから苦手な接客業を自ら選んだのだと、後から店長に聞いた。
シフトが被り少しずつ話すようになって、お互いの聴いてる音楽が似ていることを知った。海外のちょっとコアなロックバンドの話をしたりして、二人で一緒に盛り上がった。ちょくちょく行ってたライブハウスのイベントにひろを誘って、二人で聴きに行ったりもした。
笑ったり、からかうと怒ったり、好きな食べ物を食べてる時やたら幸せそうにしたり、仕事で人一倍頑張ってる姿を見たり、ひろのそういう一つ一つを見る度に俺は何度も「かわいい」と思って、積もるように好きになって、高校二年の夏、ひろに告白をした。その時のひろの返事は「ごめんなさい」だった。
でもそれからしばらくして、俺はひろに「好きです」と告げられる。
ひろは、サ行とハ行の発音が苦手だった。だから言葉の頭にサ行とハ行がくる単語は、決まって上手く言えなくなるのだと教えてもらったことがある。中でも「す」が一番難しいらしく、ちゃんと言えた試しがないと困った顔をしながら言われた。頭の中で先に文章を考えて「す」がつく言葉は違う言い回しがないか探してから話す。そうやって極力言わなくて済むようにしているのだと言っていた。
だけどひろは、あの時言ってくれた。何度もつっかえながら、顔を真っ赤にして、両手を震わせて、涙をボタボタと零しながら、それでも「好きです」と、俺に、時間をかけて確かに。
ひろが口を震わせている間、俺もずっと泣きそうだった。震える手を握り返したいと思って、我慢できなくて、その手を両方とも取った。もういっそ、その体を抱き締めてしまおうかと思うほど、この人が愛しいと思った。
ひろが頑張って言おうとしている間中ずっと、身体中に「好き」という言葉を浴びせられているような感覚がした。雨のようにそれを浴びて、嗚呼こんな風に泣きたくなることがあるのかと俺は初めて知る。
ひろが言い終えたあと、俺はその体を抱き締めた。そしてひろが俺の背中側、制服のシャツを遠慮がちに握ったあの感触を、俺は今も鮮明に覚えている。

昔のことを思い返す度、付随して湧き上がってくる感情が俺の中に渦巻いて、いつも不快になる。
俺はその感情の正体を知らない。知りたいとさえ思わない。それは反省や後悔なのか、寂しさとか悲しさなのか、それとも怒りなのか。知ったところでどうなるとも思えない。面倒だし無意味だ。とにかく不快で鬱陶しい。
…そうだよ、だから俺は考えるのをやめたんだ。

「…接客してたらお酒もいっぱい飲めるもんね」
俺の呟きに、クレさんが笑う。
「おー飲める飲める。煙草も吸えるし座ってられるし」
「なんも考えないでいーもんね」
「だはは。そうだなー。ホスケは酒と煙草さえあればなんだっていいんだもんなー」
クレさんが笑いながらハンドルを切る。この交差点を曲がればもうすぐ、みんなが集まるあの部屋に到着する。

「うん、なんだっていいや」
クレさんの言葉に頷いて、俺も笑った。














冬は嫌いだ。耳も手も足も全部、冷たくなりすぎて取れそうになる。
クレさん達みんなが暮らす部屋にはエアコンが全部で三台と、それからストーブも二台くらい置いてある。俺はいつもその中の一台のストーブをまるで自分専用のように占領していた。

「ホスケ足寒いんでしょ。これ貸したげる」
りんさんが俺の隣に座って、分厚いタオルみたいな生地の靴下を俺に差し出した。白とピンクの縞模様のそれには、得体の知れないキャラクターのイラストが大きく印刷されている。
「…俺がこれを履くんすか」
「うん、そうだよ」
りんさんは隣でストーブにあたりながら嬉しそうに笑った。強く拒否する理由もないので仕方なく自分の足にそれをはめる。
「あはは可愛い」
りんさんは俺のことを可愛いとよく言う。言われてもちっとも嬉しくねーんだけどな。特に何も反応を返さないでいると、りんさんは俺の方へ体を寄せてゆっくりともたれかかってきた。
「…なに」
「えへ、ホスケで暖とってる」
りんさんは、デクさんが外出している時だけこうして俺に触れてくる。けど彼が居合わせている時は決して俺に視線を送ったり可愛いと言ってきたりしないので、おおよそ、俺は暇つぶしがてら遊ばれているんだろう。別に、それに対して嫌悪感がある訳じゃないけど、特別いい気もしない。どうでも良い。
「…さむ」
「そ?私は今あったかいけどなぁ」
100均の灰皿をストーブの上に置いて、俺は煙草に火をつける。今日はもうこれで4箱目だ。

「メゾさーん!明日成人式だからスーツ貸してくれさーい!」
その夜、そう言いながら玄関の扉を開ける人がいた。
彼はバイクのメットを外して下駄箱の上にそれを乗せドタドタと中へ入ってきた。辺りを見渡し、俺に気づくと「よっす」と片腕を上げる。
彼の言葉に、奥の部屋でゲームをしていたメゾさんが(メゾさんは部屋の中に引きこもってることが多い。ゲームが好きらしい)リビングに出てきて「いいけどもうちょっと前もって言ってよ」と苦言をこぼした。
「ホントごめん!すんません!お礼に今度なんか奢るんで」
「いやいいけど。…あれ?キーが成人式ってことはホスケもじゃない?」
メゾさんが俺に尋ねる。そう、キーくんと呼ばれた彼はこの仲間内で唯一、俺とタメだったのだ。
「…あー」
頭をかきながら返事を濁す。勿論俺は行くつもりなどなかった。だって会いたいと思う人が一人もいないのだ。
「ホスケもしかして会場○×?俺が行く会場の途中だから乗せてってやろっか!」
キーくんが歯を見せてニッと笑った。
「…や、いーよ。俺行かない」
新しい一本に火をつけてソファに座る。テレビを適当に流し見していると、キーくんが隣に座って俺の肩を抱いた。
「いや悪いこと言わんから行こう?一生に一度よ?後悔あとを濁す、よ?」
「…後悔先に立たず、じゃない」
「それ!」
キーくんが肩をバシバシ叩いて笑う。その勢いがあまりに強いせいで、俺は煙草の灰を灰皿から少しズレたところに落としてしまった。
「まあ、行きたくない人もいるだろうしさあ。無理に行かなくてもいんじゃないの?」
メゾさんが満充電になったIQOSにヒートスティックを差し込みながら言う。先端から発せられる煙を見つめながら、紙タバコと違ってあれは副流煙じゃなく蒸気なんだよなと、どうでもいいことをぼんやり考えた。
「でも一生に一度っすよ!」
「ん~、まあ確かにな~…。そういや俺も行ったなぁ、中学の時に好きだった子に会いたくて」
「ね!そうっすよね!俺も会いたい奴メッチャいるんすよ!」
キーくんとメゾさんの会話を横で聞き流しながら煙草の灰を落とす。ジャージのポケットの中でスマホが震えているので見てみると、親父からの着信が来ているようだった。いつものように無視していると、今度は立て続けにラインが送信される。
「今どこにいる」
「金はどうしてる」
「どうやって食ってんだ」
「返事しろ」
通知のバイブが鬱陶しくて、鳴り止ませるために「へーき」とだけ返信した。すると今度は明日の成人式のことについて連続送信される。
「なになに…明日はどうすんだ。成人式だろ。ちゃんと出とけ。連絡しろ。…ほら!親父さんだろコレ!一生の記念だよ?出てやろうぜホスケ!」
キーくんが勝手に俺のスマホ画面を覗き込んでそう言った。
「あ~…。そうだよなぁホスケの親御さん心配してるよなぁ…。うーん、そうやって言ってくれてんなら、やっぱ出といたら?」
メゾさんも少し困った顔をしながら、けれど諭すようにしてキーくんと同じことを言う。俺は強く突っぱねることも出来なくなって、仕方がないので頭をかきながら黙って俯いた。

結局、成人式には行くことになった。
メゾさんから、いつもとは違う黒いスーツを上下借りて、面倒だったので髪と髭はそのままで、俺はキーくんのバイクの後ろに乗った。

「これ、こずえのメット」
そう言ってキーくんは、自分の彼女さんのヘルメットを俺に貸してくれた。借りた赤いヘルメットは、キーくんの黒と色違いだ。
二人はいつもあの部屋に、バイクに二人乗りでやって来る。キーくんとこずえさんは、俺が起きる時間帯に大抵いつも左奥の部屋で寝ていることが多いので、普段はあまり話す機会がない。特に彼女のこずえさんとは、俺はまだろくに会話をしたこともないと思う。
キーくんはバイクが大好きらしい。時たまリビングでバイク雑誌を開いてウンウン唸っているところを見かける。隣に座ってチラリと雑誌を覗き込むと、キーくんはすぐさまそれに気づいて「お前もバイク好き?」と聞いてきた。高3の頃、そういえばバイク好きな男が主人公の漫画を読んで一時だけバイクに興味があったことを思い出し、頷いてから「詳しくはねーけど」と付け足した。
キーくんは今乗っているオンボロを買い換えて、憧れの車種に跨るのが夢らしい。その為にコンビニの早朝シフトとパチスロの朝番シフトを頑張っていると言っていた。
夜の仕事の方が楽に金が貯まるんじゃないかとも思ったが、それは彼女さんが許してくれないのだと後から聞いた。唇を尖らせて、メゾさんやクレさん、それから俺の仕事を羨ましがっているようなこともあったが、キーくんは彼女さんとの約束を決して破ったりしない。二人は凄く仲が良い。直接言ったことはないが、俺は二人がいつも奥の部屋で仲良く寝ているのが、なんとなく好きだった。

「実はこずえにさー!成人式ちゃんと行けって言われてさー!」
俺を後ろに乗せたキーくんが、ハンドルを握りながら話し始めた。
「写真もちゃんと撮って、かっこいいとこ親に見せてあげなって言うからさー!最初は俺も出る気なかったんだけど、なんかそう言われたらそうしよっかなって気になってー!」
キーくんの声は風にかき消されることなくしっかり俺の耳まで届く。
「俺の親ねー、俺がちっちゃい頃に離婚してて、俺は親父に貰われたんだけどさー、親父が子持ちの綺麗な人とすぐ再婚しちゃったから、俺だけなんか家族ん中で浮いちゃってさー!あっちの連れ子がそん時二歳くらいだったから親父もつきっきりになっちゃってさー!」
「…うん」
「でもねー、家出てから普通に喋れるようんなった!あっちの連れ子もかわいーんだこれが!バイクの後ろ乗るー!っつって!いつも!」
「…うん」
「さすがにあっちの人のこと、お母さんとは呼べないんだけどさー!たまに家行った時「ただいま」は、やっと言えるようになったんだよねー!」
「…うん」
俺の返事は、多分キーくんには聞こえていないだろう。それでも俺はキーくんが一区切りつける度、その隙間を埋めるようにして相槌を打った。
「でさー、せっかくだから今度家に行く時は、親父とその人に成人式の写真持っていこっかなーって思ってさ!そんなんでもちょっとは親孝行になるかなーって!まあ全部こずえの受け売りなんだけど!」
キーくんは赤信号の前で止まると俺の方を振り返って笑った。
「な、だからホスケも親父さんに写真見せてやんなよ。喜ぶぞーきっと!」
「…」
胸の中のどこかが、何故だか苦しい。
テメーは今何をしてんだよタコ、と、俺の胸倉を掴む俺の声が聞こえた気がした。

成人式の会場に到着し、キーくんは俺をバイクから降ろした。
「んじゃーいってら!俺も行ってきまー!」
「うん、ありがと」
俺からヘルメットを受け取る笑顔のキーくんに、何か伝えたくて、でも何を伝えたいのかよく分からなくて、俺は「えっと…」と言葉に詰まった。
「ん?」
「…バイクの後ろ気持ちよかった。ありがとね」
キーくんはダハハと大きな声で笑ってから「また乗せたる!」と言ってくれた。













キーくんを見送った後に式場へゆっくり移動する。もう式が始まっているのか、辺りにいる人はまばらだった。…よかった、見知った顔は今のところいない。
開放されたままの式場の扉をくぐると、中は袴やスーツ姿の男たちや振袖を着た女たちでごった返していた。式自体はもう殆ど終わっているらしい。
俺は目が悪いので、目を凝らさないと遠くの人の顔が分からない。眉間に力を入れて知り合いがいないか見渡していると、横から「稲田?」と聞き覚えのある声がした。
声のする方を向くと、高校の頃によくつるんでいた連中がそこにいた。
「稲田だ!おいーお前ー!なんだよおせえよ来ねえのかと思ったじゃんよー!」
この中で唯一袴姿の奴が言う。堀田だ。高校の頃から気のいい奴で、優しくて、俺に気付いて嬉しそうにしてくれたこの顔も、きっと本心からなんだろうなと分かる。
「なんだよ連絡しろよ。この後高校メンツで打ち上げあんだって。行く?中学の方の打ち上げ行く奴もいるからあんま人数いねーけど」
そう言ったのは黒田だ。相変わらず黒髪と黒マスクは健在である。高校の時もいつも黒マスクと黒セーターを身につけていたことを思い出す。名前を体現するかのように、こいつは黒で身を包むのが好きなのだ。今着ている細身のスーツも勿論黒だった。
「…や、打ち上げはいーや」
言葉を返すと、堀田が「なんだよなんだよー!」と喚いた。
「寂しいじゃん来いよー!つうかなんだ、稲田なんか、怒気がねえな!?」
「なんだよ怒気って」
「怒気だよ!若い頃はいつも纏ってただろオーラみたいに!」
堀田の言葉に黒田が「確かに」と頷いた。
「纏ってねえよ」
「ツッコミも弱弱しいな!なんだなんだ!何があった!」
「うるせえ声でけえよ」
「ほらもっと!もっとだ!あの頃の元気はどうした!」
「堀田やめてやれよ、年取ったんだよ稲田も」
三人で話していると、今度は反対側から「稲田?」という声がした。ああ、この声は峯田だ。
振り返ると、丁寧に脱色したんだろうなと分かる綺麗な色の金髪の峯田がいた。俺の顔を見るなり何故だか随分驚いた顔をして、峯田は数秒黙り、しかしすぐ笑って「久しぶりじゃん!」と言った。
「なんだよ会えないかと思ったよー!四人とも会場一緒だったから集まれたらいーねって言ってたんだよ!元気か稲田ー!」
「…おー」
「稲田ぜったい髪バリッバリに固めてくるかと思ってた!まさか素で来るとはなー!ビックリしたー!」
「峯田まずいぞ、稲田の怒気オーラが消えてやがる」
堀田の言葉に峯田は「あははマジだ」と笑った。
「しょうがねえよ、年取ったんだよ稲田も」
「年寄りみてーに言ってんじゃねえよ二十歳だわ」
「ほら!な!ツッコミが弱弱しい!」
「あはは!」
この四人でよくつるんで、高校の頃は遊んだなと思い出す。一緒にスマホアプリで対戦したり、体育でサッカーをやった日に何故か白熱してしまって、学校帰りに空き地に集まってわざわざボール蹴りに行ったり。四人とも高校から家が近くて、だから学校の後に遊ぶ場所が決まってた。ゲーセンやカラオケ、それからファミレスに行ったりもした。
全員、苗字に「田」の漢字がつくからという理由で、四人のライングループに「チーム田んぼ」と名前をつけて、どうでもいい話をよくした。
…どうでもいい筈の一つ一つを、どうしてだろう、ちゃんと鮮明に覚えている。
「いやー稲田くんも老けましたね、うん。無精髭なんて生やしちゃって。なんだか空気がくたびれてますよ」
堀田がふざけながらそんなことを言う。一番老け顔の奴が言うセリフじゃねーだろと内心思い、何でだかツッこむ前に笑ってしまった。
…会えて良かった、と思った。昔つるんだ連中と一緒に懐かしさに浸るのは、思っていたより心地いい。

「あ、こてちゃんは元気かー?」
「…」
峯田の何気ない問いに体が一瞬硬くなる。こてちゃん。古手川の「こて」の部分をとったあだ名。…ひろのことだ。
「……知らないけど」
それはきっと分かりやすい言葉だっただろう。「別れている」と、ちゃんと伝わったに違いない。
峯田は目を見開いて「…うっそぉ…」とこぼした。
「…え、なん…なんで?」
「…」
答えられる言葉など持ち合わせていないから、俺は俯いて黙る。妙な沈黙に最初に降参したのは堀田だった。
「ん、ん~!そうか~!まあ卒業してから二年経つわけだしねぇ!そりゃ色々とねぇ!」
堀田に続いて、今度は黒田が言葉をつなげる。
「まあ色々あるわな。こてちゃんってあれだろ、稲田が働いてたとこの。紺野高校の子だろ」
「…」
峯田がまだ、真っ直ぐ俺を見つめている。答えを待っている。俺は顔を上げられなくなった。
「…おい峯田。いいじゃん別に。言いづらいこと聞いてやんなよ」
黒田がそう言うと、峯田はハッとして「ごめん!」と急に謝ってみせた。
「そーだよな!ちょっとビックリしちゃってさ!悪い稲田!」
「…」
堀田と黒田が俺たち二人の顔を伺っている。妙な空気はなかなか解れてはくれず、また数秒沈黙が流れた。その時、少し遠くの方で「黄田高の打ち上げ来る人ー」という招集の声が上がった。
「あ、じゃあ俺ら行くから。またな稲田」
黒田がポケットにしまっていた手を片方出して緩く振る。堀田もそれに続いて「後でラインするぜい!」と言いながら移動した。けれど峯田は、そこから動こうとしない。
「…おまえ出ないの」
「ん?俺はねー中学の方の打ち上げ出るから!」
「…そう」
式は終わり、館内からポツポツと出て行く人たちがいる。俺もその人らに続いてこの場から去ろう。そろそろ煙草も吸いたい。外に行けば近くに喫煙所があったはずだ。
「…じゃー俺帰るわ」
峯田にそう言って式場を後にする。峯田は頷きも返事もしなかったが、俺は振り返らずに進んだ。

峯田はきっと、俺とひろが別れたことに相当驚いているだろうと思う。
当時、俺とひろが付き合い始めてすぐの頃、峯田には数日でバレて(何も考えていなさそうなのに、野生の勘のようなものが物凄くあるのだ、あいつは)、それからは峯田が俺たちのバイト先に遊びに来て話したり、ひろと峯田が少し仲良くなってからは三人で音楽のライブに行ったりもした。峯田は男も女も関係なく交友関係が広い奴だったが、ひろにとって峯田との関係は新鮮なものだったらしい。「男友達ができたのはこれが初めて」と、三人で遊んだ後の帰り道、よく聞かされた。
峯田は楽しい場所をたくさん知っていたし、どこへ行っても知り合いや友達に出くわすくらい顔が広い奴だ。ひろはそれにいつだって驚いて、それから尊敬の眼差しで見ていたように思う。
峯田がひろに手を出したり好きになったりすることはないと俺は分かっていた。峯田は色恋に殆ど興味がない。古着と音楽、あとは友達さえいれば他には何もいらないような奴だ、だからその辺りは俺もあまり気にしていなかった(と言っても、まあ、何回か牽制したことくらいはある。その気がなくても馴れ馴れしく触られると腹が立つので)。
俺も割と、三人でいるのは好きだったのだ。ひろが楽しそうにしているのを見るのが好きだったし、峯田は俺たちをからかうように囃し立てたりしない。峯田にとっては「友達三人で遊んでいる」という感覚以外はなかったんだろう。それが俺もひろも、居心地が良かったのだ。
だから、峯田は驚いたと思う。多分他の誰より、二人でいる時の俺たちを見ていたからだ。
「いいなー、超仲良しだな稲田とこてちゃん」
峯田が俺たち二人を見ながら笑って言った言葉を思い出す。含みや嫌味など何もないそのままの言葉が、あの時嬉しくて、同じくらい照れ臭くて、だから俺は眉間に皺を寄せて「うるせえ」と誤魔化したのだ。

喫煙所に辿り着き、一時間ぶりの煙草に火をつける。いつもの慣れ親しんだ香りが鼻を抜け、俺はようやっと息を大きく吐いた。
今日はこの後どうするかを考える。ここからだとクレさん達の部屋より実家の方が遥かに近い。久々に帰ってみようか。親父に出くわさないといいけど。
間髪入れずに二本目の煙草に火をつけたところで、向こうから走ってくる人影が見えた。目が悪くてもすぐ分かるその金髪は、さっき別れたはずの峯田だった。
峯田は俺の元まで辿り着くと小さな紙袋を差し出して「これ稲田の!」と言った。
「…なにこれ」
「参加者への粗品だって!タオルと石鹸と、あとなんだっけな、ボールペンだっけ?」
「…どうも」
式場の名前と一緒に「祝・成人」と印刷された紙袋を峯田から受け取り、俺は煙草を咥えたままその中身を覗いた。峯田の言う通り、地域の名前がプリントされたタオルと小さな石鹸、それから100均で五本セットで売られていそうなボールペンが入っていた。
カバンを持って来ていないので手首からぶら下げて帰るしかない。長くなった煙草の灰を設置されている灰皿に落として、俺は小さく溜息をついた。
「あのさ稲田、さっきごめんな」
峯田が少し真面目な顔をしてそう言った。
「考えなしに聞いちゃった。悪い」
「…いーよ、別に」
短くなった二本目の煙草を灰皿の中に落とす。水の張られた灰皿に俺の吸い殻が落ちて、火が消える小さな音が聞こえた。
「稲田は最近なにしてんの?」
峯田が話題を変えるため尋ねる。けれど俺はこの質問にも弾んで答えてやることが出来なかった。
「…なんも」
「あはは、なんも?なんもってなんだよ」
「…ほんとになんもしてねーんだ、いま」
日々を持て余して、浪費してる。その説明以外に今の自分を表す言葉なんてない。少し笑うと、峯田は困ったような、寂しそうな顔をした。
「そっか…」
峯田の呟きが地面に落ちる前に、また俺は三本目の煙草に火をつける。煙草はいい。それだけで「何かをしている」気になれる。沈黙や余白を埋めているように感じられるのだ。
「…」
峯田は、まだ俺に何か聞きたいようだった。こんな風にやり辛い空気の中で峯田の言葉を待つよりいっそ、自分から言ってしまった方が楽かもしれない。峯田が聞きたいことは多分、十中八九これだろう。
「…ひろから言われた。別れたいって」
俺の言葉に峯田が顔を上げた。
「去年の夏前くらいだったかな…で、俺も、わかったっつって」
「…そか」
「……納得いかねえって?」
難しい顔をする峯田に言ってやると、峯田は少し迷ってから、しかし遠慮がちに頷いた。
「…ひろに言われた言葉が、わかんなくてさ」
あの時泣きながら俺をまっすぐ見つめたひろの、その瞳を思い出す。俺はあの時たじろいだんだ。自分から先に、目をそらしてしまった。
「分かんないまんま投げたんだ俺。…ちゃんと話せばなんか変わってたのかな。ちょっと、後悔してるけど。そこだけは」
「もっかい話しに行けばいーじゃんか」
峯田がそう返すが、俺は頷けないまま笑った。
「…もう会う資格ねえよ」
三本目の煙草も灰になってゴミになる。灰皿の底に落ちる。四本目を取り出して火をつけながら思い切り息を吸い込む。まるで縋っているようだと思った。縋るように吸って、吐いて、俺は肺の中を煙でいっぱいにする。
「…なんだよ、資格ってさー…」
消えてしまいそうな小さな声で峯田が呟いた。
「わかんないよ…」
峯田と同じだ。俺にもわからない。どうして、いつから、なにが理由で、こんな風になったんだろう。一つ一つを拾い集めて一本の糸のようにできたら、心は晴れるんだろうか。…でもそんなのかったるくて、俺には到底出来そうもない。
「…自暴自棄みたいになってるかも、いま」
「…うん?」
「別れてから、なんか…ダメなんだよな。何にもやる気起きなくてさ」
「…うん」
「…こんなん、ひろ、きっと幻滅すんだろーなって」
「…」
「…はは、なんでお前がそんな悲しい顔すんの」
峯田はいつも笑顔だ。真面目な顔や困った顔なんて滅多に見せない。ましてや、そんな悲しそうな顔なんて一度も。
「…峯田は専門行ってんだっけ」
話題を変えると、峯田は少し慌てながら「うん、そう」と相槌を打った。
「制作メチャクチャ多くてさ。楽しいからいんだけど!この前は二泊連続で学校泊まったりした」
「そーなんだ、服作ってんの?」
「そー!今度ショーがあるからさー!チームで作ってんだよね今回は。みんな考えてることぶっ飛んでて面白い!」
「へー、いいじゃん」
「あははまーね!稲田は?大学どう?」
「…最近あんま行ってねえや」
「…あは、なんだよ行っとけよー!後で後悔すんの自分だぞ!」
「そーだね」
峯田の言う通りだと思う。本当に同意して頷いたが、もしかしたら峯田には気のない返事と思われたかもしれない。
四本目の煙草も終わりそうで、俺は火を消す前に次の煙草を箱から取り出した。峯田がそんな俺の一連の動作を見ながら、少しだけ目を丸くする。
「…あはは、さすがに吸いすぎだろ!」
…そんなことは分かってる。分かってるけどさ。
「だってこれしかねーんだもん」
みっともないなと思った。だって今のは正真正銘ただの弱音だ。俺は俺のことを、またこうやって見損なっていくんだな。
峯田はそれから黙って、気を取り直すようにして「そっか!」とだけ言った。
「…んーと、じゃあ俺、中学の方の打ち上げ行ってくるから!稲田もまたな!久し振りに会えて良かった!」
「…おー」
歩き出そうとする峯田に罪悪感が募った。
わざわざここまで俺のために、粗品届けに来てくれた。なあ、謝る為に来てくれたんだろ?言いにくいこと聞いてごめんって、それだけ言うために。
…なのに、俺はさぁ。
「…峯田」
背中を向けた峯田を呼び止める。「なに?」と言って振り向いた顔は、もういつもの、見慣れた笑顔だった。
「…ごめんね」
「うん?なにが?」
その「なにが」は、本当に分からなくて尋ねた言葉だったのか、それともとぼけるフリをしただけなのか、俺には分からなかった。
「もうずっと頭使ってねーから。…脳みそ死んでんだ、俺」
俺の言葉にキョトンとしてみせてから峯田はまた笑う。
「あはは何言ってんだよ、俺よりお前の方が頭良いじゃんか!嫌味かー!?」
「…そういう意味じゃねえよ」
違うんだよ、峯田。俺は本当にいま頭がくたばってる。起きねえんだよ、揺すっても叩いても、よだれ垂らしたまんま寝てんだ。
…なあ、どうしたらいいのかな。一体いつになったら、俺はここから立ち上がるんだろう。
峯田は困ったように笑って「わっかんねーよ、稲田の言うこと難しいんだもん」と言った。
答えを知ってるのは、俺以外の誰かじゃない。どうして俺はそれを知っているのに、知っていて尚、逃げようとするんだろう。
「…ごめん」
「だから何がだよー!そんな謝んなよ!」
「…うん」
「今日は会えて良かった!また今度飯でも食いながらいろいろ話そ!」
「…おー」
「ラインする!じゃあな稲田!」
峯田の背中を見送りながら、結局、新しい煙草にまた火をつける。ここに来てからこれが何本目だったかは、もう忘れた。

俺は打ちのめされていた。
高校の奴らや峯田に会って、今自分がどれだけ無気力に生きているのかを改めて思い知ったからだ。

ああ、久しぶりだな。世界が全部灰色に見える。














「で、まずは最初の一杯オーダー貰ったらあっちの奥にいるバーテンさんに声かけて、作ってもらって」
「うす」
「あとは作ってもらってる間、お客さんがリラックスできるように色々話してあげて」
「うす」

二月の初め。連日寒さに舌打ちしたくなる。俺は冬が早く終わらないかと毎日思っていた。寒いのがとにかく苦手なのだ。
外は雪が降っていた。深夜0時過ぎ、客もまばらな店内のバーカウンターの隅で、俺はメゾさんから接客方法を教わっている。
「まあ最初の一杯は形式的なもんっていうか、大事なのはいかにお客さんと上手にテーブル行くかだから」
「…」
「ここに立ってるだけだと時給換算なっちゃうからできれば指名もらわないとね。テーブルついたら一回につき基本給7500もらえるから」
「…うす」
「で、そっから15分ごとに1500…いや2500だったかな?もらえるんだよね。あとドリンクとか料理とかオーダー入ったら料金の25パーが自分に入って…いや、30パー?ごめんちょっと忘れちゃった」
「…はあ」
「とにかくテーブルついて一時間話せたら1.5万くらいはいくと思うよ。な。キャッチより稼げそうでしょ」
メゾさんが笑ってそう言うので、俺は黙って頷く。
「…ここで立ってる時の時給っていくらなんすか」
「んーと、いくらだったかな…920?あれ?970だったっけ…」
深夜帯に働いて貰える金額にしてはあまりに低すぎる。やはり指名につかなければ稼げないようだ。
「テーブル行く時はスーツの上羽織ってから行ってね。あとここに立ってる時だったら煙草とトイレ休憩はいつでもオッケーだから。よし、じゃあ早速行くか~」
メゾさんが一通りの説明を終えて軽く手を叩く。カウンターの中央へと進むメゾさんの数歩後ろを、俺も追うように歩いた。
「うちの店はさ、盛り上がりもないし回転数も少ないんだけど、一回ついてくれると長いんだよね。10年くらい通ってくれてる人とかいるらしくてさ。ホスケにも、ホスケのこと気に入ってくれるお客さんがつくといいね」
「…はあ…」
「あとグループで来てくれる女の子とかもたまにいるかな。そしたらこっちも複数でテーブルつくことあるよ。そういう時はメニューいっぱい勧めてあげてね」
メゾさんが洗浄されたグラスを所定の場所に戻しながら話す。俺はその動きをぼんやり眺めた。
「…メゾさんは」
「ん?」
「何人くらいお客さんついてるんすか」
メゾさんは俺の問いに「二、三人」と答えた。
「みんな、あんま頻繁に来てくれる訳じゃなくてさ~。だから連絡先交換しといて、店来てくれる日を先に聞いちゃうんだよね。それでその日だけ店出るようにしてる。俺はね」
「…へえ」
「シフトいっぱい入れたら、それだけ新規のお客さん捕まえられる可能性も増えるけどね。まあその辺は、自分に合う働き方でいんじゃないかな」
メゾさんの話を聞きながら気が滅入っていく。この俺に客が一人でもつくなんて欠片も思えない。こんなことならまだ、店先でキャッチをしている方が良かったんじゃねえかな。
「…俺、稼げる気しねーす」
ぼそりと呟くと、メゾさんは笑って「だいじょぶだいじょぶ」と俺の背中を叩いた。
「キャッチであんだけ打率良かったんだからいけるよ、ホスケは絶対いける。俺の勘」
「…」
メゾさんの言葉になんと返していいか分からず黙っていると、入り口のドアがゆっくり開かれた。店に入って来たのは五十代くらいの、毛皮のコートを羽織った女だった。
「いらっしゃいませ」
メゾさんが笑顔でお辞儀をし、丁寧に客を迎い入れる。その身のこなしは流石、長く勤めているだけあって様になっていた。
「△△くんいらっしゃる?」
客の問いにメゾさんは笑顔を崩さぬまま「さっき休憩に行ったところです」と答えた。
「呼んできましょうか?」
「お願い」
「かしこまりました」
メゾさんが頭を下げ、それから裏へ行ってしまった。俺は必然的にその場に取り残され、何をどうすれば良いのか分からないまま突っ立っている羽目になった。
「あなた、新しく入った方?」
毛皮の客が俺の顔をちらと覗きながら言った。
「…はあ。…や、はい」
「…」
視線が刺さる。俺の態度が良くないのだろうか。接客のせの字もわからず困り果てて頭を掻く。すると客は煙草に火をつけながら「今日が初日?」と言った。
「…はあ、まあ」
「そう。これから先輩方にしっかり教えてもらうことね」
客は冷めた様子でそう言って煙を細く吐き出した。俺の接客態度がよっぽどなのだろう、その目は完全に俺を舐め腐っていた。
「…」
腹が立ち、このババアと内心罵る。カウンターの中で隠れるようにして、右手の中指をそっと立てた。自分は相変わらず短気だ。呆れるくらいに。
それから少し経ち、メゾさんともう一人顔の知らない男が裏から出てきた。どうやらこの男が客の目当ての男らしい。
「××さん!会いたかったです外寒かったでしょ!最初の一杯は何にしますか?」
男はカウンターから身を乗り出して客に満面の笑顔を振りまく。客の顔は途端に綻び、まるで久しぶりに会えたことを喜び合う恋人みたいに、二人は楽しそうに話し始めた。
俺とメゾさんは少し隅へとずれ、その様子を数歩離れた所から見る。
「…メゾさん」
「ん?」
「俺あんな接客できねーすけど」
メゾさんは笑ってから「いーのいーの」と手を横に振った。
「ホスケの持ち味はまたちょっと違う感じじゃん、だいじょぶだいじょぶ」
「…キャッチのがまだ良かったす」
「まあまあ。ぜぇったい二、三回以内にホスケにはお客さんがつくって。そしたら連絡先聞いちゃってさ、次に店で会う日を決めちゃえばいいじゃん」
「…」
メゾさんの、さっきからまるで根拠のない発言に溜息が出る。だからさ、こんな愛想のねー奴を選ぶ客なんていねーってば。
結局その後、数十分バーカウンターの中で立ち尽くしたが客はまばらで、勿論俺がテーブルに移動することもなかった。
暇で仕方ないから裏に煙草を吸いに行こうとすると、メゾさんが同じタイミングで裏口へ続くドアを開け「今日はこれで切り上げますかぁ」と、緩く笑った。

それから一週間ほど経った頃、憂鬱な気持ちのまま二回目の店内勤務に就いた。もしも今日二時間くらい働いて収穫がなければ、もう一度キャッチに戻してもらおうと俺は考えていた。それが無理なら、いっそここを辞めてしまえばいい。去ったところで追われない事を知っている。きっとクレさんならここ以外にも割りのいい職場を斡旋してくれるだろう。
今日は雪が降っていないので前回よりは客足が伸びているように感じる。一時間に三、四人の客が来店していた。
俺はバーカウンターの隅の方で、革靴の中の足の指を上下に動かしながら、ただ突っ立っていた。暇な時にやる仕事も特にないのだろう、メゾさんにそういったことは何一つ教わっていない。欠伸を噛み殺し退屈を持て余す。あと五分くらいしたら煙草を吸いに裏へ行こうと俺は思っていた。

「あの」
不意に、カウンターの向こうから声をかけられた。欠伸を隠すため俯いていた顔を持ち上げると、見覚えのある黒髪が視界に映った。
「…あ」
「えへ、こんばんは」
黒髪の女は小さく会釈をして照れたように笑った。キャッチの時に話しかけてくれた女の人だ。
「お店の前にいる人に聞いちゃいました。この前までここに立ってた人、辞めちゃったんですか?って。そしたら中にいますよって」
「…マジか…」
純粋に嬉しくて、顔を片手で覆った。するとカウンター越しに女は「一杯頼んでいいですか?」と笑いながら首を傾げてみせた。
「うん、いいよなんにする?」
「マンハッタンお願いします」
「おー、まってて」
女にそう言ってからカウンター奥のバーテンに声をかけ、酒が出来るまでの時間を女と話しながら過ごす。両手を体の前で軽く組んでいると「もっと楽にしてください」と言われたので、俺はその言葉通りカウンターに肘をついて体重をそこに預けた。
「うん、こっちの方が話しやすいです」
「そっか、じゃーこれで」
女は嬉しそうに笑った。店内の薄暗いオレンジ色の照明が女を遠慮がちに照らす。髪が、相変わらず今日も綺麗だった。
「こっちの業務には慣れましたか?」
「いや全然だめ、向いてない。あんたが声かけてくれなかったら多分今日で辞めてた」
「ふふ」
女が笑うのと同時にカクテルが出来上がる。バーテンからそれを受け取り女の前に出すと、グラスの華奢な首を両手でそっと握り、女は言った。
「…あっち、行きませんか?」
女の目が一瞬、後方のテーブルを見る。ストレートな誘いに少し動揺しながら、俺は「いいよ」と頷いた。
メゾさんに言われた通りスーツのジャケットを羽織ってカウンターの中から出る。メゾさんの予言は外れなかった。まさか、数分前の俺には想像もできなかっただろう。

隣り合ってソファーに座ると、女はすぐにメニュー表を開いて「どれにする?」と俺に聞いた。
「お好きなの、どうぞ」
女の、メニュー表を持つ手の華奢な指をじっと見てしまっていたため答えるのが数秒遅れた。
「…あ、そっか俺も頼んでいーのか」
「ふふ、うん」
「じゃあビール」
料金は、居酒屋なんかで見る値段と桁が一つ違っていた。ビール一杯に1500円。見間違いではないかと思い、俺は言った後に思わず二度見をした。
「すみません、ビールを」
女が近くにいたボーイを呼び止めてそう頼む。
「…なんかさあ」
俺が呟くように言うと女が黒髪を耳にかけながら答える。
「はい?」
「…慣れてるね。緊張してないって言うか」
女は「ああ」と頷いた後笑った。
「私、お昼の時間にホステスしてるんだ。昼キャバってやつです。だからこういう雰囲気には割と慣れてます」
「……そーなの」
「ふふ、結構顔に出るんだね。ビックリした?」
女の柔らかい笑い顔を見つめながら、ああだから話しやすいのだと納得した。ウマが合うからとか、そういう事ではなくてこの女の話し方や聞き方が上手いのだ。
「…うん、ビックリした。あんた超モテそう」
「ほんと?ふふ、嬉しい。でもそんなこと全然ないですよ」
ほどなくして頼んだビールがやってくる。女はマンハッタンのグラスを持って「乾杯しよう」と俺を誘った。
「うん、乾杯」
よく冷えたビールを喉に流し入れる。三口ぶん一気に飲んでグラスをテーブルに置くと、女も同じタイミングで、俺よりひとまわり小さなカクテルグラスをテーブルに置いた。
「お名前聞いてもいいですか?」
女に聞かれ、そういえばまだお互いに名乗っていなかったのだと思い出す。…こういう時は本名を隠すものなんだろうか。けれど源氏名など俺にはない。考えた試しもなかったので何も思いつかない。顎を指でさすりながら、俺は仕方なく「穂輔」と、本名を名乗ることにした。
「ほすけ?うん、覚えました。ほすけくん」
女の声は耳触りがよく、自分の名前が優しい音になって聞こえたような気がした。
「あんたの名前は」
尋ね返すと、女は「とーこです」と答えた。
「うんわかった。とーこさん」
女の容姿は「とーこ」という響きによく似合っていた。遠子なのか、透子なのか、それとも東子なのか、それかもしくは藤子、瞳子かもしれない。思いつく漢字を頭の中で並べて、どれもイメージに合うなと思った。
「ほすけくん、前に上で会った時吸ってたよね。いつでも吸ってね」
とーこさんがテーブル中央に置いてあった灰皿を俺の元へ寄せる。けれど何故だか今は煙草を吸いたいと特に感じない。だから俺は煙草をポケットから取り出す代わりに、とーこさんの目を見つめた。
「今は煙草いーや。…いらない」
「…」
「…髪触っていい?」
とーこさんは俺の言葉に少しだけ驚いて、けれど数秒後にゆっくりと頷いた。伏せられた瞳の横をすり抜けて、首の近く、内側の髪の毛を人差し指と親指でそっと撫でる。指を動かす度に艶が揺らいだ。
「…あんたの髪、好きだな俺」
感触を確かめながら毛先へ滑る。とーこさんは俺の指の動きを目で追いながら「ありがとう、嬉しい」と、少しだけ顔を赤らめながら言った。
「…私も、ほすけくんの手、好きだよ」
「口説くのやめてよ、どきどきするじゃん」
「ふふ、ほすけくんの方が口説いてるよ」
「俺は口説いてんじゃなくて本当に思ってんの」
「あはは、そっか」
とーこさんは嬉しそうに笑った。それからゆっくりと俺の肩に頭を預けて、体をこちらに寄せる。
「…私も本当に思ってるから言ったよ」
「…うん」
とーこさんの髪の毛は良い匂いがする。これが何の匂いか俺には分からないが、綺麗な黒とその匂いは一緒になって五感に届き、俺を心地良くさせた。
髪を触りながら、とーこさんの華奢な体と体温を感じる。少しだけ心臓がうるさくなって、ああこういうのすげえ久しぶりだと、一人静かに思った。

これが、恋愛とかそういう類の感情なのかよく分からない。俺はいつも、ただ漠然と感じるだけだ。ああこの人のことが好きだ。とても好きだ。
そうやって俺は、いつも人を好きになる。いつもそれしか見えなくなって、際限なく欲しがって、追い詰めて、大好きだと思う人を傷つける。

思い出して、それから目を瞑った。
…人は変われないのかな。俺はこのまま、変われないままなのかな。












とーこさんはそれから、週に一回決まった曜日に店に来てくれるようになった。
最初にカウンターでマンハッタンを注文して、それから一緒にテーブルへ移動する。テーブルで話す時間は大体いつも二時間くらい。結構金もかさむんじゃないかと少しだけ気になり、一度だけ「いつも来てくれるけど平気?」と尋ねたことがあったが、彼女ははにかんで「大丈夫」と言うだけだった。きっと充分に稼いでいるのだろうと思った。とーこさんにはいつも余裕がある。
週に一度のとーこさんとの時間、それから気まぐれみたいにして月に数回だけ出勤する時間。たったそれだけで十万弱は稼げた。俺はその金を煙草とビールだけで毎月、当たり前のように使い切る。

「昨日は久しぶりに夜ゆっくりできたから、すごい時間かけてご飯作っちゃった」
とーこさんがグラスを両手で持ちながらにこやかに話す。俺はその様子を隣に座ってただじっと見ていた。髪が綺麗だなとか、いい匂いするなとか、そんなことをぼんやり考えながら。
「へー。とーこさん料理うまそう」
「ううん、全然普通だけど。でもロールキャベツは自分でもすごい上手にできたと思う」
「あは、そーなんだ。そんなこと言われたら食べたくなるじゃん。持ってきてないの?」
「あはは、ここに?ロールキャベツを?」
「そうそう。タッパーとかに入れてさあ」
「やだ、そんなことしないよあはは」
とーこさんがおかしそうに笑った。俺も一緒に笑いながらテーブルの上に置いていた煙草の箱に手を伸ばす。
「えー、なんだよ食いたかったな、とーこさんの手料理」
火を点けながらそう言うと、とーこさんは小さく笑って「またおいしくできたら報告するね」と言った。
「ほすけくんの好きな食べ物ってなに?」
「…俺ー?…んー…」
煙草のフィルターを長く強く吸いながら考える。記憶の引き出しから出てくるのは、あれもこれも全部思い出したくないものばかりだった。好きな食い物の匂いと、それからそれを作っている誰かの背中だ。
「…なんだろ、肉?」
俺がそう答えるととーこさんは笑って「うーん範囲が広すぎるなぁ」と言った。
「つかなんでも好き。牛乳以外だったら」
「牛乳嫌いなの?」
「うん、もう匂いだけで吐きそうんなる」
「そうなんだ、じゃあシチューとかグラタンも苦手?」
「いやそういうのはいける。肉入ってれば」
「あはは」
煙草を灰皿に押し付けて火を消し、とーこさんの髪の毛に顔を寄せる。目を瞑ってその香りを嗅いだ。ゆっくり吸い込んで、これ以上蘇るなと頭の中で唱えながら、記憶の引き出しをそっと閉めた。
「…とーこさんの髪の匂いほんと好き」
「…うん」
「…もうちょっとこうしててもいい?」
「…うん」
とーこさんの手の甲に自分の手を重ねながら、綺麗な艶の匂いを丁寧に吸い込む。こうしてる時間が心地よくて好きだ、生ぬるい海にただ浮かんでいるみたいで。

「ホスケはいいな~可愛いお客さんが固定でついてさ~」
その日の帰りは、たまたま近場にいたからという理由でクレさんが車で迎えに来てくれていた(クレさんが車で送迎してくれるのは半々くらいの確率だ。迎えがない時はタクシーを拾って帰っている)。
後部座席に並んで座ったメゾさんが、俺の隣でため息を吐きながらそうぼやく。
「えーなに、ホスケの固定の子ってどんな?気になる」
振り返らないままクレさんがそう言った。
「綺麗なお姉さんって感じの人。ホスケのちょっと上くらいかなぁ、いつも二時間くらいはいてくれてるよね?」
メゾさんがこちらに視線を向けて尋ねてきたので俺は無言で小さく頷いた。
「マジかー、さすがホスケくんですなー。 メゾは?いま固定の人何人だっけ?」
「俺~?…んー、三人…いや一人は連絡だけたまに取ってるけど店に来なくなっちゃったからな~」
「なんだ二人いるなら別にいいじゃないっすか」
クレさんの言葉にメゾさんが珍しく「よくないよ!」と勢いよく食いついた。座席のシートに背中を預けてダラリとさせていた上半身を乗り出して、前方座席のシートに手をかける。
「一人はメチャクチャ無口でさ、その子はまだいいんだよ一緒に座ってニコニコしてればいいだけだから。もう一人のオバサンがさ~!」
「オバサマね、オバサマ」
「はい。そのオバサマが強烈で俺はもう心が折れそうです…」
前方座席のシートにそのまま頭を預けてメゾさんは力なく唸った。いつも穏やかで笑顔を絶やさず接客しているメゾさんがこんなことを言うなんて、一体どんな脚なのだろう。
「うはは、なんでそんな疲れきってんの。精気でも吸われたか~?」
クレさんのその言葉に、メゾさんは顔を前方シートに埋めたまま「その通りです」とか細い声で答えた。
「…テーブルでベロチュー要求されてさ~…あ~ホントきつかった…長い地獄だった」
「だっはっは、そっかそっか吸い尽くされちゃったか!まあまあ、元気だしなさいよメゾくん」
「出ないよ~、もうやだよ~仕事行きたくない」
クレさんメゾさんの会話を横で聞きながら、俺は少し驚いていた。テーブルでそういった行為がされているなんて全く知らなかった。
「しかも下も触られたんだよ、勃つわけねえじゃんほんと勘弁してよ~」
「あはは、でもメゾくんがそうやって頑張ったぶんメゾくんのお財布にお金が入りますからねぇ」
「世の中世知辛すぎるよ~」
「あはは」
知らなかった。俺はてっきり、あの店は会話以外の接客はないところなのだと思っていた。薄暗い店内、眼を凝らさなきゃ見えない周囲の様子。考えたこともなかったが、もしかしたら今メゾさんが言っていたことより際どい行為をしているテーブルだって、あったのかもしれない。
「…知らなかったす」
ぽつりと呟くと、顔を埋めていたメゾさんが体を起こして俺のほうへ視線を向けた。
「うん?」
「…そういうの、していいんすか」
俺が問うとメゾさんはいつもの緩やかな笑顔に戻り「まあほどほどならね」と答えた。
「さすがにテーブルで本番してる奴はいないけど、キスと触るくらいならオッケーって感じかな。あれ?ねえクレくんなんか規約とかあったっけ?」
「ん~?別にないよ、他のテーブルのお客さんに害がなければ」
クレさんの返答の後メゾさんは俺に「だそうです」と笑って付け加えた。
「…へえ…」
「話すだけでいいお客さんが一番楽チンだよ、だからホスケはホントにラッキー」
「…」
「もうさ~キスは百歩譲って耐えるからさあ、せめて下触るのやめてほしい、ぜったい勃たないもん」
「だはは、そんなに嫌だったのね、お疲れお疲れ」
それからはクレさんメゾさんの二人で会話がずっと続いた。俺はぼんやりと窓の外を見ながら、とーこさんの髪の感触を思い返す。
彼女はどうして毎週俺に会いに来てくれるのだろう。暇つぶしか、それとも話し相手としてちょうどいいのか。…好きとか、恋しいとか、そういう感情が欠片でも俺たちの間にはあるのだろうか。不思議だ。まるで他人事みたいに遠くて、俺はなんだか傍からその光景を見つめているような気になった。













数日後、俺は欠伸をしながら店のカウンターの中に立っていた。寒さは少し前に比べて和らいだと思う。路面の雪ももうほとんど残っていない。たまに鳴る入り口の鈴の音に慌てて欠伸を殺し、誰かの「いらっしゃいませ」に続いて自分も適当な声で同じ言葉を唱えた。
今日はとーこさんが来る曜日じゃないから、もしかしたらテーブルにはつけないかもしれない。ただ突っ立っているだけの時間はひどく退屈だった。あと10分して何もなければ裏に行って煙草を吸おう。
何度目かの欠伸が出そうになった頃、また出入り口の扉が開いて鈴の音がした。「いらっしゃいませ」と形式的に言ってそちらへ顔を向けると、こちらに対して少し遠慮がちに手を振るとーこさんの姿がそこにあった。
とーこさんはそれから俺の元までやってくると「…また来ちゃった」と、カウンターの向こうで恥ずかしそうに笑った。
「…」
好きとか、恋しいとか、そういう感情で今俺はこの人を見てるのか分からない。自分のことなのにどうして分からないのだろうと思う。そして分からないままとーこさんの頬に手を伸ばす自分に、つくづく嫌気がさすんだ。
「…嬉しい、会いたかった」
脳みそを通過しないまま思いついた言葉をこの口は吐く。とーこさんは俺の手を振り払おうとせず、眼を細めて「手、あったかい」と幸せそうに言った。

いつものようにとーこさんはマンハッタンを頼んで俺をテーブルへ誘った。座るテーブルはその日によって違うが、今日は一番端の、少し奥まった所に設置されたテーブルが空いていたためそこに座った。
「よかった、ほすけくん出勤してて」
とーこさんが俺にも見えるようにメニュー表を広げながら言う。
「あ、でも大丈夫だったかな…他に来る予定のお客さんとか…」
とーこさんの体に自分の身を寄せて、俺は「いないよ」と答えた。
「とーこさん以外いない」
事実、俺には本当にとーこさん以外の固定の客などいない。しかしじっと目を見つめてそう言うだけで、どこかに熱が宿るような感覚がする。あんたしかいない。俺の言葉を隣で受け取ったとーこさんは、少し目を伏せて「うん」と、小さな声で頷いた。
「…今日はね」
とーこさんのつぶやきに「うん?」と相槌を入れた。
「…ちょっと、悲しいことがあって…だから会いたいなと思って、来ちゃった。…ごめんね」
「なんで謝んの、俺は会えて嬉しいしかねーけど」
「……うん」
とーこさんが俯く。髪に隠れて顔が見えない。片側の髪をそっと指ですくってみると、涙を溜めた目がその奥にあった。
「……どしたの」
綺麗な髪を耳にかけて尋ねる。とーこさんは俺の問いかけに答えることはなく、ただじっと、それ以上涙が出てこないようにと食い止めているように見えた。
とーこさんにどんな悲しいことがあって、今どんなことを考えているのか俺には分からない。多分聞いても多くを教えてはくれないだろう。彼女は吐露する為じゃなく、きっと忘れたくてここに来た。
「…俺になんかできることある?」
顔を覗き込んで聞くと、とーこさんは少しだけ微笑んで「ありがとう」と言った。柔らかくて優しい声だ。泣かないでほしいなと、ただ純粋に思う。
「ほすけくんは優しいね」
「俺が?あはは、とーこさん見る目ないな。全然優しくねーよ俺」
「でも私、元気出たよ。ほすけくんが優しくしてくれたから」
とーこさんはそう言って俺の頬に唇を寄せた。ほんの一瞬のことだったが、唇が触れた感触はしっかり頬の上に残っていた。少し驚いてとーこさんを見る。とーこさんは照れた様子で「優しくしてくれてありがとう」と笑った。
「……どーいたしまして」
「…」
「…」
見つめ合ったまま無言になる。とーこさんの目は俺から逸れることなく何かを訴えるようにこちらを見つめ続けていた。彼女の思考を汲み取るため、俺もじっと見つめ返す。さっき涙を溜めていたせいか、とーこさんの睫毛は少しだけ濡れていた。
「…ここだけ?」
キスをされた頬を人差し指で指し示すと、とーこさんは少し目を見開いて「え」と漏らした。口の端を緩く持ち上げて笑うと、とーこさんの顔がちょっとだけ赤くなった。
「口にもしてほしいんだけど、俺」
戸惑うとーこさんを待たずに顔を近づける。額を寄せてとーこさんの返事を待つ。考えることを放棄するのに慣れきった俺は、いとも容易くこんなことをやってのけるのだ。
嘘みたいに滑らかな一連の動作にああそうかと、俺は見切りをつける。俺は、真性のクズなのだ。間違いなく、これが俺なのだ。俺の血の中に混ざる腐った赤色は今もずっと、そしてこれからもずっと、この全身をダラダラと流れ続けていく。

…二度と顔も見たくない、死んでほしいと何度も願ったある人の顔がその時ふと浮かんだ。
俺はきっとあんたに似ている。あんたから生まれたこの体の中には、吐き気がするような汚いものが紛れている。確かに混ざっている。死ぬまで取り除けはしないのだ。死ぬほど嫌いなあんたの細胞が、生きている限りずっと。
理解して、そうしたら楽になってしまった。ああ諦める以外に方法なんて、元からなかった。

「…うん」
とーこさんがゆっくり目を閉じる。濡れて少しだけ光る睫毛を最後に視界に収め、それから俺も目を閉じた。とーこさんの背後、ソファーの背もたれに腕をかけて、俺はとーこさんとキスをした。













「……」
数秒後ゆっくりと唇を離したが、とーこさんも俺もそれだけでは終われなかった。お互い、そんなことは最初から分かってる。とーこさんの手が俺のスーツの生地をそっと掴むから、俺はそれを解いて代わりに自分の指を絡めてやる。
「…もっとしてもいい?」
「……」
とーこさんは困った顔で、だけど頷く。ソファーの背もたれにかけていた腕をとーこさんの肩へ移動させ、それから抱き寄せる。
もう一度唇を繋げる。とーこさんは抵抗しない。絡んだ指の一つでとーこさんの掌をくすぐると、彼女の手が分かりやすく震えた。それが嬉しくて、可愛らしくて、俺はキスをしながら彼女の掌を指の腹で緩くこすり続けた。
「…ん、ん…」
息継ぎの僅かな合間を縫うようにして、とーこさんの可愛い声が漏れる。もっと責めたい気持ちを駆り立てられた。唇の隙間を狙ってゆっくり舌を突き出す。とーこさんは少し驚いたようだったが、それでも俺を拒むことはなかった。
とーこさんの口内に舌を這わせる。彼女の舌や歯、唇を舐める。舌を動かす度に唾液が掻き回されて音を立てた。
「…ん、ぁ…」
とーこさんも俺につられるようにして、段々と舌で応え始めてくれた。舌を繋げたまま薄目を開けて彼女を盗み見る。口を開けて俺の舌を乞うとーこさんは煽情的だ。興奮した。
「…とーこさん」
とーこさんの口の端から溢れた唾液を舐めとって名前を呼ぶ。とーこさんはゆったりと瞼を持ち上げ、言葉の続きを待つように俺の方を見た。
「こっち触りたい」
繋いでいた手を解いて、とーこさんの足の付け根、その間を、服の上から撫でた。
とーこさんは俺の顔と、下半身に置かれた俺の手を交互に見て、慌てた様子で「だめ」と言った。
「…だめ?」
「だめだよ、だって、そんなの…」
とーこさんの言葉尻が弱々しく途切れる。だめと言いながらとーこさんは俺をじっと見つめている。ああ本気の拒否ではない。少しだけ笑うととーこさんはさらに困った顔で「だめ」と繰り返した。
「ほんとにだめ?なんで?」
尋ねながらゆっくり、スカートの裾から手を侵入させる。薄手のタイツの上を、俺の手が登っていく。
俺はクズだから。どうしようもねえバカだから。そうやって唱えるだけで躊躇なんて消えてく。手前勝手に諦めて、匙を投げて、こうやって自分以外の誰かに容易く手を伸ばすのだ。
ねえとーこさん、俺クズなんだよ。ごめんね。
「だめ、ほすけくん」
「ん?そっか、だめかぁ」
適当な相槌を打ちながらそれでも俺は手を止めない。タイツは太腿の途中までしかなかった。てっきり腰まで続いているものだと思っていたから嬉しい。足の付け根だけ露わになっている素肌を、堪能しながら撫でる。
「だめ…」
とーこさんの、もう意思を特に持たないその二文字を聞きながら下着を触る。薄い生地だ。上下に指を動かすと段々と湿った感触がしてきた。
「あ、あ、だめ…あ」
「…んー?」
耳元で尋ね返すように言いながら、俺は指の力を少しだけ強くする。とーこさんの下着はもっと濡れて、内側に貼り付いて、性器の形を俺の指先へ正確に伝えた。
「や、やぁ…あ、あん、あ」
とーこさんの微かな喘ぎ声が溢れる。周りに聞かれないようにと思っているのか、とーこさんは自分の口元を手でしっかりと塞いでいた。でもそんなの気にしなくていい、奥まったこのテーブル席は通路からも遠く、誰かに気づかれてしまいそうな気配はまるでない。薄暗さは俺たちの姿を程よく隠していたし、店内に流れるBGMはとーこさんの小さな声などいとも簡単に包み込んでいた。
とーこさんの耳に唇を這わせながら、ゆっくり下着の中に手を入れる。とーこさんは僅かに首を横に振って、だけど俺の手を払いのけるようなことはしなかった。
割れ目に沿って撫で、中指を間に割り入れる。クリトリスをそっと触るととーこさんの体は分かりやすく震えた。
「やっ、あ、ぁ…」
とーこさんはもう、ぬるぬるだった。滑るように指を動かしながらとーこさんの反応を伺う。口を抑え薄目で喘ぐとーこさんは色っぽくて、もっといやらしい顔を見せてほしいという欲望が湧いた。
「あ、ぁ…っ、あぁぁ…」
「とーこさん、手、口から離して」
とーこさんは数秒してから、おずおずと手を離した。下唇を力強く噛んで耐えてる様子だったが、俺は噛まれたその下唇ごと覆うようにキスをする。何度か舐めると次第に噛む力を弱め、とーこさんは素直に俺のキスに応じた。
「あん、あ、あぁん…あっ、やあぁ…」
彼女の口から零れ落ちる声に興奮しながら、俺は指の動きを速くする。奥からもっと汁が滲んで、とーこさんはますます濡れていく。
「やぁん、や、あ、あっ、いっちゃう」
キスの合間にそう漏らすから、とーこさんの口の端からは唾液が垂れてしまう。俺はそれを舐めとって「んー?」と聞き返した。
「もういっちゃうの?そっかぁ」
「あ、あん、だめ、いく、いっちゃう」
「いいよ、ほら」
とーこさんの顔を見ながら一層速く彼女のクリトリスを責め立ててやる。聞こえはしないがきっと、俺の指に弄られているとーこさんの性器はグチャグチャとやらしい音を立てているんだろう。とーこさんはひっきりなしに喘いで、細い足に力を入れた。
「や、あん、あんっ、もういっちゃう、いくいくっ…や、あ、あああぁ…」
体を震わせながらとーこさんはいった。何かに捕まっていたくなったのか俺のスーツの襟をしっかりと握って、小さく喘ぎ続ける。余韻は長く、いった後もしばらくは下半身がビクビクと動いていた。
「あ、ぁ…」
とーこさんがぼんやりとした瞳で自分の下半身を見つめる。スカートの裾をまくられ、少しだけ足を開かされて、下着の中に手を入れられているとーこさんの姿ははしたなくて良い。
俺も随分前から勃っていた。入れたい。入れて、ちょっと乱暴に動いて、この人をもっと喘がせたい。
「……とーこさん」
そっと名前を呼ぶが返事はない。下着の中から手をゆっくりと引き抜いてスカートの裾を整えてやる。
彼女の顔を見ると、どうしてか泣いていた。俺は驚いて「どしたの」の尋ねる。そんなに無理強いをしてしまったのだろうか、羞恥で泣いているのかとも思ったが、違う。とーこさんの表情にはやりきれない悲しみのような感情が浮かんでいる。
「………私、恋人がいるの」
「……」
へえ、とか、そうなんだ、とか、何か相槌を打てば良かった。だけど俺はとーこさんの言葉に一瞬面食らってしまって、咄嗟に言葉が出なかった。
「…彼が、私を大事にしてくれないから、だから私…悲しくて、悔しくて、彼と同じ方法で彼を大事にすることをやめてやろうって」
とーこさんは両目からぽろぽろと涙を流して思いを綴る。俺はただ聞いていた。彼女の隣で、身を寄せたまま、動けないまま。
「でも気分が晴れない。ほすけくんごめんなさい、私、彼を大事にしない自分のことを、どんどん嫌いになってくの。苦しい」
とーこさんの涙が彼女の膝の上に落ちて、スカートの生地に小さな丸を描く。俺はただその様子を、ぼんやり見ているしかなかった。
「…ほすけくんは、はなから私に興味がなさそうだったから、いいなって思ったの。この人とならお互い悲しい思いもしないだろうなって。優しくされたり、大事にされることもないだろうって」
「……」
頭を殴られたような感覚だった。笑ってしまう。俺は今一丁前にショックを受けたのだ。
「…私、ほすけくんのくれる言葉が嬉しかった。…でも安心もしたの。この人とこれ以上深い関係になることは、きっとないなって」
「……へー」
とーこさんは最初から、俺のことを好きなんて思っていなかった。利用する気で、俺に微笑んだ。俺の本質を見抜いて、クズだってちゃんと分かって、だから、俺を選んだ。
「ごめんね、ほすけくんは私が望んでた対応をちゃんとしてくれてたのに。勝手に苦しくなって、こんな風に泣いてごめんなさい。…もう会いに来ないから、安心してください」
とーこさんはカバンの中からハンカチと財布を出して、まずハンカチで目元を拭いてから財布を開いた。その中から万札を二枚、テーブルの上に置いて「これ、良かったら」と言った。
「……」
とーこさんの心の中には最初から俺など欠片もいなかった。恋人への憎しみと、愛しか。想いなど何一つ込められていない空っぽの二万円は、ただテーブルの上に無言で置いてある。
「…足りないかな…」
とーこさんがもう一度財布から万札を取り出そうとしたので、俺はやっとの思いで声帯を動かす。
「いらない」
「…でも」
「いらないよ、なんも」
ちゃんと、何でもないことのように言わなければいけない。それが俺の役目なのだ。だって俺はさっき「俺になんかできることある?」と、自分から彼女に聞いたんだから。
「俺からなんもあげてねーし、俺もなんももらわなくていーよ」
笑って「ね」と言うと、とーこさんは少し寂しそうに、でもほっとした様子で笑った。安堵する彼女の顔にどこかがギシリと音を立てたような気がしたが、分からない。ただの気のせいだったかもしれない。
「うん。…でも、これはここに置いておくね。もらってくれたら…嬉しいな」
そうしないとすっきりしないんだろう、だったら受け取ることも俺ができることの一つだ。手切れ金として渡された二万円を、俺は「じゃあ」と言って受け取った。
「…ありがとう、帰るね」
とーこさんはそれだけ言って、躊躇する素振りも見せず席を立った。少し遠くでボーイを呼んで会計をしているのが見える。俺はテーブルに一人置き去りにされ、なんの感慨もないまま二万円をスーツのポケットにねじ込んだ。ボーイがテーブルの清掃にやって来て「おつかれさまでーす」と声をかける。追い出されるようにして俺はソファーから立ち上がった。
「…俺、このままあがるんで」
テーブル上のグラスを片す彼にそう伝えると「うぃーす」と軽い返事が返ってきた。そのまま裏へ移動して、タバコを吸いながらスマホを取り出す。待ち受け画面にはラインの通知がいくつか来ていて、一番上のメッセージはクレさんからだった。
『今日は別場所で初日の女の子の送迎あるんでタクってねー』
何人かに同時送信しているだろうメッセージに既読だけつけ、俺は裏口から店を出る。
外は寒かった。自分の吐く息の輪郭をぼんやり見つめながらタクシーが拾える場所までたらたらと歩く。

寂しいとか、悲しいとか、悔しいとか。そんな感情はもう、どこかに置いてきた。ここには何もない。何もなくていい。俺の中から生まれるものなんて、もう何一つなくていい。
とーこさんから貰った二万円はタクシー代と帰りにコンビニで買ったタバコのカートン二つ分に、溶けて消えた。