Dear sir, cloudy sky.

Chapter.02




 お母さんのことはよく覚えてない。
 狭くて古い畳の部屋、小さな丸テーブルで一緒に野菜ジュースを飲んで「おいしいね」って笑ったこと、一緒に手を繋いで土手を歩いて川の中に落ちてく夕日を見たこと、薄い毛布の中で手作りの歌を歌ってもらったこと。覚えてるのはそういう、断片的ないくつかの思い出だけだ。
 お父さんはいなかった。だからその日が来るまで俺は多分ずっとお母さんと二人きりで生きていたんだと思う。ほとんど何も覚えていないけど、だけど俺はお母さんが好きだった。「たつ」「たっちゃん」「たっこマン」お母さんはそんな風に俺を呼んでいた。顔は思い出せないけど呼ばれた時のその声の感じは、なんとなく覚えてる。優しい声だった。…たぶん。
 俺のこの記憶が間違いかそうじゃないか、俺には確かめる方法がない。

 ある日、知らない建物の待合室みたいな場所で俺は一人お母さんを待っていた。その瞬間のことしかもう覚えてないけど、たぶん「トイレ行ってくるね」とか「ジュース買ってくるね」とか言われたんだろう。俺はお母さんが戻ってくるのをずっと、その場所で待ってた。
 それで、どれだけ待っても、本当にどれだけ待っても、お母さんは戻ってこなかった。
 その後、俺の元へ黄色いチェックのエプロンを着けたおばさんがやって来て「龍彦くん、はじめまして」と、俺に笑いかけた。
 その建物は養護施設だった。俺はその日お母さんからなんの説明もお別れの言葉もないまま、手を、離されたのだ。

 入所した時の自分の年齢は三歳か四歳だった(覚えてる訳じゃなくて、その施設で二年くらい暮らしてから俺は小学生になったはずなので、逆算して、多分。ということだ)。それから十歳になるまでその施設で俺は生活を送った。
 施設での暮らしは楽しいことも嫌なこともあった。いろんな先生がいて、二十代くらいの若くて優しい先生もいたし、いつも怒鳴って俺たち子どもから何かを「没収」してばっかりの先生もいた。
 子どもの数は先生たちよりずっと多い。年齢はバラバラで、高校に通ってる人たちも何人かいた。三個上の優しいお兄ちゃんとか、一個下の、言葉を喋れないけど俺の服の端をいつもつまんで付いてくる女の子とか、他にもいろんな子どもが、たくさんいた。
 俺はそこで暮らしながら漠然と「いつかお母さんが迎えに来る」と思っていた。あの時きっとお金がなくて、生活が苦しかったんだ。だからお母さんはお金を貯めてて、貯まったらきっと俺を迎えに来るんだって。話をよく聞いてくれる先生が一人いて、その人に何回かそんな話をした。いつも決まって「そうだね」って笑うから、ああそうなんだやっぱりって、俺は思ってた。
 お母さんが迎えに来る、と思いながら暮らす毎日は、そんなに苦しくなかった。終わりが来ることを思えば、ある程度のことは我慢できた。

 もうすぐ十歳の誕生日だねって、仲が良かった先生と話してた頃くらいだと思う。俺のことを引き取るという人が、急に現れた。
 それは、お母さんじゃなかった。その人は先生たちに何度も頭をペコペコ下げて、お世話になりましたと繰り返し言った。
「龍彦くんのね、お母さんのぉ、お兄ちゃんのぉ、私はお嫁さんなんだよぉ」
そのおばさんは「わかるかなぁ?」と、小さい子どもに話しかけるような猫なで声で言った。
 
 最初の数ヶ月くらいは、おばさんは優しかった。でも俺が学校でクラスメイトに怪我をさせてしまった時、その連絡がおばさんに行った時くらいからだろうか。段々、おばさんの態度が変わってきた。
「だめなのから生まれた子ってのはやっぱあれだ、だめなんだねぇ」
「もう二度と問題起こさないでね。わかった?返事は?」
「面倒起こすなって言ってるでしょ?顔向けなさいこっちに。とても嫌な思いをしたから、今日は十回叩くよ」
「今夜はここで反省しなさい。朝は一人で学校行って。電気点けたらだめだよ。このテープの外に出ないで。わかってるね」
いつも何度も顔と頭を叩かれた。何かを言おうとすると「喋ったら殴るよ」と宣告された。だから何も言わなかったし、俺はただヒリヒリする頭と顔の皮膚を、一人になってから自分でさするだけだった。
 おじさんはいつも夜遅くに帰ってきて、それでいつも極力俺と関わろうとしなかった。おばさんから俺の様子を聞いて、おばさんが本当と嘘を混ぜて今日一日のことを話して、おじさんが「そうか」と言って、それで、それだけ。
 おばさんに言われて真っ暗なお風呂場に一人で居た時、お風呂に入ろうとしたおじさんと出くわしたことがある。中でじっと座ってる俺を見ておじさんは「ああ、いたのか」だけ言って、扉を閉めて、自分が点けた電気をまた消した。
 施設の時とは違って、嫌なこととか大人の悪口とかをこっそり言い合える相手がいない。施設の時も先生から全く手を出されなかったわけじゃないし、優しくない大人はたくさんいることだって知っていた。けど、それでも、俺は施設にいる時よりずっとつらかった。
 叩かれた顔も頭も、跡なんか残らない。告げ口してやろうと思える誰かだっていない。真っ暗で冷たいお風呂場は、俺の世界そのものだった。

 十一歳、誕生日。誰からも誕生日と気付かれなくて、そんなのは当たり前で、それでその時なんとなく、ああお母さんはもう俺を迎えに来ないんだなって、そっと思った。
 そっか、終わりがない。この生活に終わりは来ない。それに気付いた途端、ああ俺はついに気付いちゃったんだなって思った。もうあんまり…いやたぶん一個も、俺には生きてる意味がない。



「…そう…」
ソファの、少し距離を空けて隣に座るおばあさんが「そうだったの」と、小さな声で続けた。
「……」
ほすけが、ただ黙って顎をポリポリかいてる。テーブルの上、空っぽのカップ麺の器をぼんやり見つめて、それからほすけは目を閉じた。
「…うん。じゃあね、私がお家の人に連絡してみようかね。たつひこくん、電話番号教えてくれる?」
「…はい」
俺は十桁の電話番号をおばあさんに伝えた。おばあさんは発信マークを触って、それから部屋の隅へ移動した。
 おばあさんが電話をかけている間、チラリとほすけのことを見る。ほすけは俺の視線に気付いてこちらを見た後、何か言おうとして口を開きかけたけど、すぐまたテーブルの上に目を向けて口を閉じた。
「…あ、突然すみません夜分遅くに。あの、わたくし稲田と申します。…ええ。あの、先ほどですね、たつひこくんが道に迷ってしまっているのを見つけまして……」
おばあさんが電話先のあの人に向かって話し出す。あの人の声は電話口から一切聞こえないのに、俺は緊張して体が固くなって、電話をするおばあさんの後ろ姿から目を離せなくなった。
「…ええ、ええ。いえ、そんな。雨も降ってますし、もうこんな時間ですから…ええ。今夜はたつひこくんをこちらでお預かりさせていただこうと思いまして、今ご連絡を…ええ。ええ…」
それから数分して、おばあさんは通話を切った。「なんだか拍子抜けしちゃったわ」と、驚いた顔をしながらまたソファに座る。
「今夜はぜひそちらでって。ご迷惑おかけしましたすみませんって、おっしゃってたよ」
「……」
大人に対しての時の、あの人の喋り方を想像して胸の中が重たくなる。まるで別人みたいな柔らかい口調で、きっと電話の向こう、話していたんだろう。
「ずいぶん腰の低い感じで喋る人だねぇ。もっとなんか言われるのかと思ってたよ」
「……」
 ほすけが、役目を終えてテーブルの上に置かれた携帯電話を静かに睨んだ。ほすけの口元から舌打ちの音がして、おばあさんが「こら、やめな」と、それをたしなめる。
「ひとまず明日が土曜で良かったよ。もう遅いしまた明日話そうか。ね。明日はばあちゃんがなんか美味しいもん作ってあげるから」
「え、もしかしてばーちゃん泊まんの?」
ほすけが一瞬嫌そうな顔をして、それに気づいたおばあさんは「なんか問題でもあんの!え!?」と大声で怒った。
「えーだって…あ~、なんでもない」
「なに!?声がデカイって!?アンタが怒鳴らすようなことばっかやるからでしょうが!」
「なんも言ってない」
「顔に書いてあるんだよ!」
ほすけとおばあさんはそんな風に言い合って、それから気を取り直すようにおばあさんが「もういいわ、お風呂もらうよ」と言い席を立った。
 リビングに取り残されて、ほすけと二人きりになる。ほすけはもう誰も観ていないテレビのチャンネルをすぐさま違う番組に切り替えた。画面に映ったのはまた、さっきの音楽番組だった。
「…ね。超デカくない?」
ほすけが、ないしょごとの続きを俺だけにこっそり聞かせる。頷いても良いのか分からなくて、だけど俺も本当はちょっとそう思ったから、かなり迷ったけど、恐る恐る「うん」と言った。そしたらほすけは今日一番おかしそうに「あはは」って、声を出して笑った。
「でしょ。無視するともっとデカくなんだよね」
「…ふうん」
「…でも電話してくれて良かったわ。俺がかけてたら確かにヤバかったかもしんない」
「…なんで?」
「えー、舌打ちとか平気でするから」
あの人とほすけが電話越しに話すところを想像しようとしたけど、全然できなかった。…舌打ちなんてされたらあの人、一体どんな反応をするんだろう。
「…今日寒かったね」
ほすけがテーブルに片肘をつきながら、ぽつりと呟く。
「……うん…」
「明日なに食えんのかなー。肉がいいなー」
「………」
ほすけの声と、テレビから聞こえる音楽がだんだん遠くなる。
 気が付いたら俺はソファーに座ったまま眠っていた。
 電気が点いていて、近くに人がいて、寒くなくて、朝が来るまでが一瞬の夜だった。そんな夜は、一体いつぶりだったろう。













 次の日の朝、目を覚ますと俺は見慣れない部屋の中にいて、起きてから三十秒くらいは昨日あったことを上手に思い出せなかった。
 そうだ、ほすけ。ほすけに家上がってけばって言われて、お風呂を借りてワンタン麺を食べて、それからおばあさんがやって来て、あの人に電話をしてくれて、それで、それから…どうしたんだっけ。
「……」
辺りを見渡す。昨日の夜最後に見た時はすぐ近くにいたほすけは、今は台所の換気扇の下でタバコを吸っていた。
「起きた?おはよ」
「……うん」
ほすけはちょうど吸い終わったのか換気扇のスイッチを切って、その場で大きなあくびをした。
「テレビ点けていー?」
そう言いながら俺のそばへ来て、今日は昨日と違って俺の隣、ソファーに座る。
「…うん」
「なんか観たい番組とかある?」
「……」
黙って首を横に振ったら「そっか」という相槌を打って、ほすけはリモコンをパッパッと操作した。テレビの画面が四チャンネルのニュース番組を映す。時刻は八時半。野球の試合のプレイバック映像が始まり、キャスターの熱のこもった解説が一緒に流れた。
「ばーちゃん今買い出し行っててさ。朝飯もーちょっと待って」
「…うん」
ふと、カーテンが開け放たれた窓の外を見る。昨日の大雨が嘘みたいな青空と、その青空とはちぐはぐなびしょ濡れの全部。水滴だらけの窓の外を見ながら、きっと雨が止んでまだあんまり時間が経ってないんだと思った。
「…よく寝れた?」
ほすけがテレビを眺めながら俺に言った。
「うん。…あんまり、覚えてない」
本当に、一瞬で朝が来たような感覚だった。寝るためだけで終わってしまった夜なんて、一体いつ振りだろう。
「そっか、良かった。俺も結構寝れたわ」
隣に座るほすけを見る。白いスウェットを着たほすけは首を左右に軽く倒してポキポキ鳴らしていた。
「朝飯食ったらどうしよっか。なんかしたいことある?」
「…えっと…」
別に、したいことは何もない。行きたい場所もなければ、会いたい人だって別に。
 どうやって返事をしたらいいのか分からなくて黙っていたら、ほすけは「ま、いっか」と言ってゆるく笑った。
「食ってから考えるか。今日はゆっくりしよ」
「……うん」
…今日は。それじゃ、明日は?明日のこの時間には俺はもう、あの家に帰っているんだろうか。嫌だな、帰りたくない。だけど帰りたくないという理由だけでここにいさせてもらう訳にはきっといかない。
 ずっとここにいていいよなんて、そんなこと赤の他人の大人が、思ってくれるはずない。俺はダメで、どこにいても邪魔で、居場所がないから。そこにいることが迷惑になるような奴だから。…嫌だな。

 二人でぼんやりテレビを観ていたらおばあさんが帰ってきた。両手に買い物袋を下げたおばあさんはどっこいしょと言ってカウンターに荷物を置き、それから冷蔵庫の中に手早く食べ物をしまっていった。
「なんか手伝う?」
台所に立つおばあさんにほすけが声をかけるが、おばあさんは振り返らないまま「いい、いい。ゆっくりしてな」とあしらうように言った。
「そこで大人しくしててもらうのが一番だわ。座っときな」
「そーすか」
「たつひこくんにお茶でも出しな。そーすかじゃないんだよ、ったく」
「なんなの」
ほすけがムッとした顔をして立ち上がる。俺も一緒に立ち上がるべきか迷ったけど、ほすけは「持ってくるから待ってて」と言って俺に座ったままでいいことを伝えた。
 冷蔵庫を開けたほすけに、おばあさんがあれこれ渡して中へしまうよう促す。ほすけのしまい方におばあさんが小言を言って、ほすけがそれにちょっと嫌な顔をする。二人のそんな様子を見ながら、俺はちょっとおかしくなった。
 いいな。俺にはおばあちゃんとかおじいちゃんがいないから。もしも俺にもいたら、俺は仲良くできたんだろうか。
「そうだ、たつひこくんおはよ!よく寝れた?」
おばあさんが台所から大きな声で俺に言う。ほすけと同じことを同じ言葉で聞くんだなと思って、またちょっとおかしくなった。
「はい」
「そう、良かった。ご飯作っちゃうから待ってね」
野菜を切る音、火をつける音、電子レンジが回る音。料理の音っていいな。聞いているだけでお腹が鳴りそうになる。

 少しして、朝ごはんがテーブルへ運ばれてきた。目玉焼きときゅうりとトマト、それから焼いた鮭が一切れ、醤油と鰹節がかかった冷奴と、湯気がのぼる味噌汁、茶碗によそわれたホカホカのご飯。なんだかまるで、普段あの家で用意される朝ごはんとは別の世界のものみたいだ。
「食べれないものとかある?あったら全部この子にあげちゃいな」
そう言っておばあさんがほすけの方へ顎を向ける。俺は黙って頷いて、それからもう一度テーブルの上に並んだご飯を見た。
 どうしよう。トマトが苦手で食べられない。だけど言ったら怒られるかな。そう思って、俺は言うのを迷った。
「……」
「…どれ?」
ほすけが俺の顔を覗き込んで尋ねる。俺は勇気を出して「ごめんなさい、トマト…」と答えた。
「いーよ。俺もらう」
ほすけが俺の皿からトマトを取って自分の皿へ移す。おばあさんはそれを見ながら「あらぁ」と言った。
「トマトはねえ、栄養あるのよ。朝食べるのがいいの。リコピンって知ってる?老化を防ぐ効果があってね」
「食えないっつってんだから栄養とかいーよ、いちいち」
「っかぁ~!なぁんでアンタは本当にそういう…」
「食えないもの食わなくていいってばーちゃんが言ったんじゃん。はい終わり、いただきます」
「…は~全く…は~…ほんっと…」
おばあさんがまだ何か言いたげに、それでもほすけに続いていただきますを言う。俺はせっかく用意してもらったのにと思って、だからおばあさんに頭を下げ「ごめんなさい」と謝った。
「あ、いいのいいの。この子ふてぶてしいでしょ?それに溜息ついてるだけだからね」
「ねえマヨネーズは?かかってないと食えないんだけど」
「自分でやんな!」
「……」
ほすけがまたムッとした顔で席を立つ。おばあさんが「ね?ふてぶてしいわぁ」と俺に言うから、なんだかそれがおかしくてまたちょっと笑ってしまった。
 右手で箸を持って、鮭を解す。箸がうまく使えなくて手間取った。でも左手も使って食べるのは行儀が悪いから、俺は皿を持って背中を丸め、直接口へ鮭を運んだ。
「…フォークいる?」
マヨネーズを持ったほすけが、俺を見て言う。箸がうまく使えないことがバレてしまった。…やだな、恥ずかしいな。
「……うん」
「うん。待って」
そうしてほすけはマヨネーズと一緒にフォークとスプーンを持ってきてくれた。受け取って「ごめんなさい」と言うと「別に」と返される。
 なんにも見てないよって感じなのに、ほすけはよく見てる。よく見てて、それで、見てるよってことを言わない。
 不思議だな。やっぱり不思議な大人だって、この人を見てると思う。
 フォークとスプーンを使ったらうまく食べることができた。冷奴も味噌汁も美味しい。お腹の中があったかくなって、手の先がポカポカした。

 朝ごはんを食べ終えた後、おばあさんは時間に追われているかのように食器を洗って、それから忙しそうに乾燥後の洗濯物を畳んで、慌ただしく部屋の掃除を始めた。
 リビングは散らかっていなかったからいいけど、奥の部屋のドアを開けた時おばあさんはカンカンに怒って「物置じゃないんだから!」とほすけを怒鳴った。ほすけは背中で怒鳴り声を受け流しながら「へー」とか「うす」とか、適当な返事を数回するだけだった。
「あ、そーだ」
ほすけが何かを思い出したようにソファから立ち上がり、部屋の隅に寄せていたものを窓辺の、日がよく当たる場所へ移動する。リビングの半分がそれらで占領される。それは段ボールの上に並べていた俺の教科書やノートだった。
「今日一日で乾くんじゃない」
ほすけがその中の一冊を手に取って、表紙や中の様子を確認する。俺もソファから移動して、ほすけの斜め後ろに立ちそれを覗き込んだ。
「ほら、いー感じ」
ほすけから振り向きざまに渡された時、袖口から何か黒いものが見えて一瞬ギョッとした。虫かと思ったのだ。
「…あー…」
ほすけが、俺の反応に気付いて気まずい顔をする。袖口から伸びた手首、そこには虫ではなくて何かが書かれていた。…いれずみだ。
「ごめん、ここだけ入ってんだ俺」
「…うん。あの、あ、いえ」
「…ビビった?」
ほすけの問いに頷いて「虫かと思った」と答えると、ほすけは目を見開いた後にけっこう大きな声で笑った。
「あはは!虫?初めて言われたんだけど」
「…ゴキブリかと思った」
「超ウケるマジか」
ほすけの笑い声は、なんか独特だ。声がひっくり返って、ちょっと高くなる。その笑い声とほすけの言葉がなんだか子どもみたいで、俺までおかしくなった。自分とちょっとしか違わないくらいの、本当に、子どもみたいに思えたんだ。
「…はぁ~ゴキブリ…マジかよあはは、ウケる」
よっぽど面白かったのか、ほすけは随分長いこと笑っている。その笑い声に今朝から続いていた緊張がちょっと解けて、だから俺はやっと、ほすけの隣にしゃがむことができた。
「…乾かしてくれてありがとう、ございます」
「うん。晴れて良かったね」
「うん」
「ねーたつひこ虫平気?」
会話の流れが変で、俺は首を傾げる。よくわからないまま「えーと…」と曖昧にこぼすと、ほすけはまたおかしそうに笑って「ゴキブリ見たらしばらく笑っちゃいそう俺」と言った。
 少し後で、すごく失礼なことを言ったと気付いた。勝手に慌てて、謝るべきか蒸し返さないでおくべきか迷っていると、ほすけは自分の手首のいれずみを隣で眺めながら「ウケるわー」と、またおかしそうに笑った。













 おばあさんが掃除をしている間、ほすけに「どっか行きたいとこない?」と聞かれた。特に思いつかなくて困っていると、奥の部屋から顔を出したおばあさんが「昼ご飯でも買ってきな」と言った。
「いーけど、ばーちゃん何食いたいの」
「なんでもいいよ」
「出たよ後から色々言うやつじゃんそれ」
ほすけがテレビ横に置いてある二つ折りの黒い財布の中身を確認して、それから「まーいっか」と呟く。財布をズボンのポッケにしまうと、ほすけは台所へ移動して換気扇の下でタバコを吸った。
「これ吸ってからでいー?ちょっと待ってて」
カウンターテーブル越しに、ほすけが俺に言う。俺は頷いて、掃除機の音をBGMにしながらぼんやりとテレビを観た。時間は、十一時だった。名前も知らない、観たことのないバラエティー番組がテレビに映っていた。
 ほすけがタバコを吸い終えたので、俺たちは一緒に買い物へと出発した。雨と泥でボロボロになった俺の靴を…いや、本当は昨日よりずっと前からボロボロだった。踵はすり減って穴が空きそうだし、靴紐も、いつ結んだかもう覚えてない固結びは石のようにガチガチで、もともと白かったはずだけど、もう真っ黒になっている。
 それで、ほすけが俺のそんな靴を、チラリと見たのがわかった。でもやっぱりほすけは何も言わない。俺より少しだけ早く靴を履き終えたほすけは、玄関のドアに寄りかかりながら「何にしよっかなー」と呟いただけだった。

 ほすけの家の近くに駅があって、その駅の隣に大きな商業ビルがあった。一階が普通のスーパーになっていて、上の階に洋服屋とか雑貨屋とか百均が入っている建物だ。歩いて十分くらいの距離だった。
「ごめんね歩きで。車、仕事で親父が使っててさ」
「あ、ううん。…いえ」
そうか、ほすけの家にはお父さんもいるのか。どんな人なんだろう。いま初めて聞いたほすけの「親父」という単語を何度か頭の中でなぞって、どんな人かを想像する。
「たつひこ何食いたい?」
「えっと…食パン以外」
「あー、うん」
ほすけは顎に手を置いて数秒ぼんやりした後「以外っつか、好きな食べ物は?」と、更に俺に質問をした。
「…えーと……」
自分の好きな食べ物。よくわからない。給食で出てきたアレは美味しかったな、というのはいくつかあるけど、それが自分の好きな食べ物なのかと言われると、ちょっと違う気もする。ほすけの質問にいつもすぐ答えられなくて、そういう自分に少しイライラした。なんでもいい、なにか答えればいいのに。
「俺はねー、からあげ」
ほすけが、ポケットの中の財布を取り出してお手玉のようにポンポン投げながら言った。
「あと生姜焼き。あ、ラーメンも好きだわ」
「……」
「豚カツも好きだしカレーも好き。なんか変な野菜入ってる変なカレーは無理だけど」
ほすけが並べ立てる「好きな食べ物」は、どれもこれも美味しそうなものばっかりだった。俺も。あ、それ俺も。そう思いながら隣で聞いた。
「で、嫌いなのはねー」
「うん」
ほすけの嫌いな食べ物、気になる。なんだろう。
「牛乳。マジで無理」
「えっ」
驚いて思わず声が出てしまった。だって、給食で毎日出る。不味いと思ったこともないし残したこともない。一体牛乳の何が無理なんだろう。
「たつひこ好き?牛乳」
「うん。無理って思ったことない」
「へー。じゃー背ぇ伸びるかもね」
ほすけはゆるく笑いながら「色がまずヤなんだよな」と付け足した。
「…俺は」
「ん?」
「……トマトが無理」
「うん。朝ん時無理って顔してたね」
「あと、グリンピースも好きじゃない」
「あーわかる。豆全般あんま好きじゃないわ俺も」
ほすけとそんなことを話しながら、そういえばと、一つだけ思いついた。自分の好きな食べ物のこと。
「ハンバーグ、好きだ」
数えるほどしかない思い出の中、お母さんが作ったハンバーグのことを思い出す。大きめに切られたにんじんが入ってて、にんじんだけだとちっとも美味しくないのに、ハンバーグの中に紛れたサイコロ状のにんじんはどうしてかすごく甘くて、すごく美味しかった。お母さんが一口ぶんの大きさにして、俺の口へ運んでくれたことを思い出す。懐かしいな。また食べたい。
 美味しかった。美味しかったんだ、ものすごく。
「いーね、ハンバーグ」
ほすけが最後にちょっとだけ財布を高く投げて、手の中に落ちてきたそれをしっかりと握った。
「俺も大好き。ハンバーグ買お」

 ほすけとスーパーの中を歩き、生鮮食品コーナーは見向きもしないで惣菜コーナーへ向かった。ハンバーグ弁当を三つと、それからおにぎり、あとは惣菜のからあげやポテトなんかをほすけは次から次へとカゴへ入れていく。
「…そんなに、食べるの?…食べるんですか」
ちょっと驚いた。ほすけは背丈もそうだし、体も割と細い。誰がどう見てもこの人のことを「大柄」とは言わないと思う。
 昨日の夜と朝のことを思い出してみる。食べるのが早いと思っただけで量には何も思うことはなかったけどな。
「うん、余裕」
「…すごい」
「あったら食うんだよね。なかったら食わないんだけど」
「…へえ…」
「あ、これも旨そう」
ほすけはそう言って、今度は惣菜の豚カツをカゴの中に入れた。
「…まだ買うの?」
「えー、うん」
ほすけは惣菜コーナーを見終えた後、最後に惣菜パンコーナーも見て回って三個くらい、またカゴの中に追加した。
「食った後に腹減ると萎えない?余るくらいの方が落ち着く」
「……」
「まあ、あったら食っちゃうから余んないんだけどね」
会計の列に並んでいる時、足りそー?と聞かれた。もちろん足りる。俺は弁当一つで充分だった。だからそう聞かれてちょっとギョッとして、俺のそんな顔にほすけはちょっと笑った。
 そのまま帰るのかと思ったら、ほすけはパンパンになった買い物袋を片手にぶら下げながら「上ちょっと寄ってっていー?」と言った。昼ご飯以外に何か、買っておきたいものがあったんだろうか。
 エスカレーターを上がり、ほすけの後に続く。ほすけが立ち寄ったのは衣料コーナーの奥、壁際に面した靴売り場だった。
「足のサイズいくつ?」
「え、俺?…えっと…わかんない…」
「ふーん」
ほすけは靴が並んだ棚の端に買い物袋を置いて、いくつか手に取った後「これ良さそう」と言った。黒に白のラインが入っていて、横側になにか動物のシルエットが描かれたスニーカーだった。
「履いてみ」
そして、それを俺に差し出す。俺はよく分からないままそれを受け取って、言われるがまま足にはめた。
「どー?」
「…えっと、ちょっと大きい、かもしれない。…です」
「ふーん」
ほすけは同じ靴の、今俺が履いたものより小さいサイズを棚から取って「これも履いてみ」と言った。もう一度履く。今度はピッタリだった。
「どー?」
「丁度いい。…です」
「おっけー」
それで、特になんの説明も俺にしないままほすけはそれをカウンターへ持って行ってしまった。俺も何も聞けないまま、ただほすけの後ろをくっついてその様子を見る。ほすけは店員に「すぐ履くからタグ切って」と言った。
 裸の靴を俺に差し出して「ん」と言う。一旦は受け取ったけれど、それからどうしていいのか分からなくて戸惑った。「ん」って、どういうことだろう。…これは、俺の靴、なのか?
「いま履いちゃいなよ。そっちの、もークタクタじゃん」
「……え、でも」
「ん?」
ほすけが「なに」と聞き返す。なにって聞かれても、だって、こんなの、分からない。どうしたら良いのか。
「…俺、あの…お金、持ってないです…」
ドキドキしながら言った。受け取ってから「金は?」と、もしも聞かれたら、俺にはどうにもできない。
「……」
ほすけは空いている方の手で顎をさすって、それから「うん」と言った。
「あげる」
「え、な…なんで?」
「なんで?えー、なんでって…だって良くない?それ」
「……」
「プーマあんま好きじゃなかった?」
プーマ。そうだ、この動物のシルエットのマークはプーマという名前だ。いや違うそうじゃなくて、だって靴をもらう理由が、ないから。
「…あの、俺…でも迷惑かけてばっかりだから、こんなの…」
もらう理由がない。そう続けようとしたらほすけが「あー」と言って頷いて、それから「はは」と笑った。ほすけの笑うタイミングは、たまによくわからない。
「いーよ。あげる」
「……」
「昼飯のついで。貰ってよ」
「………」
ほすけが、もうそれ以外は何も言わないで俺が履くのをずっと待ってるだけだから、いよいよ俺はこの靴を受け取るしかなくなった。
 おずおずと、今履いている靴を脱いで新品のプーマを履く。…緊張した。ものすごく。真新しいスニーカーは俺の両足を優しく包んで、その優しさが全然慣れなくて、靴の中にしまわれた両足がギクシャクした。
「いーじゃん」
ほすけが俺の足元を見て満足そうに言う。今まで履いていた古い方の靴を手にぶら下げて突っ立っていたら「そっちどーする?」と尋ねられた。
「持って帰る?」
「…え、えっと……」
また、言葉に詰まってなにも答えられなくなる。ほすけの質問はいつだって凄く分かりやすくて簡単な筈なのに、どうして俺はこうも毎回、うまく答えられないんだろう。
 簡単って、逆に難しいのかもしれない。まるで真っさらなプリントを渡されてるみたいだ。回りくどい問題文や長ったらしい解答例は、どこにも載っていない。
「…あー、まあ持って帰るか。袋もらってくる」
ほすけはそう言って店員に手提げ袋を一枚もらって、その中に俺の古い方の靴を入れた。

 帰り道、ほすけが大きな買い物袋を、俺が靴の入った手提げ袋を持って一緒に歩いた。腹減ったなーと呟くほすけの隣、俺はやっぱりまだ両足がギクシャクしたままだった。
 少しだって汚さないように。それだけに集中しながら歩いていた。













 帰ってから、三人で昼ご飯を食べた。
 ほすけが買ってきた量におばあさんはよっぽど呆れたみたいで、ため息と一緒に「全部でいくら?」と項垂れながら聞いた。ほすけが正直に答えた金額に今度はもっと深いため息をついて、それから「ありえないわ、っとに」と、深く嘆いていた。
 三人お揃いのハンバーグ弁当は美味しかった。ほすけが端っこに入ってたポテトサラダを全部くれたから、それも嬉しくて全部食べた。「手作りのポテトサラダはいいけど付け合わせのやつはなんかダメなんだよね」と内緒を打ち明けるほすけは、やっぱりどこか、子どもみたいな顔をしていた。

 昼ごはんを食べ終えた後、ほすけが惣菜のポテトやからあげをつまみながら「音楽好き?」と、俺に聞いた。
「…えっと……」
自分から進んで音楽を聴いたことは、特にない。クラスで流行ってる歌をかろうじて知ってるくらいで、自分には好きな歌手や好きな歌がこれと言ってなかった。
 黙っていたら、ほすけが「ちょっとこっち来て」と俺を手招きした。
「かっこいーの結構あんだよ、うちの棚」
そう言って、テレビ横のラックの前にしゃがみ込む。もちろん全然知らない、見たこともないCDが、そこには数百枚くらいズラッと並んでいた。
「どーゆーの好き?」
「…えっと…わかんない、です」
「かっこいーの好き?」
「…うん…えっと、たぶん……」
相変わらず曖昧な返事しか返せない。だけどほすけはそれを全然気にする様子なく、いくつかのCDを棚から抜き取った。
「ちょっと聴いてみて、このへん」
水面みたいな模様が印刷されたディスクをコンポに入れて、ほすけが再生ボタンを押す。スピーカーからいくつかの楽器の音が響いて、それからしばらくした後、男の人の歌声が重なった。
「これはねー、ニルヴァーナってバンド」
「…ふうん…」
「知らない?」
「…うん」
ほすけは「そっか」とだけ言って、それから再生の隣のボタンを数回押した。
「で、これ俺が一番好きな曲」
「……」
英語で歌っているから、どんな内容なのか分からない。薄暗いメロディーの後静かになって、その後、たぶんサビなんだろうか、歌の雰囲気が急に激しくなった。
「スメルズライクティーンスピリットって歌」
「……へえ…」
昨日もそういえばほすけは、洋楽しか流れない番組をテレビで観ていた。英語の歌が好きなんだろうか。
 黙って、ほすけの横で棒立ちになりながら歌を聴く。好きとも、嫌いとも思わなかった。それがなんだか悔しい。
 ほすけはたぶん、仮に俺が「好きじゃない」と言ってもきっと怒らないだろう。俺の好みを純粋に知りたいと思ってくれている。だからこそ単純で簡単な質問をいつも俺に投げる。
 分からないと答えるくらいなら、好きじゃないと答えたいとさえ思った。「どっち?」と聞かれても、いつも、右か左かも答えられない。そういう自分がつまらなく思えて嫌だった。
「あとはねー」
ほすけが入っていたディスクを取り出して、また別の一枚をコンポに入れる。おばあさんは台所で洗い物をしながら、あんまり大きな音にするんじゃないよとほすけに言った。
「これも好き」
スピーカーから聞こえてきたのは、さっきよりもうちょっと柔らかい感じの歌だった。これも英語だ。わからない歌詞と、聴いたことのないメロディーが淡々と流れる。
「これはウィーザーってバンド」
「…うん」
「青盤がやっぱ一番だなー、昔超聴いてた」
「……」
「さっきのとこっちだったら、どっちのが好き?」
「……えっと…」
どうだろう。正直、どっちも初めて聴いたし全然馴染みのない音楽だったから、やっぱり、俺は分からない。首を少しだけひねって困っていたら、ほすけはまた再生ボタンの隣を数回押して、ディスプレイに「track:07」と表示させた。
「これこのアルバムん中で俺が一番好きなやつ」
「……」
とにかく、黙って聴いた。聴くことしかできないから。押し黙ってスピーカーから流れる歌をとにかく聴く。歌はたぶんサビに入って、なんていうか、その時ちょっとそのメロディーが、自分の中のどこかにカチャリとハマる感覚がした。
「…これ、覚えやすい。…ですね」
「でしょ?いーよね」
「…うん」
「好き?」
好きと好きじゃないが、自分の感情のはずなのに分からない。どうしてこんなに分からないんだろう。焦れったくなった。ほすけが知りたい答えはもっとずっと、俺が考えているより簡単なことのはずなのに。
「……わかんない…」
絶対に、嘘だけはどうしても吐きたくなくて、白状した。するとほすけはまたさっきと同じように「そっかー」とだけ言って、スピーカーから流れる音楽を味わうようにゆっくり目を閉じて、足の指で静かにリズムを取った。
「じゃーたつひこの好きそーな音楽探しとくわ」
「……えっと、うん…」
「好きなの見つかったら、そん時は一緒に音楽の話しよ」
「……」
ほすけは、求めてないんだ。別に。
 好きも嫌いも求めてないし、分からないという答えが嫌なわけでもない。ただ、聞いてくる。純粋な気持ちで俺に聞いてみているだけなんだ。
 ちょっとだけ、体の力を抜いた。ほすけを真似して目を瞑ってみる。さっき聴いたのと同じサビのメロディーがやって来て、その時にまた何かがカチャリとハマる感じがした。
「…あの、なんか」
「んー?」
うまく言えるか?今、自分が思ったことを。伝えられるか分からない。伝わらないかもしれない。伝わらなくて、その挙句に変な顔をされるかもしれない。
 だけど、でも、と思った。ほすけは俺の答えの内容をきっと、なんだっていいと思ってる。なんだって良くて、それで、嘘をつかないで、素直なそのままを伝えることが一番、ほすけは嬉しいはずだ。…そんな気がどうしてか、したんだ。確信にも近い強さで思った。
「…カチャッて、なる感じがする」
「うん?」
ほすけが目を開けてこちらを向く。灰色がかった目は、なんだかやっぱり雨雲みたいな色だ。
「…えっと、この歌の、あの…サビ?が」
「うん」
「……聴いてるとなんか…カチャッて…あー、違う…えっと…ブロックがこう、ハマる時みたいな…」
「……」
「あ、わかんない…やっぱり、あの…ごめんなさい」
途中で着地点を見失って、慌てて自分の発言を打ち消した。だけど隣でほすけは、どうしてかちょっと驚いた顔をして「すご」と、それだけ言った。
「超分かるわ」
「……ほんと?」
ほすけが何度も頷く。感心したような顔でまじまじと見てくるから、俺は段々恥ずかしくなった。
「えー、すごい。今度誰かにこれ聴いてもらう時は俺もそーやって言お」
ほすけはまた気持ち良さそうに目を瞑って、足の指で音の鳴らないリズムを刻んだ。
「……」
一歩後ろに下がって、涙で滲む視界を悟られないように俯いた。陽気に揺れるほすけの後頭部を、涙を止めたくて必死で、睨むように見つめた。
 ほすけと喋ってると変な感じになる。あんまりに楽で、それが逆に苦しくなる。
 こんなに楽でいいはずない。こんなに裸のままでいていいはずない。絶対にないんだ。だって俺は、そこに居るだけで迷惑になるような奴なんだから。だから極力そうならないよう縮こまってなきゃいけないんだ。顔色をうかがって、言わない方がいいことは言わないようにして、聞こえないフリと聞こえてるフリを上手く使いこなして、呼吸もできるだけ静かにして、端っこに寄って、小さくなって生きる。
 数えきれないくらい言われてきた。あの人にはもちろん、擁護施設の先生何人かにも、クラスの奴らにも、きっと他にもたくさんいるだろう。俺を、居るだけで邪魔だなぁと思う人は、俺が知らないとこで、知らないうちに、きっと腐るほどいる。「邪魔だよ」「迷惑だよ」「帰れよ」「帰ってくるな」「消えろ」「どっか行って」…。俺にそんな言葉を今までかけてきた人たちは、これから先かけてくる人たちは、死ぬほどたくさんいる。知ってる。ちゃんと、俺は知ってる。
 …ねえ、なんで?
 なんでほすけは、そういうこと言わないの?
 本当は心の中で思ってるの?顔と態度に出ないだけなの?なんであの時ゴミ捨て場で声をかけてくれたの?どうしてお風呂に入れてくれたの?カップラーメンもったいないって思わなかったの?なんでランドセルの中身乾かしてくれたの?どうして箸が上手く使えないこと怒らないの?なんで靴を買ってくれたの?お金もったいないって思わなかったの?俺のこと邪魔だなって、ねえ、本当に思わなかったの?
「これはさー、セイイットエイントソーってタイトルで」
「……」
「違うって言って、とか、嘘って言って、みたいな意味」
「………」
「……いーよね。タイトルも」
俺がしゃくりあげるから、この人は途中でたぶん、俺が泣いてることに気づいてしまった。
 コンポを見つめたままこちらを振り向かない背中に、声を出さず何度も頷いた。手の甲で何度も目元を拭いながら、振り返らないでくれてありがとうって思いながら、俺はほすけに何度も頷いた。












 夕方の手前。早めにお風呂入っちゃいなとおばあさんに言われて、今回はほすけが一番、俺が二番の順でお風呂に入った。ほすけは自分がお風呂から出た後、脱衣所に俺を呼んでタオルや着替え、ドライヤーの使い方と位置を教えてくれた。
 畳んである着替えは、もともと俺が着ていた服だ。洗濯されて畳まれた自分の服はなんだか昨日とは別のもののように思えた。
 お風呂から上がるとおばあさんが台所でご飯の準備をしていた。部屋を左右見渡しても、おかしい。ほすけがいない。
「あ、あの…」
キャベツを細かく切っているおばあさんに声をかける。包丁が野菜を切る音の方が大きくて自分の声は負けていたが、何度目かの「あの」で、おばあさんは気づいてくれた。
「ああ、はいはい。なあに?」
「あの、ほすけは?」
おばあさんは「タバコよタバコ」と言って困り顔をした。
「ほんっとよく吸うんだから…あたしが料理してる時はね、仕方ないから外行くのよ。たぶん玄関出たとこにいるんじゃないかな、探してみな」
「はい。ありがとうございます」
おばあさんにお礼を言って、玄関へ向かった。
 ほすけが視界の中のどこかにいないと、妙に落ち着かない。ほすけがいると全然そんなこと思わないのに、いないと途端に、この家の匂いもおばあさんも余所余所しく感じてしまう。
 廊下より一段下がった、靴を履く場所。そこに真新しい黒のスニーカーが置いてある。さっきほすけが買ってくれた俺の靴だ。
 買ってもらった時は戸惑いの方が大きかったけど、今になってじわじわと嬉しくなってきた。かっこいい。ツヤツヤだ。プーマだ。嬉しい。俺の靴だ。
 昼の時より緊張しないで履けた。柔らかいクッションが自分の足を包む感触が、気持ちいい。
 玄関のドアをゆっくり開けて右と左を見る。ほすけは、すぐ近くに立ってタバコを吸っていた。手には小さいサイズのペットボトルと、オレンジ色のライターがあった。
「ん?どしたの」
ほすけが口にタバコを咥えたまま器用に喋る。喋ると唇が動くから、タバコも上下に動くんだな。見てると何かの装置みたいに見えて、なんだかおもしろい。
「…ううん」
何してるのかなって思っただけ。言おうとしてやめた。何だかそんなの鬱陶しいなって、自分でも思ったからだ。
「ばーちゃん何作ってた?」
「え、あ、えっと…わかんない」
「そっか」
「…キャベツ切ってた」
「うわーきた、生姜焼きかトンカツだ多分」
ほすけは空いてる方の手でガッツポーズを作って「しゃー」と言った。食べ物の話をしてる時、やっぱりこの人は子どもみたいな振る舞いをするんだな。ちょっとおかしくて、ちょっと笑った。
「ごめん、これの後もう一本吸っていい?中入ってていーよ」
「……」
ほすけの言葉に、少し俯く。もう一本の時も、近くにいたら迷惑だろうか。…いや、迷惑だろうな。この人に迷惑と思われるのは、なんだかすごく嫌だな。
「…えっと、はい」
それだけ言って中へ戻ろうとした時、ほすけが「ここにいてもいーよ」と付け足した。
「中入っててもいーし、ここにいてもいーよ」
「……」
右か左か。ほすけの言うことは本当にいつだって単純で、簡単だ。
「…俺、あの…」
「うん」
「ここにいる」
その時やっと、やっとだ。初めて俺は右か左かを自分の意思で答えることができたんだ。すごく、すごく嬉しかった。迷わずに、恐れずに言えたことが…いや違う。それよりも「こっち」と、はっきり選べた自分のことが、すごく嬉しかった。タバコの根元を吸いながらほすけもちょっと嬉しそうに笑ってくれたから、俺は余計に嬉しくなった。
 タバコを吸いながら、ほすけは取り留めのないことをいくつか俺に聞いた。何組なのとか、一クラス何人くらいいんのとか、学校って朝何時から始まんの、とか。どれもこれも答えが一個しかない、俺の気持ちとかは全然必要ない質問ばっかりで答えることが楽だった。もしかしたらほすけはこの時、答えることの練習を、俺にさせてくれたのかもしれない。
「そーなんだ、結構朝早いね」
「うん…つらい」
「そーだね、俺も朝起きんのつらい」
ほすけがそう言うので、今度は俺から何時に起きるのか尋ねた。ほすけは「んー」と数秒考え「早出なかったら七時くらい」と答えた。
「…ほすけは、仕事してる人?…なんですか」
「あれ?言ってなかったっけ」
ほすけは灰皿がわりのペットボトルに灰を落としながら「働いてるよ」と答えた。
「自動車整備」
「そうなんだ」
「うん。土日やすみ」
知らなかった。そうなんだ、自動車整備の仕事をしてるんだ。…言われるまでは全然、この人が普段何をしている人なのか見当も付かなかったのに、それを聞いた途端すごくイメージが固まって他のことをしてる想像ができなくなった。なんだか不思議だ。
「…てかさ、聞いていい?」
ほすけがちょっと変な顔をして言う。ニヤニヤしてるみたいな、痒いのを我慢してるみたいな、そんな表情だった。
「俺いくつに見えてる?」
「……」
ほすけのことをじっと眺める。笑ってる時はちょっと若く見える。声がひっくり返るから余計そう思うのかな、二十歳前後くらいの感じがする。でも、見ないフリをしている時は違うのだ。大人っぽいと思う。三十より少し下か上くらい、にも思えるんだ。
「……25?くらい…」
だから、間を取った。ちょっとドキドキしながら顔を見上げると、ほすけは「え、すご」と言った。
「正解」
「え、ほんと?」
「うん。今25」
「…そうなんだ…」
へえ、ほすけは二十五歳なんだ。改めてその外見をじっと見る。本当の年齢と比べて老けているとも若く見えるとも思わない。また、本当の歳を知った途端その年齢にしか見えなくなった。
「たつひこは?」
「俺?」
「うん。いくつ?」
年齢を言ってなかったんだと初めて気付いて、十二と答えた。そうだ、俺もほすけと同じで、たぶんまだ名前とあの家の住所と電話番号しか伝えてなかったんだ。
「じゃー六年生?」
「うん」
「そっか」
この次に来る質問を瞬間的に予想した。「学校楽しい?」絶対これだ。だって大人はみんなそれを聞く。
「あともーちょいで中学だね」
「…うん」
…あれ、聞いてこない。ちょっと驚いた。
 この質問をされるのが、俺は好きじゃなかった。だって「楽しい」と答えることを大人はみんな待っていて、その答えは俺にとって嘘になるから。
 学校は楽しくない。会いたい人も好きな授業も、なんにもない。唯一楽しみなのは、お腹がペコペコの時に食べる給食だけだ。だから俺は学校を「昼ごはんを食べに行く場所」と思うことにして、毎日通っていた。…そっか、ほすけは聞かないんだ。やっぱり変わった人だな。
 聞かれないことに安心して、安心したついでに本音を打ち明けた。少し勇気が必要だったけど、ほすけには、何でだろう。打ち明けたいと思った。
「…学校、あんま好きじゃない。…です」
「そっか。じゃー卒業待ち遠しいね」
「……うん」
それで、その話は終わった。嘘みたいにあっけなかった。
 どうして聞かないのかを、逆に少し聞いてみたい。ほすけが他の大人とは違う理由が知りたい。だけどそれを聞いてみようかどうしようかと迷っている時にほすけが「あ」と、何かに気付いてちょっと慌てながらタバコの火を消すから、俺は聞く機会を失ってしまった。
 ほすけは灰皿代わりのペットボトルを足元に置いて、スウェットのポケットから携帯電話を取り出すとそれを耳に当てた。きっとポケットの中で震えていたのに気付いたんだろう。
「あーうん。お疲れ。うん、いる。これから晩飯。うん、そー、ばーちゃん昨日泊まってった。うん、明日の朝?わかった」
電話が終わったのか、ほすけはスマホを耳から離した後「俺の親父」と俺に伝えた。
「明日の朝帰ってくるって。したら車空くから」
「……うん」
ほすけのお父さん。今日一回だけほすけの口から出てきた人だと思い出す。
「…親父見てみる?」
俺の顔になにか書いてあったのか、ほすけはそう言って、携帯電話のカメラロールを親指一つでスクロールした。数秒後「あった」と言って、ある写真を俺に見せてくれた。
 画面には、おばあさんと一緒にどこかのお店でご飯を食べてる、ヒゲを生やした男の人が写っていた。
「……似てる」
ほすけに似てる。どこが似てるという具体的な部分は分からないけど、でも、似てる。表情というか、ポーズの取り方というか、顔じゃなくて雰囲気が、一枚の写真を見ただけでパッと分かるくらい、似てる。
「えーうそ、似てる?」
「うん」
「あははウケる。自分じゃ分かんないんだよな」
よく言われるんだろうな。ほすけは自分でその写真を見ながら「なんでだろ」と顎をさすったけど、それは写真の中のお父さんがしているポーズと、まるで一緒だった。
「……お母さんは?」
ふと、気になった。昨日真っ先にほすけが電話をかけたのはおばあさんで、今電話をかけてきたのはお父さん。じゃあ、お母さんは?
 でもすぐに聞いてしまったことを後悔した。不自然に感じるほど登場してこないんだ、そんなの、なにか理由があるに決まってるのに。
「…母親はねー」
ほすけが、ぼんやりと前方を見る。言葉を選んでるんだってすぐに分かった。持ってるタバコの灰が振り落とされないまま長くなるから、俺はますます聞いたことを後悔した。
「俺が子どもん時にはもういなくてさ。今どこで何してんのか知らない」
「……」
本当にただ知らないだけなのか、それとも、知りたくもないと続くはずだったのか。ほすけは笑いも怒りもしなかったから、分からなかった。
 ほすけが二本目のタバコの火を消してペットボトルの中に捨てる。それで「お待たせ、行こ」と言われたので、その話はそれでおしまいになった。

 夜ご飯はほすけの予想した通り生姜焼きで、ほすけはテーブルの上を見るなり「やったー」と言って喜んでいた。おばあさんが作った生姜焼きはもちろん美味しくて、ほすけが何回も空になった茶碗にごはんをよそい直すから、俺もつられて一回だけおかわりをした。給食以外でごはんをおかわりしたのは、それが生まれて初めてだ。
 食べ終わってみんなで一緒にテレビを観てる時(ちなみにNHKのニュースだった。どうやらチャンネル権はおばあさんの方が効力の強いやつを持ってるらしい)、おばあさんが「さてと」と言った。ほすけと俺を交互に見て、おばあさんは少しだけ言いづらそうに、続けた。
「…どうしようかね。明日の朝に、あんたが車で送ってくの?」
「…あー…」
ほすけもちょっと言いづらそうだった。頭の後ろをぽりぽりかいて、それから顎を手でさする。
「…どーしよっか」
チラッと俺を見て、ほすけが俺の答えを待つ。二択じゃない真面目な質問をされたのは、たぶんこれが初めてだ。
「……」
喉が詰まる。なんて答えたら一番良いのかはなんとなく分かってて、だけどそれは俺の望んでることじゃないから、上手に言葉になってくれない。
「…朝飯はここで食ってくでしょ?」
「……うん」
明日、朝ごはんを食べたら、俺はあの家へ戻る。当たり前だ、ずっとここに居させてもらうわけにはいかない。おばあさんが昨夜言った「誘拐」という言葉が頭をよぎって、心がすごく重たくなった。
 月曜日からは普通に学校も始まる。また、普通の毎日が始まる。どうしたってそっちに自分を戻さなきゃいけないんだ。そうしなきゃ、ほすけに迷惑をかけてしまう。
「たつひこ」
「……はい」
ほすけが俺の名前を呼んだ。こっち向いてと言われてるような気がして、ゆっくり顔を上げた。ほすけは、真面目な顔をしていた。
「帰りたくないって言ってたけど、もういーの?」
「……」
うん。うんって、言え。言わなきゃ。言えよ。知ってるだろ、もうやり方は分かってるだろ。本当の気持ちを飲み込むやり方を、俺はもうちゃんと知ってるだろ。
「……うん」
頷けた。しかも、ちょっとだけ笑うこともできた。よかった、よくやった。自分のことをえらいと思った。
「…そっか」
ほすけは短く答えて、数秒の沈黙の後おばあさんに「じゃー、そーゆーことなんで」と言った。
「…あの…ありがとう、ございました」
ほすけとおばあさんの二人に頭を下げたら、おばあさんが「いいよ」と言って笑った。安心してるような、だけどちょっと寂しそうにも見える、そんな顔だった。
「じゃー、一応俺から電話する」
「えっ」
ほすけの発言におばあさんはギョッとして「アンタが?」と続けた。ほすけは黙って頷いて、携帯電話をポケットから取り出して画面を見ながら「番号これだっけ」と呟いた。昨日おばあさんがあの家にかけた履歴が残ってて、履歴画面を俺に見せ「合ってる?」と言った。
「…うん」
「おっけー」
ほすけが発信のマークを親指で触る寸前「ちょっとやだ、大丈夫?」とおばあさんが不安そうに聞いたけど、ほすけは全然気にしてない様子で「うん」と頷くだけだった。
 ほすけが、電話を耳に当てる。その場から動かない。電話の向こうの呼び出し音を聞きながら俺を見る。聞いててと、言われている気がした。
 少ししてほすけが「あー」と言った。電話の向こうであの人が出たんだ。
「…稲田ですけど、えーと…たつひこ、あー、たつひこくん預かってて…はあ」
向こうであの人は、どんなことを言っているのか。ドキドキして全身に力が入った。ほすけは段々眉間に皺を寄せ始めて、電話を耳から離してからため息を吐いた。
 それで、携帯電話の画面の「スピーカー」というマークを触った。今度は無線子機のような持ち方に替えて、俺たちに電話の向こうの声も聞こえるようにしてから話を続けた。ビックリした。携帯電話にはこんな機能があるんだ。…知らなかった。
『申し訳ありません本当に…もう、何から何までお世話になってしまって…』
あの人の声だ。大人と話してる時専用の、あの人の話し方だった。
「…はあ。全然、いーですそれは」
『いえね、昨日は雨も降っていたでしょう?そんな中でずっと外にいたって聞いたものですから…風邪でも引いていないかって、心配で』
「はあ」
『彼、元気にしてますか?お熱は出てないかしら。ごめんなさいね、昨日はちょっと家の中のバタバタと重なってしまって…本当にご迷惑をかけてしまって』
「はあ」
『もうこういったことにならないよう気をつけます。ごめんなさいね。私も心配で…昨日はあんまり眠れなくて。ああでも良かった、悪い人に捕まったりしなくて本当に。稲田さんで良かったです、ありがとうございます』
「……はあ」
ほすけは素っ気ない返事しかしないのに、おばさんは構わずにペラペラと電話の向こうで話し続けていた。ごめんなさい、ありがとう、それらを何度も言い方を変えて、ほすけに伝えている。
「…で、あの、いーすか」
ほすけのぶっきらぼうにもとれる言い方に、おばさんが慌てて『はい、ごめんなさいね、どうぞ」と言う。ほすけがイライラしてるのが分かる。電話の向こうのおばさんにどこまで伝わっているのかは分からないけど、今目の前でほすけを見てる俺にはそれがよくわかった。ほすけは本当に、今にも舌打ちしそうだった。
「明日の朝、飯食って…あーじゃなくて朝食べてから車で送るんで。いーですか」
『あら、すみません明日の朝ごはんも?申し訳ないわ、でも本当に良いのかしら、こちらとしてはそれで問題はないのですけどね?ほら、今日もご馳走になってるわけでしょう?本当に申し訳ない…』
「はあ。じゃー明日の十時くらい行くんで。失礼します」
おばさんが最後にまた「ごめんなさいね」と言っていたが、ほすけは途中で赤いマークを押して無理やり電話を切った。それで切った途端、やっぱりずっと我慢していたのか大きな舌打ちを一つ、三秒後にまたもう一つこぼした。
「……なにこのババア」
ほすけの言葉に、おばあさんは立ち上がって思いきりその頭をはたいた。ほすけは「いて」と言ったけど、はたかれたことなんか全然構わないで更に「ウケんだけど」と、全然ウケてない顔で言った。
「もう、アンタは!無礼にもほどがあるんだよ!」
おばあさんが声を張り上げてほすけを怒る。だけどほすけも怒ってた。おばあさんにじゃなくて、多分おばさんに。
「超喋るじゃん、なにコイツ。途中から聞いてなかった俺」
「はぁ…もう…もう…黙んなさいホントに…」
おばあさんが深く項垂れている。ほすけは携帯電話をテーブルに置いて「タバコ」と言った後、面倒くさそうに台所へ行ってしまった。
「…はあ…もう本っ当…はぁ…」
おばあさんになんと声をかけていいか分からなくて、俺は一人慌てていた。どうしよう、ほすけも多分いまイライラしてるから、目配せもできない。
「…ごめんねたつひこくん」
おばあさんが長い溜息のあと、申し訳なさそうに俺に言った。
「…いえ、あの…全然…」
「あの子ね、本当にああなのよ。もうね…言っていいことと悪いことの区別が付かないっていうか…」
「……」
そんなことない。…絶対、そんなことない。
 ほすけは、すごく見てる。黙って見てる。見てるよって言わないのに見ていて、それで、なんにも考えてないって顔をしながら考えてて、言葉を選んでて、こっちの言葉を待ってもくれる。
 俺は、ほすけみたいな大人に出会ったことがない。おばあさんがここまで項垂れる理由がちっとも分からなかった。イライラを全然隠さない態度と舌打ちの音の大きさにはそりゃ、ビックリしたけど。…でも俺、全部、スカッとした。本当に、本当だ。
「…たつひこくんに、自分を重ねてんのかねえ…」
換気扇の下にいるほすけには絶対に聞こえない小ささで、おばあさんはポツリと言った。
「ごめんね、こっちの話。はあ…明日大丈夫かねほんと…」
おばあさんの不安をよそに、ほすけが炭酸のペットボトルを冷蔵庫から取り出して豪快に飲んでいた。
 明日なんか来なくていいのに。もし俺がそう言ってたらほすけは、なんて言ってくれるんだろう。

 今になって想像できるのは「なんで言わねんだよ」って笑って俺の頭を乱暴に撫でる穂輔の姿だ。でもあの頃の俺たちはまだ微妙な距離があったから、どうだろ、ちょっと違ったかもね。