Chapter.01
もういいと思った。もうどこにも、俺の居場所はない。知らない道を雨に打たれながら、全身ずぶ濡れになって一人、俺は黒いアスファルトを見つめる。行き先はないのにずいぶん遠くまで歩いた。どこかに向かうためじゃなくて、あの場所から逃げるために歩き続けた。
今が何時かは分からない。歩き始めた時はまだ夕方くらいだったと思うけど、いつの間にか辺りはもう真っ暗だ。分厚い雨雲は消えない。靴の中まで水浸しで、踏み締める度に足元から「グジュ」という音がする。
もういいんだ、無理だ。あの場所に帰るくらいならこのまま、気を失う方がマシだ。
歩き疲れて、道の端にあるゴミ捨て場の横に座り込む。小さなトタンの屋根の下に身を潜めて、降り続く雨をぼんやり見つめた。
体が全部重たくて、ああそうか服が水を吸ってるからこんなに動きにくいんだと、当たり前のことに今更気付いた。背負っていたランドセルを下ろして自分の隣に置く。冷えた膝を抱えて腕の中に頭を預ける。
お腹が空いていたような気がするのに、もう空腹を感じなかった。今日食べた給食はなんだったっけ。おかしいな、数時間前のことなのにうまく思い出せない。自分の感覚と意識がぼんやり遠くなる。俺、このままここで死ぬのかな。それでもいいや、もう、その方がマシだ。
しばらくそのまま動かないでいたら、目の前を誰かが通り過ぎる足音がした。チラリと顔を上げてその足元を見る。汚れたスニーカーが自分の前を横切って、それで、それだけだった。
自分は誰かに手を差し伸べられたり、優しくされたりすることはないって知ってる。俺はもう全部知ってる。だからそれは当たり前のことだった。遠ざかっていく足音にもう何の興味もなくて、俺はまた両膝の間に自分の顔を埋めた。
雨は、いつになったら止むんだろう。朝が来たらどうしよう。こんな所にずっといたらきっとゴミを捨てに来た誰かが「邪魔だよ」って嫌な顔をしながら言うだろう。俺が邪魔じゃない場所はどこだろう。どこに、あるんだろう。
両手両足の先の感覚が、だんだんなくなってくる。朝が来る前に死ぬのかもしれない。それならそれでいいか。もういい、疲れた。誰かに邪魔だと思われることに、もう疲れた。
「………そこで何してんの」
不意に、誰かに声をかけられた。俺はすごくビックリして、埋めていた顔を持ち上げた。自分の目の前に立ち止まっているのはさっき見た、汚れたスニーカーだった。
ゆっくり視線を上げたら、ビニール傘を差した男の人がそこに立っていた。顔は、暗いからよく見えない。片手にコンビニのビニール袋を下げて、その人は俺をじっと見下ろしていた。
「…家どこ?このへん?」
「………」
確かに自分に聞かれているのに、俺は何でだかそのことがよく分からなくて何も答えられなかった。いえどこ。このへん。この人は確かにそう言った。俺にそう言ったんだ。
「…あー…迷子?」
「………」
しばらくお互いにそのままでいたら、その人は上着のポッケから携帯電話を取り出して、画面を操作しながら「警察連絡する?」と言った。俺は、慌てて首を横に振る。
「…え、しない方がいい?」
今度は何度も首を縦に振る。警察に連絡をされてしまったら、だって、ダメだ。俺を迎えに来るのはあの人らで、きっと家に戻ったらその後たくさん顔を叩かれる。迷惑かけるな、面倒起こすな、いい加減にしろ、何回言えば分かるんだ、そういうことを数時間くらい言われ続けて、朝まで風呂場にいなさいって、きっと命令される。お風呂場は冷たい。ここにいるより、ずっとだ。
「……そっか」
その人は携帯電話をまたポッケにしまって、また俺をじっと見下ろした。
お願いだから、あの家に連れ戻されるくらいなら、もういいからこのままほっといてほしい。帰りたいんじゃない。迷子とかじゃない。帰りたくないんだ、戻りたくないんだよ。
「…このまま、ここにいんの?」
「……」
ゆっくり、頷いた。他にどうして良いのか分からない。だって俺が帰る場所は、いてもいい場所は、どこにも、ひとつもない。
「…ふーん。わかった」
そう言うと、その人はまた歩き始めた。傘を差す後ろ姿を俺はこっそりと、ぼんやりと見つめる。…無理矢理警察に連れて行かれなくて良かった。ホッとした。
両膝の上に顎を置いた時、もう足の感覚がほとんどないことに気付いた。冷たい。今あったかいお風呂に入れたらどれだけ気持ちいいだろう。真っ黒になった爪の間は、ゆっくりお風呂に入ったらきれいになるのかな。ギザギザの爪の先を眺めながら、俺はそんなことを一人考えていた。
どのくらいそうしていたか、寒さと疲れからだんだん、俺は眠くなってきた。目をつぶってご飯のことを思い浮かべる。そういえばこの前給食に出てきたワカメとキノコのスープ、美味しかったな。あれ、また食べたいな。あとは白いごはんがいい。パンじゃなくて、ごはんが食べたい。おかずはなくてもいい。食パンはもう、飽きてしまった。
「ねえ」
半分眠りかけていた俺は、その声にビックリして目を開けた。膝から顔を上げたら目の前に、しゃがんで俺を見る男の人の顔があった。
「俺ん家来る?雨止むまでいたら?」
さっきの人だ。暗くて遠くて見えなかった顔が、この時やっとちゃんと見えた。男の人はビニール傘の柄を肩と首の間に挟んで俺をじっと見ていた。
睨まれているのかと思ったけど、違った。その人はしばらくしてから「あ、睨んでんじゃなくて、目ぇ悪いだけ俺」と付け足すようにして言った。
「…寒くない?」
「…」
頷くと、その人は「だよね」と言ってちょっとだけ、ホントにちょっとだけ笑った。
「…警察連絡しないから」
「…」
「…風呂入ってけば?風邪引くでしょ、こんなん」
「…」
頷いたら、図々しくないかな。大丈夫ですって言うのが正解なんじゃないのかな。頷いて、家まで行って、そしたらその途端警察に連絡されてしまうんじゃないのかな。
どう答えるのが正しいのかわからない。だけど、お風呂に入りたい。だから俺の口から出た最初の言葉は「お風呂入りたい」だった。
「うん、いいよ」
「…」
ほんとに、いいの?お湯を使ってもいいの?ガス代かかってもったいないって、ならないの?
「じゃー早く行こ。寒いじゃん」
男の人が立ち上がるので、俺も一緒に立とうとする。だけど足の感覚がほとんどなくて、俺は立つのに失敗してその場に転んでしまった。男の人は「え」と驚いたけど、俺は慌てて「大丈夫です」と言って体をなんとか起こした。
膝がガクガクする。足の裏が麻痺しているみたいに、何も感じない。だけど早く歩かなくちゃ。ランドセルを背負って自分の足で立ち上がる。足が震えるのが治らなくて、歩きたいのに、歩けない。
「…歩ける?」
「あ…ある、歩けます」
「ほんと?」
何度も頷く。早く、早く動けってば。グッと足に力を込めてみようとする。でも、やっぱりダメだった。力が入らない。
「……」
男の人は隣でじっと、俺を待っていた。早く、早くしろよ。戻れよ、普通に戻れよ。どうしてだ、どんなにそう思っても足はガクガクしたまま思い通りに動いてくれない。
「…おんぶする?」
男の人は俺を覗き込んでそう言った。心配そうな顔をされたけど、俺はブンブンと首を横に振った。
「…ま、まってください」
「うん」
「…待ってて、ください、ごめんなさい」
「うん、いいよ」
男の人はそうして、そのまま隣で待ってくれた。
一歩、片足を前に出す。やっとだ、やっと動いた。ビキビキと割れてヒビが入っていって、足の表面に貼り付いた氷がまるで剥がれていくみたいだった。片足が動いたらもう片方も動いた。良かった、歩ける。これでやっと歩ける。
男の人を見上げると、その人は小さく頷いてまたちょっとだけ笑った。
「ゆっくり行こ」
俺の歩く速さに合わせて、男の人が少しこちらに傘を傾けながら隣を歩く。
もう俺はビショビショだから、こっちに傘を向けなくてもいいですよ。言おうか言わないか迷った言葉は、結局喉を通り抜けなくて、俺のお腹の中にそのまま落ちて溶けてしまった。
温かいお湯に触れるのがすごく久しぶりに感じた。電気の点いている風呂場はあんまり怖くないってことも初めて知った。お湯はどれくらい使って良いのか分からないから、シャワーの強さをできるだけ弱くした。チョロチョロと細く垂れるだけのお湯は、だけどそれだけでも気持ちよかった。
自分の汚れた服はどうしたら良いんだろう。聞きたいけど、聞いたら迷惑なような気もして、だから風呂場の桶に少しの湯を溜め、その中で簡単にすすいで、何度もギュッと絞った。
全身を洗い終えて脱衣所に出る。洗濯機の上に着替えが置いてあって(たぶんあの人のものだろう。この後きっと風呂に入るだろうから。)、銀色の棚の上には洗剤やタオルがいくつか置いてある。洗面台にはドライヤーや歯ブラシ、ヒゲソリや何かのチューブや容器が並んでいた。
体は、なにで拭けばいいんだろう。分からない。でも濡れたままここを出たらいろんな場所を濡らしてしまって迷惑だろうし、聞かないと。
「……あの」
扉の外に向かって声をかける。返事はない。たぶん聞こえてないんだろう。怒られるんじゃないかって怖くて、うるさいって思われるんじゃないかと思って、だから俺はドアを少しだけ開いて、この家の住人の姿を探した。
ドアの向こうには広いリビングと台所。物が少なく殺風景な部屋の中にポツンと、その人は台所の換気扇の下でタバコを吸っていた。
「……あの」
俺がもう一度言うと、その人はこちらに気付いて「ん?」と短く返した。
「…あの、タオルは…どれを使えばいいですか」
俺の問いにその人は「どれでもいーよ」と言った。口から吐き出された煙がユラユラ昇って換気扇に吸い込まれる。
扉を開けたまま後ろを振り返り、その人の言った「どれでも」が何を指しているのか考えた。使い終わった洗濯待ちのものの中だったらどれでも、という意味で合ってるのだろうか。キョロキョロしているとその人が「あれ?」と言った。
「棚んとこにさ、タオルない?」
棚。この銀色の棚の中には確かに畳まれたタオルがいくつかしまってある、けど、これのことでいいんだろうか。どうしよう、間違っているかもしれない。
「あの…銀色の、棚のやつの…?」
「そー。手ぇ届く?」
「…はい」
間違ってなかった。畳まれたその中の一枚を使って良いってことなんだ。俺は扉を閉め、言われた通りその場所から一枚タオルを取った。
「……」
フワフワしてて、変な匂いがしなくて、こんなタオルで自分の体を拭くのはちょっと緊張する。
体を拭き終え、さっき自分が絞った服をもう一度広げる。湿っているから体に張り付いて、着るのに時間がかかってしまった。早く着替えて出ないと。モタモタしたくない。
やっと着替えて脱衣所を出る。タバコを吸い終わったらしいその人は俺の姿を見るなり驚いた顔をして「え、なんで?」と言った。その瞬間に、ああ何か間違えてしまったんだと気づく。どうしよう、なにを間違えたか分からない。
「洗濯機の上に置いたやつあるじゃん、着ないの?」
「…え」
「自分の服濡れてるでしょ、洗濯機入れといてよ。あとで回すから」
「……」
この人が後で着替えるための服じゃなかったのか。…俺のために用意してくれた、着替え?考えもしなかった。そして今自分が着ているこの服を、洗濯してくれると言ってる。
「……あ、え…?はい…」
「……」
男の人は顎に手を当ててぼんやり何かを考える素振りをした後、少しだけ笑った。
「ちょっとデカいかもしんないけど。ごめんね」
その人はリビングのソファに移動して、黒くて平べったい携帯電話の画面を見ながら「次、俺入るから空いたら教えて」と言った。
「……はい」
一度着た自分の服をまた脱いで、洗濯機の中に入れる。それから用意されていた着替えを広げる。トランクスとTシャツと、半ズボン。これも変な匂いがしなくて、全然汚れてなくて、着るのにすごく緊張した。
全部ブカブカだったけど、半ズボンは腰のところにヒモがあって結べるからずり落ちることはなかった。中に履いたトランクスごとギュッと結んで固定する。洗面台の鏡に映る自分を見る。どこも汚れてない。…緊張する。
もう一度ドアを開けて「ありがとうございました」と頭を下げる。ソファーに座ってたその人は「うん」と言って立ち上がり、着替え終えた俺の姿を数秒眺めた。
「髪乾かさなくてへーき?」
「え、あ、はい」
「そっか」
男の人は短く頷いて、それから俺のことを黙って見つめた。
「……」
男の人の、灰色っぽい目が俺を真っ直ぐ捉える。顎を片手でさすって、その人は俺にポツリと尋ねた。
「…名前なんての?」
名前も、歳も、住所も、そういえばこの人は何も聞いてこなかったんだということに、今気付いた。なんにも聞かないで、びしょ濡れの汚れた俺を家に上げてくれて、明るくてあったかい風呂を貸してくれた。
もしかしたらこの人は、もしかして、もしかすると、すごく親切なのかもしれない。
「…安藤、龍彦…です」
「たつひこ?ふーん」
男の人は「かっこいーね」と言いながらほんの少しだけ笑って、換気扇のスイッチを切った。
「俺、穂輔。稲田穂輔」
ほすけ。あんまり聞き慣れない響きだ。どういう漢字を書くのかよく分からない。
頭の中で「ほ」の漢字をいくつか思い浮かべていると(保とか歩くらいしかその時は思い付かなかった)、いなだほすけと名乗ったその人は「じゃーつぎ俺風呂もらうね」と言って、俺の横をすり抜け脱衣所へ向かった。
「……」
殺風景な部屋に一人残される。俺は辺りをキョロキョロ見渡した。
広いリビングには横長のソファーと、同じくらい横幅のあるテーブル。テーブルを挟んだソファーの先にはそこそこ大きなテレビがあった。
ソファーの端に、俺のランドセルが置いてある。ランドセルの隣に適当に丸められたタオルも置いてあるから、きっと俺が風呂に入っている間あの人が拭いてくれたんだと分かった。
ソファーに近づきランドセルを開ける。
中はやっぱりビチョビチョだった。教科書もノートも、筆箱の中まで水びたしだ。乾かしたら、またちゃんと使えるだろうか。雨を吸ってヨレヨレになった教科書を一冊取り出し、せめてもの気持ちで表紙と裏表紙を拭く。
「……」
こんなものを見せたらあの人はきっと強く怒るだろう。誰の金で買ったと思ってるんだって、お前はいつもそうだって、物を大切にしない、人を大切にしない、感謝ができない、物覚えが悪い、取り柄がない、乱暴者でバカでかわいさのかけらもないって、きっと顔を叩かれて、玄関か風呂場で寝なさいって言われて。
拭いても拭いても本は乾かない。表紙の印刷は少し剥げてますますボロボロの見た目になった。暗くて冷たい気持ちになった。俺の毎日はいつも暗くて冷たい。すごく暗くて、すごく冷たい。
拭いてもあんまり意味がないかもと気付いて、俺は手を止めた。薄汚れた教科書がまるで自分みたいに思えた。一度ボロボロになったものは、もう元の状態には戻らない。いつから、どこから、俺は元に戻れなくなったんだろう。
ぼんやりしていると、後方から脱衣所のドアが開く音がした。いなださんが風呂から上がったのだ。
「お待たせ。ランドセルん中、どー?」
首にかけたタオルで頭を拭きながらいなださんが俺の側へ寄ってくる。中から取り出した一冊の教科書を見下ろして、いなださんは「あー」と言った。
「なんか紙の上に乗せとこっか。乾けば多分だいじょぶじゃない」
「……」
振り返って、俺の後ろからランドセルの中身を覗き込むいなださんを見上げる。俺の顔が不安そうに見えたのか、いなださんは少し笑って「だいじょぶだって」と言った。
「俺もさー、昔よく降られてビショビショにしたことあんだけど。乾いたら使えるよ、全然」
「…そう、ですか…」
「うん。なんか紙持ってくるわ」
いなださんがリビング奥の扉を開けてガサゴソと漁った。扉の隙間からちょっとだけ、部屋の様子が見える。リビングも台所もこんなに片付いてるのに、その部屋だけはとても散らかっていた。物置がわりにしているのかもしれない。
「これでいっか。中身出して並べとこ」
いなださんが部屋から持ってきたものは数個の段ボール箱だ。手で箱を開いて、ソファー近くの床にそれを広げる。
「あー…たつひこ、だっけ。ここ並べときな」
「…はい」
ちょっとぶっきらぼうで、ちょっとかたくて、ちょっとだけよそよそしさを感じる。だけどその人の口から出た俺の名前は、その響きは、その後何回も俺の頭の中で繰り返し鳴った。
いなださんはなんだか不思議な人だった。何も聞いてこない。必要以上に近づいてこようとしない。でも冷たくない。緊張するけど、怖くない。俺が知ってる他の大人の誰とも違う。
「…すみません、いなださん」
「ん?」
「ご面倒おかけして」
俺の言葉にいなださんは今までで一番大きく笑った。
「はは、なにそれ役所の人みたい」
「…役所…?」
「こーゆー時はさー、いんじゃないの?ありがとうで」
「……」
開いた段ボールを並べながらいなださんが笑う。俺は自分の口にはあまり馴染みのない言葉を、ちょっとだけ戸惑いながら声にした。
「…ありがとう。いなださん」
「…呼び捨てでいーよ」
「え」
「なんか苗字にさん付けって慣れないわ」
「……いなだ」
「あはは」
いなださんは「違うし」と言って、またおかしそうに笑った。
「穂輔だってば。さっき自己紹介したじゃん」
「……」
広げた段ボールの上、濡れたノートや教科書を一緒に並べながらやっぱり不思議に思った。
俺はどうしてこの人がこんなに、怖くないんだろう。どうしてこの人は俺のことを最初の一回目から「安藤くん」じゃなくて「龍彦」って、呼んだんだろう。
濡れた教科書たちが一つずつ並ぶ様は、なんだか何かの畑みたいだ。乾いたらまた使えるという言葉が、今更嬉しくて、すごくホッとした。
「……ほすけ」
ご面倒おかけしてより、ありがとうよりずっと、その三文字は言いやすいなぁと思った。
ランドセルの中身を並べ終えてから、ほすけは携帯電話の画面で時間を確認した。
「あー…なんか食う?」
ほすけは「つっても俺なんも作れないけど」とも言った。食べることを考えたら急にお腹が空いてきて、俺は自分の薄っぺらなお腹をさすってから頷いた。
「なに食いたい?」
「…えと、えっと…」
「うん」
「…あの、パン以外…」
「パン?」
何にも乗ってない、焼いてもないそのままの食パン。朝決まって出てくる自分の朝食を頭の中に思い描く。夜ごはんも、あの人が機嫌良くない時はいつもそうだ。もう一生分はきっと俺は食パンを食べている。だからできれば、それ以外が良い。
「そっか。俺もパンより米が好き。じゃー出前頼む?それかカップ麺ならすぐ食えるけど」
ほすけがそう言うなり、俺のお腹が動物の鳴き声みたいな音を立てた。恥ずかしくて思わず俯いたけど、ほすけは笑うこともしないでただ「俺も腹減ったー」と呟いた。
「じゃーカップ麺食お。足りなかったら出前頼んでさ」
「……うん。あ、はい」
「うし」
台所へ移動して、それから白いポットに水を入れ丸型の台の上に置く。コンセントを刺してスイッチを点けるとポットの下がオレンジ色に光った。きっとあれでお湯を沸かせるんだ。便利だな。
「そっち座ってテレビ観てていーよ」
「うん。…あ、はい」
言われた通りソファに座って、テーブルの上のリモコン、その電源ボタンを押す。画面に映ったのはバラエティーの番組だった。「七味唐辛子に取り憑かれた女」というテロップと一緒に、女優さんが真っ赤になったうどんを啜っている。
画面の左上に、時刻が表示されてるのに気付いた。「20:18」。玄関のドアの外、邪魔にならない隅の方に立って反省してなさいと言われたのが確か16時半頃だった。あの人らのことをチラリと考えて、それからすぐに暗い気持ちになる。
俺を探してなんかない、心配してなんかない。それは別に全然いい、だけどあの人らは心底どうだっていいくせに、帰ってみせればその途端すごく怒るのだ。どこにいた、心配させるな、迷惑かけるな、同じことを言わせるな。お決まりの言葉を俺にぶつけて、言葉の数だけ頭や顔を叩く。
一生、帰りたくないと思った。ずっと思ってた。俺はずっとずっとずっと思ってた。
あそこは、だって、帰る場所じゃない。俺の居場所だったことなんか、一度もない。
「どっち食う?」
テレビの中の人がうどんを食べ終える頃、ほすけがそう言って、蓋をしたカップ麺を二つ運んできた。一つは醤油とんこつ、もう一つはワンタン麺だ。それぞれの蓋の上に、おもし代わりの割り箸が乗っている。
「…どっちでも、いい。…です」
「そー?じゃ俺とんこつ」
ほすけが俺の方にワンタン麺をズラし、とんこつを自分の方へ寄せた。
「……」
今の「どっちでもいい」って言葉、嫌な感じに聞こえなかったかな。それがちょっと不安でほすけの顔をチラッとうかがう。だけど全然気にしてる様子がないからホッとした。…良かった。
「チャンネル変えていー?」
ほすけが床にあぐらをかいて、テレビを観ながらそう言うので俺は慌てて頷いた。
「あの、はい」
「うん」
ほすけがリモコンのボタンをパッパッと操作する。少しして映ったのは音楽の番組だった。外国の音楽がひたすらPVで、とにかく次から次へと流れる。こんな番組があるんだ。初めて観た。
「……」
テレビを観るほすけを、こっそり見る。
髪の色と目の色が特徴的だなと思った。どっちもなんとなく灰色が混ざってる。黒が濁ったような、雨雲みたいな色だ。背はそんなに高くない。年齢は…よくわからない。たぶん二十代なんだろうけど、いやでももしかしたら三十代の人なのかもしれない。
ほすけは、この家に一人で暮らしてるんだろうか。…家族は?仕事は?もしかして学校に通ってるんだろうか。
この人のことを俺はほすけという名前しか知らないのに、なんだか不思議だった。だって名前しか知らないのに、この人が怖くない大人なんだろうってなんとなく、だけど絶対そうだろうって、俺はさっきからずっと感じてる。
「…もーいっか。食っちゃお」
熱湯五分と書かれた蓋を、たぶん五分しないでほすけはベリベリ剥がした。湯気がモワッと昇って油の匂いがする。また、自分のお腹が鳴った。
「そっちも、もーいんじゃない?」
ほすけに言われて俺も蓋をゆっくり剥がす。湯気の向こうに茶色いスープと黄色い麺と、それからいくつかのワンタンが見えて、口の中でヨダレが出た。
「あの、いただきます」
「うん」
ほすけは、相槌を打つなりすぐに麺を啜った。すごく速く、しかもすごく沢山啜るからちょっとビックリした。十秒くらいでカップの中の麺が殆ど消えてしまった。…熱くないのかな。
俺も食べようと器に左手を添える。箸を握るのがあんまり上手くないから麺は何回か逃げたけど、三回目でようやく掴むことができた。口の中に入れる。数回噛んで、飲み込む。
「……美味しい…」
美味しい。ホントに美味しい。何回口に運んでも、何回飲み込んでもビックリするくらい全部美味しい。
「ね。やっぱ日清だよね」
ほすけが顔を上げてちょっと嬉しそうに笑った。笑ったほすけのカップ麺の中身はもうスープだけだ。そう思った矢先、片手で器を持って中身をゴクゴク飲み干すから、それがあんまり速いから、俺も慌てて麺を吸い込んだ。
「ゆっくり食いなよ」
食べ終わったほすけが俺に声をかける。とろいと思われたくないから速く食べたいのに、熱くてなかなか勢いが付けられない。何でほすけは平気なんだろう。
「…それで足りそー?」
ほすけの質問に、口を動かしながらコクコク頷く。ワンタンを一つ食べてみた。美味しい。スープを、息を何度も吹きかけながら飲む。全部美味しい。
「…美味しい」
「あは、そんな?良かった」
…ほすけが笑うから、笑いながら俺を見るから、嬉しくて、ホッとして、目に映るワンタン麺がボヤボヤ滲んだ。スープでお腹の中があったまる度、どうしてか涙が出た。
ほすけが俺から視線を外してテレビを観る。それがわざとだってわかったからもっと涙が止まらなくなった。
見ないでくれたんだ。今。なんにも言ってないのに。
この人は「待って」と言ったら待ってくれる。「見ないで」と思ったら見ないでいてくれる。それが嬉しくて、今までそんな大人は俺の周りにあんまりいなかったから、どうしてこの人はこんな風に接してくれるんだろうって不思議だった。
スープだけになった器を両手で持って中身をゆっくり飲む。スープが喉を通って胃袋に落ちて、冷たかった何かがジワジワ溶けていくみたいな感覚がした。美味しい。カップ麺ってこんなに美味しかったかな。…おかしいな。
「ごちそうさま、でした」
空っぽになった器に割り箸を置いて頭を下げると、ほすけが「うん」と言って自分の器と俺のを重ねた。
「あ、ごめんなんか飲む?飲み物入れんの忘れてた」
「うん。…あ、いや、はい」
「別に「うん」でいーよ」
「……」
うん。…うんって、言い直したかったのに。また視界がユラユラ滲む。喉の奥が狭くて熱くなる。
「…お、おっ俺……」
「……ん?」
「…か……帰りたくない……」
狭くなった喉から出てきた言葉はそれだけ。たったそれだけだ。
ほすけはあぐらのまんま、笑うでも目を逸らすでもなく、ただじっと俺を見ていた。
「……うん。わかった」
それだけ言って、俺が泣き止むまでテレビを観ながらほすけは、また、待ってくれた。
知らない人が知らない歌を歌ってる。英語の歌詞が一行ずつ流れる。テレビから聴こえる音楽が日本語の歌じゃなくて良かったなって、全然聴いたこともない知らない歌で良かったなって、その時、なんとなく思った。
しばらくしてからほすけは立ち上がり、冷蔵庫からペットボトルを二本取り出してその内の一本を俺にくれた。俺が渡されたのは麦茶。ほすけの手に残っていたのは中身が透明の、CMで見たことある赤いラベルの炭酸水だった。
ほすけは俺に麦茶を渡すとまた台所に戻り、換気扇のスイッチを入れた。「ごめん煙草」とだけ言って、ペットボトルの中身を勢い良く飲んでからタバコを口に咥えた。
ほすけにならって俺もペットボトルに直接口を付ける。冷えた麦茶も美味しい。狭かった喉が開いていく感じがした。
「あー…今からちょっと電話すんね」
「…え…」
警察に?と一瞬思ったけど違った。ほすけは携帯電話を耳に当てながら「あ、違くて、俺のばーちゃん」と付け足した。
タバコの煙を吐きながら肩と頭で携帯電話を挟むほすけは、なんだか難しい顔をしていた。眉毛の間にシワを寄せて「声デカいからそっちまで聞こえるかも」と、俺に補足する。
少しして、ほすけが「あー、俺」と電話の向こうへ言った。「ほすけのばーちゃん」が電話に出たんだ。
「…あの…あー……えっとね、さっき外にさ、男の子がいて……や、だから男の子。いや違うだから男の子だって。そんでさ、行くとこないみたいで今いっしょいるんだけど、なんか家帰りたくないっつってるからさ……」
ほすけの声は耳を立てなきゃ聞こえないくらいの音量なのに、その後に電話の向こうから聞こえてきた女の人の声はこっちにまで響くくらい大きくて、俺は思わず息が止まった。びっくりした。
なんて言ってるかまでは聞き取れなかったけど、ほすけが電話を耳から離して、こっちを見ながら「ね」と言うから、それがちょっとおかしくて、少し安心する。
「……あーはい、聞いてる。そう。警察に連絡しないでほしいんだって。今日金曜だし別に俺は泊まってけばって思ってんだけど。……あ、マジで?…あー……」
ほすけはタバコの煙をブハァ~と大きく吐いてから頭をボリボリ掻いた。電話はもう切れてしまったみたいだ。なんだか困っているようなほすけの様子に、俺は内心ハラハラしていた。
ほすけのばーちゃんが、警察に連絡しちゃったらどうしよう。それで、これからこの場所に警察の人がやって来たら、あの人に連絡されてしまったら、どうしよう。
「……なんかね、ばーちゃん今からここ来るって」
「…え、あ…」
怒られるのかな。俺は怒鳴られるのかな。そう思ったら途端に胸の中がザワザワと緊張しだす。だけどほすけは笑って「やだなー、俺すげー怒られんだろうなー」と、冗談みたいな軽い口調で言うだけだ。
「…あ、あの、俺…」
「たつひこ別になんも喋んなくていーよ。まー適当にテレビ観てて」
「……」
適当にテレビなんか観てられるはずがない。だってきっと、ほすけが怒られるのは俺のせいだ。
「…ご、ごめんなさい…」
「ん?」
「俺が…あの、俺のせいで…」
言葉が続かない。俺にはごめんなさいを言う以外の方法がない。ほすけに、迷惑をかけたくないと思った。だって俺が誰かに迷惑をかけるということは、俺があの人に顔を叩かれるということと同じだ。…何回?何十回?どれだけ辛い罰がその先に待ってる?
「……たつひこさぁ」
ほすけが一度、俺の名前を少し強く呼ぶからちょっとドキッとした。
「…は、はい」
「帰りたくないって言ったじゃん、さっき」
「……」
ほすけはまた煙を大きく吐いてから続けた。
「…俺も「帰りたくない」とか思ったことあるしさー…なんか、いーじゃん別に」
「……」
「それだけでいーじゃん。ね」
「……うん…」
ほすけが笑って小さく頷く。他にはなんにも言葉が思いつかなくて、だから精一杯の気持ちで「ありがとう」だけ言ったら、ほすけはまた笑って「いーえ」と言った。
「……」
ほすけには、言葉にしなくても相手のことが分かる不思議な力でもあるんだろうか。…どうしてだろう。どうしてこんなに、優しくしてくれるのか分からない。
大人の優しさには何か意味があるって俺は知ってる。例えば周りの目があるからとか、仕事だからとか、他にもきっといくつか理由はあるんだろうし、それは当たり前のことのはずだ。
だから分からない。俺は、ほすけのことがよく分からない。だって、どうして?なんにも知らない俺に、こんな、俺たち以外誰もいない場所で、どうして静かにずっと優しくしてくれるんだろう。
それから十分くらいしてからだろうか。近くでエンジンの音がしてそれがすぐ外で止まった。ほすけが「来た」と呟く。ああ「ほすけのばーちゃん」が到着したんだ。
エンジンの音が止まるなりインターホンが一度鳴って、ほすけが玄関へ向かう途中で扉が先に開いた。
ソファに座りながらそちらへ首を伸ばす。扉の向こうにはカッパを着た小柄なおばあさんが立っていた。
「はぁ~もうすごい雨。なに?それで?ちゃんとどういうことか説明しなさいよ穂輔」
「うん。ばーちゃんタオルいる?」
「あ~、いい?一枚ちょっと借りちゃうわ。ほんっとよく降るんだから…」
そんな会話の後、ほすけがタオルを取るためこちらへ一度戻ってきた。
「…ね。声デカいっしょ」
小声でこっそり言われて、なんて答えていいか分からないから黙ってたら「ないしょね」と、口元に人差し指を一本立てて、笑いながら付け足された。
ちょっとしてからカッパを脱いだおばあさんがリビングへやって来た。俺と目が合うなり「こんばんは」と言って頭を下げるので、俺も慌てて頭を下げた。
「あの子の祖母です。ごめんね急に来ちゃって」
「……いえ、あの…」
「ご飯は?もう食べたの?」
「あ、はい……」
俺が答えるのとほぼ同時にその人はテーブルの上のカップ麺の器に気付いて、その途端急に顔を歪ませた。
「穂輔!アンタこんなもん食べさしたの!?」
「…あ~しくった。捨てとくの忘れた」
「あのねぇ出前取るなり買ってくるなりなんかあったでしょうが!」
「あ~~絶対言うと思った。は~…サーセン」
「サーセンじゃないよ!こんなんで栄養摂れると思ってんの!」
「へーへー」
「穂輔!!」
ほすけの言う通り「ほすけのばーちゃん」はすごく声が大きい。だけどほすけがそれに驚いたり全然しないから、俺は少し安心した。これがたぶん、いつもの光景なんだ。
おばあさんもほすけの態度にブツブツ文句を言いながら「ほんっとに…」と、最後は諦めたように溜息を吐いた。
「ごめんねぇ、この子料理もなんもできないで。米も炊けないし食器も洗えないのよ。はぁ~やんなっちゃうわ」
俺から少し距離を空けてソファに腰掛けるおばあさんに、ほすけが「ばーちゃんなんか飲む?」と尋ねる。
「じゃ、あったかいお茶ちょうだい」
「え、ないや。お湯でいい?」
「はぁ~…コーヒーは?」
「あー、コーヒーならあるわ。待ってて」
ほすけがまたさっきの白いポットのスイッチを入れる。おばあさんは溜息を吐きながら「んっとに…」とブツブツこぼしていた。
「…ええと、お名前は?聞いても大丈夫?」
おばあさんが俺の顔を見ながらゆっくり尋ねた。どうやら大きな声と早口な喋り方はほすけにだけみたいだ。俺は「安藤龍彦です」と自分の名前を答えた。
「たつひこ。たつひこくんね。うん」
おばあさんは何度か頷いて、それからまた大きな声に戻って「チャンネル変えるよ!」と台所のほすけに言った。ほすけは「え、やだ」と言ったが、おばあさんはそれを適当に無視してNHKのニュースに画面を切り替えた。
「雨止まないねぇ」
おばあさんがニュースを観ながら呟く。相槌が必要なのかよく分からなくて黙っていたら、おばあさんは急にハッとした顔をして「この雨でずっと外にいたの?」と俺に質問した。
「…そう。です」
「そう…そうなの。寒かったでしょう?まずはゆっくり休んでいきな」
「……あ、はい…あの、ありがとうございます…」
おばあさんも、ちょっと最初はビックリしたけど優しい人だった。すぐにでも警察に連絡されてしまうかと思ったけど、大丈夫そうだ。良かった。
「ん、コーヒー」
ほすけがカップをおばあさんの前に差し出して、またさっきの場所にあぐらをかいた。
「はいありがとう」
おばあさんがコーヒーを数口啜って、それから「さてと、じゃあまず」と最初の言葉を告げた。
「どういういきさつだったの?ちゃんと話しな」
ほすけは「あー」と間延びした声を出した後、今日のことを順番に説明していった。
「うん…うん。そうなの。じゃあ本当に初めましてな訳ね」
「うん、そー」
「ええと、それで。たつひこくんのお家の人は?今たつひこくんがここにいることを知らないってことね?」
「そー」
「じゃあまずお家の人に連絡しなさい。たつひこくん、お家の連絡先は?電話番号とか住所とか分かるね?」
おばあさんが俺に一つずつ、念を押すように丁寧に聞いてくる。ほすけは顎の辺りをポリポリかきながら、黙ってその様子を見ていた。
「捜索願いを出してるかもしれないし、今頃すごく心配しているでしょう?何も連絡しないっていうのはね、だめよ」
「……」
住所も電話番号も、言える。だけどあの人らの顔を思い浮かべた瞬間何も答えられなくなった。どれだけ叩かれるんだろうと思って、きっと痛いだろうなって、俺はすごく憂鬱になった。
「…別に明日で良くない?」
ほすけがポツリとこぼした言葉に、おばあさんが「馬鹿言ってんじゃないよ」とすぐさま返す。
「あのね、これは側から見りゃ誘拐と一緒なの。アンタはこの子の気持ち尊重してあげてるつもりなんだろうけどね、大人には責任ってもんがあんの。そういうのは優しいじゃなくて無責任って言うんだよ」
「…そーすか」
「なぁにが、そーすかだよ!ちょっと考えりゃ分かるでしょうが!」
おばあさんはため息を挟んでから、今度は俺に向き直って真剣な顔をした。
「たつひこくん、お家帰りたくない理由は詳しく聞かないけどね。…だけどちゃんと親御さんには連絡しないといけないの。分かるね?」
「……」
分からないとは、言えない。でも頷くこともできなかった。だって頷いてしまったら、俺を叩く手のひらが、冷たいお風呂場が、真っ暗な一人きりの長い夜が、確実に待っている。
「……わかった」
重苦しい沈黙の後ほすけが、そう言ってポケットから携帯電話を取り出した。
「俺が電話する。迷子んなってたから保護してますって」
おばあさんと俺は同時にほすけの方へ視線を向けた。
「…なんか言われたら…なんか適当に返す」
「……ほすけ」
ほすけは顎をさすりながら携帯電話の画面を見つめ、俺に「番号は?」と聞いた。だけど慌ててそれを制したのはおばあさんだ。
「ちょ、待ちな。待ちなさい。なんか適当にってアンタ、何言う気」
「知らねーけど。だって話してみなきゃ何言われるか分かんねーし」
「あぁ~…もう~っ…!だめ、アンタがかけちゃダメだわ、火に油だわ。やめな!」
おばあさんはそう言ってほすけの手から携帯電話を奪うと、また大きくて長いため息を吐いてコーヒーを啜った。
「……たつひこくん。電話は私がかけたげるから。だけどその前にね、少しだけお家のこと聞かせてくれる?」
「……」
おばあさんがそう言うので、俺は半ズボンの裾をギュッと握りながら「はい」と、小さく頷いた。