発信していたい

発信していたいなと、常日頃思っている。

擦り寄りたくない。共感を求めたくない。同調を欲したくない。今、自分が立っている場所に自分の足で立ったまま、そのままの姿勢で叫んだり泣いたり笑ったり語ったり訴えたりしたい。

作品を生み出した時も、配信で喋っている時も、SNSに思いを投稿する時も、いつも、「自分が、自分の口で、自分の手で、自分の本当を」届け、わかれ、伝われ、という願いを添えずに、ただまっすぐ発信していたい。誰が聞いててもいい。誰も聞いてなくてもいい。自分以外の誰かの行動や感情に影響を受けないまま、自分の本当を自分の口で語っていたい。

SNSは、パッと見ただけでは全部同じように見えてしまうところが厄介だ。ツールの基本は文字。文字からその人の思想を読み解くのは難しい。読み解こうとすることがそもそも烏滸がましい。そんな、烏滸がましいことはしたくない。わからないことを「わからない」と、負い目を感じずにちゃんと言いたいし、相手が「この言葉を求めてるな」と万が一感じてしまった時も、それが自分にとって嘘になるような言葉だったら、絶対に言いたくない。

擦り寄りたくない。
「この人は味方になってくれそうだな」「この輪に入っておいたら安心だな」そういうことが一瞬だけ脳裏によぎる自分自身に、絶対騙されたくない。

共感や同調を求めたくない。
「わかってくれる?」「みんなはどう思う?」「これって自分だけ?」全部必要ない。みんながわかってくれるくれないはどうだっていい。周りにどう思われていたって構わない。自分の考えが異質だろうとマジョリティだろうと関係がない。

自分にとって大事なことは、いつだってこれだけだ。
「振り返った時、自分の言動を自分で「好きだ」と思えるか」

嘘を吐かない。
誰かが貼った他者へのレッテルに惑わされない。
わからない時にわかった振りをしない。
許せないことがあった時はちゃんと許さない。
憶測を立てて行動しない。
その場にいない人間の名前を勝手に出さない。

この後、自分を好きだと思えるか?いつもいつもこれを考えている。これに則って選択をしている。

擦り寄らないまま、陰口や悪口を使わないまま、自分を発信したい。私が何かを語る時、主語は絶対に私でありたい。結ぶ述語の責任の所在は、絶対に私でありたい。

「◯◯さんって、こう思ってると思うんだよね」
こういう一文を、◯◯さん以外の人に、◯◯さんがいない場所で伝えたりしたくない。絶対にしたくない。
「君が嫌がると思ったから、これをしなかったよ」
こうやって、自分が取った行動の責任を、自分以外の誰かに押し付けるなんて嫌だ。絶対にしたくない。
「〜〜ですよ!ここにいるみんながそう思ってますよ!」
こんな風に主語の分母を勝手に複数にしたくない。私が吐いた言葉の責任は、取った行動の責任は、いつだって1/1でなければ嫌だ。私が思ったから、私が言ったんだ。

こういう、この世にいくらでも溢れ返るもの達を「汚い」と思っていたい。「ずるい」と思っていたい。「許せない」と思っていたい。死ぬまで忌み嫌っていたい。周りの人が「それってそんなに汚いこと?」と首を傾げても、誰かが「気にしすぎ笑」と笑ってきても、それは全く構わないし、構わないのと同時に影響されたりしたくない。誰に理解されなくてもいい。理解されない事実を「そっか」と受け止めて、そして、それに影響されることなく、変わらず忌み嫌い続ける自分でありたい。

私から距離を取った人を追わない。
私に詰め寄ってくる人から逃げない。
この場所にずっと立っている。私はここから動かない。動かないことを、ずっと、血反吐を吐きながらでも継続したい。やめないでいたい。

自分の周りに人が、百人いようと千人いようと一万人いようと、逆に、一人もいなかったとしても、絶対に発信する内容を変えたりしたくない。調節したくない。周りに人がいてもいなくても、訴える内容が変わらない自分が好きだ。そういう自分が好きだ。
そういう自分が好きなんだと、自分で思ってやれることが一番大事なんだ。

責任の所在を、自分の心臓のど真ん中に据えたまま、私はこれからも発信をしたい。
いつか死ぬ時「自分のこと好きだったな」って思えたら、この人生は大成功だ。